月別アーカイブ: 2007年6月

沖縄タイムス 関連記事・社説、琉球新報 社説(6月25日、26日)

 

2007年6月25日(月) 朝刊 1・23面

 

米軍艦、与那国に寄港

 

県・町の反対押し切る

 

 

 【与那国】米海軍佐世保基地(長崎県)所属の掃海艦ガーディアン(排水量一、三六九トン)とパトリオット(同一、二五〇トン)が二十四日午後、県内の民間港湾としては初めて与那国町の祖納港に入港、約百二十人の水兵が下船した。外間守吉町長が「反対」を表明、県が使用自粛を日米に申し入れたが、米軍は日米地位協定を盾に入港を強行した。

 

 

 艦内での会見で艦長らは、三日前から米海軍将兵二人が町内に入り、港の水深や水兵のための飲食、娯楽施設などを調査していたことを明らかにした。

 

 

 仲井真弘多知事は同日、「県が民間港湾の使用自粛を要請する中、祖納港を使用したことは遺憾。今後、緊急時以外は民間港湾を使用しないよう自粛を強く求める」との談話を発表した。

 

 

 祖納港には同日午後零時半にガーディアン、午後一時二十分にパトリオットがそれぞれ入港。埠頭の長さが足りないため並行して接岸した。

 

 

 岸壁では町内外から約百二十人が「入港反対」のシュプレヒコールを繰り返し、一時、米水兵らの下船を阻止したため、タラップ設置は入港後、三時間以上が経過した午後四時すぎにずれ込んだ。午後四時半には負傷した乗組員一人を那覇市内へ搬送するため下船させた。

 

 

 同日夕の艦内での記者会見でスティーブン・デモス艦長らは、今回の寄港について「数カ月前から予定されていた」と説明。両艦船の乗組員は九十人ずつで計百八十人。

 

 

     ◇     ◇     ◇     

 

 

入港強行 島二分

 

 

 【与那国】与那国町の祖納港に二十四日、県内の自治体で復帰後初めて米軍艦船が入港した。灰色の掃海艦が姿を見せると、シュプレヒコールを繰り返す労働組合や平和団体の中で、抗議行動に不慣れな島の高齢者らも拳を上げた。「地域振興のためならやむなし」と入港を静かに見守る町民も。外間守吉町長は反対を表明、一方で崎原孫吉町議会議長は艦内での夕食会で「懲りずに来てほしい」と歓迎の意を示すなど、人口千七百人の島の「指導者」の対応も真っ二つに分かれた。反対住民らの座り込みによって米軍のタラップの取り付けは二時間ほどずれ込んだ。

 

 

 数隻の漁船が停泊していただけの港は、正午前から慌ただしさを増した。米海軍掃海艦寄港のために前日から停泊していたタグボートが出港。約十五分後に最初の掃海艦「ガーディアン」がゆっくりと船体を現した。「与那国から出て行け」―。住民らの抗議のボリュームが上がった。

 

 

 戦時中を与那国島で過ごした牧野トヨ子さん(84)は「昔のようなことを繰り返してはいけないと思い、ここに来た」と語った。祝い用のかまぼこを頭に載せ、運んでいる途中、米軍の空爆を受けた経験があるという。「軍のやることを許せば、少しずつ慣らされてしまう」と力を込めた。

 

 

 寄港に反対する住民の会の新崎長吉共同代表(65)は「住民を無視した友好親善はあり得ない」と強調。女性の会の請舛姫代さん(52)は「子どもに昼ご飯を炊けないが、あなたを戦争に行かさないために、お母さんは港に行くと言ってきた。入港を断じて許さない」と声をからした。

 

 

 抗議集会を数メートル先で見ていた元町助役の崎原用能さん(60)は、那覇市から取り寄せた星条旗を三日前に港に設置した。「宮古や石垣の方が港の整備は進んでいるので、与那国が軍事拠点になることはない。使いたいときに大いに使ってもらって、いいのでは」

 

 

 崎原議長が役員を務める海運会社は、タラップの設置など、入港の準備をする下請けに入った。「自分は商売人だから」と前置きした上で、「米軍が来ることで、島の民宿もレンタカーも予約がいっぱいになった。島が潤うから、私ははっきりと賛成する」と語った。

 

 

 「米軍には一切協力しない」という外間町長の意向を受け、港に町職員の姿はなかった。

 

 

 乗組員の上陸を阻止しようと、掃海艦の前で座り込みを続ける反対住民らを説得するよう、在沖米国総領事館や外務省が港湾管理者の県に要請。県が住民らと話し合ったが、タラップの取り付けは米軍の計画より二時間ほどずれ込んだ。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706251300_01.html

 

 

琉球新報 社説

 

与那国に米掃海艦・町民の不安が募るだけ

 

 佐世保基地を拠点とする在日米海軍の掃海艦2隻が日本最西端の与那国島・祖納港に寄港した。米艦船の県内民間港への寄港は復帰後、初めてである。米側は「親善・友好と乗組員の休養」と日本側に通知しているが、本紙が入手した海軍の港湾情報調査票には港湾周辺や島内の状況をつぶさに調査する項目が並び、情報収集の色合いが濃い。

 台湾有事をにらんだ米軍の民間港利用への布石だとしたら、疲弊する辺境の地を脱し、国境の島としての自立モデルを目指す与那国町にとって看過できまい。距離的に近く、歴史的に交流もある台湾とは友好関係を構築中だ。米艦船の寄港がいたずらに台湾・中国側を刺激しないか心配だろう。

 加えて今回の寄港は、町民生活まで細かく調べ上げられる可能性が否定できないという。実際、島内には艦船の入港を前に海軍の先遣隊らしき男性らが入り込んでおり、祖納港に近い集落の飲食店では米兵らしき男性らが客の収容規模などを尋ねたりする様子が確認されている。

 外間守吉町長は「親善・友好と言いながら、島内を調査しているのは非礼だ。町内を巡回するのはやめてほしい」と不快感をあらわにした。現時点で米兵と町民との間で大きなトラブルが起きているわけではないが、米側の真の狙いがいまひとつはっきりしないだけに、町民が不快感や違和感を覚えるのは当然だろう。

 与那国町は昨年10月、政府の第十次構造改革特区募集に「国境交流特区」を提案した。キャッチフレーズに「自立・定住できる日本のフロント・アイランド」を掲げており、ことし3月の与那国空港拡張式典では那覇直行便に加えて台湾、東南アジアを結ぶ国際航空路開設への夢が膨らんだ。

 そんな矢先の艦船寄港である。寄港が恒常化し、与那国島で軍事色が強まれば観光入域客数の伸長やアジア各国との交流拡大に少なからず影響が出よう。それは島が目指す本来の姿ではない。有事対応の島ではなく、有事と縁のない島にしていく努力こそが求められている。

 

 

(6/25 9:46)

 

 

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-24906-storytopic-11.html

 

 

2007年6月25日(月) 夕刊 5面

 

戦争への憤り一冊に/札幌市の今倉松男さん

 

弟失った沖縄戦 戦跡巡り実相学ぶ

 

 

 沖縄戦で弟や師範学校の同窓生計二十五人を失った男性が札幌市にいる。元小学校教員の今倉松男さん(88)。今倉さんは今年三月、戦跡巡りや自主学習をもとに沖縄戦の実相をまとめた編著「歴史に学ぶ」を自費出版。二十三日には同市内で営まれた沖縄戦の戦没者慰霊祭に出席し、平和への決意を新たにした。(上原綾子)

 

 

 旧陸軍伍長だった弟の一雄さんは一九四五年五月、現在の南風原町付近で戦死した。帰りを待ちわびる家族が悲報を知ったのは約一年半後の春。戦死公報とともに戦闘帽と石ころの入った白木の箱が届いたという。

 

 

 沖縄戦戦没者のうち、沖縄を除く出身地別の兵士の数で北海道は圧倒的に多い。一雄さんや札幌師範学校の同窓生らが最期を迎えた地を確かめようと、今倉さんは九八年と九九年の二度、沖縄を訪問。本島各地の戦跡や慰霊の塔、資料館などを歩き回った。

 

 

 「歴史―」はその際のメモや沖縄戦を取り上げた文献、新聞への投稿記事などを構成して制作。全編ほぼ手書きで、八年をかけて完成させた労作だ。「書き進めるほどに戦争への憤りが込み上げてきた。二十一世紀を担う若者にどうしても伝えたかった」

 

 

 慰霊の日には、札幌市の藻岩山のふもとであった四十三回目の「沖縄戦戦没者慰霊祭」にも出席。道内出身の約一万八百人の犠牲者の名が刻まれた碑を前に、今倉さんは「多くの犠牲の上に、平和な生活があることをかみしめた」と話した。

 

 

 「歴史に学ぶ」は八百二十九ページ。

 

 

 問い合わせは今倉さん、電話011(661)4331。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706251700_03.html

 

 

2007年6月25日(月) 夕刊 4面

 

来年3月までに判決/米ジュゴン訴訟

 

原告側弁護士那覇で報告会「基地反対の武器に」

 

 

 米軍普天間飛行場の移設に絡み、日米の自然保護団体が米国防総省に名護市辺野古沖のジュゴン保護を求めて米連邦地裁で争われている訴訟の報告会が二十四日夜、那覇市の八汐荘で開かれた。来日した原告側の弁護士は、来年三月ごろまでに判決が出るとの見通しを示した。

 

 

 米環境法律事務所「アースジャスティス」のマーティン・ワグナー、サラ・バート両弁護士は「勝訴しても即座に基地建設が中止されるわけではないが、反対運動の強力な武器になる」と説明。ジュゴンへの影響を緩和するため、国防総省に環境影響評価や地元の専門家からの意見聴取が義務付けられ、計画変更も想定されるとした。

 

 

 原告側は五月、主張は尽くしたとして、地裁に判決を出すよう申し立てた。九月の口頭弁論で結審し、その後半年以内で判決が出る見通し。

 

 

 報告会には約三十人が参加し、活発に意見交換した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706251700_04.html

 

 

2007年6月26日(火) 朝刊 24面

 

オーバビー名誉教授「9条の精神 世界へ」

 

 米国で「第九条の会」を創設し平和憲法の精神を普及しているチャールズ・オーバビーさん(81)=米オハイオ大学名誉教授=が二十五日、宜野湾市の沖縄国際大学で「憲法改悪で日本はどう変わるか」と題した憲法講演会を開いた。オーバビーさんは、国民投票法や米軍再編推進法の成立などに危機感を募らせ、二十二日に来沖した。

 

 

 講演には学生ら約四百五十人が詰め掛けた。オーバビーさんは、改憲について「憲法九条がいつまで持ちこたえられるか、絶望の危機にきている。アメリカは日本の領土や軍隊を使って戦争できるようにしようとしている」と安倍政権の動きに危機感を募らせた。

 

 

 また、「憲法九条は日本だけのものではなく、全世界のものにするべきだ。日本国民の九条を大切にする気持ちを世界に伝えてほしい」と訴えた。

 

 

 自身も朝鮮戦争のころ、パイロットとして空爆作戦に動員された。現在は「平和のための退役軍人の会」で、暴力を使って国際問題を解決することをやめさせる活動をしている。

 

