「慰霊の日」沖縄戦犠牲者悼む 島抱く平和の祈り/各地で慰霊祭 など 沖縄タイムス関連記事・社説、琉球新報 社説(6月22日から24日)

2008年6月22日(日) 朝刊 23面

沖大50年シンポ/戦世と今 結ぶ視点必要

 沖縄をめぐる問題について考える沖縄大学の創立五十周年記念シンポ「いま、沖縄に何が問われているか」(主催・沖縄大学)が二十一日、那覇市の同大学で開かれた。新崎盛暉・同大名誉教授をコーディネーターに、登壇した新聞記者三人が、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定や米軍再編、基地と振興策などの問題を議論した。

 「集団自決」の体験者への取材を続ける沖縄タイムスの謝花直美編集委員は、「幼いとき、日本軍による住民虐殺の話を聞き、戦争では子どもであり女性である自分のような『社会的弱者』が真っ先に死ぬと感じていた」と取材の動機を説明。「沖縄戦で普通の暮らしがいかに奪われたのかを押さえることが、軍事支配に気付き、いかに脱するかを考えることにつながっていく」と述べた。

 一方、「沖縄戦から今の沖縄へつながるものを、社会がまだ語り切れていないとも感じる。両者をどう結び付けるのか。憲法九条と基地の問題など、語るべき視点を獲得していくことが今後の課題になる」と語った。

 琉球新報の松元剛・整理部副部長は、米軍再編協議における沖縄と本土との意識の差を指摘。「この十年で沖縄を理解する政治家や官僚が引退し、政府の空気が変化している。一方で沖縄は戦略論を打ち出せず、『周回遅れ』との指摘もある」として「沖縄の発信力が試されている」と話した。

 基地経済からの脱却について語った同社の前泊博盛・論説副委員長は「自前の振興計画を作っていないのは全国で沖縄県だけ。政府から計画を押し付けられるのではなく、そろそろ自前で考えるべきだ」と指摘した。

 「何でもかんでもそろえるという閉鎖的な経済的自立は必要ない。何かに特化して世界経済のネットワークに参加していけばいい」と提言した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806221300_01.html

 

2008年6月22日(日) 朝刊 23面

特攻受けた米艦船 今も/慶良間沖 水深40メートル

 沖縄戦で米軍が最初に上陸した慶良間諸島。今でも、その海底には六十三年前の戦車揚陸艦(LST―447)が眠っている。米海軍歴史センターのホームページによると一九四五年四月七日に「カミカゼ アタック」(特攻)により沈んだという。

 約三十年前に漁師の金城吉克さん(55)が操業中、外地島の南側海域で魚群探知機で発見。大物が揚がる場所だったため、秘密にしていたという。

 その記憶を基に、五月、グランブルーマリンクラブ(山川勝章代表)のスタッフが、同ポイントを調査。船底を上にし、後方部分のみが残る船体を水深四〇メートルの海底で確認した。

 ガイドダイバーの竹内敦さんは「インターネットで調べたら多くの情報が出ている。この船と沈めた特攻隊員の物語が、もっとありそうだ。水深もあり、流れが速く危険なため、ダイビングポイントには難しいだろう」と話す。

 戦後のスクラップブームでほとんどの沈没船は引き揚げられたが、深場には、まだ、巨体が横たわっているかもしれない。

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2008年6月22日(日) 朝刊 2面

国会閉幕/米兵事件めぐり 地位協定で激論

 【東京】首相問責決議が参院で、信任決議が衆院でそれぞれ可決されるなど与野党の激しい攻防が繰り広げられた第百六十九回通常国会が二十一日、閉会した。沖縄関係では、今年二月の米兵暴行事件を機に、民主など野党三党が日米地位協定の改定案を独自にまとめ、激しい論戦を繰り広げた。

 米兵暴行事件を受け、民主、社民、国民新の野党三党は三月末、(1)起訴前の身柄引き渡し要請に対する米軍の同意(2)施設返還時の環境汚染浄化は米国の責任―などを柱とした地位協定改定案をまとめた。

 国会でも、野党議員から地位協定改定を訴える指摘が相次いだ。しかし、政府は「考えていない。地位協定がある中で、いかに運用を改善するかということに力を入れている」(福田康夫首相)などと、消極的な答弁に終始した。

 野党の一部で、地位協定改定を求める国会決議を野党多数の参院で採決することを目指す動きもあったが、他の重要法案の審議の影響で、同国会での提出は見送られた。

 一方、Yナンバー車の登録の際に求められる車庫証明書について、今年一―三月の間に県内で登録されたYナンバー車三千三十九台中、車庫証明書が提出されたのは四台しかなかった問題も取り上げられた。

 外務省の西宮伸一北米局長は五月の参院外交防衛委員会で、同問題を協議する日米合同委員会の特別分科委員会が二〇〇四年八月三十一日以来、一度も開かれていないことを認めた。これを踏まえ、高村正彦外相は「日米合意が守られるよう努力する」と述べた。

 同委員会では、米軍横田基地がホームページに掲載している基地内のレンタカーサービスに関する紹介で、「レンタル料を支払えば、日本国内におけるほとんどの高速料金を支払わずに済む」として利用を呼び掛けていたことも判明。娯楽目的でも有料道路使用料を免れていた疑いが強まった。

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2008年6月22日(日) 朝刊 22面

トーク「画家たちの戦争・表現」/鎮魂 芸術性を追求

 戦中戦後の激動期に絵を描き続けた画家たちの思いを、その遺族が語るアートトーク「画家たちの戦争体験と表現」が二十一日、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館講堂で開かれた。県出身の画家、山田真山、安次嶺金正、大嶺政敏、山元恵一の遺族が登壇、父親や夫の戦争体験や作品に込めた思いを語った。

 現在、同館で開催中の沖縄タイムス創刊六十周年企画「情熱と戦争の狭間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」(主催・文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館、共催・沖縄タイムス社)の関連イベント。

 山田昇作さんは父・真山が描いた、沖縄戦の戦火から逃げ惑う母子の作品に対し「亡くなった人びとへの鎮魂と、未来永劫に平和を伝えたい気持ちが込められている。その思いが、平和祈念像の制作にも結び付いた」と語った。

 戦前から東京で教職に就きながら絵を描いた大嶺政敏の三男の隆さんは「戦時中はすべての人が戦争に駆り立てられた。そのような中でも、父は芸術的な主張を貫いた」と語った。

