沖縄タイムス 関連記事(6月23日夕刊、24日朝刊)

2007年6月23日(土) 夕刊 1面

 

戦の記憶 次代へ 慰霊の日

 

追悼式に4476人参列

 

 

 「慰霊の日」の二十三日、県主催の沖縄全戦没者追悼式が、糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた。教科書検定で「集団自決(強制集団死)」への日本軍関与が削除され、国への反発が高まる中、式には県内外から四千四百七十六人の遺族らが参列、六十二年前の悲惨な戦争で亡くなった二十万人余のみ霊に祈りをささげた。安倍晋三首相が、初めて参列。仲井真弘多知事が「世界の人々が安心して暮らせる平和な時代を築くために力強く努力する」と平和宣言した。

 

 

 追悼のことばで県遺族連合会の仲宗根義尚会長は「集団自決」問題に触れ、「『集団自決』はわが国唯一住民を巻き込んだ地上戦があった故に、惹起した。生き残りや多くの方々の証言で紛れもない真実である」と述べた。

 

 

 仲井真弘多知事は、平和宣言で同問題に触れなかった。

 

 

 沖縄戦をめぐっては、今年の高校歴史教科書検定で「集団自決」の記述から日本軍の関与が文部科学省の検定により削除されたことから、県議会が検定意見の撤回を求める意見書を全会一致で可決。県内四十一市町村のうち三十六議会が既に可決し、残る五議会も可決の見通しで、国に対する反発が全県的な広がりを見せている。

 

 

 会場では、正午の時報に合わせ、参列者は目を閉じて頭を下げ、黙とう。地上戦に巻き込まれ、犠牲になった人々に思いをはせ、鎮魂と平和を祈った。

 

 

 追悼式が今年五十回の節目を迎えたのを機に、祭壇が従来の菊花から、三百四十本の紙筒を芝生上に配置しサトウキビ畑をイメージした新しいデザインに一新した。

 

 

 扇千景参議院議長、高市早苗沖縄担当相らも参列した。

 

 

 仲井真知事は平和宣言で「沖縄戦の真実の姿を次の世代に伝え、教訓を生かすことを胸に刻み、それぞれの立場で平和実現のために日々努力することが求められている」と訴えた。

 

 

 沖縄尚学高校附属中学二年の匹田崇一朗君が、「集団自決」せずに生きた祖父を題材にした自作の「写真の中の少年」を朗読。「あの忌まわしい戦争の話を 風化させることなく 語り継いでいこう」と呼び掛けた。

 

 

 今年新たに二百三十五人が刻銘され、総数が二十四万六百九人となった「平和の礎」には、朝早くから遺族らが訪れ、名前を指でなぞったり、手を合わせたりする姿が見られた。

 

 

[ことば]

 

 

 沖縄戦 米軍は1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日には沖縄本島に上陸し、「鉄の暴風」と呼ばれる激しい艦砲射撃や空襲で日本軍を圧倒。地上戦に住民も巻き込まれ、各地で日本軍による住民殺害事件や、「集団自決」も起きた。日本軍は首里の司令部を放棄し、本島南部へ撤退。6月23日に司令官が自決し、組織的な戦闘は終わったとされる。

 

 

     ◇     ◇     ◇     

 

 

刻銘なぞり悲劇語る遺族/「安らかに眠らせて」

 

 

 慰霊の日の二十三日、糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎」や「魂魄の塔」などには遺族らが続々と詰め掛け、鎮魂の祈りをささげた。文部科学省の教科書検定で、高校の歴史教科書から「集団自決(強制集団死)」への日本軍関与の記述が削られた「六十二年目」の夏。肌を刺すような酷暑の中、高齢の体験者は真実の継承を求めた。戦争体験のない若い世代からも、疑問や怒りの声が相次いだ。

 

 

 渡嘉敷島の「集団自決」体験者、吉川嘉勝さん(68)は、被害者の名が並ぶ礎の前に長い間立ち続けた。「『集団自決』への軍関与を削らせないというのは県民の総意。安倍晋三首相には沖縄戦の実相を見て、県民の怒りを肌で感じて帰ってほしい」と望んだ。

 

 

 渡嘉敷村の女性(76)は、「集団自決」で死亡したいとこ家族の刻銘をなぞりながら、二人の孫に島での悲劇を語った。

 

 

 米軍が来たという住民の叫びでガマから逃げ出し、「集団自決」が起きた北山にも足を踏み入れた。五十代の父は逃亡中に砲弾の破片に頭を打ち抜かれ死亡した。「私は悲劇を子や孫に語り継ぐ。いつか戦争をなくしてほしい」と語った。

 

 

