2007年5月15日(火) 朝刊 29面
平和希求 県民に危機感/5・15前日 国民投票法成立
「9条議論できる」歓迎も/辺野古反対派「軍事国家」懸念
復帰記念日の前日に、改憲手続きを定める国民投票法が成立した。十四日、護憲団体は「復帰時と約束が違う」と沖縄担当大使に抗議。名護市辺野古では、基地建設に向けた自衛隊艦船導入に警戒を強める市民が「軍事国家への道だ」と危機感をあらわにした。一方、元自衛官は「ようやく九条について議論ができる」と歓迎した。
「復帰で勝ち取った九条の絶対平和主義は、見事に裏切られた」。沖縄九条連の海勢頭豊共同代表は外務省沖縄事務所で、重家俊範大使に語り掛けた。重家大使は「沖縄の憲法に関する特別な経緯は理解している」と言葉少なに答えた。
要請後に、ダグラス・ラミス共同代表は「自民党の新憲法草案と大日本帝国憲法は、秩序を乱さない限りで人権を認める点で似ている」と指摘。「私たちの運動はできず、新聞社も記事を書けなくなるかもしれない」と、危険性を強調した。
名護市の辺野古漁港。米軍普天間飛行場代替施設建設に反対する市民団体の座り込みテントからも、「軍事国家になる」「平和憲法を守れ」と同法成立に批判の声が上がった。国の調査に備え、阻止行動に使うカヌーの手入れをするなど、緊張感が高まる。
平和市民連絡会の当山栄事務局長は、「安倍政権は自衛隊を軍隊化し、米国と一緒に戦争をするつもりだ」と危機感を募らせた。調査に海上自衛隊の掃海母艦が投入される動きに、「県民の意思を踏みにじって強行するやり方は沖縄弾圧政策だ。侵略拠点となる新基地建設を阻止して、平和を発信していきたい」と、結集を呼び掛けた。
県防衛協会の藤井建吉事務局長は事務所で業務に追われ、同法成立を知らなかった。陸自の元幹部。「九条による自衛隊違憲判決で、どれだけ悔しい思いをしてきたか。部下に『私たちの仕事は憲法違反ですか』と聞かれたこともあった」と、感慨深そうに話した。
自衛隊を軍隊として位置付けることを望むが、駆け足の議論には慎重だ。「政治家や国民がよく勉強してから投票にかけてほしい。法律ができ、改憲派も護憲派も緊張感を持って議論できるだろう」と期待した。
欠陥だらけと批判
県憲法普及協と人権協
県憲法普及協議会(高良鉄美会長)と沖縄人権協会(福地曠昭理事長)は十四日、国民投票法成立に「欠陥だらけの同法を国会で再検証するよう求める」とした連名の抗議声明を発表した。
「いよいよ九条改悪が具体的な政治日程に上がってくる今こそ、九条を守り、守らせ、世界に広げよう」と呼び掛けた。
県憲法改悪反対共同センターは宮城常和事務局長名の声明で、「最低投票率の定めがなく、国民の運動を規制し、有料意見広告を野放しにする。改憲側が圧倒的に有利だ」と批判した。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200705151300_04.html
2007年5月15日(火) 朝刊 28面
事件・事故58%が沖縄/全国施設局内で最多
二〇〇五年度に那覇防衛施設局管内で起きた米軍人・軍属による事件・事故は千十二件に上り、全国八カ所の施設局管内で最も多く、全体の57・6%を占めたことが十四日、「米軍人・軍属による事件被害者の会」(海老原大祐代表)のまとめで分かった。このうち「公務外」は九百二十五件だったが、日米地位協定に基づき米政府が被害者に慰謝料を支払ったケースは十件にとどまった。
過去五年の事件・事故では、〇三年度の千百五十九件(うち公務外九百九十一件)が最多。〇四年度は千十件(同九百十八件)に減少したが、〇五年度は再び増えた。
同年度に二番目に多かった横浜防衛施設局管内は計三百三十四件(公務外二百五十七件)で、那覇の約三分の一だった。
「発生件数」と「支払件数」が大きくかけ離れているのは、公務外の事件事故は当事者間の示談交渉が原則だからだ。
一九九六年の日米特別行動委員会(SACO)最終合意は、すべての在日米軍人とその家族、軍属に任意自動車保険の加入を義務付けており、那覇防衛施設局は「公務外事故のほとんどは、任意保険で解決されている」と説明している。
これに対し、海老原代表らは「加害者が示談交渉中に本国に逃げ帰ったり、保険に加入していなかったりするケースも多い。被害者の視点に立った対策を早急に整備すべきだ」と訴える。
被害者救援センター「泣き寝入りだめ」
米軍人らによる事件や事故に遭った被害者を支援しようと今年三月に発足した「米軍犯罪被害者救援センター」(事務局・大阪市西成区)のメンバーらが十四日、県庁で会見し、「全国の基地所在地間のネットワークを構築する。泣き寝入りせず相談してほしい」と呼び掛けた。
同センターは無料の相談窓口を開設、被害者らの心のケアに当たるほか、米軍犯罪に関する情報を収集・発信する。
県内では「米軍犯罪被害者救援全国ネットワーク」沖縄を設置。
代表の池宮城紀夫弁護士は「軍人との示談交渉の代理人になることもありうる。公務外の事件・事故についても国が責任を取るよう那覇防衛施設局に要望していきたい」と話した。