 

 講演では、核不拡散条約について「日本は唯一、核に攻撃された国。日本がリーダーシップを取って核不拡散条約を広げていくことが重要だ」と呼び掛けた。

 

 

 講演会実行委員を代表し、沖縄戦の語り部の安里要江さん(86)は「教科書から沖縄戦の日本軍関与が削除された問題も過去の戦争を歪曲しているものであり、憤りを感じる。九条を守り抜き、未来の子どもたちが戦争のない安心した暮らしが送れるようにしたい」と話した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706261300_04.html

 

 

沖縄タイムス 社説(2007年6月26日朝刊)

 

 

[米艦船・与那国寄港]

 

やはり理不尽で許せない

 

 「友好親善」という美辞の裏には「軍事調査」という牙が隠されていた、というべきだろう。米海軍佐世保基地(長崎県)所属の掃海艦ガーディアンとパトリオットの初の与那国寄港のことである。

 

 

 日本最西端の国境の島への寄港目的を米軍は「乗組員の休養と友好親善」と触れ込んだ。

 

 

 だが、実際は民間港湾の状況、燃料の調達方法、給水、医療や通信施設、クラブ、レストラン、ホテルの状況、はては「寄港反対運動」などの住民調査も盛り込まれていた。

 

 

 石垣市、竹富町を含め八重山の各離島は、中台紛争の台湾海峡有事の際、在留邦人や米国人の非戦闘員、台湾の避難民などの緊急避難先として利用される可能性が極めて高い。

 

 

 今回の米艦船の与那国寄港には、台湾海峡を間近に見据える与那国島を「布石」に、米軍が石垣港を軍事利用したいという意図が見え隠れしている。

 

 

 与那国の祖納港の現状は、掃海艦よりさらに大きい艦船は入港できない。しかし、石垣港なら台湾海峡にほど近く、検疫や出入国管理施設も備わり、大型艦船が入港できるからだ。

 

 

 二隻の掃海艦は、外間守吉与那国町長の「反対」や港湾管理者である県の「自粛要請」を押し切り、祖納港にあえて「接岸」し、艦内を一般公開した。その狙いが、町民の「軍事アレルギー」を解消、緩和させることにあるのは言うまでもない。

 

 

 米軍のやることを許せば、慣らされてしまいかねない、のは多くの県民が肌で感じているはずだ。日本政府も寄港の見返りにいずれ地域振興策を持ち出し、住民を懐柔するのは目に見えている。これから先がもっと危うい。

 

 

 外間町長は寄港に反対したが、崎原孫吉町議会議長は艦内での夕食会で歓迎の意を示すなど、人口千七百人の島の指導者の対応が分かれているのも悲しく、複雑な現実といえる。

 

 

 同町は、地理的に石垣島より近い台湾との交流拡大を目指し、チャーター船など外国船を受け入れる「開港」を日本政府に求め続けてきた。

 

 

 しかし、検疫や出入国管理の施設がなく、貨物量の実績も少ないため、開港されないのが現状だ。

 

 

 片や、米艦船は開港、不開港を問わず、国内の民間港湾に無料で入港する権利を日米地位協定第五条(港または飛行場への出入国)が保障している。

 

 

 民間港湾に限らず、民間空港も必要なときには無料で「自由使用」できるようになっており、米軍だけは常に特別扱いである。

 

 

 やはり、理不尽であり許せない。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20070626.html#no_1

 

 

2007年6月26日(火) 夕刊 1面

 

「広義の軍関与あった」/仲里副知事が言及

 

 県議会(仲里利信議長)六月定例会の代表質問が二十六日午前、緊急入院した仲井真弘多知事が欠席する中、始まった。高校歴史教科書の文部科学省の検定で、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に日本軍が関与したとする記述が削除、修正された問題について、仲里全輝副知事は「当時の教育を含む社会状況の総合的な背景および戦時下における極限状態の中、直接的な軍命があったかどうかは定かではない」との認識を示した上で、「手りゅう弾が配られるなど広い意味での日本軍の関与があったと思う」と述べ、「軍命」の有無に言及した。

 

 

 冒頭、仲里副知事は、二十四日に緊急入院した仲井真知事の容体や入院に至った経緯などを報告。「仲井真知事は二十三、二十四の両日、病院で精密検査を受けたところ、ごく軽度の脳梗塞と分かった。知事は県議会、県民の皆さまに多大な心配とご迷惑を掛けたことを心苦しく思っている。県議会を欠席することを知事に代わり、深くおわび申し上げる」と陳謝し、知事が代表・一般質問に欠席することへの理解を求めた。

 

 

 米軍再編推進法に基づく再編交付金制度について、上原昭知事公室長は「米軍再編に伴い負担が増加すると認められる市町村に対し、交付金を交付するもので、対象となる市町村の地域振興に寄与するものである」との考えを示した。

 

 

 残り五年となった沖縄振興計画終了後を見据えた「沖縄二十一世紀ビジョン(仮称)」の策定について、仲里副知事は「沖縄の進むべき方向を明らかにする基本構想。この基本理念を踏まえ次期計画の在り方を検討する」と述べ、県独自の計画策定への意欲を示した。いずれも安里進氏(自民)への答弁。

 

 

 午後は親川盛一氏(自民)が登壇する。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706261700_01.html

 

 

2007年6月26日(火) 夕刊 1面

 

抗議の中 米軍艦出港/与那国

 

 【与那国】与那国町の祖納港に二十四日入港、停泊していた米海軍佐世保基地(長崎県)所属の掃海艦ガーディアン(排水量一、三六九トン)とパトリオット(同一、二五○トン)が二十六日午前七時すぎ、出港した。寄港に反対してきた住民や労働組合、平和団体のメンバーらが同港に集まり、抗議した。

 

 

 ケビン・メア在沖米国総領事は出港後、「米海軍がこの地域の安全保障に貢献していることを示すことができた」と成果を強調。今後の与那国や石垣などへの入港について、「海軍の将来的な運用はコメントできないが、日本国内の港であれば入港する可能性がないとは言えない」と語った。

 

 

 出港後の行き先は明らかにしていない。両艦の艦長らは二十四日の記者会見で「通常の訓練に向かう」と話していた。

 

 

 寄港に反対する住民の会の新崎長吉共同代表(65)は「入港を強行しただけでなく、上陸したことで、酒を飲んで暴れないかなど、不安な夜を過ごした。シャツを着ずに裸で歩く水兵もいた。住民の暮らしの場という意識もなく、何が友好親善だ」と憤った。

 

 

     ◇     ◇     ◇     

 

 

掃海艦の寄港「安保上重要」/照屋氏質問に政府答弁書

 

 

 【東京】政府は二十六日に閣議決定した答弁書で、米海軍掃海艦二隻の与那国町への寄港について「米軍の円滑かつ効果的な活動を確保し、もって日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約の目的達成のために極めて重要」との見解を示した。照屋寛徳衆院議員(社民)の質問主意書に答えた。

 

 

 同町が台湾との交流促進を目指し、クリアランス船などの入港に関する要件緩和を盛り込んだ「国境交流特区」構想を国に申請しているが、安全上の理由などで却下されており、照屋氏は「台湾からのクリアランス船の入港を拒みながら、一方で米海軍掃海艦の入港を認める理由」を質問。

 

 

 これに対して答弁書は「台湾からの船舶についても、関税法および検疫法の規定に基づく許可を受けて入港することは可能」とし、あくまで現行法の枠内で対応できるとの見解にとどまった。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706261700_02.html

 

 

2007年6月26日(火) 夕刊 5面

 

この写真ダレデスカ?/沖縄戦で戦死の日本兵所持

 

 【北中城】沖縄戦で戦死した日本兵が所持していた写真四十七枚が、従軍した元米兵の孫で米軍嘉手納基地所属のロナウド・ストリッケルさん(33)から特定非営利活動法人(NPO法人)「琉米歴史研究会」に寄贈された。同会の喜舎場静夫理事長は「何とか遺族の元に返したい」と、ホームページに写真を掲載するとともに持ち主につながる情報提供を呼び掛けている。

 

 

 寄贈された写真は六年前に七十二歳で亡くなったロナウドさんの祖父のジーン・ロイスさんが、一九四五年の沖縄戦で、沖縄本島で死亡していた日本兵のポケットに入っていたのを手に入れた。

 

 

 祖母のエバンさん(71)から譲り受けたロナウドさんが、北中城村中央公民館で行われていた写真展「笑顔が戻ってきた日」(主催・村など)のことを知り、二十四日に企画者である喜舎場理事長に手渡した。

 

 

 戦死した日本兵の家族が写っているとみられる写真、軍服姿で馬に乗ったり山の景色をバックに記念撮影した兵隊の写真などが「陸軍恤兵部」と書かれたアルバムに収められている。

 

 

 多くの写真には文字などが書かれていないが、中には「昭和十六年十月、徳吉静子さん退職記念」と書かれた集合写真、クンジーと呼ばれる着物を着た女性が幼い子と一緒に写った写真の裏に「昭和十七年二月十九日受け取り」と書かれたもの、若い母親と赤ちゃんとみられる写真の裏には「旧一月三日、生後二カ月を記念して」と書かれたものがある。

 

 

 連絡は同会、電話098(895)7109。ホームページはhttp://www.ryubei.com

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706261700_04.html

 

沖縄タイムス 社説、琉球新報 社説(6月24日)

沖縄タイムス 社説(2007年6月24日朝刊)

 

 

[非戦の誓い]

 

歴史をどう語り継ぐか

 

 

「今だからこそ」歩かねば

 

 

 梅雨が明け、早くも真夏の強い日差しが糸満市摩文仁にある平和の礎や魂魄の塔を照らし、糸満市役所に隣接する市民広場にも降り注いでいた。

 

 

 ことしの慰霊の日はいつもの鎮魂の日とは様相を異にし、緊迫した空気が漂った。広場を出て平和祈念公園までの九キロを歩く、県遺族連合会の平和祈願慰霊大行進参加者の表情を見て、そう感じざるを得なかった。

 

 

 午前九時。「さぁ出発しましょう」の声とともに一歩を踏み出す。

 

 

 遺族会の行進はことしで四十六回目。沖縄戦で亡くなった親や兄弟、姉妹そして親類、友人のことを思い出しながら、平和を誓う行進だ。

 

 

 六十二年前の六月。南部の地は米軍に追われて敗走する日本軍と、それを追うかのように逃げ惑う非戦闘員が入り交じり、数多くの悲劇を生んだ。

 

 

 「沖縄戦の体験者は高齢者が多い。ことしは参加者が減ったのでは」という声が聞こえる。一方で「そのお年寄りが今回はいつもの年よりも多いような気もする」との声も耳に入る。

 

 

 ひ孫の手を引いて一歩一歩、静かだが、それでも腰や膝に力を込めて歩みを進める老夫婦。隣には、三人を見守るかのように寄り添う若い母親の姿も見える。

 

 

 「さぁ頑張って。戦争中はみんな大変だったんだよ」と、一緒に歩む子どもに話し掛けるおばあさん。しかし、歩を進める多くは、黙々と目的地を目指す。

 

