沖縄タイムス 関連記事・社説、琉球新報 社説(6月23日)

2007年6月23日(土) 朝刊 1面

 

文科省「関与」鮮明に 修正前提の審査求める

 

「集団自決」検定

 

 

 【東京】二〇〇八年度から使用される高校歴史教科書の検定で文部科学省が、教科書を審査する教科用図書検定調査審議会に提示した調査意見書の決裁資料に、教科書会社から提出された記述通りに検定の合否判定をせず、修正後に審査するよう求める具体的記述があることが二十二日、分かった。民主党の川内博史衆院議員(比例・九州ブロック)が入手した文科省の原義書(決裁書)で明らかになった。局長、審議官、課長、教科書調査官ら検定に関係する主要な事務方の決裁印があり、審議会への文科省側の「関与」があらためて浮き彫りになった。(吉田央)

 

 

 原義書は教科書調査官がまとめた調査意見書を、所管の初等中等教育局が決裁した内部資料。調査対象の教科書を提出した会社別に受理番号、教科、種目などが記されている。

 

 

 それぞれの教科書の「調査結果」の項は、「上記の申請図書(教科書)は、別紙調査意見書のとおり検定意見相当箇所がある」と指摘。

 

 

 その上で「合格又は不合格の判定を留保し、申請者(教科書会社)によって修正が行われた後に再度、審査する必要がある」と記述し、調査意見書に沿った検定意見を付すよう求めている。

 

 

 調査意見書は日本史教科書に対する指摘事項で、沖縄戦「集団自決」への軍関与を「沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現である」と記述。

 

 

 これとまったく同じ表現が、審議会での審議を経て教科書会社に示された検定意見書に記載された例があることが明らかになっている。

 

 

 伊吹文明文科相は国会で「文科省の役人も、私も、安倍総理も一言も(=口出し)できない仕組みで教科書の検定は行われている」と答弁しているが、調査意見書の作成段階で文科省が容喙「口出し」し、検定の方向性を決めていた構図が鮮明になっている。

 

 

 川内氏は「はんこ(決裁印)は文科省の意思として押されており、記述を変えさせた判断が文科省側にあったことは明らかだ」と指摘している。

 

 

 文科省初等中等教育局の山下和茂教科書課長は二十二日、沖縄タイムス社の取材に「これまで述べてきた通り調査意見書はあくまで審議会の参考資料で、審議会の決定を強制するものではない」と説明した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_01.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 1面

 

文科省、撤回を困難視

 

要請県議団「誠意感じられぬ」

 

 

 【東京】上京中の県議会文教厚生委員会の前島明男委員長ら七人は二十二日午後、文部科学省や内閣府沖縄担当部局、衆参両院議員会館などを訪れ、県議会が全会一致で可決した教科書検定の撤回を求める意見書を提出し、高校歴史教科書に沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への軍関与を明記するよう要請した。要請団によると、文科省の布村幸彦審議官は「教科用図書検定調査審議会が審議するもので、文科省は口を挟めない」などと述べ、検定撤回は困難との姿勢を崩さなかったという。

 

 

 文科省の回答に対し、前島委員長(公明党・県民会議)は記者団に「これまでと全然変化がなく、がっかりした」と失望感を表明。「記述を元に戻してほしいのは県民の総意だ。検定結果が撤回されるまで行動を続ける」と強調した。

 

 

 伊波常洋氏(自民)は「文科省には誠意が感じられない」と憤りを示した。前田政明氏(共産)は「体験者の証言が真実。検定後の記述こそ新たな誤解を招いている」と批判した。

 

 

 自民党「教育再生に関する特命委員会」の中山成彬委員長(元文科相)は「沖縄の問題は一緒にやっていきたい。共に頑張りましょう」と理解を示したという。内閣府の東良信府審議官は「私の出身の長崎県も戦争被害を受けており、沖縄県民と同じ気持ちだ」と述べたという。

