「グアム移転合意は失敗」/元太平洋司令官 普天間代替、沖合移動で実務協議、政府、異例の前倒し シュワブ内 工事着手/普天間飛行場代替 平和願い史実追体験/志真志小で「集団自決」劇上演 など 沖縄タイムス関連記事・社説(6月17日から21日) 

2008年6月17日(火) 朝刊 1面

「グアム移転合意は失敗」/元太平洋司令官

 【ホノルル】元米太平洋海兵隊司令官のヘンリー・スタックポール中将(退役)は十六日までに、米軍再編に伴う在沖米海兵隊のグアム移転について、訓練場の狭さや台風が多いこと、グアム―沖縄の遠隔運用に不可欠な高速輸送船の調達予算のめどが立たないことなどを理由に「移転合意は失敗だと思う」と懸念を示した。また、冷戦後の一九九三年に太平洋司令部が在沖米海兵隊兵力の半減計画を検討していたことも明らかにした。

 ハワイ大学内の東西センターで本紙インタビューに応じた。同氏はグアム移転について「移動の問題だ。機動性が高い空軍、海軍が基地を置くのは問題ない。しかし、海兵隊は独自の輸送船をグアムに配備していない。移転は満足できない案だ」と語った。

 日米再編協議の時期にホノルルの国防省系シンクタンク、アジア太平洋地域戦略研究所所長だった同氏は、太平洋司令部に沖縄問題で助言したり、対日交渉の担当者会議に出席したりする立場にあった。元在沖米軍四軍調整官でもあり、沖縄基地問題に精通する。

 退役将軍の異論は、海兵隊内部にくすぶる不満を代弁したと受け止められる。

 また、スタックポール氏によると、太平洋司令部は九三年に湾岸戦争時の兵力派遣を検証した結果、二万千人だった在沖米海兵隊を一万人の旅団レベルまで削減することが可能とする脅威対処リポートをまとめていた。当時、同氏は太平洋海兵隊司令官として部隊配備の適正化を検討していた。

 今回の再編協議で同氏は「沖縄駐留が旅団規模なら運用に支障がなく、さまざまな事態に即応できる」と提言したという。海兵隊のグアム移転計画も旅団規模の運用を想定している。(屋良朝博記者、ハワイ東西センター客員研究員)

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2008年6月17日(火) 朝刊 2面

米兵事件2448件裁判放棄/62?63年

 【東京】在日米軍兵士らによる事件の裁判権をめぐり、日本側が米側の請求を受けて多数の事件の裁判権を放棄していた実態が、一九六〇年代の米軍統計資料から十六日までに明らかになった。米軍関係の裁判権については、日米両政府が五三年に「重要な案件以外、日本側は裁判権を放棄する」との密約に合意していたことが分かっており、統計で裏付けられた格好だ。

 資料は、六二年十二月一日―六三年十一月三十日までの一年間の犯罪統計を米陸軍法務局がまとめたもの。日米関係史を研究する新原昭治氏が米国立公文書館で見つけた。

 それによると、同期間で日本の裁判に付されるべき件数は三千四百三十三件。米軍はこのうち二千六百二十七件の裁判権を譲るよう請求し、日本側は二千四百四十八件を放棄した。

 新原氏によると、当時は本土復帰前だった沖縄で発生した件数は含まれていないという。

 日本平和委員会の佐藤光雄代表理事らは十六日、外務省に同統計を提示し、裁判権をめぐる問題を追及した。しかし、外務省の担当者は「当時の資料は残っていない」などと説明した。

 一方、日米両政府が五六年の合同委員会で、日米地位協定に基づき、日本側に第一次裁判権がないとされる「公務中」の範囲を通勤や職場での飲酒にまで拡大し、米側に有利な運用で合意していたことについては、「勤務場所と定められた住居との間の通勤は原則として公務中と取り扱われている」と述べるにとどめ、合意の事実については言及を避けた。

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2008年6月17日(火) 朝刊 22面

「平和の詩」に嘉納君/メッセージ審査

 二十三日の慰霊の日を前に県平和祈念資料館は十六日、「第十八回児童・生徒の平和メッセージ」の審査結果を発表した。沖縄全戦没者追悼式で行われる「平和の詩」朗読には、小学校の詩部門で最優秀賞を獲得した嘉納英佑君(読谷小四年)の作品「世界を見つめる目」が選ばれた。小中高校の各部で図画、作文、詩部門に計百十五人が入選した

 同メッセージは、県内の児童・生徒に創作活動を通して平和の心をはぐくむ目的で毎年行われている。今回は県内百六十二校から計三千七百九十八点の応募があった。

 平和の詩に選ばれた嘉納君の作品について同資料館は「日常を通して感じる平和への思いがつづられている。現代っ子らしいユニークな表現に、生活の中で平和を考える意識が感じ取れる」と評価した。

 各部門の入賞者は次の通り。(敬称略)

 【小学校】《図画》最優秀賞=上原晴美(高良四年)▼優秀賞=三田ほのか(さつき二年)、上原千紗都(大山六年)、比嘉貫太(とよみ六年)《作文》最優秀賞=照屋響之右(さつき五年)▼優秀賞=新澤ももこ(宮城五年)、野原由梨奈(松島六年)《詩》最優秀賞=嘉納英佑(読谷四年)▼優秀賞=照屋希之薫(真壁四年)、上原晴美(高良四年)、奥間友芽子(さつき四年)【中学校】《図画》最優秀賞=宮里侑希(松島二年)▼優秀賞=喜舎場愛月(石垣二年)、平良光希(池間三年)、新垣ナオ(宜野湾三年)《作文》最優秀賞=張本美嶺(大浜一年)▼優秀賞=松山忠明(西表三年)、友利有希(小禄三年)《詩》最優秀賞=金城美奈(仲西三年)▼優秀賞=山城あかね(佐敷二年)、上間一輝(南星三年)【高校】《図画》最優秀賞=仲間清香(糸満一年)▼優秀賞=宜野座愛海(糸満一年)、比嘉美奈穂(普天間二年)、渡部夏連(首里三年)《作文》最優秀賞=崎山史子(那覇国際二年)▼優秀賞=具志堅靖知(コザ三年)《詩》最優秀賞=仲地愛(球陽二年)▼優秀賞=知花かおり(球陽一年)、塚本真依(沖縄尚学二年)