 安次嶺金正の長女・宮里正子さんは父との思い出を、山元恵一さんの妻・文子さんは夫婦それぞれの戦争体験を語り、作品の背景を紹介した。同展は二十九日まで。

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2008年6月23日(月) 朝刊 1面

きょう「慰霊の日」 沖縄戦犠牲者悼む

 きょう二十三日は「慰霊の日」。太平洋戦争末期の一九四五年、住民を巻き込んだ地上戦となった沖縄戦で、旧日本軍の組織的戦闘が終結した日から六十三年。県民の四人に一人ともいわれる犠牲者を悼み、多くの命を奪った史上最悪の経験から学び、平和を希求する日として、県内各地で慰霊祭が執り行われる。

 戦争体験の風化が進む中、軍隊や戦争を正当化する動きが、国内で活発になっている。

 文部科学省は昨年三月、二〇〇八年度から使用される高校の日本史教科書から沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に対する日本軍の強制を示す記述を削除させた。

 昨年九月に約十一万人規模の県民大会が開かれ、文科省へ削除撤回を要求。文科省は日本軍の関与の記述復活を認めたものの、「強制」については依然削除されたままだ。

 文科省の教科書問題をめぐっては、〇六年用中学歴史教科書検定で「従軍慰安婦」や「住民虐殺」の記述が消えるなど、戦場における軍隊の加害性についての削除が相次いでいる。

 糸満市の平和祈念公園ではきょう、沖縄全戦没者追悼式典が行われる。福田康夫首相は就任後初の参列。仲井真弘多県知事は平和宣言を行う。関係者らが列席し、正午の時報とともにすべてのみ霊に黙とうをささげる。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_02.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 21面

追悼の火 消すまい/慰霊祭継続 同窓会が模索

 多くの命が失われた沖縄戦から六十三年がたち、各地で慰霊祭を行う遺族会や学徒の同窓会などは確実に高齢化が進んでいる。会の解散が日程に上ったり、すでに解散したりしている会もある。無念の思いを抱いて逝った犠牲者への追悼の思いを若い世代や関係者以外に広げ、慰霊祭をどう引き継ぐか、各団体は方法を模索している。

 沖縄戦で廃校になった県立農林学校の同窓会は来年十一月に法人としては解散することが決まっている。

 数年前から活動の足跡を残そうと準備してきた。記念誌のほか今年と来年は、慰霊祭の様子をビデオ撮影し記録を残そうと計画している。事務局の知念正喜さん(78)は「同窓会がなくなるのは寂しいが、慰霊祭をどうにか継続できる方法を探った」と話す。同窓会の財産で最後に残った「農林健児之塔」とその土地を嘉手納町に寄付し、町が慰霊祭の告知やテント設営などを行う方向で検討している。

 同じく戦争で廃校になった旧県立首里高等女学校同窓会の瑞泉同窓会も、会員の高齢化と減少に悩む。塔の維持管理などのために「サポート会」を立ち上げる。具体的なサポートの形を含め、内容は検討中だが、県外など各地から六十人余りがすでに登録しているという。

 新元貞子同窓会長(83)は「同窓会はなくなっても慰霊塔だけはいつまでも語り継ぎ、火を消さないようやってほしい」と思いを語り、サポート会の今後に期待する。

 沖縄戦で亡くなった県職員の遺族や当時の職員で構成する「島守の会」は、「島守の塔」建立までの経緯や戦争体験者の証言を収録したDVDを今年完成させた。映像を見た遺族の孫世代から「感動した。会の活動にもっと積極的に参加したい」との声が寄せられたという。まだ先行きは見えないが、少しずつでも状況を好転させたいと望みをつないでいる。


本音で議論 風化防ごう

首里高養秀会が訴え


 首里高校養秀同窓会が三年前に開設した「一中学徒隊資料展示室」は、今年に入り、近隣学校の平和学習を除いても、これまでの三倍、月三十人以上が来館するようになった。だが、大浦敬文事務局長(58)は「ブーム的な側面もある。心から何かを感じているように見えない人も多い」と危機感を募らせる。

 首里高校の卒業生がかかわるため、会存続に心配はない。ただ、本当の意味で歴史を継承するには、若い世代が、自分の人生と重ね合わせられる「精神性」が必要と考える。「親族でも数十年で記憶は色あせる。顔も知らない先輩ならなおさらだ。人間の生き方、沖縄の在り方を問い掛けるものにしなければ、風化は防げない」

 普遍的なテーマを発信するため、「体験者が残したいもの、わたしたちが心動かされるものを、本音で議論する必要がある。戦争を知らないから、と遠慮していたら、体験者が居なくなったとき、語るべきものがなくなってしまう」と訴えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_03.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 21面

再開発区に遺骨次々/市民団体・市が収集

 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」(具志堅〓松代表)は二十二日、那覇市と連携して、同市の真嘉比小学校近くの土地区画整理地区で遺骨を収集した。真嘉比地区の住民ら約五十人が参加。行政と市民団体が連携しての収集は初めてで、大腿骨や鎖骨などが次々見つかった。

 作業開始から一時間半が過ぎたころ、男性の右大腿骨が土の中から姿を現した。ボランティアが周辺をスコップやつるはしで掘り進めると、「こっちも出た」。右の鎖骨や上腕骨が次々と見つかった。

 具志堅代表(54)は「沖縄戦の遺骨に間違いない。このぐらい(全身が)つながった状態で出るのは珍しい」と語る。

 遺骨脇から拾った、弾薬の一部とみられるさびた金属片を持ち、「この破片で死んだのかな。認識票が出てくれば身元が分かるのに…」と、しみじみとつぶやいた。

 同地区は新都心地区のシュガーローフと同様に、日本軍の支援陣地があった激戦地。昨年十一月から試掘を進める具志堅代表によると、今なお多くの戦没者の遺骨が眠っているという。再開発が進む中、「市内では遺骨収集ができる最後の場所だろう」と強調する。

 琉球大学工学部の高橋弘治さん(24)は、「壕の周りを掘ると普通に遺骨が出てきて、生々しさを感じた」と驚き、「慰霊の日は大切だが、ほかの日にも戦争は起こっていたということを忘れてはいけない」と言葉に力を込めた。

※(注=〓は「隆」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_04.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 20面

沖縄戦 未公開映像を上映/県公文書館が入手

 沖縄戦当時、米軍が撮影した映像資料の映写会が二十二日、南風原町の県公文書館であった。同館が米国立公文書館から入手した未公開映像もあり、集まった約百人の市民がスクリーンに目を凝らした。同館はこれまでに公開されている映像のほか、特に住民が映った未公開のカラー映像も二十二分に編集して上映。無声映像には県立真和志高校放送部の生徒五人がナレーションをつけた。

