「次はみんなで飲みに来ましょう」の約束が・・・ 南雲 和夫 「次は、みんなで飲みに来ましょうね。ボトルが残っているから」。最後に交わした会話は、こんなふうだったと記憶している。 はじめてお会いしたのは、確か2000年の沖縄サミットに向けて意見広告を掲載する運動を、平山委員長と進めていた事務所(日本国際法律家協会本部事務所)であったかと思う。年齢は80歳前後だとはうかがっていたが、精力的に書く労働組合や団体の事務所をまわってくださり、とてもそんな雰囲気を感じさせない人だった。そればかりか、ともすればマンネリがちなお昼の「行きつけの店」をあちこちに開拓し、いくつになっても人生を楽しむーという雰囲気を漂わせていた。 その後、「意見広告運動」が『草の根運動』に発展的に改称し、事務所を移転させてからも数日出勤(?)し、精力的に事務をこなしていたのが思い出される。もっとも、旦那さんを病気で亡くされてからは、こころなしか元気をなくされていたように思えたが・・・。 事務所移転後、草の根運動の活動が軌道に乗るようになってからは、仕事の後琉球料理の店で一緒に飲むことも少なくなかった。少しお耳が遠くなったせいか、筆談を交えることも多かったが、それでも楽しく二人で一献傾けることができた。和歌のこと、活動のこと、個人的な悩みのこと・・・等々、話題は尽きなかった。とりわけ、恋の悩みについては、相談に乗ってもらうこともあった。 そんなある日、いつもの琉球料理屋で泡盛を傾けながらにこやかな笑顔で冒頭の言葉をうかがったのが最後になった。「近いうちに、松田さんと一緒に『草の根運動』のみんなで一杯やるか!」と、その日を楽しみにしていたのに・・・。 (運営委員・大学教員・社会政策)
追 悼 中村 敏枝 共に凄むにはあらざれど愛満てり、コスモス百万本咲きいて こういう恋をしています。 2002年暮れの沖縄・草の根忘年会で「白い花の咲く頃」をカラオケでご一緒したあと、サインペンのきっちりした字で、上記のように短歌に書き添えをつけたものを私にくださいました。お元気のひけつをおしえられた思いでした。「みどり・つち・ひと-環境問題を考える」という題の拙著の別刷りを差し上げた折、「あなた『百年の愚行』って本を知っている?」と聞かれました。随分いろんなところにアンテナをはっていらっしゃるとびっくりした覚えがあります。沖縄・草の根に参加して日の浅い私ですが松田さんの会における存在の大きさをお会いするたびに感じたことでした。現在のイラク・沖縄の状況を見て松田さんならなんとおっしゃるでしょう。「しっかりしなきゃだめじゃない」と叱咤激励されるような気がします。 (運営委員・大学教員-生物学)
できの悪かった弟子の3首 根本 正美 みさこさんは私にとって、短歌の先生であり草の根では、運動の先達でした。私達二人は2003年3月の運営委員会のおわったあと、上野公園に桜を見に行きましたよね。その日はボンボリが8時に消えてムード満天でしたね。覚えていますかみさこさん。あなたは私のコートのポケットに手を入れて私の手を握ってくれました。そんなかわいいみさ子さんが大好きでした。でも、お別れです。最後にできの悪かった弟子の3首を天国で批評して下さい。 第1首 なぜ死んだ、愛する定秀追わずとも、 俺がいる、上野の花見の、手の暖かさよ 第2首 豪快に、日本酒あおるみさこさん、あなた のチャンプルが、もう食べられないね。 第3首 不忍の、池のふもとで手をつなぎ、色鮮やかな、桜並木よ。 (運営委員・税理士) おしゃれでかわいく、輝いて 高部 優子 松田さんの第一印象は、「おしゃれでかわいい方」だった。そして人生を楽しんでいる達人に見えた。 恋愛のこと、かつての仕事のこと、ジュゴンバッチへの思い、パートナーに先立たれた悲しみ・・・、色々話してくださった。 苦しみや悲しみを背負いながらも、いつも一生懸命で情熱がある。そして沖縄への熱い思い。松田さんはいつも見えた。 私の大先輩に、こんなに輝いて見える人がいることにとてもうれしく思った。 「こんな人になりたいな」とあこがれていた松田さんの最期はあまりにも突然でショックだった。微力だが松田さんの思いを少しでも引き継げたら、と思う。 (草の根プロジェクト・ビデオ制作) ジュゴンバッジ 1 歌詠みに励む姿は少女のよう 柿沢 繁 沖縄を愛し、熱情の歌人として歌詠みに励む姿は少女のようでした。 ジュゴンバッジを大事にしまい「このバッジ一つはお守り作ったバッジは全部普及したのよ」と嬉しそうに語ったことが印象に残る。 (運営委員)
