ピョンテク訪問記
農地奪う基地大拡張計画と闘う韓国米軍一大拠点ピョンテクの農民集会に参加 キャンドル集会「アンニョン ハセヨ。マンナソパンガッスムニダ」(こんばんは。お会いできて嬉しいです)「チョヌン ハングンマル モルゲッソヨ」(私は、韓国語は分かりません) たどたどしい韓国語が、会場に響きました。
「しかし、あなた方の気持ちは分かります」と日本語が続きます。
「沖縄には、普天間基地という米軍基地があります。この基地も、あなた方の基地と同じように、日本軍によって土地を奪われて作られたのです。そして、また今、辺野古に新しい米軍基地を作ろうという計画が進んでいます。」続いて、拳を振り上げて、「ミグンキジ ハンタイ!ミグンキジハンタイ!」(米軍基地反対!米軍基地反対!)と叫ぶと、会場も一斉に唱和しました。 「私たちは必ず勝利する」と、拳を振り上げて、日本語で私が言うと、 「そうり(総理)?」と、通訳を買って出てくれた、キム ヨンハンさんが僕にたずねました。 「ヴィクトリイ」と英語で説明すると、韓国語に通訳してくれました。
私は、暮れも押し詰まった大晦日2005年12月31日土曜日に、韓国での米軍再編拠点とされ、現在の基地面積の 2倍程の農地を奪われようとしているピョンテクのテチュ里という村落を訪問しました。
すでに閉鎖され、電気もない小学校の校庭には、巨大なビニールハウスと言ってもいい様なドームが校庭の隅に立てられ、その中一杯に150人ほどの農家の主婦など農民や一般の人が集まり、キャンドルに灯
キャンドル集会で「テチュリは私たちの土地」と訴えるムン・ジョンヒョン神父をともして座っていました。
韓国の冬はものすごく寒く、会場の中にはたくさんの石油ストーブがたかれていました。すでに暗くなった7時半から集会は始まっており、集会開会前にお会いした、カソリック神父ムン ジョンヒョンさんの身振り手振りの名スピーチが会場を沸かせ、繰り返し「農地は私たちのものだ」と叫んでいることは、韓国語のできない私にも分かりました。次々と立って訴える参加者のスピーチに会場は、笑いが続き、その最後の方に、私も日本からきた沖縄などの米軍基地に反対している活動家であると紹介されて、一言挨拶する機会を得たのでした。
「キャンドル集会は、文化の催しです」とハンサム・キムさんが説明しました。「ハンサム キム」と言う呼び名は、キム・ヨンハンさんが、自分で考えたニックネームで、日本人には、こういつも自己紹介をして笑わせているようです。当たっているかどうかは分かりませんが、キャンドルをともすのは、単に、集会を盛り上げるための手段に使うだけではなく、国家保安法(反共法)が未だに撤廃されていない韓国では法的には、集会が非合法であり、政治集会でないという合法性を与える面もあるのかな、などと想像しました。
ハンサムキムことキム・ヨンハンさんは、ソウル大学で独文学を専攻し、ドイツの劇作家ブレヒトの師に当たる作家の研究で博士号を取得した知識人で、今も、大学で「歴史のなかの韓国と米国」と言う講義を担当し、米軍基地反対運動の歴史も教えている、と笑っていました。彼は、日本にも14回も招かれて講演に来ており、そのなかで日本語を通訳するところまで来たと言うことでした。彼の妻は、韓国の国語つまり韓国語の教師で、日本語も勉強しているとのことでした。
ドイツ文学博士の平和活動家 キム・ヨンハン(金容漢)さんは、@ピョンテク米軍基地拡張阻止汎国民対策委員会共同代表(8人)の一人です。ちなみに、先に述べたムン ジョンヒョン神父も共同代表の一人だそうです。また、A米軍基地拡張反対ピョンテク対策委員会常任代表であり、B米軍基地返還運動連帯(10地域団体の連帯組織)にも関わっており、C民主労働党ピョンテク市委員会委員長(2月にはおりるとのこと)で、5月に行われるピョンテク市長選挙候補者でもあります。ピョンテク市は愛媛県松山市と姉妹都市であり、ハンサムキムさんは、日朝協会松山支部に招かれて、昨年も講演に来ました。1955年生まれ50歳の脂ののりきった活動家でもありました。韓国の市民活動家には、民主化を推進した386世代という活動家の年齢層があり、それは、「30歳代で、80年代に大学生であり、(19)60年代にうまれた世代」を言うのだそうですが、彼は自分は475世代だと、笑っていました。