 

 ひめゆりの塔が近くなると行程は半ばを過ぎる。額には大粒の汗が浮かび、シャツやズボンは濡れそぼる。行進団の声が次第に沈み、重くなる。

 

 

 戦争中は梅雨の真っただ中であったはずだ。ぬかるんだ原野と艦砲射撃で荒れ果てた畑地を赤ん坊やお年寄りを背負い、手を引き、迫り来る恐怖と戦っていたことを考えれば、きれいな歩道を歩くのは苦にならない。

 

 

 行進は当時の追体験でもある。参加者それぞれの思いを胸に激戦の地を歩み、命の尊さを思う。「もう年だから大変さぁ。でも、おかしくなってきているよ。あんな世の中は嫌だからねぇ。だからいま歩くんだよ」。小さく聞こえた声が頭の中で大きく響いた。

 

 

沖縄戦の実相胸に刻もう

 

 

 平和の礎にはことし五人の韓国人名が新たに刻まれた。県外の沖縄戦戦没者百六十六人、県内は六十四人だ。

 

 

 米国が一万四千八人、韓国三百五十一人、英国と北朝鮮がそれぞれ八十二人、台湾三十四人。刻銘者の総合計は二十四万六百九人に上る。

 

 

 関係者が刻印された礎の前で献花し、線香をたく。名前をきれいにふいたあと供え物をし、静かに手を合わせる。死者への語り掛けは長い。涙をぬぐった後、また名前に手を添える。

 

 

 礎にたたずむ吉川嘉勝さん(68)も渡嘉敷島で「集団自決(強制集団死)」の場にいた一人だ。

 

 

 「『集団自決』への軍関与を削らせないのは県民の総意。安倍晋三首相には、沖縄戦の実相を見て、県民の怒りを肌で感じて帰ってほしい」

 

 

 これは県民誰もが持つ気持ちであり、多くの体験者の証言によって明らかにされた史実といえよう。

 

 

 しかし、戦争が終わって六十二年。ことしの教科書検定では高校歴史教科書の「集団自決」から「軍命」が削除された。沖縄では「歴史を改ざんしようとする」文部科学省への怒りと不信感がわき起こっている。

 

 

 慰霊の日は、私たち一人一人が沖縄戦の実相をいま一度振り返り、真実はどこにあるのかを学ぶ良い機会になっている。

 

 

歴史の歪曲は禍根を残す

 

 

 沖縄全戦没者追悼式に参列した安倍首相は、「集団自決(強制集団死)」から旧日本軍の関与が削除された問題について「(教科書検定は)教科用図書検定調査審議会が学術的な観点から検討している」と述べた。

 

 

 だが、首相が言う学術的観点とは何か。体験者の証言は学術的資料になり得ないと思うのなら、自身の歴史観とともに正直に示すべきではないのか。

 

 

 繰り返すが、県民にとって沖縄戦の“真実”は一つと言っていい。なぜ首相がそのことに目を向けようとしないのか。それが不思議でならない。

 

 

 子どもたちに教えなければならないのは歴史の真実だ。歪曲した歴史を教えたのでは将来に禍根を残す。

 

 

 沖縄戦の記憶を背景にした“非戦の誓い”をどう継承し発展させていくか。私たちはいま、歴史の大きな岐路に立っていることを自覚したい。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20070624.html#no_1

 

 

琉球新報 社説

 

復帰35年沖縄宣言 強い気概を持ち自立を

 

 本土復帰から35年。本土化の流れがほぼ定着し、価値観が多様化する中で、県民が心や思いを等しくし認識を問い直す機会の一つが「慰霊の日」である。

 慰霊の日のきのう、県内各地では、激烈な沖縄戦で犠牲になった戦没者のみ霊を慰め、非戦を誓う老若男女の変わらぬ姿があった。

 その慰霊の日に向けて、有識者ら50人の連名で「復帰35年・沖縄宣言」が発表された。

 提唱者は、大学教授、作家、工芸家、音楽家、実業家、弁護士など職業の枠や党派を超えた多彩な顔ぶれである。

 宣言全文を共通して貫いているのは、今の沖縄の姿を憂い、平和な生活に直結する自立への気概などを、強く持つよう求めたことなどだ。

 宣言は、まず沖縄戦から学んだ教訓である「命どぅ宝」に触れた後で、「人間の尊厳」の重さを説き起こしながら平和や自治や自立の確立を呼び掛ける。

 批判の切っ先は、米軍再編による日米両政府からの強権的な押し付け、自衛隊を投入した住民運動への威圧、高校教科書検定にみる歴史の歪曲(わいきょく)など最近起きた一連の問題に及ぶ。

 「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権の発足以来、改憲論議が急ピッチだ。平和憲法に関連して、宣言は「沖縄住民は悲願である『平和・主権・人権』を享受するはずであった」とし、基本的人権を脅かす政治、社会の現実に異を唱える。

 提唱者らの自省も込められているのだろうか。重要な事項が他律的に決定されることにも、宣言は容赦ない。

 米軍統治時代を象徴する語り草にもなっている、当時の高等弁務官による「自治神話」論を引き合いにこう説く。

 「自ら治めようという気概のない限り、『自治は神話』のままに陥ることを憂慮し、ここにあらためて沖縄自身が決める重要性を深く認識する」

 現実の波に流されるだけでは理想が遠のく。宣言が訴え掛ける意味・意義を考えてみたい。

 

 

(6/24 10:07)

 

 

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-24877-storytopic-11.html

 

 

琉球新報 社説

 

ヒル次官補訪朝 非核化の道筋を確実に

 

 北朝鮮の核開発問題をめぐる動きが慌ただしくなってきた。この勢いで「初期段階の措置」が履行され、次のステップである「核の無能力化」へと一気に突き進むのだろうか。国際社会の耳目が集まる。

 情勢変化のきっかけは、凍結された北朝鮮資金の送金手続きの完了に続く米高官の電撃訪問だ。6カ国協議の米首席代表を務めるヒル国務次官補が21日、滞在中の日本から急きょ北朝鮮を訪れた。米国務次官補の訪朝は2002年のケリー氏以来である。

 訪朝後に韓国・ソウルに立ち寄り記者会見したヒル氏は、北朝鮮が寧辺の核施設の稼働停止・封印を「速やかに履行する」との意思を示したと述べ、米朝協議の成果を強調した。

 だが対北朝鮮外交では、額面通りに受け取れないもどかしさが付きまとう。「速やかに」と表明しながら、往々にして引き延ばし戦術に出ることも少なくない。楽観できない側面があるのは否定できない。しかし、核施設の稼働停止や封印は2月の6カ国協議での合意である。本来なら2カ月前に履行されていなければならない。

 北朝鮮は今度こそ即刻約束を実行すべきだ。それが当事国に求められる誠意ではないか。

 ヒル次官補によると、北朝鮮は次の段階となる各施設の「無能力化」についても「準備ができている」と前向きな姿勢を示し、具体的手続きをめぐって一部意見交換したとも語っている。

 過剰な期待や予断は置くとしても、ヒル氏の訪朝が北朝鮮側の招請で実現していることなどからみて、北朝鮮側に現状を突き動かしたい意思があるのはまず間違いないだろう。

 予想される今後の動きとしては、国際原子力機関(IAEA)の先遣隊となる実務代表団が26日に平壌入りし、初期段階措置に向けた準備協議後、7月半ばに査察要員が北朝鮮に入る予測だ。7月後半には6カ国協議が開催される公算が大きくなっている。

 2月の6カ国協議再開は、その直前のベルリンでの米朝協議が伏線となった。同様に、米朝間の信頼醸成に向けた動きが今回の情勢変化の背景にある。

 泥沼化のイラク問題で身動きできない米国には、外交面でポイントを稼ぎたい政権事情がある。北朝鮮側には「テロ支援国家」の指定解除などの思惑が働いているのだろう。

 ただ忘れてならないのは6カ国協議の役割だ。日米韓中ロはこの機をとらえ、連携を強め、北朝鮮の非核化への道筋を確実にしたい。日本にとっては、拉致問題の進展、解決につなげるためにも一層の努力、各国との連携協力が欠かせない。

 

 

(6/24 10:08)

 

 

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-24878-storytopic-11.html

沖縄タイムス 関連記事(6月23日夕刊、24日朝刊)

2007年6月23日(土) 夕刊 1面

 

戦の記憶 次代へ 慰霊の日

 

追悼式に4476人参列

 

 

 「慰霊の日」の二十三日、県主催の沖縄全戦没者追悼式が、糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた。教科書検定で「集団自決(強制集団死)」への日本軍関与が削除され、国への反発が高まる中、式には県内外から四千四百七十六人の遺族らが参列、六十二年前の悲惨な戦争で亡くなった二十万人余のみ霊に祈りをささげた。安倍晋三首相が、初めて参列。仲井真弘多知事が「世界の人々が安心して暮らせる平和な時代を築くために力強く努力する」と平和宣言した。

 

 

 追悼のことばで県遺族連合会の仲宗根義尚会長は「集団自決」問題に触れ、「『集団自決』はわが国唯一住民を巻き込んだ地上戦があった故に、惹起した。生き残りや多くの方々の証言で紛れもない真実である」と述べた。

 

 

 仲井真弘多知事は、平和宣言で同問題に触れなかった。

 

 

 沖縄戦をめぐっては、今年の高校歴史教科書検定で「集団自決」の記述から日本軍の関与が文部科学省の検定により削除されたことから、県議会が検定意見の撤回を求める意見書を全会一致で可決。県内四十一市町村のうち三十六議会が既に可決し、残る五議会も可決の見通しで、国に対する反発が全県的な広がりを見せている。

 

 

 会場では、正午の時報に合わせ、参列者は目を閉じて頭を下げ、黙とう。地上戦に巻き込まれ、犠牲になった人々に思いをはせ、鎮魂と平和を祈った。

 

 

 追悼式が今年五十回の節目を迎えたのを機に、祭壇が従来の菊花から、三百四十本の紙筒を芝生上に配置しサトウキビ畑をイメージした新しいデザインに一新した。

 

 

 扇千景参議院議長、高市早苗沖縄担当相らも参列した。

 

 

 仲井真知事は平和宣言で「沖縄戦の真実の姿を次の世代に伝え、教訓を生かすことを胸に刻み、それぞれの立場で平和実現のために日々努力することが求められている」と訴えた。

 

 

 沖縄尚学高校附属中学二年の匹田崇一朗君が、「集団自決」せずに生きた祖父を題材にした自作の「写真の中の少年」を朗読。「あの忌まわしい戦争の話を 風化させることなく 語り継いでいこう」と呼び掛けた。

 

 

 今年新たに二百三十五人が刻銘され、総数が二十四万六百九人となった「平和の礎」には、朝早くから遺族らが訪れ、名前を指でなぞったり、手を合わせたりする姿が見られた。

 

 

[ことば]

 

 