 

 

 前島委員長は要請終了後、「集団自決」があった渡嘉敷・座間味両島の視察や、体験者の参考人招致などを委員会として検討する考えを示した。

 

 

 意見書は「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍による関与なしには起こり得なかったことは紛れもない事実」として、検定意見の撤回を求めている。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_02.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 31面

 

旧軍、手榴弾300万個発注/45年5月 米軍の北海道侵攻備え

 

製造担当男性証言「最後は自決」直感

 

 

 太平洋戦争末期の一九四五年五月ごろ、札幌市厚別区にあった旧陸軍の厚別弾薬庫で働いていた男性が、軍司令部から三百万発の手榴弾を製造するよう命令されたと証言した。戦局の悪化で、北海道内では当時、米軍侵攻に備えた水際作戦が立てられていた。製造の準備中に終戦を迎え、計画は実現しなかったが、男性は「手榴弾は道民に配られ、最後まで敵に抵抗した上で、いざというときは沖縄と同じように自決のために使うのだと直感した」と話している。(上原綾子)

 

 

 男性は、札幌市に隣接する江別市西野幌在住の寺崎清治さん(88)。弾薬庫勤務時は曹長で、弾薬や兵器の製造、管理などの技術責任者だった。

 

 

 命令されたのは、苫小牧沖など太平洋側からの米軍上陸が想定されていた四五年の五月か六月。北海道と樺太・千島の部隊を指揮した第五方面司令部の参謀長から、手榴弾二百万発を造るよう直接口頭で命じられ、さらに数日後に正式に届いた発注書には百万発増えて「三百万発」と記されていたという。

 

 

 札幌市によると、北海道陸軍の兵器補給廠と厚別弾薬庫は、四三年に北海道の北東に位置する米領アッツ島で旧日本軍が米軍と激戦を繰り広げ、ほぼ壊滅したのを機に、北方の兵力を増強するため造られた。

 

 

 四五年三月の東京大空襲前後から、物資不足で本土からの兵器補給が厳しくなり、弾薬庫でも弾薬や兵器を自活で製造するようになったという。

 

 

 三百万発の手榴弾の製造には、三百トンの火薬のほか、管体や導火線など膨大な部品が必要だった。寺崎さんは人員や資材を調達するため、道内各地を駆け回ったが、組み立て作業に着手する直前、八月十五日の敗戦を迎えたという。

 

 

 道の資料によると、四五年当時の道人口は約三百五十一万人。寺崎さんは「当時の新聞報道で、既に米軍が上陸した沖縄では住民や兵士が自決したことを知っていた」と言う。「最後の一兵卒まで戦え、捕虜になるより自決の道を選べと教えられた時代。三百万発もの手榴弾は当然、女、子どもに至るまで敵に抵抗できるすべての道民に配られるものだと考えた」と振り返った。

 

 

軍・住民一体の「根こそぎ動員」

 

 

 沖縄国際大の安仁屋政昭名誉教授の話 命令があったというのは、本土決戦に備えて義勇兵役法が制定され、軍隊と住民の区別なく根こそぎ戦場に動員する『国民義勇戦闘隊』が編成されることになった時期。北海道の場合、米軍に加えソ連軍の侵攻に対する恐怖もあったはずだ。大量の手榴弾を造ろうとしたのは、十分にあり得る話で、いよいよ北海道も決戦場になるという危機意識の表れだろう。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_03.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 1面

 

真実継承誓う62年目 きょう慰霊の日

 

 きょう二十三日は終戦から六十二年目の「慰霊の日」。沖縄で最後の激しい地上戦が繰り広げられた糸満市摩文仁で行われる沖縄全戦没者追悼式には安倍晋三首相が初めて列席するほか、一般参列者ら約五千人が訪れる。沖縄戦体験者が年々少なくなる中、高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」の記述から「軍命」を削除した文部科学省の教科書検定問題で、県議会が教科書検定の撤回を求める意見書を可決、県内全四十一市町村議会も可決の見通しとなり、大きなうねりとなっている。戦争の真実をどう後世に伝えるか―。島はこの日、沖縄戦で亡くなった人や生き残った人々の「命の言葉」に耳を傾ける。