 画面には、橋の下から投降する一家、集落に火を放つ米兵、サトウキビ畑でさく裂する砲弾などが次々と映された。本島で見つかった十代の少女は片足を切断されており、米兵が「撤退を拒否したため日本兵に切られた」と書かれた英文メモをカメラに差し出すシーンも。

 南風原町新川の女性(80)は「映像がきれいで、あの時そのままだった」と話し、何度も涙をぬぐった。当時十七歳。「家族とともに毎日歩いて逃げて、何日歩いたか分からない。砲弾が落ちて、二人の弟も死んで、遺体もそのままで…。あの日のことは忘れようがない」と話した。

 放送部部長の座波友里恵さん(三年)は「映像で見る戦争は強烈でリアルで、どうやって気持ちを込めるか難しかった。その場にいるように語ろうと思うほど、恐ろしさを感じた」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_05.html

 

沖縄タイムス 社説(2008年6月23日朝刊)

[きょう「慰霊の日」]

バトンは私たちの手に


 梅雨が明けた週末、糸満市摩文仁の「平和の礎」に足を運んだ。戦没者の名を刻んだ碑を前に、花を供え手を合わせる人の姿があちこちに見られた。

 きょうは「慰霊の日」。戦後六十三年。命からがら戦火をくぐり抜けた人々にとって、肉親や学友を失った悲しみが薄まる歳月ではあるまい。暑い日差しの中で、碑を見つめ、いとおしむように名前をなぞる高齢者が目立った。

 「礎」には二〇〇八年六月現在、県民が十四万九千百三十人、県外七万七千三十三人、米国一万四千九人、韓国三百六十四人など、合わせて二十四万七百三十四人の犠牲者の名が記されている。

 一九九五年に完成後、毎年名前が刻まれており、今年も県内四十二人、県外七十二人など計百二十八人が追加刻銘された。六十年を超えてなお掘り起こされる事実は、戦争は決して終わることのない惨禍だ、と教えてくれる。

 沖縄は昨年来、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する高校歴史教科書検定問題で揺れている。その中で、誰にも話したことのない忌まわしい記憶を、語り始めた体験者たちがいる。自らの体験と周りの証言を重ね合わせることで、初めて自分の記憶の本当の意味を知る人もいる。

 教科書検定問題で、文部科学省は「集団自決」について、軍の関与を示す記述の復活は認めた。が、「軍の強制」という表現は、どの教科書にも盛り込まれなかった。

 体験者たちが、絞り出すように語り始めた背景には、多くの人々の身を削るような証言を顧みない動きに対する怒りがある。

 戦争体験者が語る一方で、戦争を知らない世代はどうだろう。沖縄戦に関する各資料館では、県外の学生が目立つのに比べ、県内の学生の姿は少ないと聞く。

 戦争体験を「知る」ことは難しいことではないが、それを「自分のこととして受け止め、考える」には歴史に対する謙虚さと想像力が必要だ。

 沖縄全戦没者追悼式では読谷小四年生の嘉納英佑君(10)が「世界を見つめる目」との題で平和の詩を朗読する。嘉納君は、普段から祖父母の体験談を聞き、親の話に耳を傾けてきた。肉親の痛みや苦しみに寄り添う中で、今の平和が掛け替えのないものだと知る。戦争がなくなり、皆が幸せになれるように「やさしい手とあたたかい心を持っていたい」と誓う。

 戦争を知らない世代には日常生活の中で、絶えず戦争と平和について考える持続力も求められる。

 宜野湾高校では「慰霊の日」を前に、女性史家の宮城晴美さんを招き講演会を開いた。三十代の教諭らは「戦争を知らない私たちが、言葉に重みを乗せて生徒に語るのは難しい。語り継いでいくためには学ぶしかない」と話す。

 戦争体験者は年々、少なくなる。戦争体験のない戦後世代が、さらに年少の世代に対して沖縄戦を語る時代がすでに始まっている。学校のみならず、家庭や地域で戦争について考える環境づくりが欠かせない。体験者自身も気付かなかった新しい事実を掘り起こす努力を続けよう。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080623.html#no_1

 

琉球新報 社説

慰霊の日 逃げ惑わない平穏な島に/語り継ぎたい沖縄戦の実相 2008年6月23日

 日米両軍が住民を巻き込み、激しい地上戦を繰り広げた沖縄戦から63年。おびただしい犠牲を払って得た教訓が十分に生かされず、頼みとする平和憲法に揺らぎも見える中で、沖縄は鎮魂の季節を迎えた。

追い詰められた住民

 沖縄での地上戦は太平洋戦争末期の1945年3月下旬、慶良間諸島で始まった。米軍が座間味、渡嘉敷両島に上陸し、捕らわれることを拒む住民が家族や親せき同士で命を絶つ「集団自決」が発生した。米軍に投降した住民が日本兵に殺害される事件も起きた。

 米軍は4月、沖縄本島や伊江島に進攻し、沖縄戦が本格化。地獄の戦場とも称される地上戦の最前線で、多くの住民が逃げ惑い、命を落とした。伊江島では「集団自決」を含め、住民の約半数に当たる約1500人が犠牲となった。

 沖縄守備軍・第32軍は5月下旬、首里司令部を放棄し、本島南部へ撤退した。南部の戦闘では日本兵が住民をスパイ視して殺害したり、壕からの追い出し、食料強奪などが発生。軍隊と混在する極限状態の中で、追い詰められた地域住民や、駆り出された学徒隊の悲劇は起きた。

 戦場では「人間として生きる」ことが、いかに難しいかがよく分かる。兵士に「規律」を求めること自体、無理があろう。「軍隊は住民を守らない」などと言われるゆえんだ。

 現代に生きる私たちは、こうした沖縄戦の実相を語り継ぐ責務がある。「負の遺産」であっても、目を背けてはいけない。被害の視点も、加害の視点もともに心に刻んでこそ、未来へとつながる。

 ただ、残念なことに、沖縄戦の実相を伝えることを拒むかのような動きがくすぶっている。教科書検定問題が顕著な例だ。文部科学省は昨年3月、高校歴史教科書で沖縄戦の「集団自決」を日本軍が強制したとする記述を退ける検定意見を公表。沖縄では同9月、これに抗議する大規模な県民大会が開催された。