被害者の会や支援団体は一九九五年に県内で起きた米兵暴行事件以降、全国各地で結成された。
近年は活動の中心が損害賠償法案整備の国会要請などに移行したため、被害者や遺族への直接支援が弱まっていたという。
千歳や横田、岩国、佐世保などの各基地所在地でもネットワーク化の動きがあるという。
沖縄の連絡先は、携帯電話080(1790)3335。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200705151300_05.html
2007年5月15日(火) 夕刊 1面
返還密約 隠ぺい工作/米公文書で判明
一九七二年五月の沖縄返還を前に、米政府が支払うはずの軍用地復元補償費四百万ドルを肩代わりする密約の発覚を恐れ、日本政府が沖縄の地権者らへの補償費支払い業務を延期するよう米側に働き掛けていたことが十五日、米国立公文書館所蔵の一連の公文書から明らかになった。米側は財務、国務、陸軍の三省間で検討を重ね、延期を決定した。また実際に支払われた補償費が百万ドルを下回っていたことも分かった。
密約をめぐっては、元毎日新聞記者の西山太吉氏が入手した外務省の極秘公電を基に社会党が七二年に国会で追及。以来、政府は一貫してその存在を否定している。
七一年六月調印の沖縄返還協定で米側の「自発的」支払いが規定された復元補償費は、実際には日本側が負担。返還に伴う米資産買い取りなどの支出三億二千万ドルの中に補償費分の四百万ドルを紛れ込ませたとされる。
新たに見つかった複数の公文書によると、米側は、日本側から五回に分けて支払われる三億二千万ドルのうち、七二年五月の初回分一億ドルの中から四百万ドルを信託基金設立に回し、七二年中に復元補償費支払い業務を開始する予定だった。
しかし日本側が「信託基金設立は(肩代わりの)取り決めを公に認めることになる」として延期を要請してきたと、財務省は同年五月十一日付の文書で報告。国務、陸軍両省とともに検討した結果、支払い業務開始を七三年に先送りすることを決めた。
国務省内には「支払い延期が沖縄で反発を呼ぶ可能性がある」との意見もあったが、最終的に「沖縄での批判よりも国会の論議が引き起こすリスクの方を重視すべきだ」との結論を出した。三月末から四月初めにかけて政府は社会党などの追及に全面否定を通したが、直後に西山氏が極秘公電入手に絡む国家公務員法違反容疑で逮捕された外務省機密漏えい事件で「沖縄密約」に注目が集まり、追及再燃を恐れたとみられる。
基金は七三年に設立。日本側提供の四百万ドルのうち、沖縄の地権者に支払われた額は結局、百万ドルを下回り、一部は支払い業務を担当した米陸軍工兵隊の経費にも充てられていた。
駐沖縄米総領事は七五年七月二十九日付の国務省あての公電で、残りの三百万ドル余りについて「(日本政府向けに)問題を引き起こさない使途の説明が必要になる」と指摘している。
対米支援 過程示す
我部政明琉球大教授(国際政治学)の話 沖縄住民への補償延期を要請した日本政府の意図の背景に、密約の連鎖があった。米側が支払うはずの軍用地復元補償費の肩代わり自体は、補償が実施される限り大きな秘密ではなかったかもしれない。米側が支払いを拒否した場合には日本政府に肩代わりを求める声も沖縄にはあった。だが、一つのほころびがさらに重大な事実を表面化させることを恐れたのだろう。
それが、日米地位協定枠外の米軍基地整備費など六千五百万ドルの存在だ。文書は「なぜ払うのか」という認識を確立しないまま対症療法として支出した金が、国民に説明ができない対米財政支援の呼び水になった過程を明らかにしている。ここに「思いやり予算」の原型があり、昨年、日米が合意した在日米軍基地再編における日本政府負担分の上限は決して絶対ではない可能性を示唆している。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200705151700_01.html
2007年5月15日(火) 夕刊 5面
復帰35年それぞれの節目
復帰三十五年を迎えた十五日午前、県内では復帰を評価し節目を祝う式典、今なお続く基地の重圧に抗議するデモがそれぞれ行われた。
反基地団体
軍港反対浦添行動(共同代表・黒島善市さんら)は、浦添市にある米軍牧港補給地区(キャンプ・キンザー)の包囲デモを行った。今年で九回目となるデモに県内外から約八十人が参加した。
一坪反戦地主会浦添ブロックのまよなかしんや事務局長は「基地をどこにも動かさないでここで撤去させていく。浦添に新たな軍港は決してつくらせない」と訴えた。
青年会議所
那覇青年会議所(添石幸伸理事長)は那覇市の与儀公園掲揚台前で記念式典を行った。同会議所メンバーやOBら約七十人が参加、国旗と那覇市の旗を掲揚、三十五周年の節目を祝った。
添石理事長は「平和な沖縄のために、われわれの世代ができることをあらためて見直したい」とあいさつした。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200705151700_02.html