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2008年6月17日(火) 夕刊 5面

見舞金 米に求めず/豪女性暴行

 【東京】二〇〇二年四月に神奈川県で米兵に暴行されたオーストラリア人女性に対し、政府が加害米兵や米国に代わり支払った見舞金三百万円を、その後米側に請求していないことが十七日、分かった。同日午前に閣議決定した、松野信夫参院議員(民主)の質問主意書に対する政府答弁書で明らかになった。

 被害者救済の必要性から支払われた見舞金だが、加害米兵や米政府が慰謝料の一切の負担を免れ、日本政府が肩代わりしたことに厳しい見方も出ている。

 同事件で米兵は不起訴処分となったが、その後、女性が損害賠償請求訴訟を提起。東京地裁は米兵に三百万円の支払いを命じたが、米兵は裁判中に帰国した。

 日米地位協定は米兵に支払い能力がない場合、米政府が支払うと規定。一方で米国内法は、事件発生から二年以内に請求がなければ時効になる。民事判決が出た時点で、時効になっていたため、同省が見舞金を支払っていた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806171700_07.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 1面

沖合移動で実務協議 普天間代替

政府、異例の前倒し

 【東京】米軍普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブ沿岸部への移設をめぐり、県や名護市が求めている代替施設案(V字案)の沖合移動で、政府が実務者レベルの本格的な検討作業に入ったことが十七日までに分かった。政府内には沖合への移動が日米合意の修正になり、米国側が反発していることから、慎重論が多い。ただ、難航している同飛行場の移設問題を前進させるためには県側への配慮が必要との政治的な判断から、異例の前倒しで実務協議に踏み切った形だ。

 政府は今月二日、沖合移動を念頭に、県を含めた課長級会合を都内で開き、実務レベルで可能な作業に絞って協議を始めた。会合には内閣官房や内閣府、防衛省、環境省、県の担当課長らが出席した。環境影響評価(アセスメント)に関する法律や条令の解釈など、基本的な問題点で意見を交わした。

 今後も不定期に開く方針で、現在進められているアセス調査に基づき、どの程度の沖合移動が可能か、意見交換する見通しだ。だが、政府と県の政治的決定に位置付けられている協議の進め方に関する「確認書」合意はめどが立たない状況で、先行きが不透明な情勢に変わりはない。

 アセス調査手続きは方法書、準備書、評価書の各段階で計画の「軽微な変更」を認めている。アセス法に照らすと、V字案の面積規模の「軽微な変更」は理論上五十五メートルずつの移動が可能となる。

 仲井真弘多知事はキャンプ・シュワブ沖の長島にかからない程度に、日米政府の合意案から沖合に八十―九十メートル移動するよう求めている。一方、政府はこれまでアセス調査に基づく「合理的な理由」がなければ応じられないとの公式見解を示してきた。

 県が求める八十―九十メートル移動は「軽微な変更」を複数回実施しなければ実現しないとみられるが、政府は移動に伴い自然環境への影響が想定されるため、「合理的な理由」を基にした複数回の「軽微な変更」を困難視している。沖合移動する場合は五十五メートルの一回だけに限り容認する意向で、県の要望には難色を示している。(島袋晋作)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_01.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 2面

普天間で「場周経路」調査/沖縄防衛局

民間地墜落防止へ

 【宜野湾】米軍機の民間地への墜落事故を防ぐため、日米政府で合意された米軍普天間飛行場の場周経路について、沖縄防衛局が宜野湾市内で米軍機の飛行ルートを目視調査していることが十七日までに分かった。同局が同飛行場の場周経路の調査を実施するのは初めてとみられる。

 調査は市内を見渡す嘉数高台公園の展望台で実施されている。十六日には同局の職員二人が目視で飛行した米軍機の機種、時間をチェックし、飛行ルートを地図付きの調査票に書き込む作業が確認された。宜野湾市によると、調査は五月ごろから行われている。

 これまで同市は米軍が場周経路を守らず、住宅地上空で飛行訓練を行っていると指摘していた。

 五月には加盟する中部市町村会で同飛行場の危険性除去を求める要請決議案を全会一致で可決。今月六日、要請を受けた同局の真部朗局長は「市の声を有効なデータとして客観的に米側にぶつけられるような方策を考えたい」と答えていた。

 伊波洋一市長は「日米で合意された安全基準は守られるべきで、国が調査に乗り出したことは大きな前進だ」と取り組みを評価した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_02.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 27面

米軍捕虜恐れ「自決」/玉城の壕 体験者証言

 【南城】沖縄戦中、南城市玉城糸数の自然壕「ウマックェーアブ」で避難してきた住民らが「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた状況が体験者らの証言で明らかになった。日本軍が繰り返してきた「米軍の捕虜になれば辱めを受ける」との言葉を信じ、九人が犠牲になったという。字誌編さんのため、地元で聞き取り調査を続けてきた同市玉城糸数の知念信夫さん(74)は「遺族の多くは今でも苦しみを負い、戦争を語ろうとしない」と話している。(仲本利之)

 知念さんや体験者の証言などによると、「集団自決」は一九四五年六月三日に起きた。

 同年三月二十三日からアブチラガマ周辺に点在する十一カ所の壕には住民七?十人ごとに身を潜め、「ウマックェーアブ」でも九世帯、三十七人の住民が隠れていた。六月に入り米軍が集落まで侵攻し投降を呼び掛けた。