 県民大会は超党派で開かれ、県知事も、県議会議長も参加した。検定意見の撤回要求は譲れない一線であり、県民の総意といっていいだろう。昨年末の検定審議会で一定の記述回復が図られ、決着した形だが、歴史観をめぐる論争はせめぎ合いが続く。

「声なき声」に耳を

 もうひとつ気になるのは国民保護法をめぐる動きだ。他国からの侵攻やテロなどの有事を想定し、住民の避難誘導などで被害を防ぐ目的の法律で、国と自治体による共同訓練が始まっている。民有地や家屋の使用など私権制限に踏み込んでいるのが特徴だが、軍事優先の印象は否めない。詰まるところ、沖縄戦とダブって見える。

 逃げる手だてを考え、訓練しておけば大丈夫という話ではあるまい。沖縄戦を教訓とするなら、まずは逃げ惑う必要のない平和で安定した国づくり、島づくりを考えるのが筋だろう。現状は「戦力の不保持」をうたった平和憲法の危機ともいえる。

 太平洋戦争で沖縄は、本土防衛の“捨て石”にされた。戦後、本土から切り離されて米国統治下に置かれ、復帰後も広大な米軍基地の重圧に悩まされている。憲法が保障する基本的人権など、どこへ行ったのかと思う。

 未曾有の戦禍を体験し、県民は「命どぅ宝」(命こそ宝)という言葉をかみしめた。もう逃げ惑わなくていい島に、人間の尊厳を守れる国に住みたいと思うのはごく自然ではないのか。

 沖縄戦の激戦地だった那覇新都心に近い丘の周辺で22日、平和学習の高校生ら市民が戦時中のものと思われる遺骨と遺品を見つけた。不発弾処理もそうだが、半世紀余を経て、戦後処理が終わっていないことを実感する。

 慰霊の日は、戦争さえなければ幸せな生涯を送れたであろう人々の「声なき声」に耳を澄まそう。惨禍を繰り返さない誓いを、一人一人が新たにしたい。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-133424-storytopic-11.html

 

2008年6月23日(月) 夕刊 1面

歴史の真実 後世に/慰霊の日 礎の銘に祈る遺族

 「慰霊の日」の二十三日、沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた。県内外から五千六百七十人の遺族らが参列し、沖縄戦の犠牲者らに祈りをささげた。参列者からは、歴史教科書の「集団自決(強制集団死)」問題のように、戦前回帰の動きが高まっていることに危機感を募らせる声が上がった。式典で仲井真弘多県知事は「沖縄、日本、世界の人々が安心して暮らせる平和な社会の実現を目指す」と平和宣言。河野洋平衆議院議長は「私たちは軍が沖縄の住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない、という疑念からも目をそらせてはならない」とし、米軍基地問題などに日本の政治の一層の努力を促した。

 河野議長は「在沖縄米軍基地の移転・縮小問題は、十分な成果を挙げるには程遠い状況にある。国家の指導部が戦争の早期終結を図ることができなかったことが、沖縄の大きな犠牲を生んだいきさつを考えると、日本の政治がこの解決に全力を傾けるべきことは自明のこと」と述べた。

 県議会の仲里利信議長は「多くの犠牲をはらって学んだ教訓を風化させることなく、平和と命の尊さを子々孫々に語り継ぐ」と式辞を述べた。

 県遺族連合会の仲宗根義尚会長は「『集団自決』は紛れもない真実であり、歴史的事実を正しく伝えることこそが平和建設にまい進する原動力」とあいさつした。

 嘉納英佑君=読谷小四年=は「世界を見つめる目」と題して、平和の詩を朗読し、「みんなが幸せになれるようにぼくは、世の中をしっかりと見つめ、世の中の声に耳を傾けたい」と決意を込めた。

 会場となった平和祈念公園では、戦没者約二十四万人を刻銘した「平和の礎」前で早朝から手を合わせて祈りをささげる遺族らの姿があった。

 豊見城市から参列した大城千代さん(68)は、糸満市真栄平の壕の前で砲撃に遭って亡くなった両親や兄弟の名前をなぞりながら、「家族に続いて日本兵が壕に入った直後、砲弾がさく裂した。母や兄弟はその場で犠牲になったが、私は日本兵の下敷きになって助かった」と振り返った。「『集団自決』をはじめ、戦争での死を美化する考えは怖い。戦争はむごく、二度と起こしてはならないものだ」と強く語った。


「沖縄の苦難 忘れぬ」

福田首相 戦没者へ献花


 福田康夫首相は二十三日午後、米軍普天間飛行場の移設問題で県と名護市が代替施設の沖合移動を求めていることへの対応について「地元の意向は大変に大事だ」と述べ、沖縄側の意向を尊重する姿勢を強調した。沖縄全戦没者追悼式に出席後、記者団の質問に答えた。

 福田首相は普天間移設で「いま環境アセスメントをやっているし、協議会という場もある。仲井真弘多知事や島袋吉和名護市長と話し合いをし、納得できる線を出していかなければ」とし、県や名護市と協議を継続する考えをあらためて示した。

 追悼式への参列について「沖縄の方々が苦難の時を過ごされたことは、私たち日本人は決して忘れてはいけない。しっかり歴史の事実を伝えていく責任がある」と述べた。

[ことば]

 沖縄戦 太平洋戦争末期に沖縄本島や周辺の島々で展開された。住民も戦場に駆り出され、日米の軍人を含め20万人以上が犠牲になった。各地で日本軍による住民殺害や「集団自決(強制集団死)」も発生。日本軍は首里の司令部を放棄し、本島南部へ撤退した。6月23日に日本軍を指揮した第三二軍の牛島満司令官が自決し、組織的な戦闘は終わったとされる。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231700_01.html

 

2008年6月23日(月) 夕刊 5面

癒えぬ戦世の傷/刻銘清め 亡き姿に涙

 慰霊の日の二十三日、糸満市摩文仁の平和の礎や同市米須の魂魄の塔には早朝から大勢の人が訪れ、花を手向けた。礎では、初めて刻まれた名前に手を合わせる遺族の姿もあった。沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定問題など、過去の戦争を美化する動きに危機感を示す声もあった。朝から照りつける太陽の下、六十三年たってなお消えない悲しみが辺りを包んだ。

