雲英晃顕は生きている
さきほど、小さな研究会がはねた。雑談をしていたら、雲英晃顕が来て、言った。
「しばらくご無沙汰をしていたけど、来たよ」
雲英は、例の特徴のある眼鏡に人のよい笑みを浮かべて、いつもながらの背広姿であった。
「雲英さん生き返ったんだ。みなさん、雲英さんが生き返りました。もう死ぬなよ」
そう私が言っている間にも、雲英は次第に消えていった。
そして、私は目が覚めた。
沖縄の普天間包囲の人間の鎖から昨夜遅く帰京し、翌朝、普天間にアパートを借りる相談などをして、レオパレスと交渉成立。疲れきって、うとうとしていた。
雲英は、私らがやっている沖縄・日本から米軍基地をなくす草の根運動に賛同してくれて、いつも年1万円を賛同会費として出してくれていた。
彼は「平山はしょうがない奴だ」といろいろ言っていたが、そんな事を言わない一部の平和活動家たちよりも、私を信じてくれ、謙虚であった。彼は誠実であり、寺の息子であった。わたしもまた、牧師夫婦の息子であるが。
60年安保闘争の時の話。
私は、東大文学部学友会(自治会)の21歳の若い委員であり、彼は学年が下の東大教養学部自治会の委員であった。もっとも、彼は学芸大学を出てからの東大入学であり、歳も5歳ほど上だったが。
1960年1月16日、日米安保条約に調印するために、岸首相は羽田空港に来る事になっていた。前日の1月15日夜、当時の「全学連主流派」は、岸訪米阻止ということで、学生たちを羽田に動員した。私は、昼間は、「安保改定に抗議するキリスト者の集い」を裏方で組織し、その足で羽田に行った。忠実な民主主義者として、自治会の決定に従ったのだ。雲英の属していた、東大駒場(教養学部)自治会は、多分同じ決定をしていたのだろう。彼は、彼が属していた団体の決定でそのような実力阻止行動はしりぞけていたはずであった。雲英は、実力阻止闘争には加わらず、羽田に来て見守っていた、と聞いている。
私は、自治会の学生と共に、羽田の建物の中にいた。状況は詳しくはわからず、多分警官隊が実力排除の実力行使に入ったのだろう。スクラムを組んでいる列が破れ、空港のガラスが割れたのを見た。私は、極めて度の強い眼鏡を吹っ飛ばされ、両腕を警官に取られて、羽田空港の外に連行排除された。眼鏡なしで、下宿に帰った。
雲英は、「全学連」の隊列には居なかったはず(いなかった、と後で聞いた)であったが、共産党員活動家として名が売れていたのであろうか、公安が目をつけたのであろうか、逮捕され留置された。
1月16日、岸首相は、無事渡米し、19日に日米安保条約は日本国憲法前文と9条に反して、ワシントンで署名された。その後の6月23日に参議院の承認もないまま自然成立した日米安保条約発効までの5カ月は、日本史上かつてない大規模な大衆運動である安保改定反対闘争が続くのである。
雲英は、1昨年亡くなった。しかし、彼は、夢の中に生き生きと生きていたように生きている。今見た夢は、「人は死なない」ということを僕に、確信をもって教えてくれたようだ。
人は死なない。人は死ぬということは勿論である。同時に、私は「人は死なない」と断言する。雲英が今も生きているように。(2010年5月18日)