 捕虜になることを恐れた住民ら十一人が二発の手を取り囲んで信管を榴弾

引き、九人が即死したという。当時を知る住民らは、アブチラガマには日本軍がいて、周辺のすべてのガマ(壕)には防衛隊を通じて日本軍の手榴弾が配られていたと話す。

 家族五人で「ウマックェーアブ」に身を潜めていた当時十代の男性は、父親が発した「どうせ死ぬなら太陽が見える明るい所で死のう」との言葉を合図に全員で壕を脱出した。一緒に出た住民二十七人は米軍の捕虜となり、生き延びることができた。

 十七日、玉城小学校で講演した知念さんは「平和な日本を次世代に受け継ぐためにも、戦争の悲惨さ、みじめさについて学んでほしい」と子どもたちに呼び掛けた。

 「ウマックェーアブ」はアブチラガマ西方約三百メートルに位置する壕。現在は農地や道路が広がり、入り口などはなくなっている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_06.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 26面

苦しみ 悲しみ 思いはせ/追悼式朗読の嘉納君「戦争ない世界願う」

 【読谷】慰霊の日の二十三日、糸満市の平和祈念公園で開かれる「沖縄全戦没者追悼式」で、読谷小四年の嘉納英佑君(10)が「世界を見つめる目」と題し、「平和の詩」を朗読する。嘉納君は「戦争のない世界になってほしい」と、期待を込める。

 毎年、慰霊の日が近づくと戦争や平和について家族で考えているという。嘉納君は小学校一年生から「児童・生徒の平和メッセージ」に詩を応募し、小学校の詩部門で三年生から二年連続最優秀賞を受賞した。

 今回の作品は、祖父母から伝え聞いた体験談、名桜大学准教授で、戦争体験者の聞き取りやビデオ収集などを行っているという父親の英明さんから聞いた話などを基に作った。「戦争で亡くなった人たちはとても苦しかったと思う。そういう気持ちを表したかった」

 今の日本、沖縄は平和だと感じている。平和を世界に広げるためにも「隣の国々の声に耳を傾け、仲良くしてほしい」と大人たちに訴える。

 沖縄戦では、親せき二人が戦死した。二十三日には詩の朗読後、二人の名前を刻銘した平和の礎に手を合わせるという。「二度と戦争が起きないよう願いながら、安らかに眠ってくださいとお祈りしたい」

仲間さん作品採用

「平和展」ポスター

 県内の小中高校生が平和への思いをつづった図画・作文・詩作品を展示する「児童・生徒の平和メッセージ展」が二十三日から糸満市の県平和祈念資料館で開かれる。展示会ポスターには、高校の図画部門で最優秀賞を獲得した仲間清香さん(糸満一年)の作品「ヒカレミライ」が採用された。七月十日まで。

 展示会は応募のあった作品の中から図画・作文・詩の各部門の最優秀賞、優秀賞、優良賞の作品を展示する。

 県資料館を皮切りに七月十六日―同二十三日まで八重山平和祈念館(石垣市)同二十八日―八月一日まで宮古島市平良庁舎ロビー(宮古島市)同十一日―十五日まで県庁県民ホール(那覇市)で随時開催する。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_07.html

 

2008年6月18日(水) 夕刊 1面

シュワブ内 工事着手/普天間飛行場代替

 米軍普天間飛行場の移設に伴い、沖縄防衛局は名護市キャンプ・シュワブ内の下士官宿舎など新設五棟の工事に二日から着手していたことが十八日までに分かった。兵舎や管理棟などの建設に向け、造成工事に入っている。普天間飛行場代替施設の建設に向けた工事着手はこれが初めて。代替移設の建設位置をめぐって、政府と県の沖合移動の交渉のめどが立たない中、基地内の工事が先行して始まっている。(吉田伸)

 キャンプ・シュワブ内の工事は二日に着工、磁気探査など準備作業を終え、九日から造成作業に入った。整地を終えた後の建物の建設は九月ごろとなる見通し。五棟は下士官宿舎(約九千百二平方メートル)のほか、倉庫(約千七百十九平方メートル)や管理棟(約三千百六十九平方メートル)、通信機器整備工場(約二千七百七十平方メートル)、舟艇整備工場(約三千百四十七平方メートル)。建設場所は飛行場建設予定地の西側で、工期は二〇〇九年九月末となっている。

 既存の兵舎十一棟の解体工事は四月から作業が始まった。内部はすでに撤去されており、五月からは建物本体の解体に取り掛かっている。七月中には作業を終える予定だ。防衛施設庁(現防衛省)が〇六年、基地建設計画(マスタープラン)の概要を地元に説明した際、キャンプ・シュワブには普天間飛行場代替施設の移設に伴い、約三千人の兵員が移駐することを明らかにしており、約六千人規模の海兵隊基地になるとみられている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181700_01.html

 

2008年6月18日(水) 夕刊 5面

艦砲の雨 逃げまどう/古堅さん証言DVDに

 沖縄戦で、沖縄師範学校から鉄血勤皇師範隊として動員された元衆院議員の古堅実吉さん(78)が、当時たどった戦地を訪れ、現場で証言した様子を収めたDVDがこのほど完成した。第三二軍司令部壕のあった首里から、軍命で南下した摩文仁、米軍の捕虜となった具志頭の三地域で、古堅さんが体験したこと、見たこと、感じたことを、静かに、重く語る映像が百十三分間にわたり記録されている。(嘉数浩二)