平和の礎


 平和の礎には続々と遺族や関係者が訪れて、刻銘された名前をふき清めたり、果物やお菓子など供え物をして手を合わせていた。

 戦後、シベリア抑留中に亡くなった兄の盛孝さん(享年22)の参拝に来た那覇市の金城清政さん(77)は、憲法改正手続きを定める国民投票法成立などの動きを、「戦争のころに戻っていくような気がする」と憂う。

 刻銘された、いとこの上原辰也さんの名前に「ごめんなさいね」と涙を流しながら酒をかけていた垣花ツヤ子さん(72)=宜野湾市。妹のようにかわいがってくれた優しい人だった。戦時中、上原さんの両親は外国や本土に行っており、親族が誰も知らない間に、召集され、その後、どこで亡くなったかも分からない。「遺族にとって悲しさは、ずっと変わらない。誰も知らずに動員され、戦死したいとこが、安らかに眠れる世の中になってほしい」と声を詰まらせた。

 防衛隊に召集された父親と兄、姉を亡くした玉那覇兼三さん(69)=那覇市=は、戦後二年目に母親も亡くし、残されたきょうだい二人で戦後を生きた。「戦争がなければ両親や兄、姉も死なず、家族は幸せだったはず、といつも思っていた。二度と戦争が起きないようにするのが自分たちの務めだと思う」と汗をぬぐった。

 登川ヨシ子さん(73)=那覇市若狭=は「慰霊の日には毎年、長い時間兄の名と向き合って話をして、一緒に過ごしていたときの楽しい時間を思い出す。戦後、兄の同僚から真壁で苦しんで亡くなったという話を聞いた。結婚後わずか三カ月だった。兄のことを思うと心が苦しい。子や孫にこんな思いをさせない時代が続いてほしい」と話した。

 金城盛一さん(65)=糸満市真壁。「二歳の時に父親が亡くなった。顔もほとんど覚えていないが、毎年参拝に来る。本当は父に甘えたかったし、話もしたかった。刻まれた名を見るたびに残念に思う。二度と戦争を起こしてはいけない」。


魂魄の塔

遺族ら献花絶えず


 「魂魄の塔」には、早朝から遺族が絶え間なく訪れ、献花や祈りをささげた。つえをついて足を引きずりながら参列するお年寄り。病気などで足を運べなかった祖父母に代わり、花を手向け手を合わせる子や孫の姿が見られた。

 当時二十歳だった兄が南部で犠牲になったという那覇市の久高友蒲さん(77)は、遺骨のない兄の供養のため毎年訪れている。「兄は福岡の軍需工場で働いていて、沖縄に戻ってすぐに少年兵として召集され、糸満近くで亡くなったと聞いている。戦争は嫌いだ。戦争は人殺し。私自身も弟をおぶり首里から北部に向かって、迫撃砲の中を逃げ歩いた。戦争の怖さをいつになっても忘れない」と口元に力を込めた。

 娘と孫と訪れた与那原町の町田初子さん(77)は当時、糸満市米須近くの畑で作業中、たくさんの遺骨を収集し、魂魄の塔に納骨したという。「芋を掘ると、人の頭が出てきたが、怖いという気持ちはなかった。父も遺骨がなかったから、こんなふうだったのかな、と思いながら一生懸命拾った。これだけ拾ったから毎年来ないといけないさ、と人に言われて来ているよ」と話した。

 沖縄戦で家族四人を亡くした砂川吉子さん(71)=浦添市。南部に避難した際に爆弾の破片で母親ときょうだい二人を失った。当時七歳だった砂川さんは「泣いていいのか、何が何だか分からなかった」と振り返る。父親の亡くなった場所はいまだに分からず、十代のころから毎年魂魄の塔を訪れている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231700_02.html

 

2008年6月23日(月) 夕刊 5面

米軍兵長に有罪/タクシー襲撃

 沖縄市で今年三月、タクシー運転手が外国人少年らに襲われ、釣り銭箱を奪われた事件で、傷害と窃盗の罪に問われた在沖米空軍嘉手納基地所属の兵長で憲兵隊員のダリアス・エイ・ブランソン被告(22)の判決が二十三日、那覇地裁であった。〓晋一裁判官は、懲役三年、執行猶予五年(求刑懲役三年)を言い渡した。

 判決理由で〓裁判官は、犯行後にブランソン被告がアリバイ工作など証拠隠滅を試みたことを指摘し、「犯行は計画的かつ粗暴で悪質。共犯者関係などから見ても被告が中心的、主導的と認められ、責任は最も重い」とした上で、反省の態度を示し、国内での前科前歴がないことなどから猶予刑とした。

 判決によると、三月十六日午前零時二十分ごろ、沖縄市中央二丁目の路上で実行役の少年らがタクシー運転手男性(55)の頭部を拳で殴るなどして暴行。運転手が逃げ出したすきに、現金六千円が入った釣り銭箱などを盗んだ。

 運転手は全治三日のけが。ブランソン被告は、家具購入代金のローンの返済に窮し、自宅に出入りしていた少年らに犯行を持ち掛けるとともに、現場に車で送り迎えをするなど、事件を首謀した。

※(注=〓は「頼」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231700_04.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 1面

島抱く平和の祈り/各地で慰霊祭

 戦後六十三年目を迎えた慰霊の日の二十三日、県内各地で沖縄戦の犠牲者を悼む慰霊祭が行われた。戦争体験者や遺族、その子や孫たちが非戦の誓いを新たにした。

 南城市佐敷小谷自治会(知念和夫会長)では、新たに建立された慰霊塔前に約九十人が参列。琉球古典音楽の追悼演奏などで刻銘された百七十三人の犠牲者の冥福を祈った。

 沖縄戦で父親を亡くした津波源福さん(71)は「小谷では米軍の激しい艦砲射撃などで多くの住民や軍人が犠牲となった。歴史教科書問題が示すように、戦争の真実を次世代に受け継ぐことが私たち遺族の使命だ」と力を込めた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_01.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 25面

問い続ける「あの日」

 慰霊の日の二十三日、六十三年前の戦争体験が新たに語られた。糸満市摩文仁の平和の礎で、各地の慰霊祭で、家族を亡くした「集団自決(強制集団死)」や日本兵の壕追い出しなど、つらい記憶を話すお年寄り。「体験者が少なくなった今こそ」「でも、まだ…」。複雑な思いを抱え、次代に伝えるために重い口を開いた。

幼い末妹思い 消えぬ痛み/「集団自決」体験した姉妹


 「実はまだ、自分らの子どもにも話していないことがあるんだよ」

 渡嘉敷村の刻銘板の前に座り込んだ姉妹は、「集団自決」で亡くなった母と、六人きょうだいの中でただ一人犠牲になった生後五カ月だった末妹の名を見上げながら静かに語った。

