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「慰霊の日」沖縄戦犠牲者悼む 島抱く平和の祈り/各地で慰霊祭 など 沖縄タイムス関連記事・社説、琉球新報 社説(6月22日から24日)

2008年6月22日(日) 朝刊 23面

沖大50年シンポ/戦世と今 結ぶ視点必要

 沖縄をめぐる問題について考える沖縄大学の創立五十周年記念シンポ「いま、沖縄に何が問われているか」(主催・沖縄大学)が二十一日、那覇市の同大学で開かれた。新崎盛暉・同大名誉教授をコーディネーターに、登壇した新聞記者三人が、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定や米軍再編、基地と振興策などの問題を議論した。

 「集団自決」の体験者への取材を続ける沖縄タイムスの謝花直美編集委員は、「幼いとき、日本軍による住民虐殺の話を聞き、戦争では子どもであり女性である自分のような『社会的弱者』が真っ先に死ぬと感じていた」と取材の動機を説明。「沖縄戦で普通の暮らしがいかに奪われたのかを押さえることが、軍事支配に気付き、いかに脱するかを考えることにつながっていく」と述べた。

 一方、「沖縄戦から今の沖縄へつながるものを、社会がまだ語り切れていないとも感じる。両者をどう結び付けるのか。憲法九条と基地の問題など、語るべき視点を獲得していくことが今後の課題になる」と語った。

 琉球新報の松元剛・整理部副部長は、米軍再編協議における沖縄と本土との意識の差を指摘。「この十年で沖縄を理解する政治家や官僚が引退し、政府の空気が変化している。一方で沖縄は戦略論を打ち出せず、『周回遅れ』との指摘もある」として「沖縄の発信力が試されている」と話した。

 基地経済からの脱却について語った同社の前泊博盛・論説副委員長は「自前の振興計画を作っていないのは全国で沖縄県だけ。政府から計画を押し付けられるのではなく、そろそろ自前で考えるべきだ」と指摘した。

 「何でもかんでもそろえるという閉鎖的な経済的自立は必要ない。何かに特化して世界経済のネットワークに参加していけばいい」と提言した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806221300_01.html

 

2008年6月22日(日) 朝刊 23面

特攻受けた米艦船 今も/慶良間沖 水深40メートル

 沖縄戦で米軍が最初に上陸した慶良間諸島。今でも、その海底には六十三年前の戦車揚陸艦(LST―447)が眠っている。米海軍歴史センターのホームページによると一九四五年四月七日に「カミカゼ アタック」(特攻)により沈んだという。

 約三十年前に漁師の金城吉克さん(55)が操業中、外地島の南側海域で魚群探知機で発見。大物が揚がる場所だったため、秘密にしていたという。

 その記憶を基に、五月、グランブルーマリンクラブ(山川勝章代表)のスタッフが、同ポイントを調査。船底を上にし、後方部分のみが残る船体を水深四〇メートルの海底で確認した。

 ガイドダイバーの竹内敦さんは「インターネットで調べたら多くの情報が出ている。この船と沈めた特攻隊員の物語が、もっとありそうだ。水深もあり、流れが速く危険なため、ダイビングポイントには難しいだろう」と話す。

 戦後のスクラップブームでほとんどの沈没船は引き揚げられたが、深場には、まだ、巨体が横たわっているかもしれない。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806221300_02.html

 

2008年6月22日(日) 朝刊 2面

国会閉幕/米兵事件めぐり 地位協定で激論

 【東京】首相問責決議が参院で、信任決議が衆院でそれぞれ可決されるなど与野党の激しい攻防が繰り広げられた第百六十九回通常国会が二十一日、閉会した。沖縄関係では、今年二月の米兵暴行事件を機に、民主など野党三党が日米地位協定の改定案を独自にまとめ、激しい論戦を繰り広げた。

 米兵暴行事件を受け、民主、社民、国民新の野党三党は三月末、(1)起訴前の身柄引き渡し要請に対する米軍の同意(2)施設返還時の環境汚染浄化は米国の責任―などを柱とした地位協定改定案をまとめた。