 制作は沖縄平和ネットワーク会員の大島和典さん。今年四月二十七日に、古堅さんが現地を巡り、同会メンバーらに当時の状況を話す様子を収録した。

 首里では、司令部壕での作業と悪化する戦況を説明。艦砲射撃が雨のように撃ち込まれる中、毎日、作業場まで七、八百メートルを往来したこと。先輩や友人の悲惨な死。将校らしき軍人が女性に命令し、銃剣で捕虜の米兵を突き殺させようとした場面を目撃、最後は軍人自ら日本刀で虐殺したようだ、などと証言している。

 摩文仁では、海から機関砲で狙い撃ちされ、岩陰に身を潜めて水をくみ、サトウキビをかじって飢えをしのいだ場面を語る。

 解散命令が出た六月十九日夜、師範学校の校長が、百十数人が犠牲になったと告げ、配属将校がそばにいるにもかかわらず「教育者として残念だ。軍命に従うべくもなく、親元へ帰すべきだった。絶対に死ぬな」と諭したことを明かした。

 古堅さんが米軍の捕虜となった具志頭。切り立ったがけが続く海辺、多くの死体の中を、海水に漬かり二晩歩いたことを振り返り「言葉で言い表せない絶望感と、可能な限り生き延びたい思いだった」と表現する。

 最後に「集団自決」(強制集団死)にも触れ、「皇民化教育で天皇陛下のために死ぬのが誉れだったという美談は作り話。自分の体験を振り返ると、極限でも必死で生きようとしていた。それ(集団自決)しか道がないところまで追い込まれたから、起きた」としている。

 十二日に那覇市内で行われた上映会後、古堅さんは「体験者の証言を受け取ってもらい、平和について語る人が一人でも増えてほしい」と話した。

 DVD利用の問い合わせは同ネットワーク、電話098(886)1215。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181700_03.html

 

2008年6月19日(木) 朝刊 27面

沖縄戦 演じて学ぶ/山梨の大学

「本土の人たちへ、自分のためにも」

 【山梨】沖縄戦のことを本土の学生たちにも知ってほしいと、山梨県の都留文科大学に通う県出身の学生たちが沖縄戦をテーマにした演劇に取り組んでいる。脚本や構成などはすべてオリジナルで、映像やダンスなども取り入れた斬新な内容。二十三日の「慰霊の日」に学内で上演する。学生らは「本土にいると自分たちも次第に沖縄への関心が薄れていくようで怖い。本土の友人たちに沖縄戦のことを伝え、自分たちもあらためて学ぶきっかけにしたい」と、連日のけいこに励んでいる。(稲嶺幸弘)

 今回の演劇公演は、四年次の福島花枝さん=読谷高卒=の提案がきっかけ。「一年次の時に、『慰霊の日』のことを忘れてしまっていたのがショックだった。沖縄戦や平和を考える取り組みをしたいと、四年間温めてきたのが今回の演劇だった」と話す。

 三月下旬、福島さんが県出身の学生らでつくる同大の沖縄県人会(金城生会長、四十六人)のメンバーに持ち掛けると、全員が賛同してくれた。福島さんが脚本の下書きをし、みんなで相談しながら完成させた。

 五月下旬から週四回ペースでけいこに入り、日曜日は七時間みっちり汗を流す。

 演劇のタイトルは「花?命どぅ宝」。戦場に駆り出された元女子学徒の記憶をたどり沖縄戦の実相に迫る内容。地下壕で女子学徒が傷病兵を手当てするシーンなどがリアルに再現されるほか、明るく楽しそうな現在のキャンパス風景を映像で流しながら、今と昔を対比させて「平和」の意味を問い掛ける。

 「本土出身の友達に聞いても、沖縄イコール観光という感じ。昔、沖縄で起きた悲惨なことを知ってもらいたい」と話すのは三年次の山城理乃さん=辺土名高卒。同じく三年次で同県人会会長の金城さん=北中城高卒=は「この劇を通して僕たちも沖縄戦のことを学び直している。ぜひ多くの人に観てもらいたい」と学内でのPRにも懸命だった。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806191300_06.html

 

2008年6月19日(木) 夕刊 4面

北部の戦争 風化させず/映画「未決・沖縄戦」

 【北部】名護市の予備校で教壇に立つ輿石正さん(62)が中心となり、本島北部で戦争を体験した十三人の証言を集めた映画「未決・沖縄戦」(九十二分)が十八日、完成した。中南部での戦闘や渡嘉敷・座間味島での「集団自決(強制集団死)」に焦点が当たる一方、「やんばるで戦争があったの」と問う子供たちも出てきた。「北部の戦争体験の風化」への強い危機感が輿石さんを突き動かした。(知念清張)

 映画を作るきっかけは、昨年九月の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」。

 十一万人(主催者発表)が集まった陰で「私たちは証言者の言葉に頼り過ぎていないか、沖縄戦がパターン化していないか、むなしさと焦りを感じた」。その後、字史や証言集を七十冊余り読んだ。「伝統芸能を含め地域を知ることが大切」と考えたからだ。これまで口を閉ざしていた人からも話を聞くことができた。

 「何の見返りもないのに高齢にもかかわらず身を乗り出し、体を震わせ証言してくれた人たちから『しっかりと伝えて』とバトンを渡された気持ちになった」

 今帰仁村の大城米さん(80)は、終戦直後の北部で米兵に連れて行かれ、体中にけがを負った女性と遭遇した。その時「あなたでなくてよかったわね」と言われた。

 生きて帰れたのになぜ、そう言うのか当時理解できなかったが、年を経て米兵からレイプされていた事を知った。「その後も米軍の過ちはいくらでも起きている。なぜ」

 八重岳や多野岳、伊江島での戦争、職員が離散し、愛楽園に残されたハンセン病元患者が語る苦難。旧日本軍に虐げられていた朝鮮人軍夫や慰安婦たち。庶民の目線から、やんばるの戦争の実態を語っている。