 同村阿波連集落の出身。渡嘉敷島に米軍が上陸すると、母とともに下ろしたての晴れ着を着て北山へ逃げた。「フィジガー」と呼ばれる水源地に着くと、遠縁の親類の輪に入って身を寄せた。

 やがて、あちこちで「集団自決」が始まる。親類の誰かが手榴弾を持ち出したが、不発だった。「そしたら、手榴弾を解体して中から火薬を取り出し、『これを食え』って」。当時十一歳だった長女(74)は振り返る。「人を殺す武器だから、中身も毒と思ったんだろう。みんな狂っていた」

 ついに一人が木の棒を持ち出し、周囲の人々を殴り始めた。長女は後頭部を二度殴られて倒れる。意識はあったが、死んだふりをした。「動かなければ殴られない。ただ怖かった」

 当時六歳の三女(70)はこの時、ほかの姉弟三人とともに川下へ一目散に逃げだした。「死ぬなんて怖くて」。母の「アメリカーに殺されるよ」との声を振り切り、雨の中をさまよった。だいぶたってからフィジガーへ戻り、小さな体で無数の死体を乗り越えると、晴れ着は真っ赤に染まっていた。「死体の間で、首が顔の幅ほどに腫れ上がった姉を見つけた。母たちはみんな血まみれで動かなかった」

 そばに倒れていた末妹はわずかに息をしていた。生き残った姉妹ら五人はただ見守るだけだった。その後、川を上ってきた米軍に収容され、ぼんやりと山を下りたが、妹は連れ帰れなかった。

 「米兵が助けてくれるとは知らなかった。いや、妹をどうするかを考える力も残ってなかったのか」。姉妹たちは今も問い続けている。「いつかは語らなければとは思う。でも…」。そう言いながら、末妹の刻銘をそっと指でなでた。


手榴弾取り出し「死のうか」と父/座間味村出身・内間さん


 座間味村出身の内間弘子さん(70)=南城市=は米軍が上陸すると、父と姉、祖父母とともに家族用の防空壕に逃げ込んだ。身を寄せ合えばすき間もないほどの小さな壕。しかし、外の様子を見に出た祖父が米兵に捕まり、全員で投降した。

 父は、米兵が目を離したすきにポケットから缶ジュースほどの物体を取りだした。

 「死のうか」

 姉がうなずくと、父がぐっと抱き寄せてきた。

 当時六歳の内間さんは手榴弾を知らなかったが、「生き恥をさらすな」という言葉はたたき込まれていた。父がしようとしていることはすぐ理解した。「その時突然『嫌だ、怖い』と思ってね」。とっさにそばの畑の中に飛び込んだ。

 おそらく米兵が気付き、騒ぎになったようだった。しばらくして父の声が聞こえた。「弘子、もう死なないから。死なないから」。恐る恐る戻ると、父の手にもう手榴弾はなかった。

 座間味の親類二人と、本島にいた一番上の姉は亡くなった。後年、父はことあるごとに言った。「生き残れたのは弘子のおかげだ」

 父がなぜ手榴弾を持っていたのか、今はもう分からない。ただ、父に背負われて壕へ逃げる途中、負傷した日本兵に出会い、爆発音が響く恐怖の中で父と兵士が何か話をしていたのを覚えている。

 「あのとき『自決』用の手榴弾を渡されたんだと思う」と内間さんは言う。「日本軍の存在は絶対だった。私は子どもだったからそれがよく分からず、だから私たちは生き残ったんです」


南北の塔で戦体験語る/山部隊との合同慰霊祭


 沖縄戦で数千人が犠牲となり、旧日本軍による住民虐殺も起きた糸満市真栄平。集落内の南北の塔で行われた旧軍「山三四七八部隊」との合同慰霊祭で、老人会会長の金城栄保さん(73)が、「砲弾が降る中、旧日本軍に三度、壕から追い出された」と体験を話した。航空自衛隊与座岳分屯基地の幹部が毎年、招待される同慰霊祭で詳細な戦争体験が語られるのは初めてという。

 金城さんは、住民が南部を逃げ惑い、米軍が「無差別攻撃を仕掛けていた」戦況を説明。近隣七世帯で二カ月かけて掘った壕に隠れていた一九四五年五月中旬、日本兵数人に銃剣を突き付けられ追い出された。

 別の二つの壕も追われ、米軍の捕虜に。収容所で父親はマラリア、五歳の妹も赤痢で死亡した。八カ月後に戻ると集落は灰じんに帰し、無数の骸骨が転がっていたという。

 金城さんは「体験者が少なくなった今、話さないと戦争のむごたらしさを引き継げない」と強調。自衛隊幹部がいる中での話に「複雑な気持ちもあったが、事実は伝えるべき。立場は違っても、慰霊の日に同じ場所で平和を考えることは意義がある」と力を込めた。


世界の幸せ願い 詩朗読/嘉納英佑君


 沖縄全戦没者追悼式で、「平和の詩」、「世界を見つめる目」を朗読した読谷小学校四年の嘉納英佑君(10)。よどみなく読み終え、ほっとした笑顔を見せた。

 朗読が決まってから、毎日五回練習したという。最も訴えたかったのは「みんなが幸せになれる」世界。その部分では、声にも力を込めた。

 「人と人が殺し合う戦争は怖い。人には優しい大人になりたい」と嘉納君。将来の夢は、「病気で苦しんでいる人を助ける薬剤師になりたい」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_02.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 24面

悲しみ越え平和継承

嘉義丸撃沈で親子漂流/長男の刻銘 なぞり涙

 「平和の礎」では、早朝から遺族らが肉親の名前を探し歩いた。戦時中、乗っていた客船「嘉義丸」を鹿児島県奄美大島沖で米軍に撃沈され、当時二歳の長男・一男ちゃんを失った那覇市首里出身の新城スエさん(91)=東京都府中市=は、力を振り絞るように車いすから立ち上がり、刻銘された一男ちゃんの名前をなぞり泣いた。

 一九四三年五月二十六日。大阪に住んでいた新城さんは、両親に一男ちゃんを会わせるため、沖縄に帰る途中に嘉義丸が魚雷を受けて沈没した。長男をロープで背中にくくりつけて四―五時間漂流し、漁船に救出されたが、一男ちゃんは動かなかった。