 

 

 二十三日に同市の平和祈念公園で開かれる県主催の沖縄全戦没者追悼式は、午前十一時五十分に開式。正午の時報を合図に、沖縄戦で失われたすべてのみ霊に黙とうをささげる。

 

 

 就任後初の参列となる仲井真弘多県知事は恒久平和を願い「平和宣言」。沖縄尚学高校附属中二年の匹田崇一朗君は「写真の中の少年」と題して平和の詩を朗読し、戦争体験を語り継ぐ大切さを訴える。

 

 

平和祈る舞

 

 

 沖縄全戦没者追悼式前夜祭(主催・沖縄協会、共催・県、県遺族連合会、県平和祈念財団)が22日夜、糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂で開かれ、県内外から遺族ら約500人が参列。沖縄戦犠牲者のみ霊を慰め、平和の誓いを新たにした。

 

 

 同協会の清成忠男会長は「再び過ちが繰り返されないよう、後世の人々に戦争がもたらした悲惨な事実をありのままに伝えていく」と鎮魂(しずたま)の言葉を述べた。平和祈念像前の舞台では、流会派を超えた実演家が、平和の祈りを込めた古典音楽の献奏や琉球舞踊を奉納した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_04.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 31面

 

教え子の生きた証し 刻銘/元担任・福岡さんらが情報収集し申請

 

 一九四四年十月。台湾で十歳で亡くなった宮古島市出身の金城八重子さんが、当時の担任や同級生の証言から平和の礎へ刻銘された。遺族以外の申請で、刻銘されたのは極めてまれ。元担任の福岡ウメ子さん(81)=滋賀県=が二十二日初来県し、慰霊の日の二十三日糸満市の平和の礎で祈りをささげる。

 

 

 八重子さんは物静かで、時たまニコっと笑う表情が印象的だった。悪性マラリアにむしばまれ、防空壕で息を引き取った。

 

 

 当時、台南州新営群白河庄の烏樹林小学校の教員だった福岡さんは、戦時中病死した教え子を六十年以上心に引きずったままだった。

 

 

 二年前、新聞記事で病死でも戦争に関係していれば平和の礎に刻銘できることを知り、八重子さんの情報収集を始めた。

 

 

 同級生の砂川貞子さん(72)や元宮古島市役所職員の狩俣公一さん(60)が同級生四人から証言を集めた。砂川さんは、「当時から思いやりのある先生だった。先生の人柄が周りの力を動かした」と語った。

 

 

 両親を幼くして亡くし、体が弱かった八重子さんをいつも気に掛けていた福岡さん。自身も四歳で母を亡くし、自分の境遇以上に悲しみを味わっているのではと八重子さんにモンペを縫ってあげた。

 

 

 刻銘が決まったときは、うれしさのあまり声が出なかったという福岡さん。両親の刻銘は亡くなった時期、証言者が見つからずかなわなかったが、「八重子ちゃんの生きた証しが残る。お父さん、お母さんもきっとここへ来てくれるからねと伝えたい」と声を弾ませた。

 

 

 最近、八重子さんの兄の名前が「金城タケオ」さんと分かり、兄についての情報を募っている。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_05.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 30面

 

物が語る戦争の実相/きょうから特別展 対馬丸記念館

 

 那覇市若狭の対馬丸記念館は、「慰霊の日」の二十三日から「沖縄戦時下の住民―かくして沖縄は戦場となった」と銘打ち、特別展を開く。八月二十九日まで。

 

 

 義勇隊や学徒隊など当時の写真約五十点のほか、実際に使用された模擬銃や竹やりなどが展示され、一般市民を巻き込んだ沖縄戦の実相に触れることができる。

 