 輿石さんは「戦争の本質は逃げ惑い、泣き叫んだ一般住民の姿にある。沖縄戦はまだ終わっていない。戦争の風化が、国に都合のいい沖縄戦の捏造につながっている。特に若い世代や高校生に見てほしい」と呼び掛けている。

 映画は二十一日、名護市大中区公民館で午後六時半から無料上映され、その後も各地で上映される。問い合わせはじんぶん企画(名護高等予備校内)、電話0980(53)6012。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806191700_04.html

 

2008年6月19日(木) 夕刊 4面

平和教育に役立てて/戦跡ガイド2冊発刊

 「沖縄戦と基地・沖縄平和ネットワークの軌跡」(沖縄平和ネットワーク)と「観光コースでない沖縄第四版」(高文研)が、このほど発刊された。「沖縄戦―」は、同ネットワークのこれまでの会報から主要な記事を抜粋し、ダイジェスト版とし、「観光コース―」は、執筆者を一新した改訂版。

 同ネットワークは、修学旅行の戦跡ガイドや戦争記録、基地調査などを通し、戦争の記憶を継承してきた。代表世話人の大城将保さん(68)は「ガイドの依頼は、ほとんどが本土の学校からで、県内は数える程度」と疑問を投げ掛けた。「去年の教科書検定問題は沖縄の平和教育を考える上でいい経験だった。今年の『6・23』に現場の教員がどこまでかかわれるか。変わってくれるだろうと期待している」

 高文研の山本邦彦さん(53)は「沖縄を訪れる観光客にコースにないもう一つの沖縄の素顔があることを知ってほしい」と話す。同書は、一九八一年に開催された沖縄の基地・戦跡を学ぶ「沖縄セミナー」をきっかけに発刊された。「沖縄は十年で大きく変化。今の沖縄を見てもらいたい」「教科書検定問題での県民の動向をフォローしたい」と山本さん。

 同書の執筆者四人によるシンポジウムも二十一日に沖大で予定。「県内で活躍する記者と研究者が沖縄に今、何が問われているか話し合う。この機会に参加してほしい」と呼び掛けた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806191700_05.html

 

2008年6月20日(金) 朝刊 27面

「集団自決」劇に抗議/志真志小制作

中止など要求/校長応じずきょう上演

 宜野湾市立志真志小学校の児童や教諭らによる「集団自決(強制集団死)」をテーマにした平和劇について、「裁判で係争中の内容を上演するのはいかがなものか」「児童に演じさせるのは洗脳ではないか」などと、脚本内容の変更と練習の見学要請や上演中止を求める電子メール、電話が十件以上寄せられていることが十九日までに分かった。同校の喜納裕子校長は「劇はあくまで命の大切さを訴える内容であり、偏りはないと考えている。劇は予定通り上演する」と話している。

 平和劇「ヒルサキツキミソウ」は、脚本を同校の宮城淳教諭、演出を演出家の幸喜良秀さんが担当。二十日午前、同校で上演される。劇は「集団自決」があったある島から、犠牲となった三人の子どもの霊が宿る石を、女子児童が持ち帰り、学校のある部屋に隠したことから展開する。沖縄戦での艦砲射撃や、渡された手榴弾を使って家族が命を絶つ「集団自決」場面などを、現代の子どもたちが目撃。子どもやその両親の霊を通して「集団自決」の実相に触れ、戦争の恐ろしさや平和、命の尊さを学ぶ内容になっている。

 要請は上演が報じられた先月下旬から寄せられた。学校や市教育委員会を訪れ、脚本の確認や練習の見学を再三求める人のほか、上演の中止を求めるメールが十九日までに十件以上寄せられた。メールの多くは、県外からのものとされる。

 学校側は、脚本の確認や見学の求めには応じなかったという。同校は事態を憂慮し、市教委や宜野湾署にも報告している。喜納校長はこれまでの取材に対し「さまざまな意見があるのは当然だが、偏りはない。激励も寄せられ、子どもたちも一生懸命練習している。命の尊さを知る素晴らしい劇になると思う」と話している。

関係者「卑劣な行為だ」

 「誹謗中傷に負けず、子どもたちや教職員、PTAが一体となって上演すると聞いた。大変素晴らしい」。大浜敏夫沖教組委員長は、学校関係者の姿勢を高く評価した。一方で、小学生が歴史を考える目的で行う劇にまで抗議する一部の言動を懸念。「沖縄戦の歪曲を狙う動きを、県民が一致して断固拒否することが大事」と指摘した。

 9・29教科書検定意見撤回県民大会実行委の玉寄哲永副委員長は「悲惨な史実を次世代へ伝えるため、多くの体験者が立ち上がった。思いを受け止めた小学生や学校を批判するのは、あまりに卑劣だ」と怒りをあらわに。「子どもたちが、おじいやおばあのことを考えて演じる劇は、卑劣な言動を吹き飛ばす感動的なものになる」と話した。

 十九日午後に同校を訪れ、練習を見学した伊波洋一宜野湾市長は「圧力には決して負けずに頑張ってほしい。歴史の重さを共有し、受け継いでほしい」と期待した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806201300_01.html

 

2008年6月20日(金) 朝刊 26面

次代へ1フィート募金/運動の会 新作構想

 今年12月で設立25周年を迎える「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」(通称・沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会、福地曠昭代表)が米や英にある沖縄戦関連の記録フィルムを買い取り、新たな映像作品を制作するため、広く募金を呼び掛けている。沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定問題などに危機感を示し、「歴史を改ざんする動きに歯止めをかけ、25年の節目に沖縄戦の実相を伝えるという原点に立ち返りたい」と訴える。

 同会は戦争を知らない世代に沖縄戦の悲劇を伝えようと一九八三年十二月八日に設立。県民の寄付などで米国ワシントンの国立公文書館などから、これまでに約十万フィートの記録フィルムを買い取り、「沖縄戦・未来への証言」など三作品を制作。各地で上映会や講演会などを開いてきた。しかし、なお米英両国には、多くの未公開フィルムが残っているといい、今後も買い取りを進める考え。