 「生きているのと同じように肌のぬくもりがあったのに…。かわいい笑顔が今も忘れられない」とスエさん。

 沖縄戦の戦没者以外も礎に刻銘されることを知り、九六年、一男ちゃんの名前を追加刻銘してもらった。それ以降、毎年、慰霊の日に合わせて娘の中島正子さん(64)と、新城幸男さん(59)の家族三人で訪れている。一男ちゃんが亡くなって約半年後に生まれた正子さん。「私は兄の生まれ変わり。母は毎年、最後だからと言って訪れている。来年も三人で兄を訪ねたい」と話した。


戦争体験者を取材 ドキュメント制作/美里高校放送部


 平和の尊さを、同世代に伝えたい―。美里高校放送部の前原友香部長(17)=二年=と棚原かおりさん(16)=同=は沖縄全戦没者追悼式や、戦争体験者を取材した。撮影した映像は編集後、同校の平和学習に使用したり、放送部の全国大会にドキュメンタリーとして出品する。

 「平和の礎」を訪れた戦争体験者三人から話を聞いた棚原さん。「生で見ると、人が大勢いる。ここに来て、平和と戦争のことを深く知りたくなった」と表情を引き締めた。

 取材中、戦没した兄の刻銘を探す女性(91)を手伝った。名前を確認し、「つらかったね、ごめんね」と涙を流す姿に、前原さんは「戦争が、いろんな大切なものをなくしていくんだ」と憤り、「作品では伝えられない部分もあるかもしれないが、見たみんなに、平和について何かを考えてほしい」と期待した。


高校生が映像で訴え/「島クトゥバで語る戦世」上映


 【南風原】南風原町に住む高校生らのグループ「はえばるYouth」(福広太郎代表)が、戦争と平和について考えようと、沖縄方言で戦争体験を語ったお年寄りらを撮影したビデオの上映会を南風原陸軍病院壕群二十号の管理棟前の広場で開いた。

 写真家の比嘉豊光さんらが作製した「島クトゥバで語る戦世」に収録された証言者の中から同町出身の二十人余の映像を上映。

 南部各地の壕をさまよった体験や爆弾で家族を失った悲しみ、サイパンでの飛び込み自殺のことなどについて、身ぶり手ぶりを交えて語る証言者の様子を、参加者が真剣な表情で見詰めていた。

 沖縄尚学高校三年生で、国際交流活動をしている祖慶奈穂さんと根間亜里沙さんは「祖父や祖母から『今の社会の雰囲気は戦前の状況と似てる』と聞かされているので、また戦争が起こらないか不安。私たちの世代がきちんと勉強して、行動を起こさないといけないと感じた」と訴えていた。

 上映グループの福代表は、「過去に『1フィート映像 ドキュメント沖縄戦』を上映したが、それは米軍側からの視点だった。今回は住民側の目で見た戦争を知る必要があると思った」と意義を話していた。


米基地の政府責任言及/河野洋平衆院議長


 沖縄全戦没者追悼式で河野洋平衆議院議長は戦没者への追悼の辞で、県内に集中する米軍基地問題について政府の責任に触れた。「私はすべての国会議員に『ワンネー、ウチナーンチュ、ヤイビーン(私は、沖縄県民です)』という心でこの問題に向き合ってほしいと呼び掛ける」と述べると、会場から拍手が起きた。

 戦時中の旧日本軍についても「私たちは軍が沖縄の住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない、という疑念からも目をそらせてはならない」とした。

 県議の外間盛善さんは「非常に県民の痛みを理解している内容だった。戦時中の旧日本軍の問題にも触れるなど、県民のいろんな思いをよくくみ取ってくれたと思う」と感激した。

 一方、沖縄戦後、学童疎開から戻ると父や祖父母が亡くなっていたという大城勇さん(73)=豊見城市=は「力強い言葉ではあるが、どれぐいらい本心かな」と話した。


天満さん鎮魂の演奏 バイオリンの調べ響く/県立美術館


 慰霊の日の二十三日、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館で、世界的なバイオリニストの天満敦子さんがバイオリンを演奏した。

 同館で開催中の沖縄タイムス創刊六十周年企画「情熱と戦争の狭間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」(主催・文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館、共催・沖縄タイムス社)の関連イベント。

 毎夏、長野県の無言館で演奏会を開いている天満さんは、戦没画学生の残した作品を前に祈りを込めて「望郷のバラード」などを演奏。「絵に問い掛けながらバイオリンを弾いています。海の絵を見ながら、こういう所に帰りたかったのかもしれないと思いました」と話した。

 また、午後からは首里高校合唱部の「合唱によるレクイエム」があった。「情熱と戦争の狭間で」は二十九日まで。二十四日は休館。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_03.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 2面

負担減 道筋見えず/首相あいさつ 前年踏襲

 福田康夫首相は二十三日、沖縄全戦没者追悼式に出席、在沖米軍基地の整理・縮小に取り組む決意を強調した。しかし最大の焦点である普天間飛行場移設問題は、日米両政府で合意したV字形滑走路の建設位置をめぐる地元との協議が難航、手詰まり感さえ漂っている。政府が繰り返す「沖縄の負担軽減」への道筋はまだ見えない。

平和への思い


 「美しいデイゴの花をつらい記憶を呼び起こす花にしない」。追悼式のあいさつで、首相は県花を引き、戦前生まれとしての平和への思いをのぞかせた。

 だが、基地問題で新味はなかった。首相は沖縄の「負担軽減に向け、地元の切実な声に耳を傾け全力を挙げて取り組む」と述べたが、昨年、式典に参加した安倍晋三前首相から出た言葉をほぼ踏襲した。

 普天間移設問題では、名護市のキャンプ・シュワブ沿岸部にV字形滑走路の建設を進めようとする政府側と、騒音や安全性への懸念からより沖合への移設を求める沖縄側が対立。官邸に設置した協議会でも議論は平行線のままだ。


ガラス細工


 政府は昨年来、前防衛事務次官の守屋武昌被告(収賄罪で起訴)が進めた「アメとムチ」路線を転換し、北部振興費や名護市への米軍再編交付金凍結を相次いで解除、話し合いによる妥協点を模索したが、合意に至っていない。

 一方、米側は日米で合意した政府案の修正に難色を示す。「合意は当時のラムズフェルド米国防長官が米軍内の反発を何とか抑え込んだガラス細工。少しでも修正したら全体が壊れる」(政府関係者)。米側は在沖海兵隊のグアム移転の条件として、二〇一四年の移設完了を譲らず、板挟みの政府に打つ手はない。