 国会でも、野党議員から地位協定改定を訴える指摘が相次いだ。しかし、政府は「考えていない。地位協定がある中で、いかに運用を改善するかということに力を入れている」(福田康夫首相)などと、消極的な答弁に終始した。

 野党の一部で、地位協定改定を求める国会決議を野党多数の参院で採決することを目指す動きもあったが、他の重要法案の審議の影響で、同国会での提出は見送られた。

 一方、Yナンバー車の登録の際に求められる車庫証明書について、今年一―三月の間に県内で登録されたYナンバー車三千三十九台中、車庫証明書が提出されたのは四台しかなかった問題も取り上げられた。

 外務省の西宮伸一北米局長は五月の参院外交防衛委員会で、同問題を協議する日米合同委員会の特別分科委員会が二〇〇四年八月三十一日以来、一度も開かれていないことを認めた。これを踏まえ、高村正彦外相は「日米合意が守られるよう努力する」と述べた。

 同委員会では、米軍横田基地がホームページに掲載している基地内のレンタカーサービスに関する紹介で、「レンタル料を支払えば、日本国内におけるほとんどの高速料金を支払わずに済む」として利用を呼び掛けていたことも判明。娯楽目的でも有料道路使用料を免れていた疑いが強まった。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806221300_03.html

 

2008年6月22日(日) 朝刊 22面

トーク「画家たちの戦争・表現」/鎮魂 芸術性を追求

 戦中戦後の激動期に絵を描き続けた画家たちの思いを、その遺族が語るアートトーク「画家たちの戦争体験と表現」が二十一日、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館講堂で開かれた。県出身の画家、山田真山、安次嶺金正、大嶺政敏、山元恵一の遺族が登壇、父親や夫の戦争体験や作品に込めた思いを語った。

 現在、同館で開催中の沖縄タイムス創刊六十周年企画「情熱と戦争の狭間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」(主催・文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館、共催・沖縄タイムス社)の関連イベント。

 山田昇作さんは父・真山が描いた、沖縄戦の戦火から逃げ惑う母子の作品に対し「亡くなった人びとへの鎮魂と、未来永劫に平和を伝えたい気持ちが込められている。その思いが、平和祈念像の制作にも結び付いた」と語った。

 戦前から東京で教職に就きながら絵を描いた大嶺政敏の三男の隆さんは「戦時中はすべての人が戦争に駆り立てられた。そのような中でも、父は芸術的な主張を貫いた」と語った。

 安次嶺金正の長女・宮里正子さんは父との思い出を、山元恵一さんの妻・文子さんは夫婦それぞれの戦争体験を語り、作品の背景を紹介した。同展は二十九日まで。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806221300_05.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 1面

きょう「慰霊の日」 沖縄戦犠牲者悼む

 きょう二十三日は「慰霊の日」。太平洋戦争末期の一九四五年、住民を巻き込んだ地上戦となった沖縄戦で、旧日本軍の組織的戦闘が終結した日から六十三年。県民の四人に一人ともいわれる犠牲者を悼み、多くの命を奪った史上最悪の経験から学び、平和を希求する日として、県内各地で慰霊祭が執り行われる。

 戦争体験の風化が進む中、軍隊や戦争を正当化する動きが、国内で活発になっている。

 文部科学省は昨年三月、二〇〇八年度から使用される高校の日本史教科書から沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に対する日本軍の強制を示す記述を削除させた。

 昨年九月に約十一万人規模の県民大会が開かれ、文科省へ削除撤回を要求。文科省は日本軍の関与の記述復活を認めたものの、「強制」については依然削除されたままだ。

 文科省の教科書問題をめぐっては、〇六年用中学歴史教科書検定で「従軍慰安婦」や「住民虐殺」の記述が消えるなど、戦場における軍隊の加害性についての削除が相次いでいる。

 糸満市の平和祈念公園ではきょう、沖縄全戦没者追悼式典が行われる。福田康夫首相は就任後初の参列。仲井真弘多県知事は平和宣言を行う。関係者らが列席し、正午の時報とともにすべてのみ霊に黙とうをささげる。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_02.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 21面