大晦日の朝、キムヨンハンさんと韓国の鉄道駅ピョンテク駅前の座り込みテントで会おうと言う約束で、地下鉄とつながっているピョンテク駅へソウル市から1時間半かけて、やっと着いたのは、約束から遅れること1時間半の11時半でした。韓国では、携帯を貸し出す制度があり、その携帯で、連絡を取り合いながら、たどり着きました。駅改札を出てきょろきょろしていると、後ろから声をかけて下さったのが、キム・ヨンハンさんでした。駅前には、座り込みのテントがあり、その中には若い活動家が座っていました。私は、いくらかの活動資金をカンパして挨拶を交わしました。私が到着するのを待っていたかの様に、テントの片づけをするのだと言うことで、テントの外で彼の話を聞いている内にテントの撤去作業がどんどん進行しました。事務所をピョンテク市の農村部で米軍基地の拡張のために接収されたテチュ里に移すのだそうです。私は、韓国のピョンテク(漢字では「平澤」)基地に行けたのには、参与連帯の援助がありました。ピョンテク基地が米軍基地拡大再編の拠点とされていること、12月11日に、同地で基地拡張反対集会が行われたこと位しか知りませんでした。ピョンテクに何のツテもありません。韓国の平和運動とのつながりは、数年前に、日本国際法律家協会韓国訪問団の一員として、韓国を訪問したとき交流した、「参与連帯」としかありませんでした。 私は、突然でしたが、参与連帯の事務所を訪問しました。
テント撤去作業を終わり、皆と一緒に駅前の食堂に入りました。韓国では年長の人が支払うという習慣があるそうですが、食事が終わると、「この食事代は、平山さんからのカンパで支払った」と皆に説明している様でした。作業をした10人の若い人びとについて「学生ですか」と聞くと、「学生は一人で、教師が一人、会社員が一人、あとは専従者です」ということでした。
食事がすんだあと、テント撤去作業参加者はそれぞれのところへ帰り、私とキム ヨンハンさんは、バス停に行きました。「車は妻が今日使っているので」とキムさん。「テチュ里行きのバスは本数が少ないのです」と。やっと来たバスに乗ると、運転手と さんは、テチュリへバスで向かいました。運転手と親しく挨拶するキムさん。運転手は、バス代はいいよ、と支援の姿勢を示します。僕まで、余禄に預かり無料でテチュ里へ。「どうしてただにしてくれたのですか」と聞くと、キムさんは「彼は民主労働組合総連合(民主労総。革新的労働組合)ではなく韓国労組だと思いますけれども、支持してくれているのです」とのことでした。
彼は以前にもピョンテク市長選挙に出馬し、今年(2006年)5月にも市長選挙に再出馬するとのことです。ピョンテク市農村部テチュリ老人クラブ私は、キム・ヨンハンさんに連れられて、テチュリ(里)でバスを降りました。ちょっと歩いて老人クラブと思われる施設に着き、その戸を開けました。
そこには、大勢の高齢者がたむろし、将棋の様なゲームをする人、何か食べている人、雑談をしている人など、明日の元旦を前に部屋一杯に集まっていました。
老人クラブの人びとは、皆キム・ヨンハンさんを知っているらしく、親しく挨拶をしていました。上がらして頂き、次の部屋に行きました。キム・ヨンハンさんはそこで、基地拡張の状況について、説明をして下さいました。それが、次項に述べる基地拡張の大要です。
韓国国防部は、土地取り上げを認めた土地収用委員会の決定を受けて、土地の登記変更を行い、土地と家屋代金の評価額を法院(裁判所)へ供託し、土地取り上げの法的手続きの最終段階を終了した、との説明でした。