 沖縄戦 米軍は1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日には沖縄本島に上陸し、「鉄の暴風」と呼ばれる激しい艦砲射撃や空襲で日本軍を圧倒。地上戦に住民も巻き込まれ、各地で日本軍による住民殺害事件や、「集団自決」も起きた。日本軍は首里の司令部を放棄し、本島南部へ撤退。6月23日に司令官が自決し、組織的な戦闘は終わったとされる。

 

 

     ◇     ◇     ◇     

 

 

刻銘なぞり悲劇語る遺族/「安らかに眠らせて」

 

 

 慰霊の日の二十三日、糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎」や「魂魄の塔」などには遺族らが続々と詰め掛け、鎮魂の祈りをささげた。文部科学省の教科書検定で、高校の歴史教科書から「集団自決(強制集団死)」への日本軍関与の記述が削られた「六十二年目」の夏。肌を刺すような酷暑の中、高齢の体験者は真実の継承を求めた。戦争体験のない若い世代からも、疑問や怒りの声が相次いだ。

 

 

 渡嘉敷島の「集団自決」体験者、吉川嘉勝さん(68)は、被害者の名が並ぶ礎の前に長い間立ち続けた。「『集団自決』への軍関与を削らせないというのは県民の総意。安倍晋三首相には沖縄戦の実相を見て、県民の怒りを肌で感じて帰ってほしい」と望んだ。

 

 

 渡嘉敷村の女性(76)は、「集団自決」で死亡したいとこ家族の刻銘をなぞりながら、二人の孫に島での悲劇を語った。

 

 

 米軍が来たという住民の叫びでガマから逃げ出し、「集団自決」が起きた北山にも足を踏み入れた。五十代の父は逃亡中に砲弾の破片に頭を打ち抜かれ死亡した。「私は悲劇を子や孫に語り継ぐ。いつか戦争をなくしてほしい」と語った。

 

 

 宜野湾市の我如古盛徳さん(71)は、妻子や孫計七人とともに礎に手を合わせた。沖縄戦中に南部に避難したが、離れ離れになった父と兄弟五人を摩文仁の丘で失った。

 

 

 戦後六十二年を経ても、沖縄戦で受けた悲しみは「いつも心の中にある」と言う。「半世紀以上を経て、なぜ『集団自決』は日本軍のせいではなかったと言いだすのか。どうか、父や兄弟を安らかに眠らせておいてほしい」と声を震わせた。

 

 

 目が不自由で参列できない母に代わり、今年初めて伯父の名前が刻まれた礎を訪れた那覇市の平良和子さん(44)と川満敏子さん(43)の姉妹。「いつか必ず訪れたいと思っていたが、今年は伯父が生きていれば八十八歳の米寿に当たる。伯父が呼んだかも」と話す。

 

 

 平良さんの娘は中学生。最近よく教科書問題についてこう尋ねてくる。「どうして国は軍命がなかったとうそをつくの」「日本はいつか戦争をしてしまうのではないか。怖い」

 

 

 娘には「大丈夫、戦争は起こらないよ」と諭すが、「大人の私だって憲法九条を改正する動きなど今の状況を見ると不安」と表情を曇らせた。

 

 

 沖縄市の会社員知念和雄さん(58)は、父方の親類が刻銘された礎に手を合わせた。毎年、一男二女の子どもたちと一緒に訪れる。「たくさんの人が命を落とした重みを、次代に受け継いでいかないといけない」と力を込めた。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231700_01.html

 

 

2007年6月23日(土) 夕刊 1面

 

「国際平和 誠実に希求」/安倍首相が式に初参列

 

 安倍晋三首相は二十三日、沖縄全戦没者追悼式に参列し、「先の大戦で、沖縄は国内最大の地上戦の場となった。県民の平穏な暮らしはにわかに修羅の巷と変じ、二十万人もの尊い命が失われた。学童疎開中の対馬丸の遭難等の惨禍も起きた。正に筆舌に尽くしがたい塗炭の苦難を経験されたことを大きな悲しみとする」と哀悼の言葉を述べた。

 

 

 その上で「再び戦争の災禍を繰り返してはならない。正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、その確立に向け、不断の努力を行うことをあらためてお誓い申し上げる」と不戦を誓った。

 

 

 また、安倍首相は「米軍施設の集中に伴う沖縄の負担を確実に軽減しなければならない」と基地の過重負担を認めつつ、軽減の必要性を強調。「県民の切実な声に耳を傾け、在日米軍の再編を着実に推進していく」と述べ、日米で合意した米軍再編による負担軽減を強調した。

 

 

 本土復帰三十五周年を迎えた今年を「沖縄振興計画の後期五年の初年度」とし、「活力ある自立型経済の構築と豊かな県民生活の実現に向けて全力で取り組む」と述べ、沖縄振興を推進する姿勢を示した。

 

 

 安倍首相は追悼式に先立ち、糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある国立戦没者墓苑を訪れ、献花した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231700_02.html

 

 

2007年6月23日(土) 夕刊 4面

 

自衛官ら黎明之塔参拝

 

 陸上自衛隊第一混成団の武内誠一団長らが二十三日早朝、第三二軍司令官の牛島満中将らを祭った糸満市摩文仁の黎明之塔を「私的参拝」した。制服姿で約十五人が連れ立ち、線香を手向けた。「殉国死の美化だ」と抗議する市民団体のメンバーと口論になった。

 

 

 陸自の集団参拝は四年連続で、通算五回目。武内団長は抗議の声について「いろいろな考え方がある」と述べるにとどめた。

 

 

 一九七六年、陸自が初めて慰霊祭を開いた時の団長、桑江良逢さん(85)も参加。「霊を慰めるのは県民、国民として当然。非常に結構なことだ」と話した。

 

 

 現場では、市民団体メンバーが「制服での参拝は組織としての行動だ」「牛島司令官は住民を見殺しにした」などと抗議。自衛官の一人は「日本軍を美化してはいない」と反論した。

 

 

 沖縄平和ネットワークの村上有慶共同代表は「軍隊として『英霊』を賛美する意識は変わっていない」と批判した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231700_03.html

 

 

2007年6月23日(土) 夕刊 4面

 

平和の尊さ かみしめ/9キロの道のり800人が行進

 

 【糸満】第四十六回平和祈願慰霊大行進(主催・県遺族連合会、日本遺族会)が二十三日午前、糸満市潮崎の糸満市役所隣から出発した。じりじりと照りつける太陽の下、糸満小児童ら小学生から大人まで約八百人が、平和の尊さをかみしめながら追悼式会場の平和祈念公園を目指した。

 

 

 「平和慰霊行進」と書かれたそろいのゼッケンを胸にした県内外からの参加者。九キロの道のりを額から流れる大粒の汗をぬぐいながら歩いた。

 

 

 毎年、「慰霊の日」が近づくと、胸の詰まる思いがするという神谷吉信さん(72)=南風原町=は沖縄戦当時、学童疎開で熊本県に渡っていたが、沖縄に残った祖父母や両親、きょうだい八人を亡くした。「終戦後、沖縄に帰ってきた時の寂しい気持ちを思い出す。家族は南部のどこで死んだかも分からない。僕らみたいな遺児をこれ以上、残してはいけない」と静かに語った。

 

 

 行進に先立ち開かれた平和祈願大会では、「昨今の平和に逆行するもろもろの行為に反対し、世界の恒久平和実現に向けて運動することを誓う」というアピール文が読み上げられた。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231700_04.html

 

 

2007年6月24日(日) 朝刊 1面

 

「真実」刻み継ぐ/慰霊の日

 

遺族ら歴史歪曲危ぐ

 

 

 慰霊の日の二十三日、県内各地で沖縄戦の犠牲者を悼む慰霊祭が行われ、六十二年を経て癒えない悲しみと痛み、惨禍を繰り返さない非戦の誓いを新たにした。高校歴史教科書の検定で「集団自決(強制集団死)」への日本軍関与が削除されたことに、遺族や学徒同窓会などからは、歴史を書き換えようとする国への怒りの声や次代への沖縄戦の継承を訴える声が相次いだ。

 

 

 糸満市摩文仁の平和祈念公園で行われた県主催の沖縄全戦没者追悼式で、県遺族連合会の仲宗根義尚会長は「集団自決」問題に触れ、「『集団自決』は、我が国唯一住民を巻き込んだ地上戦があった故に惹起した。生き残りや多くの方々の証言で紛れもない真実である」と述べた。

 

 

 那覇市若狭の旭ケ丘公園では、遭難船舶の犠牲者の名を刻んだ「刻銘板」の除幕式が開かれた。主催は戦時遭難船舶遺族会。二十年前に建立された「海鳴りの像」の台座に赤城丸、嘉義丸、湖南丸、台中丸、開城丸の犠牲者千百三十八人の名が新たに刻まれ、計千五百四十七人の名が並んだ。

 

 

 式には、約二百五十人の遺族らが参列。沖縄市の吉村哲男さん(78)は「父の名が刻まれるので、五人のきょうだいと一緒に来た。名前を見つけたときは、再会したような気持ちになった」と話した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706241300_01.html

 

 

2007年6月24日(日) 朝刊 27面

 

「集団自決」証言次々

 

沖縄戦の実相が揺さぶられる中で迎えた慰霊の日。二十三日、糸満市の「平和の礎」にある座間味、渡嘉敷両村の刻銘碑を背に、「集団自決(強制集団死)」体験者たちが消せない記憶を語った。家族も聞いたことがない初めての証言。亡くした家族への誓い。高校の歴史教科書から「集団自決」への日本軍の関与が削られた文部科学省の教科書検定は、逆に危機感を生み、重い口を開かせた。各地の慰霊祭でも、せきを切ったような怒りの声。若い世代は、そんなお年寄りたちの姿をまっすぐに見つめた。

 

 

     ◇     ◇     ◇     

 

 

「おじが刃物」首に傷/座間味出身 松山さん

 

 

 松山茂子さん(80)=那覇市=の首の左側には、よく見ると白い筋が残っている。座間味島の「集団自決」でカミソリを当てたあとだ。一緒にいたおじが「どうせみんな死ぬんだから、あんたから」と、首筋にカミソリを当てた。しかし松山さんが、泣いて激しく嫌がったので、おじは途中でやめたという。

 

 

 久しぶりに訪れた「礎」の前で、初めて「自決」を語った。記者たちに急に質問され、心の準備ができていなかったからか、答えが混乱する。それでも、長時間答え続けた。

 

 

 歴史教科書の検定問題の話になると「許せません。子どもたちに、戦争は、きれい事でなく、怖いものだとちゃんと教えないと駄目だ」と語気を強めた。

 

 

 何となく母と「自決」の関係を感じていた娘たちも、初めて聞く具体的な話に驚き、記者と一緒に聞き入った。松山さんは「あんたたち記者が聞くから、話したんだよ」と笑ったが、娘たちは、「座間味の知人が新聞やテレビで証言しているのを見て、母も黙っておれなかったのだろう」と思う。「母の半生をまとめて残そう」。姉妹でそう相談している。

 

 

死地脱出「川 血染め」/渡嘉敷出身 高嶺さん

 

 