 

 同館を運営する対馬丸記念会の瑞慶覧達次事務局長は「学校や婦人会など、地域の動員体制によって住民が戦争に巻き込まれていったことを多くの人に見てもらい、平和の尊さや命の大切さを伝えたい」と来館を呼び掛けた。

 

 

 八月十一日は、いしがき児童合唱団の平和コンサート「祈り 心から心へ」、同二十二日は国際海洋環境情報センターによる「対馬丸船体発見十周年記念特別講演」が予定されている。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_06.html

 

 

2007年6月23日(土) 朝刊 2面

 

米軍再編 日本負担は3兆円/在日米軍司令官

 

 【東京】在日米軍のライト司令官(空軍中将)は二十二日、都内で講演し、在日米軍再編にかかる経費全体の日本側負担について「おおざっぱにいって大体二百六十億ドル(約三兆円)くらいではないかといわれている」と説明した。

 

 

 米軍再編経費については二〇〇六年四月にローレス米国防副次官(当時)が同様に「計二百六十億ドル」と明らかにしたものの、日本国内での強い反発が起こったことから、それ以来公言されることはなかった。

 

 

 ライト司令官は「ローレス氏が推計した額」としたが、今回の発言は、現在も日本側負担額が約三兆円に上ると米側が認識していることを示したものといえる。

 

 

 ライト司令官は日本の国内総生産(GDP)に占める防衛費の割合が低いことを指摘した上で、「大きな額と思われるかもしれないが、もし有事が起きたとき、あるいは戦争がこの地域で起きたとするならば、比較にならない幾何級数的な額になるはずだ」と強調した。

 

 

 一方、最新鋭ステルス戦闘機F22Aラプター十二機を米軍嘉手納基地に暫定配備したことについて、「われわれは、空軍の最も近代的な兵器の展開能力を実証できたと思っている。新しい環境の下での効果的な訓練を行うこともできた。この訓練においては日本の航空自衛隊のカウンターパートとともに行うことができた」と語った。

 

 

 同基地への地対空誘導弾パトリオット(PAC3)配備については「抑止にもなるし防衛にもなる。潜在的な敵にとっては、彼らの攻撃の成功の確率がそれだけ低くなるということを知らしめることができる」と意義を強調した。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200706231300_07.html

 

 

沖縄タイムス 社説(2007年6月23日朝刊)

 

 

[慰霊の日]

 

検定撤回は県民の総意

 

 

軍官民共生共死の論理

 

 

 文部科学省の教科書検定で、高校用歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」をめぐる記述から日本軍の関与を示す記述が削除された。県民の間に沖縄戦の歴史歪曲への強い懸念が広がる中で、「慰霊の日」を迎えることになったのは残念である。

 

 

 沖縄戦では「軍官民共生共死」の論理の下で多くの非戦闘員が死に追い込まれた。各地で住民証言が収集され、「集団自決」は軍による強制・強要・命令・誘導等によって引き起こされたというのが戦後蓄積されてきた沖縄戦研究の成果である。

 

 

 なぜ今になって日本軍の関与が削除されるのか、私たちは沖縄戦の実相を踏まえ、考えなくてはならない。

 

 

 「集団自決」は県内の激戦地で起きた。渡嘉敷島、座間味島、慶留間島では住民が肉親に手をかけた。手りゅう弾やカミソリ、かま、棍棒などが使われ、阿鼻叫喚の地獄絵が広がった。多くの子供たちも犠牲になった。

 

 

 渡嘉敷島での「集団自決」で両親と弟妹を失い、生き残った金城重明さんは、「母親たちは嗚咽しながら、迫りくる非業の死について、子供たちに諭すかのように語り聞かせていました。恐ろしい死を目前にしながら、髪を整え、死の身支度をしていた婦人たちの様子が忘れられません」(「『集団自決』を心に刻んで」、高文研)と、犠牲者らの最後の姿を伝えている。