 宜野湾市の我如古盛徳さん(71)は、妻子や孫計七人とともに礎に手を合わせた。沖縄戦中に南部に避難したが、離れ離れになった父と兄弟五人を摩文仁の丘で失った。

 

 

 戦後六十二年を経ても、沖縄戦で受けた悲しみは「いつも心の中にある」と言う。「半世紀以上を経て、なぜ『集団自決』は日本軍のせいではなかったと言いだすのか。どうか、父や兄弟を安らかに眠らせておいてほしい」と声を震わせた。

 

 

 目が不自由で参列できない母に代わり、今年初めて伯父の名前が刻まれた礎を訪れた那覇市の平良和子さん(44)と川満敏子さん(43)の姉妹。「いつか必ず訪れたいと思っていたが、今年は伯父が生きていれば八十八歳の米寿に当たる。伯父が呼んだかも」と話す。

 

 

 平良さんの娘は中学生。最近よく教科書問題についてこう尋ねてくる。「どうして国は軍命がなかったとうそをつくの」「日本はいつか戦争をしてしまうのではないか。怖い」

 

 

 娘には「大丈夫、戦争は起こらないよ」と諭すが、「大人の私だって憲法九条を改正する動きなど今の状況を見ると不安」と表情を曇らせた。

 

 

 沖縄市の会社員知念和雄さん(58)は、父方の親類が刻銘された礎に手を合わせた。毎年、一男二女の子どもたちと一緒に訪れる。「たくさんの人が命を落とした重みを、次代に受け継いでいかないといけない」と力を込めた。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231700_01.html

 

 

2007年6月23日(土) 夕刊 1面

 

「国際平和 誠実に希求」/安倍首相が式に初参列

 

 安倍晋三首相は二十三日、沖縄全戦没者追悼式に参列し、「先の大戦で、沖縄は国内最大の地上戦の場となった。県民の平穏な暮らしはにわかに修羅の巷と変じ、二十万人もの尊い命が失われた。学童疎開中の対馬丸の遭難等の惨禍も起きた。正に筆舌に尽くしがたい塗炭の苦難を経験されたことを大きな悲しみとする」と哀悼の言葉を述べた。

 

 

 その上で「再び戦争の災禍を繰り返してはならない。正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、その確立に向け、不断の努力を行うことをあらためてお誓い申し上げる」と不戦を誓った。

 

 

 また、安倍首相は「米軍施設の集中に伴う沖縄の負担を確実に軽減しなければならない」と基地の過重負担を認めつつ、軽減の必要性を強調。「県民の切実な声に耳を傾け、在日米軍の再編を着実に推進していく」と述べ、日米で合意した米軍再編による負担軽減を強調した。

 

 

 本土復帰三十五周年を迎えた今年を「沖縄振興計画の後期五年の初年度」とし、「活力ある自立型経済の構築と豊かな県民生活の実現に向けて全力で取り組む」と述べ、沖縄振興を推進する姿勢を示した。

 

 

 安倍首相は追悼式に先立ち、糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある国立戦没者墓苑を訪れ、献花した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231700_02.html

 

 

2007年6月23日(土) 夕刊 4面

 

自衛官ら黎明之塔参拝

 

 陸上自衛隊第一混成団の武内誠一団長らが二十三日早朝、第三二軍司令官の牛島満中将らを祭った糸満市摩文仁の黎明之塔を「私的参拝」した。制服姿で約十五人が連れ立ち、線香を手向けた。「殉国死の美化だ」と抗議する市民団体のメンバーと口論になった。

 

 

 陸自の集団参拝は四年連続で、通算五回目。武内団長は抗議の声について「いろいろな考え方がある」と述べるにとどめた。

 

 

 一九七六年、陸自が初めて慰霊祭を開いた時の団長、桑江良逢さん(85)も参加。「霊を慰めるのは県民、国民として当然。非常に結構なことだ」と話した。

 

 

 現場では、市民団体メンバーが「制服での参拝は組織としての行動だ」「牛島司令官は住民を見殺しにした」などと抗議。自衛官の一人は「日本軍を美化してはいない」と反論した。

 

 

 沖縄平和ネットワークの村上有慶共同代表は「軍隊として『英霊』を賛美する意識は変わっていない」と批判した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231700_03.html

 

 

2007年6月23日(土) 夕刊 4面

 

平和の尊さ かみしめ/9キロの道のり800人が行進

 

 【糸満】第四十六回平和祈願慰霊大行進(主催・県遺族連合会、日本遺族会)が二十三日午前、糸満市潮崎の糸満市役所隣から出発した。じりじりと照りつける太陽の下、糸満小児童ら小学生から大人まで約八百人が、平和の尊さをかみしめながら追悼式会場の平和祈念公園を目指した。

 

 