追悼の火 消すまい/慰霊祭継続 同窓会が模索

 多くの命が失われた沖縄戦から六十三年がたち、各地で慰霊祭を行う遺族会や学徒の同窓会などは確実に高齢化が進んでいる。会の解散が日程に上ったり、すでに解散したりしている会もある。無念の思いを抱いて逝った犠牲者への追悼の思いを若い世代や関係者以外に広げ、慰霊祭をどう引き継ぐか、各団体は方法を模索している。

 沖縄戦で廃校になった県立農林学校の同窓会は来年十一月に法人としては解散することが決まっている。

 数年前から活動の足跡を残そうと準備してきた。記念誌のほか今年と来年は、慰霊祭の様子をビデオ撮影し記録を残そうと計画している。事務局の知念正喜さん(78)は「同窓会がなくなるのは寂しいが、慰霊祭をどうにか継続できる方法を探った」と話す。同窓会の財産で最後に残った「農林健児之塔」とその土地を嘉手納町に寄付し、町が慰霊祭の告知やテント設営などを行う方向で検討している。

 同じく戦争で廃校になった旧県立首里高等女学校同窓会の瑞泉同窓会も、会員の高齢化と減少に悩む。塔の維持管理などのために「サポート会」を立ち上げる。具体的なサポートの形を含め、内容は検討中だが、県外など各地から六十人余りがすでに登録しているという。

 新元貞子同窓会長(83)は「同窓会はなくなっても慰霊塔だけはいつまでも語り継ぎ、火を消さないようやってほしい」と思いを語り、サポート会の今後に期待する。

 沖縄戦で亡くなった県職員の遺族や当時の職員で構成する「島守の会」は、「島守の塔」建立までの経緯や戦争体験者の証言を収録したDVDを今年完成させた。映像を見た遺族の孫世代から「感動した。会の活動にもっと積極的に参加したい」との声が寄せられたという。まだ先行きは見えないが、少しずつでも状況を好転させたいと望みをつないでいる。


本音で議論 風化防ごう

首里高養秀会が訴え


 首里高校養秀同窓会が三年前に開設した「一中学徒隊資料展示室」は、今年に入り、近隣学校の平和学習を除いても、これまでの三倍、月三十人以上が来館するようになった。だが、大浦敬文事務局長(58)は「ブーム的な側面もある。心から何かを感じているように見えない人も多い」と危機感を募らせる。

 首里高校の卒業生がかかわるため、会存続に心配はない。ただ、本当の意味で歴史を継承するには、若い世代が、自分の人生と重ね合わせられる「精神性」が必要と考える。「親族でも数十年で記憶は色あせる。顔も知らない先輩ならなおさらだ。人間の生き方、沖縄の在り方を問い掛けるものにしなければ、風化は防げない」

 普遍的なテーマを発信するため、「体験者が残したいもの、わたしたちが心動かされるものを、本音で議論する必要がある。戦争を知らないから、と遠慮していたら、体験者が居なくなったとき、語るべきものがなくなってしまう」と訴えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_03.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 21面

再開発区に遺骨次々/市民団体・市が収集

 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」(具志堅〓松代表)は二十二日、那覇市と連携して、同市の真嘉比小学校近くの土地区画整理地区で遺骨を収集した。真嘉比地区の住民ら約五十人が参加。行政と市民団体が連携しての収集は初めてで、大腿骨や鎖骨などが次々見つかった。

 作業開始から一時間半が過ぎたころ、男性の右大腿骨が土の中から姿を現した。ボランティアが周辺をスコップやつるはしで掘り進めると、「こっちも出た」。右の鎖骨や上腕骨が次々と見つかった。

 具志堅代表(54)は「沖縄戦の遺骨に間違いない。このぐらい(全身が)つながった状態で出るのは珍しい」と語る。

 遺骨脇から拾った、弾薬の一部とみられるさびた金属片を持ち、「この破片で死んだのかな。認識票が出てくれば身元が分かるのに…」と、しみじみとつぶやいた。

 同地区は新都心地区のシュガーローフと同様に、日本軍の支援陣地があった激戦地。昨年十一月から試掘を進める具志堅代表によると、今なお多くの戦没者の遺骨が眠っているという。再開発が進む中、「市内では遺骨収集ができる最後の場所だろう」と強調する。