 渡嘉敷島出身の高嶺繁昌さん(68)=糸満市=は沖縄戦当時、六歳だった。「集団自決」の現場となった「第一玉砕場」に集められ、親戚十数人と座り込んだ。そこへ防衛隊員のおじが来た。「ここは死に場所だ。逃げろ」と教えられ、死地を脱した。

 

 

 皆で川の下流へ逃げた。「流れが血で真っ赤に染まったのを鮮明に覚えている。血だらけの人が歩いてきた」。生死を分けたのは「情報」の差だった。

 

 

 教科書検定で、またも恣意的な情報が史実として伝わることに危機感を募らせる。「真実は一つ。右も左もない。政府はなぜへし曲げるのか」と強い口調になった。

 

 

 この日、礎に刻まれた父や妹に語り掛けた。「大丈夫、心配するな。生き残っている私たちが真実を守る。これだけ証言する人がいるんだから、いつか本土政府も謝ってくれるよ」

 

 

沖縄戦学びたい/首里高校 平良さん

 

 

 炎天下の摩文仁の丘で礎に手を合わせる人々の姿をビデオカメラに収めたのは首里高校二年の平良紳さん(16)=写真右・那覇市首里石嶺町=だ。学校で沖縄戦についての学習を重ねるにつれ、「自分で何かできないか」と考え、「多くの人に伝える映像作品をつくろう」と思い立った。二十三日の平和祈念公園をクランクインの場所に選んだ。

 

 

 「米国や日本、誰が悪者かなのではなく、戦争そのものが悪いのでは」と考え込む。自分なりに沖縄戦を学ぶとともに、ほかの人にも沖縄戦について考えてもらうきっかけをつくれないかとも。

 

 

 もともと、映画好きでいつかは自分でも撮りたいと思っていた。「沖縄戦をめぐる人々の気持ちをドキュメンタリー映画にして多くの人に見てほしい」。夢と問題意識が結び付いた。親類から借りたビデオカメラを片手に、撮影に飛び出した。

 

 

 慰霊の日の摩文仁の丘の光景を見るのは初めて。多くの人が手を合わせる厳かな雰囲気に、「カメラを向けていいのか」と気後れした。だが、思い切って撮影を始めると人々は温かかった。

 

 

 これから、同級生や観光客ら同世代の若者に沖縄戦について感じることをインタビューする予定だ。夏休みに撮影を重ね、全国の高校生が撮影した映画を競う「映画甲子園」への応募を目指す。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706241300_02.html

 

 

2007年6月24日(日) 朝刊 1面

 

米艦船、きょう与那国入港/外間町長、再度「反対」

 

 米海軍佐世保基地(長崎県)所属の掃海艦ガーディアン(排水量一,三六九トン)とパトリオット(同一、二五〇トン)が二十四日、与那国町の祖納港に初入港する。県内の民間港湾への米艦船の寄港は極めて異例。米掃海艦の与那国寄港をめぐっては、外間守吉町長が「反対」を表明、県が使用自粛を日米に申し入れている。二十三日にはケビン・メア在沖米国総領事や外務省沖縄事務所の倉光秀彰副所長らが与那国入りし、艦船の受け入れに向け、関係者らと調整した。

 

 

 外間町長は同日、「寄港に反対する意思に変わりはない。行事などにも一切協力しない」と述べ、あらためて米艦船入港に反対する考えを示した。

 

 

 米海軍は今回の寄港目的を「乗組員の休養と友好親善」と通知しているが、メア総領事は沖縄タイムス社のインタビューに「入港することでいろんな情報が入る。長らく入港していない港であれば、例えば海図に記載されている水深が正しいかなどを確認することになる」と話し、「調査」の側面も認めている。

 

 

 また、「この地域全体に米軍が日本の安全保障に対するコミットメントを果たす用意があることを示す意味合いもある」と台湾海峡情勢を見据えた先島全体の軍事戦略的な意義も示唆している。

 

 

 米艦船の民間港湾入港に際しては、米軍が「港湾の位置や状態」「燃料の調達方法」「医療施設や医者の英語能力」「給水、通信施設」「クラブ、バー、レストラン、ホテルの状態と値段」「寄港反対運動」など計五百項目以上にわたる詳細な調査報告書を作成していることを、共産党が一九九七年の参院決算委で明らかにしている。

 

 

 米総領事館によると、ガーディアンは二十四日午後一時、パトリオットは午後二時に祖納港へ入港。艦長らの記者会見や艦内の一般公開、夕食会を開く。二十五日は約百二十人の水兵が下船し、祖納港近くのナンタ浜での清掃活動や地元関係者とのバーベキューパーティーを開催。二十六日午前七時ごろに出港予定。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706241300_03.html

 

沖縄タイムス 関連記事・社説、琉球新報 社説(6月23日)

2007年6月23日(土) 朝刊 1面

 

文科省「関与」鮮明に 修正前提の審査求める

 

「集団自決」検定

 

 

 【東京】二〇〇八年度から使用される高校歴史教科書の検定で文部科学省が、教科書を審査する教科用図書検定調査審議会に提示した調査意見書の決裁資料に、教科書会社から提出された記述通りに検定の合否判定をせず、修正後に審査するよう求める具体的記述があることが二十二日、分かった。民主党の川内博史衆院議員(比例・九州ブロック)が入手した文科省の原義書(決裁書)で明らかになった。局長、審議官、課長、教科書調査官ら検定に関係する主要な事務方の決裁印があり、審議会への文科省側の「関与」があらためて浮き彫りになった。(吉田央)

 

 

 原義書は教科書調査官がまとめた調査意見書を、所管の初等中等教育局が決裁した内部資料。調査対象の教科書を提出した会社別に受理番号、教科、種目などが記されている。

 

 

 それぞれの教科書の「調査結果」の項は、「上記の申請図書(教科書)は、別紙調査意見書のとおり検定意見相当箇所がある」と指摘。

 

 

 その上で「合格又は不合格の判定を留保し、申請者(教科書会社)によって修正が行われた後に再度、審査する必要がある」と記述し、調査意見書に沿った検定意見を付すよう求めている。

 

 

 調査意見書は日本史教科書に対する指摘事項で、沖縄戦「集団自決」への軍関与を「沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現である」と記述。

 

 

 これとまったく同じ表現が、審議会での審議を経て教科書会社に示された検定意見書に記載された例があることが明らかになっている。

 

 

 伊吹文明文科相は国会で「文科省の役人も、私も、安倍総理も一言も(=口出し)できない仕組みで教科書の検定は行われている」と答弁しているが、調査意見書の作成段階で文科省が容喙「口出し」し、検定の方向性を決めていた構図が鮮明になっている。

 

 

 川内氏は「はんこ(決裁印)は文科省の意思として押されており、記述を変えさせた判断が文科省側にあったことは明らかだ」と指摘している。

 

 

 文科省初等中等教育局の山下和茂教科書課長は二十二日、沖縄タイムス社の取材に「これまで述べてきた通り調査意見書はあくまで審議会の参考資料で、審議会の決定を強制するものではない」と説明した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_01.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 1面

 

文科省、撤回を困難視

 

要請県議団「誠意感じられぬ」

 

 

 【東京】上京中の県議会文教厚生委員会の前島明男委員長ら七人は二十二日午後、文部科学省や内閣府沖縄担当部局、衆参両院議員会館などを訪れ、県議会が全会一致で可決した教科書検定の撤回を求める意見書を提出し、高校歴史教科書に沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への軍関与を明記するよう要請した。要請団によると、文科省の布村幸彦審議官は「教科用図書検定調査審議会が審議するもので、文科省は口を挟めない」などと述べ、検定撤回は困難との姿勢を崩さなかったという。

 

 

 文科省の回答に対し、前島委員長(公明党・県民会議)は記者団に「これまでと全然変化がなく、がっかりした」と失望感を表明。「記述を元に戻してほしいのは県民の総意だ。検定結果が撤回されるまで行動を続ける」と強調した。

 

 

 伊波常洋氏(自民)は「文科省には誠意が感じられない」と憤りを示した。前田政明氏(共産)は「体験者の証言が真実。検定後の記述こそ新たな誤解を招いている」と批判した。

 

 

 自民党「教育再生に関する特命委員会」の中山成彬委員長(元文科相)は「沖縄の問題は一緒にやっていきたい。共に頑張りましょう」と理解を示したという。内閣府の東良信府審議官は「私の出身の長崎県も戦争被害を受けており、沖縄県民と同じ気持ちだ」と述べたという。

 

 

 前島委員長は要請終了後、「集団自決」があった渡嘉敷・座間味両島の視察や、体験者の参考人招致などを委員会として検討する考えを示した。

 

 

 意見書は「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による関与なしには起こり得なかったことは紛れもない事実」として、検定意見の撤回を求めている。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_02.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 31面

 

旧軍、手榴弾300万個発注/45年5月 米軍の北海道侵攻備え

 

製造担当男性証言「最後は自決」直感

 

 

 太平洋戦争末期の一九四五年五月ごろ、札幌市厚別区にあった旧陸軍の厚別弾薬庫で働いていた男性が、軍司令部から三百万発の手榴弾を製造するよう命令されたと証言した。戦局の悪化で、北海道内では当時、米軍侵攻に備えた水際作戦が立てられていた。製造の準備中に終戦を迎え、計画は実現しなかったが、男性は「手榴弾は道民に配られ、最後まで敵に抵抗した上で、いざというときは沖縄と同じように自決のために使うのだと直感した」と話している。(上原綾子)

 

 

 男性は、札幌市に隣接する江別市西野幌在住の寺崎清治さん(88)。弾薬庫勤務時は曹長で、弾薬や兵器の製造、管理などの技術責任者だった。

 

 

 命令されたのは、苫小牧沖など太平洋側からの米軍上陸が想定されていた四五年の五月か六月。北海道と樺太・千島の部隊を指揮した第五方面司令部の参謀長から、手榴弾二百万発を造るよう直接口頭で命じられ、さらに数日後に正式に届いた発注書には百万発増えて「三百万発」と記されていたという。

 

 

 札幌市によると、北海道陸軍の兵器補給廠と厚別弾薬庫は、四三年に北海道の北東に位置する米領アッツ島で旧日本軍が米軍と激戦を繰り広げ、ほぼ壊滅したのを機に、北方の兵力を増強するため造られた。

 

 

 四五年三月の東京大空襲前後から、物資不足で本土からの兵器補給が厳しくなり、弾薬庫でも弾薬や兵器を自活で製造するようになったという。

 

 

 三百万発の手榴弾の製造には、三百トンの火薬のほか、管体や導火線など膨大な部品が必要だった。寺崎さんは人員や資材を調達するため、道内各地を駆け回ったが、組み立て作業に着手する直前、八月十五日の敗戦を迎えたという。

 

 

 道の資料によると、四五年当時の道人口は約三百五十一万人。寺崎さんは「当時の新聞報道で、既に米軍が上陸した沖縄では住民や兵士が自決したことを知っていた」と言う。「最後の一兵卒まで戦え、捕虜になるより自決の道を選べと教えられた時代。三百万発もの手榴弾は当然、女、子どもに至るまで敵に抵抗できるすべての道民に配られるものだと考えた」と振り返った。

 

 

軍・住民一体の「根こそぎ動員」

 