 

 

 沖縄戦から六十二年。世代交代が着実に進み、沖縄戦の体験者も年々減少していく。後世に生きる人々が沖縄戦の記憶をどう継承していくかが重い課題として浮上している。こうした問いに正面から向き合うことなしに沖縄の将来を切り開くことはできない。

 

 

 県議会は「慰霊の日」の前日、検定意見を撤回し記述を元に戻すよう国に求める「教科書検定に関する意見書」を全会一致で採択し、文部科学省などへの要請行動を展開した。

 

 

 「『集団自決』が、日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、今回の削除・修正は体験者による多くの証言を否定しようとするもの」という批判は、与野党を超えた県民の総意である。政府は県民の声を重く受け止めるべきだ。

 

 

日本軍の残虐性薄める

 

 

 沖縄戦に関する教科書検定の経緯を振り返ると、政府にとって都合の悪い沖縄戦関連の記述を歴史教科書から消し去りたいかのようだ。研究者らが同様に指摘するのは、日本軍の残虐性を薄める方向での修正の動きである。

 

 

 一九八二年度の教科書検定で、沖縄戦での日本軍による住民殺害の記述が削除された。しかし、県民の抗議の高まりなどを受けて記述が復活した。

 

 

 そして今回は「集団自決」に関する記述について「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある表現」として、日本軍による命令・強制・誘導等の表現を削除・修正するよう指示した。

 

 

 文部科学省が、教科書を審査する教科用図書検定調査審議会に対し、日本軍の関与を示す記述の削除を求める意見書を提出していたことも判明した。

 

 

 伊吹文明文部科学相は「軍の関与があったことは認めている。ただ、すべての集団自決について軍が関与したという記述は必ずしもそうじゃないんじゃないか」と述べ、大臣として検定には介入しない考えを示している。

 

 

 文科省の審議官は検定調査審議会の中立性を強調し、今回の削除・修正は審議会の判断だとしている。

 

 

 軍の関与は認めつつ、軍関与を示す記述の削除についても理解を示す。これは一体どういうことなのか。

 

 

首相の歴史認識を問う

 

 

 安倍晋三首相は「戦後体制からの脱却」を掲げ、憲法改正、教育問題を重視してきた。「愛国心」重視の教育基本法を改正し、従軍慰安婦問題で「狭義の強制性」を否定した。靖国問題など首相の歴史認識が問われている。

 

 

 今回の検定で「軍の関与」が削除されれば、住民は自発的に死を選んだという意味合いになる。そこには審議会による判断だという説明だけでは済まない大きな論理の転換がある。

 

 

 沖縄戦研究者は政府は「集団自決」という言葉に靖国思想を意味する「殉国死」のニュアンスを込めていると指摘する。「今回の検定には文部科学省だけでなく政府筋の介入を感じる」という声さえ出始めている。

 

 

 沖縄戦の記憶は今試練にさらされている。「慰霊の日」に犠牲者を追悼していくために、今回の検定問題を契機に沖縄戦の実相を究明し、沖縄戦についての認識をさらに深めていきたい。

 

 

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20070623.html#no_1

 

 

琉球新報 社説

 

慰霊の日 沖縄戦の記憶は“平和の砦”

 

 きょうは「慰霊の日」。鎮魂の思いを込め「沖縄忌」とも呼ばれる。六十二年前、二十万人余が犠牲になった沖縄戦が、事実上終結した日とされる。戦後沖縄の原点となるこの日に、戦争と平和について考えたみたい。

 きのう午後、県議会は、文部科学省の高校教科書検定で沖縄戦の「集団自決」への日本軍の強制などの記述が修正・削除された問題で、検定意見の撤回を求める「意見書」案を、全会一致で可決した。