 琉球大学工学部の高橋弘治さん(24)は、「壕の周りを掘ると普通に遺骨が出てきて、生々しさを感じた」と驚き、「慰霊の日は大切だが、ほかの日にも戦争は起こっていたということを忘れてはいけない」と言葉に力を込めた。

※(注=〓は「隆」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_04.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 20面

沖縄戦 未公開映像を上映/県公文書館が入手

 沖縄戦当時、米軍が撮影した映像資料の映写会が二十二日、南風原町の県公文書館であった。同館が米国立公文書館から入手した未公開映像もあり、集まった約百人の市民がスクリーンに目を凝らした。同館はこれまでに公開されている映像のほか、特に住民が映った未公開のカラー映像も二十二分に編集して上映。無声映像には県立真和志高校放送部の生徒五人がナレーションをつけた。

 画面には、橋の下から投降する一家、集落に火を放つ米兵、サトウキビ畑でさく裂する砲弾などが次々と映された。本島で見つかった十代の少女は片足を切断されており、米兵が「撤退を拒否したため日本兵に切られた」と書かれた英文メモをカメラに差し出すシーンも。

 南風原町新川の女性(80)は「映像がきれいで、あの時そのままだった」と話し、何度も涙をぬぐった。当時十七歳。「家族とともに毎日歩いて逃げて、何日歩いたか分からない。砲弾が落ちて、二人の弟も死んで、遺体もそのままで…。あの日のことは忘れようがない」と話した。

 放送部部長の座波友里恵さん(三年)は「映像で見る戦争は強烈でリアルで、どうやって気持ちを込めるか難しかった。その場にいるように語ろうと思うほど、恐ろしさを感じた」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_05.html

 

沖縄タイムス 社説(2008年6月23日朝刊)

[きょう「慰霊の日」]

バトンは私たちの手に


 梅雨が明けた週末、糸満市摩文仁の「平和の礎」に足を運んだ。戦没者の名を刻んだ碑を前に、花を供え手を合わせる人の姿があちこちに見られた。

 きょうは「慰霊の日」。戦後六十三年。命からがら戦火をくぐり抜けた人々にとって、肉親や学友を失った悲しみが薄まる歳月ではあるまい。暑い日差しの中で、碑を見つめ、いとおしむように名前をなぞる高齢者が目立った。

 「礎」には二〇〇八年六月現在、県民が十四万九千百三十人、県外七万七千三十三人、米国一万四千九人、韓国三百六十四人など、合わせて二十四万七百三十四人の犠牲者の名が記されている。

 一九九五年に完成後、毎年名前が刻まれており、今年も県内四十二人、県外七十二人など計百二十八人が追加刻銘された。六十年を超えてなお掘り起こされる事実は、戦争は決して終わることのない惨禍だ、と教えてくれる。

 沖縄は昨年来、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する高校歴史教科書検定問題で揺れている。その中で、誰にも話したことのない忌まわしい記憶を、語り始めた体験者たちがいる。自らの体験と周りの証言を重ね合わせることで、初めて自分の記憶の本当の意味を知る人もいる。

 教科書検定問題で、文部科学省は「集団自決」について、軍の関与を示す記述の復活は認めた。が、「軍の強制」という表現は、どの教科書にも盛り込まれなかった。

 体験者たちが、絞り出すように語り始めた背景には、多くの人々の身を削るような証言を顧みない動きに対する怒りがある。

 戦争体験者が語る一方で、戦争を知らない世代はどうだろう。沖縄戦に関する各資料館では、県外の学生が目立つのに比べ、県内の学生の姿は少ないと聞く。

 戦争体験を「知る」ことは難しいことではないが、それを「自分のこととして受け止め、考える」には歴史に対する謙虚さと想像力が必要だ。

 沖縄全戦没者追悼式では読谷小四年生の嘉納英佑君(10)が「世界を見つめる目」との題で平和の詩を朗読する。嘉納君は、普段から祖父母の体験談を聞き、親の話に耳を傾けてきた。肉親の痛みや苦しみに寄り添う中で、今の平和が掛け替えのないものだと知る。戦争がなくなり、皆が幸せになれるように「やさしい手とあたたかい心を持っていたい」と誓う。