 フィルムの買い取り額は設立当初は1フィート当たり百円だったのが、現在は同二百円程度に上がっているという。一本の制作費は数千万円に上るとみられ、同会は若者も巻き込んだ多くの協力を求めている。

 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会の福地曠昭代表らは十九日、県庁記者クラブで会見し、二十三日の「慰霊の日」に向けたアピールを発表した。

 福地代表は「有事法制の成立や新基地建設などこれまでの動きを見ると、まさに戦争前夜を思わせる」と指摘。まよなかしんや事務局次長は「子どもたちに、平和を求める心と戦争に反対する行動力をしっかり伝えたい」などと記したアピール文を読み上げた。

 また、同会は二十五周年の記念誌を発行、一部五百円で販売する。

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2008年6月20日(金) 夕刊 1・7面

平和願い史実追体験/志真志小で「集団自決」劇上演

 宜野湾市立志真志小学校(喜納裕子校長)で二十日午前、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をテーマにした平和劇が上演された。上演前には脚本内容の変更要求や練習の見学要請のほか、「児童に演じさせるのは洗脳だ」などと、上演中止を求める電子メールが十件以上学校側に寄せられたが混乱はなかった。児童二十二人や教諭らは、一カ月前から練習を重ねた成果を披露。軍命などで、家族に手をかけざるを得なかった「集団自決」の悲しい史実と、命の大切さや平和の尊さを、観衆に訴えた。

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児童熱演 地域見守り/中止要求など逆境はねのけ


 上演の中止や脚本内容の変更などを求める要請や電子メールでの嫌がらせなどの逆境をはねのけ、平和劇上演にこぎ着けた志真志小児童と教諭ら。会場には多くの保護者や地域住民に加え、「集団自決(強制集団死)」などの戦争体験者も訪れ、児童らの熱演をじっと見つめた。喜納裕子校長は「劇を通じて子どもたちは命や平和の尊さに気付いてくれたと思う。無事に終えられたことを喜びたい」と話した。

 体育館に設置された特設ステージで上演された「ヒルサキツキミソウ」は、脚本を同校の宮城淳教諭、演出を県内外で活躍する演出家の幸喜良秀さんが担当した。物語は「集団自決」があったある島から、犠牲となった三人の子どもの霊が宿る石を、現代の女子児童が持ち帰り、学校内に隠したことから展開する。

 米軍の艦砲射撃が始まり、渡された手榴弾を使って家族が命を絶つ「集団自決」の緊迫した場面。「こんなに大きく育ててきたのに。上の命令で亡くすというのは生まない方がよかったのか…」と父親が話すシーンでは、会場は静まり返り、百人以上の観衆の児童、保護者らはただ静かに舞台を見つめた。体験者の女性はハンカチでそっと涙をぬぐっていた。

 孫の出演を楽しみにしていた平良ツエさん(84)=宜野湾市上原=は台湾で戦争を体験した。「今の子どもたちに戦争のことを知ってもらい、伝えることが大事。子どもたちが一生懸命に練習を重ねた演劇が、中傷されることは悲しいこと」と話した。

 幸喜さんは「劇を通して沖縄戦を追体験することは意義がある。不幸な歴史体験を風化させずにウチナーンチュの平和への願いを、学び、伝えていってほしい」と話した。

 出演した児童の代表は「たくさんの人が傷つき、亡くなった。戦争は怖いと思った。戦争のない平和な世界をつくりたい」と感想を述べた。

 宮城教諭は「多くの人に支えられて若い先生方も子どもたちも一緒になって頑張った。命の大切さを子どもたちは実感したと思う。これからも劇を続けていきたい」とほっとした様子で話した。上演中、印象に残った言葉をメモ帳につづっていた退職教員の女性(63)は「劇は過激でも何でもない。子どもの発達段階に合わせた内容で分かりやすかった。『生きていることは、とても強いこと』というせりふが最も印象に残った」と話した。


体験者・宮城さん激励


 会場には座間味島で「集団自決」を体験し、姉を失った元学校長の宮城恒彦さん(74)=豊見城市=も訪れ、子どもたちの演技を見守った。

 平和劇の上演に対し、脚本内容の変更や中傷メールが届いていることを報道で知り「居ても立ってもおれず、激励しようと思った」と話す。

 上演前には喜納裕子校長らを訪ね、自身や他の体験者の証言をまとめた本を贈った。宮城さんは「手榴弾を爆発させる場面では自分の体験を思い出し、胸が詰まり涙が出た。圧力に負けず戦争の恐ろしさ、命の尊さを学ぶ教育を続けていってほしい」と話した。

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2008年6月20日(金) 夕刊 7面

金城さん 命の尊さ訴え/「集団自決」体験

 沖縄戦での「集団自決(強制集団死)」体験者の金城重明さん(79)を招いた平和講演会が二十日午前、那覇市の銘苅小学校(長嶺将範校長)であり、児童ら約五百人が、悲劇の実態を語る当事者の証言に聞き入った。

 金城さんは、渡嘉敷村の「玉砕場」と呼ばれた場所へ住民が集められた時の様子や、「集団自決」の状況、旧日本軍による「スパイ」容疑で少年らが殺害されたことなどを、言葉を選ぶように、訥々と語った。

 手榴弾を二個ずつ配られ、一個は自決用に使うよう命じられていたこと、米軍の捕虜になれば、耳、鼻をそがれ、戦車でひき殺される、女性は辱めを受けて殺されると、何度も日本軍から言われ続け、「生き残ることへの恐怖を植え付けられていた」と説明。「家族に手をかけた。母は泣いていた」と振り絞るように話した。