 

 沖縄国際大の安仁屋政昭名誉教授の話 命令があったというのは、本土決戦に備えて義勇兵役法が制定され、軍隊と住民の区別なく根こそぎ戦場に動員する『国民義勇戦闘隊』が編成されることになった時期。北海道の場合、米軍に加えソ連軍の侵攻に対する恐怖もあったはずだ。大量の手榴弾を造ろうとしたのは、十分にあり得る話で、いよいよ北海道も決戦場になるという危機意識の表れだろう。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_03.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 1面

 

真実継承誓う62年目 きょう慰霊の日

 

 きょう二十三日は終戦から六十二年目の「慰霊の日」。沖縄で最後の激しい地上戦が繰り広げられた糸満市摩文仁で行われる沖縄全戦没者追悼式には安倍晋三首相が初めて列席するほか、一般参列者ら約五千人が訪れる。沖縄戦体験者が年々少なくなる中、高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」の記述から「軍命」を削除した文部科学省の教科書検定問題で、県議会が教科書検定の撤回を求める意見書を可決、県内全四十一市町村議会も可決の見通しとなり、大きなうねりとなっている。戦争の真実をどう後世に伝えるか―。島はこの日、沖縄戦で亡くなった人や生き残った人々の「命の言葉」に耳を傾ける。

 

 

 二十三日に同市の平和祈念公園で開かれる県主催の沖縄全戦没者追悼式は、午前十一時五十分に開式。正午の時報を合図に、沖縄戦で失われたすべてのみ霊に黙とうをささげる。

 

 

 就任後初の参列となる仲井真弘多県知事は恒久平和を願い「平和宣言」。沖縄尚学高校附属中二年の匹田崇一朗君は「写真の中の少年」と題して平和の詩を朗読し、戦争体験を語り継ぐ大切さを訴える。

 

 

平和祈る舞

 

 

 沖縄全戦没者追悼式前夜祭(主催・沖縄協会、共催・県、県遺族連合会、県平和祈念財団)が22日夜、糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂で開かれ、県内外から遺族ら約500人が参列。沖縄戦犠牲者のみ霊を慰め、平和の誓いを新たにした。

 

 

 同協会の清成忠男会長は「再び過ちが繰り返されないよう、後世の人々に戦争がもたらした悲惨な事実をありのままに伝えていく」と鎮魂(しずたま)の言葉を述べた。平和祈念像前の舞台では、流会派を超えた実演家が、平和の祈りを込めた古典音楽の献奏や琉球舞踊を奉納した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_04.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 31面

 

教え子の生きた証し 刻銘/元担任・福岡さんらが情報収集し申請

 

 一九四四年十月。台湾で十歳で亡くなった宮古島市出身の金城八重子さんが、当時の担任や同級生の証言から平和の礎へ刻銘された。遺族以外の申請で、刻銘されたのは極めてまれ。元担任の福岡ウメ子さん(81)=滋賀県=が二十二日初来県し、慰霊の日の二十三日糸満市の平和の礎で祈りをささげる。

 

 

 八重子さんは物静かで、時たまニコっと笑う表情が印象的だった。悪性マラリアにむしばまれ、防空壕で息を引き取った。

 

 

 当時、台南州新営群白河庄の烏樹林小学校の教員だった福岡さんは、戦時中病死した教え子を六十年以上心に引きずったままだった。

 

 

 二年前、新聞記事で病死でも戦争に関係していれば平和の礎に刻銘できることを知り、八重子さんの情報収集を始めた。

 

 

 同級生の砂川貞子さん(72)や元宮古島市役所職員の狩俣公一さん(60)が同級生四人から証言を集めた。砂川さんは、「当時から思いやりのある先生だった。先生の人柄が周りの力を動かした」と語った。

 

 

 両親を幼くして亡くし、体が弱かった八重子さんをいつも気に掛けていた福岡さん。自身も四歳で母を亡くし、自分の境遇以上に悲しみを味わっているのではと八重子さんにモンペを縫ってあげた。

 

 

 刻銘が決まったときは、うれしさのあまり声が出なかったという福岡さん。両親の刻銘は亡くなった時期、証言者が見つからずかなわなかったが、「八重子ちゃんの生きた証しが残る。お父さん、お母さんもきっとここへ来てくれるからねと伝えたい」と声を弾ませた。

 

 

 最近、八重子さんの兄の名前が「金城タケオ」さんと分かり、兄についての情報を募っている。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_05.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 30面

 

物が語る戦争の実相/きょうから特別展 対馬丸記念館

 

 那覇市若狭の対馬丸記念館は、「慰霊の日」の二十三日から「沖縄戦時下の住民―かくして沖縄は戦場となった」と銘打ち、特別展を開く。八月二十九日まで。

 

 

 義勇隊や学徒隊など当時の写真約五十点のほか、実際に使用された模擬銃や竹やりなどが展示され、一般市民を巻き込んだ沖縄戦の実相に触れることができる。

 

 

 同館を運営する対馬丸記念会の瑞慶覧達次事務局長は「学校や婦人会など、地域の動員体制によって住民が戦争に巻き込まれていったことを多くの人に見てもらい、平和の尊さや命の大切さを伝えたい」と来館を呼び掛けた。

 

 

 八月十一日は、いしがき児童合唱団の平和コンサート「祈り 心から心へ」、同二十二日は国際海洋環境情報センターによる「対馬丸船体発見十周年記念特別講演」が予定されている。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_06.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 2面

 

米軍再編 日本負担は3兆円/在日米軍司令官

 

 【東京】在日米軍のライト司令官(空軍中将)は二十二日、都内で講演し、在日米軍再編にかかる経費全体の日本側負担について「おおざっぱにいって大体二百六十億ドル(約三兆円)くらいではないかといわれている」と説明した。

 

 

 米軍再編経費については二〇〇六年四月にローレス米国防副次官(当時)が同様に「計二百六十億ドル」と明らかにしたものの、日本国内での強い反発が起こったことから、それ以来公言されることはなかった。

 

 

 ライト司令官は「ローレス氏が推計した額」としたが、今回の発言は、現在も日本側負担額が約三兆円に上ると米側が認識していることを示したものといえる。

 

 

 ライト司令官は日本の国内総生産(GDP)に占める防衛費の割合が低いことを指摘した上で、「大きな額と思われるかもしれないが、もし有事が起きたとき、あるいは戦争がこの地域で起きたとするならば、比較にならない幾何級数的な額になるはずだ」と強調した。

 

 

 一方、最新鋭ステルス戦闘機F22Aラプター十二機を米軍嘉手納基地に暫定配備したことについて、「われわれは、空軍の最も近代的な兵器の展開能力を実証できたと思っている。新しい環境の下での効果的な訓練を行うこともできた。この訓練においては日本の航空自衛隊のカウンターパートとともに行うことができた」と語った。

 

 

 同基地への地対空誘導弾パトリオット(PAC3)配備については「抑止にもなるし防衛にもなる。潜在的な敵にとっては、彼らの攻撃の成功の確率がそれだけ低くなるということを知らしめることができる」と意義を強調した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_07.html

 

 

沖縄タイムス 社説(2007年6月23日朝刊)

 

 

[慰霊の日]

 

検定撤回は県民の総意

 

 

軍官民共生共死の論理

 

 

 文部科学省の教科書検定で、高校用歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」をめぐる記述から日本軍の関与を示す記述が削除された。県民の間に沖縄戦の歴史歪曲への強い懸念が広がる中で、「慰霊の日」を迎えることになったのは残念である。

 

 

 沖縄戦では「軍官民共生共死」の論理の下で多くの非戦闘員が死に追い込まれた。各地で住民証言が収集され、「集団自決」は軍による強制・強要・命令・誘導等によって引き起こされたというのが戦後蓄積されてきた沖縄戦研究の成果である。

 

 

 なぜ今になって日本軍の関与が削除されるのか、私たちは沖縄戦の実相を踏まえ、考えなくてはならない。

 

 

 「集団自決」は県内の激戦地で起きた。渡嘉敷島、座間味島、慶留間島では住民が肉親に手をかけた。手りゅう弾やカミソリ、かま、棍棒などが使われ、阿鼻叫喚の地獄絵が広がった。多くの子供たちも犠牲になった。

 

 

 渡嘉敷島での「集団自決」で両親と弟妹を失い、生き残った金城重明さんは、「母親たちは嗚咽しながら、迫りくる非業の死について、子供たちに諭すかのように語り聞かせていました。恐ろしい死を目前にしながら、髪を整え、死の身支度をしていた婦人たちの様子が忘れられません」(「『集団自決』を心に刻んで」、高文研)と、犠牲者らの最後の姿を伝えている。

 

 

 沖縄戦から六十二年。世代交代が着実に進み、沖縄戦の体験者も年々減少していく。後世に生きる人々が沖縄戦の記憶をどう継承していくかが重い課題として浮上している。こうした問いに正面から向き合うことなしに沖縄の将来を切り開くことはできない。

 

 

 県議会は「慰霊の日」の前日、検定意見を撤回し記述を元に戻すよう国に求める「教科書検定に関する意見書」を全会一致で採択し、文部科学省などへの要請行動を展開した。

 

 

 「『集団自決』が、日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の削除・修正は体験者による多くの証言を否定しようとするもの」という批判は、与野党を超えた県民の総意である。政府は県民の声を重く受け止めるべきだ。

 

 

日本軍の残虐性薄める

 

 

 沖縄戦に関する教科書検定の経緯を振り返ると、政府にとって都合の悪い沖縄戦関連の記述を歴史教科書から消し去りたいかのようだ。研究者らが同様に指摘するのは、日本軍の残虐性を薄める方向での修正の動きである。

 

 

 一九八二年度の教科書検定で、沖縄戦での日本軍による住民殺害の記述が削除された。しかし、県民の抗議の高まりなどを受けて記述が復活した。

 

 

 そして今回は「集団自決」に関する記述について「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある表現」として、日本軍による命令・強制・誘導等の表現を削除・修正するよう指示した。

 

 

 文部科学省が、教科書を審査する教科用図書検定調査審議会に対し、日本軍の関与を示す記述の削除を求める意見書を提出していたことも判明した。

 

 

 伊吹文明文部科学相は「軍の関与があったことは認めている。ただ、すべての集団自決について軍が関与したという記述は必ずしもそうじゃないんじゃないか」と述べ、大臣として検定には介入しない考えを示している。

 

 

 文科省の審議官は検定調査審議会の中立性を強調し、今回の削除・修正は審議会の判断だとしている。

 

 

 軍の関与は認めつつ、軍関与を示す記述の削除についても理解を示す。これは一体どういうことなのか。

 

 

首相の歴史認識を問う

 

 

 安倍晋三首相は「戦後体制からの脱却」を掲げ、憲法改正、教育問題を重視してきた。「愛国心」重視の教育基本法を改正し、従軍慰安婦問題で「狭義の強制性」を否定した。靖国問題など首相の歴史認識が問われている。

 

 

 今回の検定で「軍の関与」が削除されれば、住民は自発的に死を選んだという意味合いになる。そこには審議会による判断だという説明だけでは済まない大きな論理の転換がある。