法的手続きを終わった政府は、この冬にでも実力行使に移り、警察力(あるいは軍事力)をもって、彼らの言う「不法占拠」中の農民を追い出し、基地拡張に着手するのではないか、と言う緊張が現地にみなぎっていました。幸い政府は年内には実力行使はせず、年を越すことになりました。しかし、今年の農作業をさせないため、春蒔きを阻止すべく、実力追い出しにかかるのではないかと言うことで、年明けに、トラクター10台で3週間全国を回ると言っていました。「まるで、伊江島の土地取り上げのあとの乞食行進のようですね」と私が言うと、乞食行進のことについて熱心に、私に聞き、また、他の人に話していました。この文章を書いている1月17日現在の情報では、1月3日から、トラクター平和巡礼で韓国全土を回り14日に終了したとのことです。その間、ソウルへの入市を警察が道路を封鎖して阻止したりしたこともあったようです。
老人クラブを辞して村を回ろうとすると、どうしてもお酒を飲んで行けと引き留められ、真露(ジンロ)酒とともに、食事を出して下さいました。食事中に接待をして下さった年配の方は、イ・テウン(李泰雄)さんと言い、テチュリ元村長さん(里長)だったとのことでした。息子さんはソウル大学の物理学の博士課程に在学していると、父親らしい息子自慢をなさっていました。彼の親戚は、米国へ移民し米兵になり、今プサン(釜山)で勤務していると言うことも話してくれました。現村長(里長)はキム・チテ(金知泰)さんと言い、拡張反対組織の事務局長だとのことです。 ごちそうになった感謝を述べて、老人クラブを辞しました。キムさんは、村を案内し、基地の地図を見せてくれました。彼はこの地図をなぜか「心理地図」と呼んでいました。 旧日本軍の土地強奪を示す「心理地図」を指さすキム・ヨンハンさん
その地図は、ハングルで書かれた、人名が沢山ありました。この土地は、これらの人びとの土地を、1939年に日本軍が奪い基地にしたとのことです。(他の情報では、戦争末期に基地にしたという説もあります)。キムさんの説明では、この元日本軍の基地を1952年に米軍基地にしたとのことでした。 そのあと、学校らしい運動場と建物があるところに来ました。これは元小学校で、今は、米軍基地になるので、閉鎖され、ここに通っていた子どもたちは別の土地の学校に行っているとのことです。
村を少し歩くと、鉄条網で隔離された地域に出ます。それは、紛れもなく沖縄で見慣れた米軍基地の姿でした。
盧武鉉(ノムヒョン)政権は、日本では、民主的弁護士出身のよりましな大統領という評価があります。しかし、盧武鉉政権は2年前に米政府と米軍再編の協定を結び、ピョンテクへの米軍集中・基地拡張を推し進める政権であり、キムさんの表現では、「ブッシュのプードル(犬)」と言う、どこかの国でも聞いたことのある言葉で断罪されていました。
ピョンテク米軍基地大拡張の大要(キム・ヨンハン氏の説明から2006.1.18平山基生作成)
現在のピョンテク・オサン米軍基地面積合計 457万坪 (内訳) オサンAB 250万坪 オサンc1+c2+d+e 57万坪 ピョンテクのポチョンにあるキャンプハンフリ 150万坪
拡張計画基地面積 デチュリ、ドドゥリ両地域を含むボチョン邑面積 285万坪 オサンAB基地拡張の黄口地里 64万坪 拡張合計 349万坪
備考:ピョンテク(旧日本軍基地)150万坪 デチュリ(大秋里)160世帯 ドドゥリ(とう頭里)120世帯
計画実現後の米軍基地面積 総計 806万坪
参考:韓国の行政システム 道 − 市(郡)− 邑(面)− 里(日本的に言えば、県 − 市 − 村 − 字) 例 )京畿道(ソウル市、安城市などを含む)− ピョンテク(平澤)市 − テチュリ(里)、ドドゥリ(里)
(次号に続く)
「米軍は出て行け。テチュリは私たちの土地」「テチュリは私の運命」