 金城さんは「生き地獄を経験し、自分は生き残ってしまったことに戦後ずっと苦しんできた。でも体験を話すことで平和につなげることができると信じて証言を続けている」と話し、児童らに命の尊さを訴えた。

 講演後、児童代表の真栄城好美さん(六年生)は「戦争はとても残酷と分かった。二度とやってはいけないと多くの人に伝えていけるようになりたい」と、つらい体験を語ってくれた金城さんにお礼の言葉を述べた。

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2008年6月21日(土) 朝刊 27面

ヘリ編隊飛行 市街地に爆音/普天間に15機帰還

 【宜野湾】二十日午後三時半ごろ、五月から海外演習に派遣されていた米軍普天間飛行場所属のヘリ十五機が編隊を組んで帰還した。宜野湾市の市街地上空を十機以上の編隊が飛行するのは異例。市役所には「ここは戦場か」「何が起きているんだ」と苦情が相次いだ。慰霊の日直前、しかも沖縄防衛局による米軍機の飛行ルート調査が終了した直後の帰還に、同市は「再び騒音被害が激化する。国の再調査が必要だ」と事態を重く見ている。(銘苅一哲)

 同飛行場の第三一海兵遠征部隊のヘリ部隊は毎年五月、タイでの演習に参加している。今年は五月上旬から同飛行場を離れ、同二十一日に演習を終了。例年、六月初めに帰還するが、今年はサイクロン災害を受けたミャンマーの支援を試みたため、帰りが遅れた。

 この日、編隊で飛行したのは沖縄国際大学で墜落したCH53D大型輸送ヘリとは型違いのE型四機とCH46中型輸送ヘリ六機など。編隊はすぐに飛行場へ降りず、市役所の真上など市内を旋回して着陸。市街地への墜落を防ぐため日米で合意された飛行ルートの場周経路をはみ出し、ごう音が数分間続いた。

 一カ月半、いつもより遅い帰還で静かな生活を送っていた市民は突然の音に驚いた。役所前でコーヒーを販売していた具志堅薫さん(52)は初めて見る編隊に「気味が悪い。わが物顔で飛んでいるみたいだ」と基地の方向をにらんだ。

 六月に入ってゼロだった基地被害一一〇番へも五件の苦情が寄せられた。恐怖に震えた声の男性は「戦場のような光景だ」と訴え、受け付けた同市基地渉外課の職員も「一度にあんなに多くのヘリが飛行したのは見たことがない」と顔をしかめた。

 同日午前には別のヘリ六機が帰還し、FA18戦闘攻撃機など外来機の飛来も確認された。

 伊波洋一市長は「十七日まで沖縄防衛局が飛行ルート調査をしたが、部隊はいなかった。帰還後の再調査もするべきだ」と指摘し、「明日以降はこれまで同様の訓練を実施するだろう。慰霊の日は配慮するのだろうか」と騒音の激化を懸念した。

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2008年6月21日(土) 朝刊 2面

移設前閉鎖は不可能/ライス在日米軍司令官に聞く

 在日米軍トップのエドワード・ライス司令官(空軍中将)が十八日、二月の就任以来初めて公式に来沖し、キャンプ・シュワブや嘉手納基地などを視察したほか、在沖米軍や地元自治体幹部らと意見交換した。ライス司令官は二十日、嘉手納基地で県政記者クラブの代表インタビューに応じ、「沖縄はとても戦略的な場所で米軍が存在し続けることが重要。シュワブは移設に適した場所で二〇一四年までに計画が実現されることを楽しみにしている」と述べた。

 ―県が求める代替施設の沖合移動を米政府は容認していない。

 「再編協議はすべてがパッケージ。日米両政府が高いレベルで合意するのに数年を費やした。とても複雑でさまざまな異なる部分を含む合意だ。われわれは地元の自治体とでなく日本政府と協議し合意したことが、今でも正しいと信じている。実施するために前進するだけだ」

 ―地元は普天間飛行場の危険性除去を求めている。

 「移設が完了する前の普天間閉鎖は不可能だ。日米同盟で求められている訓練や義務を果たすことができない」

 ―嘉手納以南の返還で、キャンプ瑞慶覧の返還面積が確定していない。

 「まだ結論に達していない。近い将来、満足いくような結論になるよう双方で議論を続けたい。締め切りや目標のようなものはないが、合意に達する自信がある」

 ―米軍関係者の犯罪の再発防止策について。

 「われわれは二月からさまざまな取り組みをすべての軍で行っており、厳しく律している。アルコール摂取が犯罪と結び付く場合が多い」

 「再発防止策に期限はない。地元との連携を密に、(対策を)継続的に向上させる。犯罪率を下げる努力に終わりはない。沖縄に米軍人がいる限りこの取り組みは続く」

 ―F15の未明離陸を防ぐため地元はグアム経由を求めている。

 「早朝離陸の一回一回が地元へ与える影響は認識しており、必要な回数も最小限に抑えるように努力している。記録を見ていただければ早朝離陸の回数は比較的少ないはずだ」

 「だが、運用上さまざまな要因がある。航空機が目的地に到着しなければいけない時間、飛行時間、違うルートを取ることが可能な時期か。簡単に見えるかもしれないが、とても複雑だ。さまざまな要因から結論を出し、安全面、作戦面、地元への影響を最小限に抑えるベストな選択をしている」

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2008年6月21日(土) 朝刊 26面

「集団自決」問題 県民大会で共有/宮城晴美さん講演

 沖縄女性史家の宮城晴美さんが二十日、那覇市ぶんかテンブスホールで、沖縄戦時下の座間味島で起きた「集団自決(強制集団死)」について講演した。一フィート運動の会設立二十五周年企画の一環。約九十人が聞き入った。