ジュゴンバッジ2 沖田 恵子 私の手元にまだ、手帳にはさまって黄色く変色した新聞切り抜きがあります。「風ぐるま」の欄に、「ジュゴンバッジを胸に『基地のない平和な沖縄、日本を』と東京・立川市民の松田定秀さん(73)と妻・みさ子さん(77)らが中心となって、バッジ(写真)運動をよびかけています。」とあり、文の最後に問い合わせ先が書いてありました。私はすぐに切り抜き、その日のうちに松田さんのお宅に電話をしたのを覚えています。何かとよくあるものですが、ジュゴンの図柄がとてもかわいくて「これはいい」と直感したのです。その時、見本を送ってもらい、早速周りの人に買ってもらいました。ちょこっとバッグにつけてくれている人を見かけることが多かったです。 その年の夏、日本母親大会が東京で開催され、お互いがそこに参加することが分かり、会場でお会いすることになりました。そして書籍等と並んでジュゴンバッチを販売するコーナーを設ける松田みさ子さんと感激の初対面をしました。その日も50個程買って、その直後に出発した東欧(ポーランド・チェコ・ハンガリー)で、旅の先々で知り合った人達に、「日本の基地なくせバッジ」だと説明しながらプレゼントしました。「マンフィッシュを守ろう」と言えば、大抵理解してもらえました。かわいいジュゴンの親子の図柄がとても良かったと思いました。 その後、しばらくして、松田定秀さんからお電話があり、「あなたは沢山売ってくれたので、何か記念の品を贈りたい」という話でした。しかし定秀さんが急逝され、続いてみさ子さんまでご不幸が襲い、全く驚いてしまいました。今、日本はますます危険な方向に向かっており、松田さんご夫妻のような草の根からの平和勢力を必要としています。ご冥福を祈りつつ、微力ながらお二人の御遺志を受け継ぐことを誓います。 今は亡き情熱の歌人 何いうや イラク派兵の 隊員のいのちを 合掌 (賛同会員・大阪在住)
彼女が全身全霊をかけたものを 平山 基生 私がみさ子さんと初めてお目にかかったのは、2000年4月、沖縄の民宿コバルト荘でした。米軍基地をなくす意見広告運動を沖縄サミットに向けて始めており具体的な準備をするためでした。女主人の照屋さんが、「平山さんに会いたいという人がいる」とおっしゃるので、お待ちしていると、夕刻になって民宿に帰って見えました。 私は、東大在学時代に、近くの順天堂大学の組合が不当解雇反対闘争をしている、と聞いていました。その副委員長で被解雇者の一人が松田みさ子という方であることも聞いたことはありました。それから40年近く経って、ご本人にお会いできるとは。大きな喜びでした。 みさ子さんは、「東京に帰ったらすぐに、伺います。」とおっしゃって、言葉通りすぐにたずねてきて下さり、「定期券を買って下さい。通勤しますから」とおっしゃり、5月から7月沖縄サミットまでの超忙しい期間全力をあげて事務活動に携わり、組合周りに同行して下さいました。それから3年ちょっと、2003年6月彗星のように現れたみさこさんは彗星のように消えてゆかれました。その間ジュゴンバッジを売り切る過労が、松田さんを突発性難聴で両耳の聴力を失わせると言う悲劇に陥れたのだと思います。 彼女は、草の根運動の副運営委員長をお引き受け下さり、誠心誠意私を支え、細かい実務を率先してなさいました。賛同会員へのお礼の領収書も丁寧な言葉をつけて書いて下さり、草の根運動というものが、単なる政治運動ではなく、人と人との心を結ぶ文化運動でもあることを、賛同会員のみなさまに感じて頂けたのではないかと思います。亡くなってから娘のひかるさんから伺ったのですが、80才の高齢でパソコンを習得し、運動に役立てようとなさっていらっしゃったとのことでした。みさ子さんは、茶目っ気があり、私に隠して驚かそうと思っていらっしゃったのではないかと確信しています。その矢先の事故でした。 東京で副委員長は松田さんだけでしたから、まだその空席は埋まっておりません。松田さんを失った空洞はあまりにも大きく埋めることは容易ではありません。草の根運動は大きな傷を負い、未だ回復はしていませんが、生体は必ず傷をいやし、傷跡は残っても、力を回復するものです。「草の根」は、決して根絶されることはありません。みさ子さんの、バイカル湖にはせた思いと、地をはうような団体まわりと積極的な賛同会員拡大を思うと、「運動のグローバル化と草の根化が大切」といいながら、みさ子さんのように運動への賛同を本当に積極的に求め、実に沢山の方々を草の根運動へ導いて行く点で、いくらか弱くなっている自分を反省させられます。 「松田みさ子」が体現していた、燃えるような「沖縄などから米軍基地をなくす草の根運動」への思いを、我が思いとして進んでいきたいと思います。イラクや自衛隊などをめぐる情勢はそのことを要求しています。 (運営委員長) |