身動き取れず


 一方、仲井真弘多知事は今年初めから「九十メートル程度、沖合へ移す」との修正で政府側との妥協を模索し始めていた。〇六年十一月の知事選で、普天間返還を前提にした経済振興を打ち出し当選しただけに、移設問題の行き詰まりは、県政運営の命取りになりかねない。知事周辺は「修正に一時、前向きな姿勢を示した町村信孝官房長官が担当者であるうちに解決したいという焦りもあった」と明かす。

 そんなさなか、県議選で与野党が逆転。県幹部は「条件付きで県内移設を進める県の政策に影響は出ない」と強気だが、妥協案の県議会受け入れは厳しい状況で、知事も身動きが取れない状態に陥った。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_04.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 2面

造成工事本格化/シュワブ 山肌、一部露出

 【名護】米軍普天間飛行場の移設に伴い沖縄防衛局は、名護市キャンプ・シュワブ内の兵舎や舟艇整備工場の建設に向けた造成工事を本格化させている。二十三日、大型建設機材を使った大規模な造成工事の様子が確認された。

 同基地周辺の海域から確認できただけで、ショベルカー六台のほか、土砂を積んでいるとみられるダンプカーがひっきりなしに行き来していた。山肌も一部削られているもようだ。

 同基地内には、下士官宿舎(約九千百二平方メートル)や倉庫(約千七百十九平方メートル)、管理棟(約三千百六十九平方メートル)、通信機器整備工場(約二千七百七十平方メートル)、舟艇整備工場(約三千百四十七平方メートル)を建設する計画。建設場所は飛行場建設予定地の西側で、工期は二〇〇九年九月末となっている。

 同基地内の埋蔵文化財について、名護市教育委員会は、市議会定例会に計上している調査費補正予算が可決された後、七月から四カ月間の予定で本調査を実施する。これまでの試掘調査などで、海側から水田跡が確認されたため、海側を調査する予定だ。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_06.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 1面

政府「運用改善が合理的」/従来見解を閣議決定

地位協定・県民大会要請

 【東京】政府は二十四日午前、三月に開かれた「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」で決議された「日米地位協定の抜本改正」について、「その時々の問題について運用の改善により機敏に対応していくことが合理的」とする従来見解を閣議決定した。また、同協定に基づき、日本側に第一次裁判権がないとされる「公務中」の範囲を、通勤や職場での飲酒にまで拡大した一九五六年三月の日米合同委員会合意に至る日米協議の議事録公表について、「両政府の合意なしには公表しない」とする答弁書も決定した。

 県民大会決議への答弁書では、米兵暴行事件について「極めて遺憾」としつつ、大会決議で求めた「実効性ある具体的な再発防止策」について、日米合同委員会などで協議中であることを説明するにとどめた。その上で「再発防止のためには、このような地道な努力を継続的に積み重ねていくことが必要」との見解を示した。

 衆院の赤嶺政賢氏(共産)、照屋寛徳氏(社民)、下地幹郎氏(無所属)、参院の喜納昌吉氏(民主)、山内徳信氏(社民)、糸数慶子氏(無所属)の県選出野党国会議員六氏の連名による質問主意書に、答弁書で示した。

 一方、地位協定に基づく「公務中」の範囲拡大に関する合同委合意をめぐって、五六年四月に法務省刑事局長が全国の検事正らにあてた通達は、勤務地への往復時の交通事故を公務中として処理するよう指示。参考資料として、合意までの協議内容を記した前年(五五年)十一月の合同委刑事裁判権分科委員会議事録を添付していた。

 これらの経緯は、機密解除された米側公文書などで明らかになっているが、政府は今回の答弁書で「(全国の検事正らにあてた)通達を発出したかどうかを含め、これを公にすることにより、米国政府との信頼関係が損なわれるおそれ、および公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼす」として、公表に難色を示した。

 照屋氏の質問主意書に答えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_01.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 4面

「戦争二度と」思い秘め/梯梧同窓会20人 参拝

 同窓生や遺族の高齢化で戦後六十年を区切りに慰霊祭を自由参拝に変えた梯梧同窓会(元昭和高等女学校)の会員ら約二十人が二十三日、糸満市米須の慰霊塔を参拝した。

 会員の吉川初枝さん(80)は「この日は特別。足腰が丈夫な間は、参加したい」。

 自身戦争で砲撃を受け、背中と足首にけがを負った。同時に弟も失った。「戦争は人が人でなくなる」と語った。

 千葉県の吉原久喜さん(73)は、同校の校長だった八巻太一さんの孫で毎年参拝している。

 同窓会の要望で祖父の思い出をまとめた冊子を著し、会に贈った。祖父のことなどを記した石碑を前に「戦争に正義はない」と述べた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_03.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 4面

白梅之塔 慰霊の清掃15年/ガールスカウト36団表彰

 糸満市真栄里の「白梅之塔」慰霊祭で二十三日、十五年間清掃活動を続けたガールスカウト36団の子どもたちが表彰された。同団は、毎年六月に白梅之塔を清掃、同時に白梅学徒隊の生き残りの人々から話を聞き沖縄戦について学ぶなど、平和学習も続けてきた。慰霊祭にはメンバーら約二十人が参加した。

 同団の具志堅茉衣子さん(13)は「仲間が目の前で死ぬのはつらかっただろうな。今日のことや学徒隊の方から聞いた話を友達に伝えていきたい」と話した。

 白梅同窓会の中山きく会長は「皆さんの善い行いでとても気持ちが明るくなった。沖縄戦を学ぼうとする若者たちの参加を何よりも心強く思う」と激励した

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_04.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 5面

普天間に超大型輸送機/今月3度目 ヘリ積み込む

 【宜野湾】二十四日午前、米空軍の超大型長距離輸送機C5ギャラクシー一機が米軍普天間飛行場に飛来し、二〇〇四年八月に沖縄国際大学へ墜落したヘリと同型のCH53D大型輸送ヘリ二機を積み込んだ。ギャラクシーが同飛行場に飛来するのは今月に入って三度目。

 五月まで同飛行場に駐機していた十機のCH53Dのうち、十九日までに四機が別の基地に輸送された。今回ギャラクシーに積み込まれた二機のほか、残された四機も輸送準備のためローター(回転翼)が外されている。同飛行場に配属される第三一海兵遠征部隊は二十日に海外演習から帰還し、宜野湾市は騒音被害の増加を懸念している。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_05.html

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