 「平和慰霊行進」と書かれたそろいのゼッケンを胸にした県内外からの参加者。九キロの道のりを額から流れる大粒の汗をぬぐいながら歩いた。

 

 

 毎年、「慰霊の日」が近づくと、胸の詰まる思いがするという神谷吉信さん(72)=南風原町=は沖縄戦当時、学童疎開で熊本県に渡っていたが、沖縄に残った祖父母や両親、きょうだい八人を亡くした。「終戦後、沖縄に帰ってきた時の寂しい気持ちを思い出す。家族は南部のどこで死んだかも分からない。僕らみたいな遺児をこれ以上、残してはいけない」と静かに語った。

 

 

 行進に先立ち開かれた平和祈願大会では、「昨今の平和に逆行するもろもろの行為に反対し、世界の恒久平和実現に向けて運動することを誓う」というアピール文が読み上げられた。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231700_04.html

 

 

2007年6月24日(日) 朝刊 1面

 

「真実」刻み継ぐ/慰霊の日

 

遺族ら歴史歪曲危ぐ

 

 

 慰霊の日の二十三日、県内各地で沖縄戦の犠牲者を悼む慰霊祭が行われ、六十二年を経て癒えない悲しみと痛み、惨禍を繰り返さない非戦の誓いを新たにした。高校歴史教科書の検定で「集団自決(強制集団死)」への日本軍関与が削除されたことに、遺族や学徒同窓会などからは、歴史を書き換えようとする国への怒りの声や次代への沖縄戦の継承を訴える声が相次いだ。

 

 

 糸満市摩文仁の平和祈念公園で行われた県主催の沖縄全戦没者追悼式で、県遺族連合会の仲宗根義尚会長は「集団自決」問題に触れ、「『集団自決』は、我が国唯一住民を巻き込んだ地上戦があった故に惹起した。生き残りや多くの方々の証言で紛れもない真実である」と述べた。

 

 

 那覇市若狭の旭ケ丘公園では、遭難船舶の犠牲者の名を刻んだ「刻銘板」の除幕式が開かれた。主催は戦時遭難船舶遺族会。二十年前に建立された「海鳴りの像」の台座に赤城丸、嘉義丸、湖南丸、台中丸、開城丸の犠牲者千百三十八人の名が新たに刻まれ、計千五百四十七人の名が並んだ。

 

 

 式には、約二百五十人の遺族らが参列。沖縄市の吉村哲男さん(78)は「父の名が刻まれるので、五人のきょうだいと一緒に来た。名前を見つけたときは、再会したような気持ちになった」と話した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706241300_01.html

 

 

2007年6月24日(日) 朝刊 27面

 

「集団自決」証言次々

 

沖縄戦の実相が揺さぶられる中で迎えた慰霊の日。二十三日、糸満市の「平和の礎」にある座間味、渡嘉敷両村の刻銘碑を背に、「集団自決(強制集団死)」体験者たちが消せない記憶を語った。家族も聞いたことがない初めての証言。亡くした家族への誓い。高校の歴史教科書から「集団自決」への日本軍の関与が削られた文部科学省の教科書検定は、逆に危機感を生み、重い口を開かせた。各地の慰霊祭でも、せきを切ったような怒りの声。若い世代は、そんなお年寄りたちの姿をまっすぐに見つめた。

 

 

     ◇     ◇     ◇     

 

 

「おじが刃物」首に傷/座間味出身 松山さん

 

 

 松山茂子さん(80)=那覇市=の首の左側には、よく見ると白い筋が残っている。座間味島の「集団自決」でカミソリを当てたあとだ。一緒にいたおじが「どうせみんな死ぬんだから、あんたから」と、首筋にカミソリを当てた。しかし松山さんが、泣いて激しく嫌がったので、おじは途中でやめたという。

 

 

 久しぶりに訪れた「礎」の前で、初めて「自決」を語った。記者たちに急に質問され、心の準備ができていなかったからか、答えが混乱する。それでも、長時間答え続けた。

 

 

 歴史教科書の検定問題の話になると「許せません。子どもたちに、戦争は、きれい事でなく、怖いものだとちゃんと教えないと駄目だ」と語気を強めた。

 

 

 何となく母と「自決」の関係を感じていた娘たちも、初めて聞く具体的な話に驚き、記者と一緒に聞き入った。松山さんは「あんたたち記者が聞くから、話したんだよ」と笑ったが、娘たちは、「座間味の知人が新聞やテレビで証言しているのを見て、母も黙っておれなかったのだろう」と思う。「母の半生をまとめて残そう」。姉妹でそう相談している。

 

 

死地脱出「川 血染め」/渡嘉敷出身 高嶺さん

 

 

