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「汝の敵を愛せよ」(聖書)

平山基生・普天間からです

 Iさんより下記のようなメールをいただきましのでみなさんもいっしょ考えてみてください。

I さんからのメール

平山さんへ

>  お疲れ様です。

> 「敵」に対して「味方」、「敵、味方に分かれる」ともいいます。

> これだと、対立の構図。

> 軍隊では「奴は敵だ。敵は殺せ。」と教育するんじゃないでしょうか。

> どう表現したらいいのでしょうね。

 お気持ちはよくわかります。ですからわたしは、敵という言葉について「言葉は激しすぎるかもしれませんが」と書きました。

『敵』とは?

 「汝の敵を愛せよ」(聖書)は、「敵」という言葉が、必ずしも、「敵は殺せ」とはならない例です。「聖書」はリアリズムですから、「敵」というものの存在を認めています。存在を認めることとそれにどう対応するかということとは別であり、「敵」という語感のいかんにかかわらず、「敵」の存在を否定しては、ことは始まらないと思っています。「内部の敵」「人間にとって最大の敵は自己自身である」とか「敵を間違えるな」とか、「敵」という言葉はいろいろに使われます。

 辞書では、「敵」は「1.あいてになる。互いに五分である。2.うらみをもって立ち向かう相手。あだかたき。3.戦争の相手方」(岩波『国語辞典』)と出ています。

 「敵」という概念の重要性について考える場合、「敵を間違えるな」ということがあります。イラクのファルージャで一般民衆を殺害した米海兵隊員たちは、「敵」を間違えていたのです。米海兵隊員たちは、本来銃を上官に向けるべきであった、と思います。

 ありもしないあるいは、真実の「敵」を隠す「抑止力」論の「仮想敵国」ないし「仮想敵」(テロリスト)論者は、「敵」という言葉は使わなくても「安全保障の脅威」とかいう言葉を使っています。彼らのやっている「敵視」の事実をオブラードに包んで。

 

 日本民族と日本国民の独立平和、安全を脅かしている社会的存在=敵はアメリカ帝国主義と日本独占資本であると私は思っています。これは、一つの要約的表現でしかありません。

味方を装う米国とどのようにつきあうか

 日本民族と沖縄県民を含む日本国民の抑圧者である、米軍米政府がまさに、「味方」ででもあるような顔をして、日本の内部に存在する「内通者」である歴代日本政府とマスコミの援助を得て、「半占領者」をまるで日本と日本国民を守ってくれるもののように描き、国民の頭の中まで洗脳して、成功してきたのが、この65年であったと言ってもいいのではないでしょうか。

 私は、「敵」への対応の方法に関してもいろいろ意見をもっています。しかし、適切で有効な対応方法を考えるためにも、「敵」の第1の概念「あいてになる。互いに五分である」ものは日本国民にとっては誰かを見定めなければならないと思っています。「敵」の第2の概念「うらみをもって立ち向かう相手。あだかたき」というかどうかは、その次の問題であり、第3の概念「戦争の相手方」ということは、あってはならないことは言うまでもありません。

 

 とりあえずの感想です。

 共に、「うらみをもって立ち向かう相手や戦争の相手方」のない社会をつくるためにがんばりましょう。(以上)