 戦争を知らない世代には日常生活の中で、絶えず戦争と平和について考える持続力も求められる。

 宜野湾高校では「慰霊の日」を前に、女性史家の宮城晴美さんを招き講演会を開いた。三十代の教諭らは「戦争を知らない私たちが、言葉に重みを乗せて生徒に語るのは難しい。語り継いでいくためには学ぶしかない」と話す。

 戦争体験者は年々、少なくなる。戦争体験のない戦後世代が、さらに年少の世代に対して沖縄戦を語る時代がすでに始まっている。学校のみならず、家庭や地域で戦争について考える環境づくりが欠かせない。体験者自身も気付かなかった新しい事実を掘り起こす努力を続けよう。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080623.html#no_1

 

琉球新報 社説

慰霊の日 逃げ惑わない平穏な島に/語り継ぎたい沖縄戦の実相 2008年6月23日

 日米両軍が住民を巻き込み、激しい地上戦を繰り広げた沖縄戦から63年。おびただしい犠牲を払って得た教訓が十分に生かされず、頼みとする平和憲法に揺らぎも見える中で、沖縄は鎮魂の季節を迎えた。

追い詰められた住民

 沖縄での地上戦は太平洋戦争末期の1945年3月下旬、慶良間諸島で始まった。米軍が座間味、渡嘉敷両島に上陸し、捕らわれることを拒む住民が家族や親せき同士で命を絶つ「集団自決」が発生した。米軍に投降した住民が日本兵に殺害される事件も起きた。

 米軍は4月、沖縄本島や伊江島に進攻し、沖縄戦が本格化。地獄の戦場とも称される地上戦の最前線で、多くの住民が逃げ惑い、命を落とした。伊江島では「集団自決」を含め、住民の約半数に当たる約1500人が犠牲となった。

 沖縄守備軍・第32軍は5月下旬、首里司令部を放棄し、本島南部へ撤退した。南部の戦闘では日本兵が住民をスパイ視して殺害したり、壕からの追い出し、食料強奪などが発生。軍隊と混在する極限状態の中で、追い詰められた地域住民や、駆り出された学徒隊の悲劇は起きた。

 戦場では「人間として生きる」ことが、いかに難しいかがよく分かる。兵士に「規律」を求めること自体、無理があろう。「軍隊は住民を守らない」などと言われるゆえんだ。

 現代に生きる私たちは、こうした沖縄戦の実相を語り継ぐ責務がある。「負の遺産」であっても、目を背けてはいけない。被害の視点も、加害の視点もともに心に刻んでこそ、未来へとつながる。

 ただ、残念なことに、沖縄戦の実相を伝えることを拒むかのような動きがくすぶっている。教科書検定問題が顕著な例だ。文部科学省は昨年3月、高校歴史教科書で沖縄戦の「集団自決」を日本軍が強制したとする記述を退ける検定意見を公表。沖縄では同9月、これに抗議する大規模な県民大会が開催された。

 県民大会は超党派で開かれ、県知事も、県議会議長も参加した。検定意見の撤回要求は譲れない一線であり、県民の総意といっていいだろう。昨年末の検定審議会で一定の記述回復が図られ、決着した形だが、歴史観をめぐる論争はせめぎ合いが続く。

「声なき声」に耳を

 もうひとつ気になるのは国民保護法をめぐる動きだ。他国からの侵攻やテロなどの有事を想定し、住民の避難誘導などで被害を防ぐ目的の法律で、国と自治体による共同訓練が始まっている。民有地や家屋の使用など私権制限に踏み込んでいるのが特徴だが、軍事優先の印象は否めない。詰まるところ、沖縄戦とダブって見える。

 逃げる手だてを考え、訓練しておけば大丈夫という話ではあるまい。沖縄戦を教訓とするなら、まずは逃げ惑う必要のない平和で安定した国づくり、島づくりを考えるのが筋だろう。現状は「戦力の不保持」をうたった平和憲法の危機ともいえる。

