米軍基地をなくすことに渾身こめて
故松田みさ子さん(副運営委員長)を悼む 小湊 忍 2000年5月、米軍基地をなくす意見広告を出すにあたって、沖縄の取材に行った時、宿舎で始めて初めてお会いしました。とても情熱的でファイトマンでこの運動にすぐ御参加下さいました。松田みさ子さんの活動たるや素晴らしく、周りをおおいに励ましてくれました。ジュゴンバッチと御主人の定秀さんと作成され、全国の仲間に思いを込めて売り込んでいく。私も200個仕入れて大阪中の仲間に売り込んですぐ再注文しました。また松田みさ子さんは、プロの歌人であり、いつでもその時々の思いを歌にして読みおひろめされる。それが実に奥深い感動を覚えます。松田みさ子さんが、米軍基地をなくすことに渾身込めて伝えて歩くあの姿に頭が下がる事が多々ありました。おしい方をなくしました。残念です。松田みさ子さんに哀悼を表し、冥福をお祈り致します。 (草の根運動副運営委員長・大阪在住) 草の根運動副運営委員長・歌人 松田みさ子さんを追悼する 情熱の歌人 平山 知子 私が初めて松田みさ子さんと会ったのは、意見広告運動をしていたときでした。はじけるような笑顔、明るい声・・とても80才近い人には見えません。そして、意見広告への賛同を求めて、毎日毎日、いろいろな団体、組合まわりを始めました。そのエネルギッシュな活動ぶりは、さすが永年にわたる争議で鍛えられパワーだと感服しました。 でも、みさ子さんは、組合活動で鍛えられた単なる「活動家」というだけではありませんでした。 「青あらし」という自伝的著作を見せていただき、まさにそこには、「情熱の歌人・松田みさ子」が息づいていたのです。なんてしなやかな、そして人間的豊かさを持っている人だ・・と思いましたが、それから2年半ほどのおつきあいで、いっそうその感を深くしました。 それだけに、最愛のパートナーである定秀氏を突然亡くされたときの衝撃は大きかったようです。その折りの、歌に表現された嘆き、悲しみ、寂しさは情熱的であるだけでなく、しっとりと心にしみるものがあり、歌人とはこういうものなんだ、と思いました。さすがのみさ子さんも、この衝撃から立ち直るには時間がかかりましたが、いかにもみさ子さんらしい立ち直り方でした。新しい素敵な恋を得たのです。 難聴になられてからは、毎日FAXのやりとりが続いたのですが、お耳の聞こえないハンディを少しも感じさせない、さらなる活動ぶりが再開されます。字のきれいなみさ子さんのFAXは読みやすく、楽しいものでした。時には歌人らしく、歌で表現されていたり、舌鋒鋭い風刺や表現があったり・・・。 それにしても、みさ子さんの最期もあまりにあっけない幕切れでした。 いよいよ、草の根運動を本格的に一緒に取り組もうとしていたその時に突然私たちの前から消えてしまったのです。これもまた、いかにもみさ子さんらしいといえるかもしれません。 日本と世界の情勢が、みさ子さんが亡くなってこの1年で激変しています。今こそ、みさ子さんの力がほしいと心から思い、悔しさがあふれてきます。 でも、それだからこそ、「みさ子さんがいらっしゃったらこうしただろう」と思えることを全てやり尽くす以外にないのだな〜と自分に言い聞かせているこのごろです。 (運営委員・弁護士)
空の星になられたみさ子さんへ 西元 妙 松田みさ子さんとは2000年7月21日の沖縄サミット初日に「米軍基地をなくす意見広告運動」が呼びかけて沖縄タイムスと琉球新報の二紙に「米軍基地NO」と訴えたときからのおつき合いでした。現在の「米軍基地をなくす草の根運動」の原点ですが、当時のみさ子さんは沖縄が大好きとおっしゃって「ジュゴンバッチ」の普及活動で大活躍をされていました。平山基生さんのお宅でお目にかかったみさ子さんはお年に見えない若々しい方でお互い畳に両手をついて丁重に自己紹介をした時の美しい所作を今でも昨日のことのように思い出すことが出来ます。私などはごく平凡な人間でただ平山さんの近所に住んでいるというだけでたいしたお役にもたてず今日に至っています。ただ先の大戦で兄が2人戦死していまして、もう2度と戦争をする国になってほしくないとの思いは人一倍強く持っているつもりです。その一点だけでこの運動にご一緒させていただいています。みさ子さんのような活動家の方はすごいなーと思いながら尊敬しておりました。不慮の事故で亡くなられたことは何とも残念で今もお元気でいらしたらどんなにか力づけられたのにと思います。20世紀は大きな戦争が起きて大変な世紀でした。21世紀こそは平和な世紀にと思ったのもつかの間で、最近の世界の情勢は第3次世界大戦でも始まるのではないかと私などは気が滅入ってしまいます。小泉政権になってからの恐ろしい変化を見るとき、かつての敗戦時の「2度とあやまちは繰り返えしません」の誓いはどこへ行ってしまったのでしょうか・・・。平和憲法の不戦の宣言が今こそ全世界に広がってほしいと願ってやみません。 終わりに草の根運動がさらに大きく広がって沖縄の海を日本の国土を平和で美しい国として世界に誇れるように皆様方と共に努力していきたいと思います。みさ子さんどうぞどうぞ見守っていてください。 (草の根プロジェクト・編み物教室講師)