 渡嘉敷島出身の高嶺繁昌さん(68)=糸満市=は沖縄戦当時、六歳だった。「集団自決」の現場となった「第一玉砕場」に集められ、親戚十数人と座り込んだ。そこへ防衛隊員のおじが来た。「ここは死に場所だ。逃げろ」と教えられ、死地を脱した。

 

 

 皆で川の下流へ逃げた。「流れが血で真っ赤に染まったのを鮮明に覚えている。血だらけの人が歩いてきた」。生死を分けたのは「情報」の差だった。

 

 

 教科書検定で、またも恣意的な情報が史実として伝わることに危機感を募らせる。「真実は一つ。右も左もない。政府はなぜへし曲げるのか」と強い口調になった。

 

 

 この日、礎に刻まれた父や妹に語り掛けた。「大丈夫、心配するな。生き残っている私たちが真実を守る。これだけ証言する人がいるんだから、いつか本土政府も謝ってくれるよ」

 

 

沖縄戦学びたい/首里高校 平良さん

 

 

 炎天下の摩文仁の丘で礎に手を合わせる人々の姿をビデオカメラに収めたのは首里高校二年の平良紳さん(16)=写真右・那覇市首里石嶺町=だ。学校で沖縄戦についての学習を重ねるにつれ、「自分で何かできないか」と考え、「多くの人に伝える映像作品をつくろう」と思い立った。二十三日の平和祈念公園をクランクインの場所に選んだ。

 

 

 「米国や日本、誰が悪者かなのではなく、戦争そのものが悪いのでは」と考え込む。自分なりに沖縄戦を学ぶとともに、ほかの人にも沖縄戦について考えてもらうきっかけをつくれないかとも。

 

 

 もともと、映画好きでいつかは自分でも撮りたいと思っていた。「沖縄戦をめぐる人々の気持ちをドキュメンタリー映画にして多くの人に見てほしい」。夢と問題意識が結び付いた。親類から借りたビデオカメラを片手に、撮影に飛び出した。

 

 

 慰霊の日の摩文仁の丘の光景を見るのは初めて。多くの人が手を合わせる厳かな雰囲気に、「カメラを向けていいのか」と気後れした。だが、思い切って撮影を始めると人々は温かかった。

 

 

 これから、同級生や観光客ら同世代の若者に沖縄戦について感じることをインタビューする予定だ。夏休みに撮影を重ね、全国の高校生が撮影した映画を競う「映画甲子園」への応募を目指す。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706241300_02.html

 

 

2007年6月24日(日) 朝刊 1面

 

米艦船、きょう与那国入港/外間町長、再度「反対」

 

 米海軍佐世保基地(長崎県)所属の掃海艦ガーディアン(排水量一,三六九トン)とパトリオット(同一、二五〇トン)が二十四日、与那国町の祖納港に初入港する。県内の民間港湾への米艦船の寄港は極めて異例。米掃海艦の与那国寄港をめぐっては、外間守吉町長が「反対」を表明、県が使用自粛を日米に申し入れている。二十三日にはケビン・メア在沖米国総領事や外務省沖縄事務所の倉光秀彰副所長らが与那国入りし、艦船の受け入れに向け、関係者らと調整した。

 

 

 外間町長は同日、「寄港に反対する意思に変わりはない。行事などにも一切協力しない」と述べ、あらためて米艦船入港に反対する考えを示した。

 

 

 米海軍は今回の寄港目的を「乗組員の休養と友好親善」と通知しているが、メア総領事は沖縄タイムス社のインタビューに「入港することでいろんな情報が入る。長らく入港していない港であれば、例えば海図に記載されている水深が正しいかなどを確認することになる」と話し、「調査」の側面も認めている。

 

 

 また、「この地域全体に米軍が日本の安全保障に対するコミットメントを果たす用意があることを示す意味合いもある」と台湾海峡情勢を見据えた先島全体の軍事戦略的な意義も示唆している。

 

 

 米艦船の民間港湾入港に際しては、米軍が「港湾の位置や状態」「燃料の調達方法」「医療施設や医者の英語能力」「給水、通信施設」「クラブ、バー、レストラン、ホテルの状態と値段」「寄港反対運動」など計五百項目以上にわたる詳細な調査報告書を作成していることを、共産党が一九九七年の参院決算委で明らかにしている。

 

 

 米総領事館によると、ガーディアンは二十四日午後一時、パトリオットは午後二時に祖納港へ入港。艦長らの記者会見や艦内の一般公開、夕食会を開く。二十五日は約百二十人の水兵が下船し、祖納港近くのナンタ浜での清掃活動や地元関係者とのバーベキューパーティーを開催。二十六日午前七時ごろに出港予定。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706241300_03.html

 

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