 「慰霊の日の前に、可決されて本当によかった」と、安堵(あんど)の声が上がったのは、直前まで揺れた県議会の対応があった。

 「軍命の有無が検証されていない」との声が、県議の中から出て、全会一致どころか、決議自体が危ぶまれていた。

 県議会の内輪もめをよそに、県内四十一市町村中、三十六市町村議会が検定意見撤回を求める意見書を可決している。二十八日までには全議会が可決の見込みだ。

改ざんに手を貸す政府

 県議会は意見書で「沖縄戦における『集団自決』が、日本軍の関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実」と指摘し、「今回の削除・修正は体験者による数多くの証言を否定しようとするものである」と強く批判している。

 県議会の意見書可決で、名実ともに県民世論は「検定意見の撤回」の要求を政府に突きつけた。

 だが、政府の壁は依然として厚い。意見書への見解を求められた久間章生防衛相は二十二日、「防衛省は日本軍のことを引き継いだ訳でなく、防衛省が答える話ではない」と、どこ吹く風だ。軍命の有無にも「そんな昔のことは私は知りません」と、はねつけている。

 久間防衛相は、自衛隊と「日本軍」は異なる。そう言いたいのであろうか。だが、自衛隊はまぎれもなく「日本の軍隊」である。日本軍と違うと強調することで、過去の日本軍の犯した過ちを、忘れようとしている。歴史に学ばない軍の責任者は、また過ちを繰り返しかねない。見識を問いたい。

 十五年ほど前、東京で沖縄戦を指揮した第三二軍の高官・神直道航空参謀に会った。なぜ、住民を巻き添えにしたのか。なぜ軍は住民を守らなかったのか。その問いに「軍隊は敵のせん滅と戦争遂行が役目。住民を守るという命令は無かった」と、淡々と語った。

 「軍は民を守らない」。沖縄戦で生き残った多くの県民が経験で学んだ教訓である。

 戦後六十二年を経て、ことし五月、沖縄では大砲を備えた海上自衛隊の掃海母艦が、米軍基地建設の支援のため、沖縄に派遣された。国民を守るべき自衛隊は、基地建設に反対する市民と対峙(たいじ)し、「民を威圧する行為」との批判を受けた。

体験者の声を聞こう

 自衛隊情報保全隊による「国民監視」の実態も明らかになった。 「軍は民を守らない」との沖縄戦が残した教訓を超える「軍の論理」がそこにある。

 沖縄戦は遠い昔の話ではない。山積する戦後処理問題は、戦争の傷がいまだ癒えない沖縄の現実を冗舌なまでに物語っている。

 沖縄戦での直接の犠牲者のうち、ことし三月末までに十八万三千九百三十五柱が収集された。しかし、四千柱を超える遺骨が、地中深く、あるいは野ざらしになり、収集を待っている。

 県内では二〇〇六年度だけでも八百七十六件もの不発弾処理が行われている。だが、毎年三十?を超える処理を続けても、今なお地中には二千?を超える不発弾が残る。

 一方で、遺族年金の受給者はこの十年で九千五人(一九九六年)から約四千人(〇六年)と半減している。沖繩戦の実相を知り、戦争体験を語り継いできた「語り部」たちがこの世を去っていく。

 「歴史の目撃者」たちが少なくなり、新たな歴史観による教科書の書き換えが進む。教科書検定問題で「集団自決」での軍命の有無を争点にしているが、本質はまぎれもなく存在する政府の開戦責任も含めた「戦争責任」である。

 歴史の見直しを理由に、政府に都合のいい教科書を書き上げることを考える前に、歴史に何を学ぶかを考えるべきであろう。

 沖縄には、文科省の検定を受けない゛生きた教科書゛たちが、まだまだ健在だ。沖縄戦の体験を直接聞ける。慰霊の日を、戦争と平和を考え、歴史と向き合う節目の日としたい。

 

 

(6/23 9:49)

 

 

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-24846-storytopic-11.html

 

 

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