何ものもおそれない自由と劇的な人生は 今日の与謝野晶子 仲松 庸全 宮崎の黒木重三郎さんから松田みさ子さんの訃報が入ったのは告別式の翌日だった。驚いてすぐには声にならなかった。新住所を知らせる葉書が来たのはつい十日前の事だったから全く晴天の霹靂だった。みさ子さんには「新日本歌人」誌上で以前からお世話になり、歌集「青湖」や自伝の「青あらし」なども読ませていただき、尊敬していた。「多摩歌人の会」を主宰、その歌誌も発行のつど送っていただいた。2000年の4月、取材で約二週間来沖されたが、その時初めてお会いしたのであった。視点を沖縄に移し、約二週間滞在、活動していたノン・フィクション作家、澤地久枝さんの活動に刺激を受けたということだった。この沖縄行きで平山基生さんに出会い、「草の根運動」に身をおくきっかけを得られたのである。性来の情熱家はすっかり「沖縄病」の虜(とりこ)になっておられた。私が「草の根運動」の存在を知り、会員になったのも彼女の媒介に因る。その情熱と行動は「草の根運動」に取り組むかたわら、ご夫君定秀さんと「ジュゴン・ばっち」の制作・普及という独創的な活動に発展したのであった。同じ年の秋、那覇で日本平和大会があり、みさ子さんも東京の代表団の一人として来沖参加されたが、会場で突然耳が聞こえなくなり、突然性難聴の診断をうけて失意の底に沈まれた。その後活動のなかで次第に立ち直っていくご様子が伺えたのであるが、翌2001年春、最愛の夫君定秀さんが急逝、悲しみに打ちひしがれたのである。その悲嘆の凄さは歌や手紙から伝わってきた。定秀さんと二人で愛したシベリア・バイカル湖に散骨の旅をされたが、それは愛と悲しみの最善自己表現だったに違いない。 ユーラシア大陸の湖より今も尚世界観ている夫と思うも トルコブルーの水に浮かべる一つ夢わが生の終章にして 豊穣の海バイカルを航く夏日たましい深く鎮まりゆけり その悲しみ「わが人生の終章」からもやがてよみがえり、バイタリティ豊かな活動が音信からさっせられるようになったが、まさに不死鳥を思わせるであった。今年(2003年)三月、黒木さんとお二人で沖縄旅行にこられたが、私はかつて順天堂大学での労働争議を十五年間闘い抜いた雄々しい女性リーダーを思い起こし、今八十路をこえたのであろう強烈な愛と行動の歌人の齢をかんじさせない、完成した個性の輝きをみた。何ものもおそれない自由と劇的な人生は今日の与謝野晶子であると思った。その不意の死は或いは松田みさ子さんらしいと言えるかも知れない。けれどもこの大激動と深刻な危機のもとで二十一世紀をみはるかし、こよなく沖縄を愛し行動された歌人の死が惜しまれるという思いは禁じ得ないでいる。 (沖縄在住・賛同会員・元県議)
『人間は生きる限り生ききらねば・・』 松田みさ子さんへの追悼メッセージ 松田 健 歌人、エッセイスト、平和運動家でもあり『多摩歌人』主宰、私の師、姉松田みさ子を失ったことは痛恨の極みです。思いおこしますと、私の第一歌集『向日葵』が上梓できたのも姉あってのものでした。前日6月7日の、FAXのやりとりで、私たちを鼓舞激励するために『人間は生きる限り生ききらねばなりません。運動もし、恋もし、文学もして、がんばりましょう』と。交通戦争の犠牲とはいえ、あまりにも突然のことで今だに本当とは信じがたい気持ちです。沖縄のジュゴンバッチ運動をはじめ、沖縄、日本から米軍基地をなくす草の根運動も、これからますます佳境にはいらんとするところでした。 第一歌集『乱気流』をはじめ、『未明海流』『青湖』、エッセイ『青あらし』等々に続き第四歌集の準備中でもありました。日本の平和を守るためにも、だれかがやらなければならないことが山積みしている昨今、この闘志みなぎった松田みさ子を失ったことは、大きな損失であり、後に続く私たちが、がんばらねばならぬと痛感しております。ここに故人の生前の皆様方の御交誼を謝し、安らかなご冥福を祈ってやみません。 |