 

 

 沖縄戦研究者は政府は「集団自決」という言葉に靖国思想を意味する「殉国死」のニュアンスを込めていると指摘する。「今回の検定には文部科学省だけでなく政府筋の介入を感じる」という声さえ出始めている。

 

 

 沖縄戦の記憶は今試練にさらされている。「慰霊の日」に犠牲者を追悼していくために、今回の検定問題を契機に沖縄戦の実相を究明し、沖縄戦についての認識をさらに深めていきたい。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20070623.html#no_1

 

 

琉球新報 社説

 

慰霊の日 沖縄戦の記憶は“平和の砦”

 

 きょうは「慰霊の日」。鎮魂の思いを込め「沖縄忌」とも呼ばれる。六十二年前、二十万人余が犠牲になった沖縄戦が、事実上終結した日とされる。戦後沖縄の原点となるこの日に、戦争と平和について考えたみたい。

 きのう午後、県議会は、文部科学省の高校教科書検定で沖縄戦の「集団自決」への日本軍の強制などの記述が修正・削除された問題で、検定意見の撤回を求める「意見書」案を、全会一致で可決した。

 「慰霊の日の前に、可決されて本当によかった」と、安堵(あんど)の声が上がったのは、直前まで揺れた県議会の対応があった。

 「軍命の有無が検証されていない」との声が、県議の中から出て、全会一致どころか、決議自体が危ぶまれていた。

 県議会の内輪もめをよそに、県内四十一市町村中、三十六市町村議会が検定意見撤回を求める意見書を可決している。二十八日までには全議会が可決の見込みだ。

改ざんに手を貸す政府

 県議会は意見書で「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍の関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実」と指摘し、「今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものである」と強く批判している。

 県議会の意見書可決で、名実ともに県民世論は「検定意見の撤回」の要求を政府に突きつけた。

 だが、政府の壁は依然として厚い。意見書への見解を求められた久間章生防衛相は二十二日、「防衛省は日本軍のことを引き継いだ訳でなく、防衛省が答える話ではない」と、どこ吹く風だ。軍命の有無にも「そんな昔のことは私は知りません」と、はねつけている。

 久間防衛相は、自衛隊と「日本軍」は異なる。そう言いたいのであろうか。だが、自衛隊はまぎれもなく「日本の軍隊」である。日本軍と違うと強調することで、過去の日本軍の犯した過ちを、忘れようとしている。歴史に学ばない軍の責任者は、また過ちを繰り返しかねない。見識を問いたい。

 十五年ほど前、東京で沖縄戦を指揮した第三二軍の高官・神直道航空参謀に会った。なぜ、住民を巻き添えにしたのか。なぜ軍は住民を守らなかったのか。その問いに「軍隊は敵のせん滅と戦争遂行が役目。住民を守るという命令は無かった」と、淡々と語った。

 「軍は民を守らない」。沖縄戦で生き残った多くの県民が経験で学んだ教訓である。

 戦後六十二年を経て、ことし五月、沖縄では大砲を備えた海上自衛隊の掃海母艦が、米軍基地建設の支援のため、沖縄に派遣された。国民を守るべき自衛隊は、基地建設に反対する市民と対峙(たいじ)し、「民を威圧する行為」との批判を受けた。

体験者の声を聞こう

 自衛隊情報保全隊による「国民監視」の実態も明らかになった。 「軍は民を守らない」との沖縄戦が残した教訓を超える「軍の論理」がそこにある。

 沖縄戦は遠い昔の話ではない。山積する戦後処理問題は、戦争の傷がいまだ癒えない沖縄の現実を冗舌なまでに物語っている。

 沖縄戦での直接の犠牲者のうち、ことし三月末までに十八万三千九百三十五柱が収集された。しかし、四千柱を超える遺骨が、地中深く、あるいは野ざらしになり、収集を待っている。

 県内では二〇〇六年度だけでも八百七十六件もの不発弾処理が行われている。だが、毎年三十?を超える処理を続けても、今なお地中には二千?を超える不発弾が残る。

 一方で、遺族年金の受給者はこの十年で九千五人(一九九六年)から約四千人(〇六年)と半減している。沖繩戦の実相を知り、戦争体験を語り継いできた「語り部」たちがこの世を去っていく。

 「歴史の目撃者」たちが少なくなり、新たな歴史観による教科書の書き換えが進む。教科書検定問題で「集団自決」での軍命の有無を争点にしているが、本質はまぎれもなく存在する政府の開戦責任も含めた「戦争責任」である。

 歴史の見直しを理由に、政府に都合のいい教科書を書き上げることを考える前に、歴史に何を学ぶかを考えるべきであろう。

 沖縄には、文科省の検定を受けない゛生きた教科書゛たちが、まだまだ健在だ。沖縄戦の体験を直接聞ける。慰霊の日を、戦争と平和を考え、歴史と向き合う節目の日としたい。

 

 

(6/23 9:49)

 

 

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-24846-storytopic-11.html

 

 

沖縄タイムス 関連記事、琉球新報 社説(6月22日)

2007年6月22日(金) 朝刊 1面

 

県教育長、国に撤回要求/「集団自決」修正

 

 【東京】県の仲村守和教育長は二十一日、文部科学省に布村幸彦審議官を訪ね、二〇〇八年度から使用する高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」の記述から軍の関与が削除された同省の教科書検定について、「遺憾である」と指摘し、検定意見の撤回と記述の回復を求めた。布村審議官は、教科書を審査する「教科用図書検定調査審議会」に撤回を働き掛けることはないとする伊吹文明文科相の方針を示した上で、「県民感情や県の現状を審議会委員に伝える」と述べるにとどめた。

 

 

 県教育長による今回の申し入れは異例。仲村教育長によると、同省が「教科用図書検定調査審議会」に対し、検定意見と同一内容の「調査意見書」を提出していたことについて、仲井真弘多知事から検定への影響の有無を確認するよう指示を受けた申し入れという。

 

 

 布村審議官は「調査意見書」について「(検定の)内容には口出ししていない。審議会の中立性があり、ラインが違う」などと述べ、検定への影響を否定したという。

 

 

 一方、仲村教育長は、教科書検定で住民虐殺が問題となった一九八四年、当時の森喜朗文部相の国会答弁などをきっかけに検定が撤回された例を指摘。

 

 

 これに対し、布村審議官は「伊吹文科相のスタンスは、政治家として審議会の意見に口出ししないというもので、そういうスタンスで通していく。大臣が配慮するという発言はないだろう。政治家は検討内容にかかわらない。教育的、学術的判断だ」と語ったという。

 

 

 「集団自決」に対する認識については「軍の関与の下に集団自決があったが、渡嘉敷島、座間味島については分からない。科学的に検証する必要がある」と述べたという。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706221300_02.html

 

 

 

2007年6月22日(金) 朝刊 27面

 

「集団自決」直後 映像に/座間味上陸の米軍撮影

 

場所特定は初 真相解明に期待

 

 

 沖縄戦時下で、日本軍の軍命・誘導・強制で起きた「集団自決(強制集団死)」直後の映像が残っていることが二十一日までに分かった。座間味村で六十七人が犠牲となった「産業組合壕」を、米軍が上陸後に撮影したとみられる。これまで「集団自決」とされる写真はあったが場所が分からなかった。場所が特定された「集団自決」の映像は初めて。研究者は「聞いたことがない。映像を分析することで事実の解明、継承につながるのではないか」と見る。沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会保有フィルムの中に収録されていた。(編集委員・謝花直美)

 

 

 フィルムでは、二人が倒れている産業組合壕の入り口と、遺体が二カット数秒で記録されている。映像は、慶良間諸島を攻撃した米軍の歩兵第七十七師団が座間味島を撮影した一連のフィルムの中にあった。複数の同村住民や関係者が確認した。

 

 

 同村座間味地区の段々畑の斜面に作られた壕には、食糧や役場の重要書類が保管されていた。米軍上陸前日の一九四五年三月二十六日に、村三役や役場職員、その家族が「集団自決」に追い詰められ六十七人が亡くなった。

 

 

 米軍上陸後から、遺体収容が二カ月後に許可されるまで、住民は壕に近寄れず、「集団自決」の詳しい状況は分かっていない。

 

 

 この壕で家族五人を含め親類二十人余りを亡くした宮里育江さん(82)=座間味村=は「初めて見る写真だ」と声を詰まらせた。四、五人の住民とともに女性でただ一人、遺体収容をした。落盤した土を取り除き、壕内に入った。「怖さもなく、においも感じなかった。探し続けた家族に早く会いたい一心だった」と当時を振り返った。今は壕周辺には木々が生い茂り、供養のために行くこともままならない。「ただ懐かしい思い」と写真をじっと見詰めた。

 

 

 沖縄戦研究の吉浜忍沖縄国際大学教授は「『集団自決』に関しては場所が特定された初めての映像だ。これまで聞いたことがない」と指摘する。「『集団自決』があったことを実際示す資料だ。

 

 

詳細が分からないこの壕の『集団自決』の謎を解くきっかけになるのではないか」と「集団自決」の教科書記述で、軍関与を削除する動きがある中、真相の解明に期待する。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706221300_03.html

 

 

 

2007年6月22日(金) 朝刊 1面

 

超党派で強権に対抗/研究者ら50人が「沖縄宣言」

 

 研究者、芸術家ら幅広い層の五十人で構成する「超党派有志の会」は二十一日、連名で「復帰35年・沖縄宣言」を発表した。県庁で記者会見した元社大党委員長の仲本安一氏(72)らは、政府の沖縄に対する強権姿勢が露骨になっているとして、「超党派で立ち上がる時だ」と訴えた。

 

 

 宣言は自衛艦を動員した米軍再編の強行や「集団自決」をめぐる教科書検定を挙げ、「沖縄住民をないがしろにする動きが顕著」と指摘。政府に「これ以上犠牲と差別を強いないよう」求めるとともに、「すべての沖縄住民が平和と自治と自立に向けて大同団結」することを呼び掛けた。

 

 

 仲本氏は「戦前のきな臭さを体感として感じる。県民には半分あきらめがあるが、政府の行き過ぎに行動を起こさなければ、いつまでも植民地だ」と強調した。

 

 

 ほかに琉大教授の高良鉄美氏(53)、元連合沖縄会長の玉城清氏(66)、元沖縄タイムス編集局長の由井晶子氏(73)、前琉球新報社長の宮里昭也氏(70)の四人が同席。「自治を取り戻す運動の輪を広げたい」などと語った。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706221300_04.html

 

 

 

2007年6月22日(金) 朝刊 2面

 

検定意見書 県議会きょう可決

 

 県議会(仲里利信議長)は二十二日午前、本会議を開き、高校教科書の沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」の記述から軍の関与を削除した文部科学省の教科書検定の撤回、記述の回復を求める意見書案を採決する。全会一致で可決される見込み。

 

 

 本会議終了後、県議会代表らが上京し、安倍晋三首相や伊吹文明文部科学相らに要請行動を展開する。

 

 

 意見書案は「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による関与なしには起こり得なかったことは紛れもない事実」と指摘。

 

 