 宮城さんは、娘の目から見た母親の苦しみや葛藤、住民の苦悩に加え、研究家として調べた史実や証言、分析を基に「集団自決」に関して説明。役場職員や指導的立場の人がほぼ全員亡くなっていること、犠牲者の多くが女性という独自調査も例に挙げ、軍命によって、強い者から弱い者へ重層的に力が働いて起きた、と話した。

 また、昨秋の県民大会に十一万人が集まったことに触れ「慶良間だけで背負い込んでいた問題を県民が共有し、島の人を救ってくれたと思う」と述べ、「沖縄戦を風化させないようにしたい」と呼び掛けた。

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沖縄タイムス 社説(2008年6月21日朝刊)

[「無言館」展]

断たれた画学生らの夢

 享年二十三歳、二十四歳、二十五歳、二十六歳…。異国の地で志半ばで戦死した若き画学生らの死亡時の年齢が並ぶ。二十一歳の名前も見える。沖縄で戦死した者の作品もある。

 戦没画学生の遺作を集めた私設美術館「無言館」(長野県上田市)の収蔵作品などを展示する「情熱と戦争の狭間で」が県立博物館・美術館で開かれている。二十九日まで。

 東京美術学校、帝国美術学校の学生や、独学で学んでいた絵描きの卵たちだった。

 「無言館」は、太平洋戦争や日中戦争で戦死した百人余の画学生の遺作・遺品六百点余りを収蔵している。今回展示しているのは約百二十点。スケッチ帳や愛用していた絵の具、婚約者や家族あての手紙も。

 「無言館」館主の窪島誠一郎氏が、仲間を戦争で失った画家野見山暁治氏とともに日本各地の遺族を訪ね、収集したものだ。

 窪島館主は一九九七年五月の開館の日に痛切な思いを詩に託した。「遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ/私はあなたを知らない/知っているのは あなたが遺したたった一枚の絵だ/その絵に刻まれた かけがえのないあなたの生命の時間だけだ」

 画家への夢を抱いていた若者たちが一片の召集令状で戦地に駆り出された。

 生きられる時間が刻々と狭められる中で、無我夢中で絵筆を握り、愛する人たちや思い出の故郷を一心不乱に描いた。「生きた証し」を残すために。生を無念のうちに中断させられた人たちの声なき声が胸に迫ってくる。

 フィリピン・ルソン島で二十七歳で戦死した鹿児島県の若者は出征が決まった日「桜島」を描いた。「出来るなら、あと五分でも、あと十分でも絵を描いていたい」

 サイパン島で二十五歳で戦死した愛媛県の若者は、出征する三日前、義姉に「もし戦場から生きて帰ったらパリに留学させてくれないか。もっともっと絵の勉強をしたいから」と頼んだという。

 「生きていればきっと活躍していたはず」。二十一歳でマリアナ諸島で戦死した長野県の若者の妹弟は無念さを隠せない。可能性に満ちた未来が待っていたかもしれないのだから。

 父親に「祖国のために戦うことは男子の本懐」と言っていた島根県の若者はフィリピンで二十五歳で戦死。出征の日に母親と姉が営舎を訪れたときには「出来ることなら行きたくない。生きのこって鋳金の作品をつくりたい」と目に涙を浮かべつぶやいたという。

 彼らは身に迫る戦場での死をどの程度、予感していたのだろうか。会場を訪れる人たちは、残された生の時間を賭して描いた作品を通して、画学生らの生と死に向き合うことになる。

 「生の証し」そのものともいえる絵に対していると、画学生らのあまりに短い生と沖縄戦の犠牲者の生が二重写しになる。

 戦争につながる一切のものを否定しなければ、とあらためて思う。若者が希望をむしり取られる時代を再びつくってはならない。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080621.html#no_1

 

2008年6月21日(土) 夕刊 1面

望郷の念 肌身に迫る/沖縄カトリック高「無言館」展を鑑賞

 沖縄カトリック高等学校(仲里幸子校長)の生徒ら約八十人が二十一日午前、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館を訪れ、沖縄タイムス社創刊六十周年企画「情熱と戦争の挟間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」などを鑑賞した。

 同企画展は文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館の主催。戦没画学生らの作品を集めた長野県の私設美術館「無言館」の収蔵品や、沖縄戦を生き延びた県出身者の作品約百六十点が展示されている。

 開校から十四年間、慰霊の日に毎年平和行進をしている同校。家族あての手紙をじっと見つめていた東リナさん(同校一年)は「やりたいこともできないまま戦場に行き、帰りたいという気持ちが伝わった」と語った。

 同企画展は、二十三日(慰霊の日)県内の小中学生無料。同日午後三時半から首里高合唱部による「合唱によるレクイエム」(チケット入場者のみ)もある。二十九日まで。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806211700_02.html

 

2008年6月21日(土) 夕刊 5面

“懐かしきあの日”に涙/「あんやたん」平和祈念公園で移動展

 【糸満】沖縄タイムス社の創刊六十周年企画写真展「あんやたん・移動展イン平和祈念公園」が二十一日午前、糸満市摩文仁の同公園案内所で始まった。二十三日の「慰霊の日」に合わせ、終戦直後の風景やこれまでに開かれた戦没者追悼式、平和の礎完成前などの特別展示もある。

 戦後から現在までの間に撮影され、沖縄タイムス社所蔵のカラー写真を含む約百三十点を展示。

 特別展示では、戦後直後の子どもたちの表情や第一回全戦没者追悼式の様子、慰霊の日に平和の礎前で祈りをささげる遺族の姿などが写し出されている。

 「本当に懐かしい」と終戦直後の写真に見入っていた大城直子さん(64)=那覇市=は「戦後すぐの子どもたちのたくましく生きている写真が印象的。自分自身のことも思い出し、涙が出た」と話した。

 二十八日まで(午前八時半午後五時半)。入場無料。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806211700_03.html

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