 「今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものだ」とし、「一般県民を含む多くの尊い生命を失い、筆舌に尽くし難い犠牲を強いられた県民にとって、到底容認できない」として、検定意見の撤回、記述の回復を要請している。

 

 

 同問題に対する意見書案は、文教厚生委員会(前島明男委員長)が十九日、全会一致で可決し、「慰霊の日」前日の二十二日の本会議採決を議会運営委員会に要請していた。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706221300_05.html

 

 

 

2007年6月22日(金) 朝刊 26面

 

土壌入れ替え本格化/嘉手納の燃料流出現場

 

 【嘉手納】米軍嘉手納基地内で大量のジェット燃料が流出した問題で、二十一日午前から土壌の入れ替え作業が本格的に始まった。数人の作業員とともに、パワーショベルがタンクを覆っている土や芝生を掘り起こし、赤土がむき出しになっている状況が確認された。

 

 

 同基地によると、取り除いた土壌は基地内の舗装された場所に広げ、土壌中の油分を蒸発させる「ランドファーミング法」で浄化する。

 

 

 同基地は「地下約一・五メートルより深い部分に燃料は浸透しておらず地下水より上部に限定されている」などと説明。「周辺地域に危険を及ぼす可能性はあり得ない」としている。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706221300_07.html

 

 

 

琉球新報 社説

 

教育3法成立 見切り発車は現場混乱に

 

 昨年12月の教育基本法の60年ぶりの改正を受け20日、教育改革関連3法が参院本会議で可決、成立した。教員免許更新制の導入や教育委員会への国の関与の強化など、全国約110万人の教員、学校現場に大きな影響を与える。

 3法は、学校教育の目標などを定めた学校教育法、国と地方のかかわりを規定した地方教育行政法、新たに免許更新を盛り込んだ教員免許法だ。

 安倍晋三首相は「戦後レジーム(体制)からの脱却」の一環として「教育再生」を最重要課題に掲げている。教育は「100年の大計」だ。だが国会審議では、与野党双方が求めた教育関連予算や教職員定数の拡充、免許更新制の実効性への疑念など、論議が不十分なまま採決となった。「現場無視だ」「参院選の目玉づくり」「国会の会期日程をにらんでの政治思惑優先の採決」との批判も当然だ。

 改正3法の中身をみると、学校教育法では義務教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度」や公共の精神、規範意識の養成を明記している。「歴史について正しい理解に導き」との表現もある。正しい歴史は国が判断するのだろうか。沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定での日本軍の関与が修正・削除されたことに対し、県民から「沖縄戦の実相をゆがめるもの」として、撤回要求が出されている。国の見方や価値判断の押し付けには危うさが伴う。

 その上、地方教育行政法では、教育委員会への文部科学相の是正指示、要求権を盛り込み、改正教育基本法では自治体の教育基本計画作りで政府の基本計画を参考にするよう求めている。教育への政府の影響力をかなり強化している。

 国の関与が強まれば、教育は良くなるものでもないだろう。むしろ地域の特性や学校の創意工夫が失われないか懸念する。

 教育改革は国民に「愛国心」を強制することではない。愛される国造り、そのための教育者と人材育成が基本である。十分な論議も尽くさず、見切り発車での教育3法改正は将来に禍根を残しかねない。

 

 

(6/22 9:53)

 

 

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-24817-storytopic-11.html

 

 

 

2007年6月22日(金) 夕刊 1・7面

 

県議会「集団自決」意見書可決

 

本会議、全会一致

 

 

 県議会(仲里利信議長)は二十二日午前、本会議を開き、高校歴史教科書の沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」の記述から軍の関与を削除した文部科学省の教科書検定の撤回、記述の回復を求める意見書案を全会一致で可決した。本会議終了後、県議会代表らが上京し、文部科学省などに要請行動を展開する。

 

 

 午前十時に開会した本会議は冒頭で、同意見書案を全会一致で可決した文教厚生委員会の前島明男委員長が文案を読み上げ、提案理由を説明した。その後、全会一致で可決した。

 

 

 意見書は「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による関与なしには起こりえなかったことは紛れもない事実」と指摘。

 

 

 「今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものだ」とし、「一般県民を含む多くの尊い生命を失い、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、到底容認できない」として、検定意見の撤回、記述の回復を求めている。

 

 

 同問題に対する意見書案をめぐり、野党側は定例会冒頭での採決を与党側に要請した。

 

 

 だが、県議会最大会派の自民党内に反対意見が表面化。同党内の意見調整が続いていたが、賛成で意見がまとまった。

 

 

 与野党で意見書案の文案を調整し、文教厚生委員会が十九日、全会一致で可決。「慰霊の日」前日の二十二日の本会議採決を要請していた。

 

 

 県内では二十一日までに、四十一市町村のうち、三十七の議会が教科書検定意見に反対する意見書を可決している。

 

 

     ◇     ◇     ◇     

 

 

県民の総意 国へ

 

 

 高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」の記述から「軍命」を削除した文部科学省の教科書検定問題で、県議会は二十二日午前、全会一致で意見書を可決し、県民の強い意志を示した。県議会の要請団は早速、意見書を携え上京した。検定意見の撤回と記述の回復を求めてきた県民の運動に大きな弾みがつくことになる。

 

 

 傍聴席に駆けつけ、意見書が可決される様子をじっと見守っていた高教組の松田寛委員長は「慰霊の日の前に可決されたことをまず評価したい」と語り「文科省へ要請に向かう皆さんには、県民の声を背に県議会として記述の復活をしっかりと申し入れてほしい」と話した。

 

 

 元高校教諭の宮里尚安さん(65)は「六十年余りたった沖縄戦から『軍命』を削るのは許せない。議員団は強く要請し、ぜひ撤回させてほしい」と期待を込めた。

 

 

 「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」事務局長の山口剛史琉大准教授は可決の知らせに「明日来県する安倍首相にも、県民の意志をきちんと示せる効果がある」と評価。加えて「せっかく一致点を見たのだから、歴史認識を正しく伝える役割を発揮してほしい」と要望した。

 

 

 県議会文教厚生委員会メンバーら七人は二十二日午前、要請行動のため那覇空港から上京した。文科省では、布村幸彦審議官が対応することが固まっている。

 

 

 伊吹文明文科相への面談を求めていた前島明男委員長(公明)は出発前、「県民代表として大臣に会いたかったが、国会開会中でもある。記述の削除に憤りを持ち、強く検定撤回を訴えたい」と話した。

 

 

 共に上京する比嘉京子県議(社大)は「歴史の事実は一つで、変えられない。県民の意志をしっかりと示したい」と力強く語った。

 

 

 自民の伊波常洋政調会長は「教科書問題は、与野党を超えて可決された画期的なこと。意見書の通りに抗議を含め県民の意志を伝えていきたい」とした。

 

 

 要請行動ではこのほか内閣府沖縄担当部局や県関係国会議員に面会し、同日中に帰任する。

 

 

意見書全文

 

 

 去る3月30日、文部科学省は、平成20年度から使用される高等学校教科書の検定結果を公表したが、沖縄戦における「集団自決」の記述について、「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」との検定意見を付し、日本軍による命令・強制・誘導等の表現を削除・修正させている。

 

 

 その理由として同省は、「日本軍の命令があったか明らかではない」ことや、「最近の研究成果で軍命はなかったという説がある」ことなどを挙げているが、沖縄戦における「集団自決」が、日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものである。

 

 

 また、去る大戦で国内唯一の地上戦を体験し、一般県民を含む多くのとうとい生命を失い、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、今回の削除・修正は到底容認できるものではない。

 

 

 よって、本県議会は、沖縄戦の実相を正しく伝えるとともに、悲惨な戦争を再び起こさないようにするためにも、今回の検定意見が撤回され、同記述の回復が速やかに行われるよう強く要請する。

 

 

 以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。

 

 

 平成19年6月22日

 

 

 沖縄県議会

 

 

 衆議院議長 参議院議長 内閣総理大臣 文部科学大臣 沖縄及び北方対策担当大臣あて

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706221700_01.html

 

 

 

 

 

2007年6月22日(金) 夕刊 7面

 

170人の戦争体験談 子らへ

 

 「妹が頭に破片を受けて即死でした。どうすることもできず、日が暮れるのを待ち、母と二人でなきがらに土をかぶせてやるだけでした」。県内から百七十人が戦争体験を記した「子どもにおくる本 沖縄は戦場だった」(鈴木喜代春他編、らくだ出版)が出版され話題になっている。一人一ページで約三百字とコンパクトだが、証言者本人の一番訴えたいことが分かりやすい言葉でつづられている。子どもの目を通して語られた一つ一つの体験の積み重ねが沖縄戦を描き出している。

 

 

 糸満市史編集委員会委員長平良宗潤さん(66)と元同編集委員の喜納勝代さん(68)が中心となって県内で呼び掛け、戦争体験者から原稿を集めた。三百字という制限に「沖縄戦は語りきれない」と断る人もいたが、約百七十人から原稿が集まった。

 

 

 本島南部だけでなく中北部や離島、サイパンやフィリピンなどの体験もある。内容も、空襲や疎開、避難、地上戦、捕虜、住民虐殺、「集団自決」などあらゆる体験が含まれている。

 

 

 喜納さんは「聞き書きもあるが、初めて文章を書くような人が一生懸命書いた。完成してうれしい」と喜ぶ。平良さんは「初めて聞くような証言があった。この本をきっかけに学校や家庭で戦争の話を伝えてほしい」と話した。すでに読み聞かせなどに取り入れている小学校もあるという。

 

 

 同書は千二百円(税別)で販売されている。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706221700_02.html

 

 

2007年6月22日(金) 夕刊 6面

 

「沖縄戦忘れない」琉球魂ライブ あす那覇で開催

 

 「慰霊の日」の二十三日、音楽を通して平和のメッセージを発信しようと、沖縄、東京、千葉、大阪の四カ所でライブイベント「琉球魂6・23」が開かれる。県内外で活躍する十数組のミュージシャンが出演の予定。ライブを企画した上江洲修さん(28)=東京在=は「沖縄戦が終わった日を忘れず、『争い』を繰り返さないためにメッセージを届けたい」と思いを込める。

 

 

 昨年に続いて二度目の開催。趣旨への賛同者が増え、関連イベントも企画されるなど広がりを見せている。

 

 

 沖縄ライブに出演する「シャオロン・トゥ・ザ・スカイ」のトウヤマ魂タカフミさん(33)は「なぜ『慰霊の日』があるのかとか、若い世代が考えるきっかけになれば」と話す。ジョニー宜野湾さん(49)も「音楽を一緒に楽しみながら、その中から何かを感じ取ってもらえれば」と呼び掛ける。

 

 

 「琉球魂」の沖縄ライブは二十三日午後八時半から、那覇市松尾の「ライブ@クラブ ムンド」(那覇OPA七階)で。ゲストトークとして、平和市民連絡会の平良夏芽さんらを迎える。入場は前売り二千円、当日二千五百円。問い合わせはムンド、電話098(861)9907。「琉球魂」のホームページはhttp://ryukyudamasii.com/

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706221700_03.html