 太平洋戦争で沖縄は、本土防衛の“捨て石”にされた。戦後、本土から切り離されて米国統治下に置かれ、復帰後も広大な米軍基地の重圧に悩まされている。憲法が保障する基本的人権など、どこへ行ったのかと思う。

 未曾有の戦禍を体験し、県民は「命どぅ宝」(命こそ宝)という言葉をかみしめた。もう逃げ惑わなくていい島に、人間の尊厳を守れる国に住みたいと思うのはごく自然ではないのか。

 沖縄戦の激戦地だった那覇新都心に近い丘の周辺で22日、平和学習の高校生ら市民が戦時中のものと思われる遺骨と遺品を見つけた。不発弾処理もそうだが、半世紀余を経て、戦後処理が終わっていないことを実感する。

 慰霊の日は、戦争さえなければ幸せな生涯を送れたであろう人々の「声なき声」に耳を澄まそう。惨禍を繰り返さない誓いを、一人一人が新たにしたい。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-133424-storytopic-11.html

 

2008年6月23日(月) 夕刊 1面

歴史の真実 後世に/慰霊の日 礎の銘に祈る遺族

 「慰霊の日」の二十三日、沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた。県内外から五千六百七十人の遺族らが参列し、沖縄戦の犠牲者らに祈りをささげた。参列者からは、歴史教科書の「集団自決(強制集団死)」問題のように、戦前回帰の動きが高まっていることに危機感を募らせる声が上がった。式典で仲井真弘多県知事は「沖縄、日本、世界の人々が安心して暮らせる平和な社会の実現を目指す」と平和宣言。河野洋平衆議院議長は「私たちは軍が沖縄の住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない、という疑念からも目をそらせてはならない」とし、米軍基地問題などに日本の政治の一層の努力を促した。

 河野議長は「在沖縄米軍基地の移転・縮小問題は、十分な成果を挙げるには程遠い状況にある。国家の指導部が戦争の早期終結を図ることができなかったことが、沖縄の大きな犠牲を生んだいきさつを考えると、日本の政治がこの解決に全力を傾けるべきことは自明のこと」と述べた。

 県議会の仲里利信議長は「多くの犠牲をはらって学んだ教訓を風化させることなく、平和と命の尊さを子々孫々に語り継ぐ」と式辞を述べた。

 県遺族連合会の仲宗根義尚会長は「『集団自決』は紛れもない真実であり、歴史的事実を正しく伝えることこそが平和建設にまい進する原動力」とあいさつした。

 嘉納英佑君=読谷小四年=は「世界を見つめる目」と題して、平和の詩を朗読し、「みんなが幸せになれるようにぼくは、世の中をしっかりと見つめ、世の中の声に耳を傾けたい」と決意を込めた。

 会場となった平和祈念公園では、戦没者約二十四万人を刻銘した「平和の礎」前で早朝から手を合わせて祈りをささげる遺族らの姿があった。

 豊見城市から参列した大城千代さん(68)は、糸満市真栄平の壕の前で砲撃に遭って亡くなった両親や兄弟の名前をなぞりながら、「家族に続いて日本兵が壕に入った直後、砲弾がさく裂した。母や兄弟はその場で犠牲になったが、私は日本兵の下敷きになって助かった」と振り返った。「『集団自決』をはじめ、戦争での死を美化する考えは怖い。戦争はむごく、二度と起こしてはならないものだ」と強く語った。


「沖縄の苦難 忘れぬ」

福田首相 戦没者へ献花


 福田康夫首相は二十三日午後、米軍普天間飛行場の移設問題で県と名護市が代替施設の沖合移動を求めていることへの対応について「地元の意向は大変に大事だ」と述べ、沖縄側の意向を尊重する姿勢を強調した。沖縄全戦没者追悼式に出席後、記者団の質問に答えた。

 福田首相は普天間移設で「いま環境アセスメントをやっているし、協議会という場もある。仲井真弘多知事や島袋吉和名護市長と話し合いをし、納得できる線を出していかなければ」とし、県や名護市と協議を継続する考えをあらためて示した。

 追悼式への参列について「沖縄の方々が苦難の時を過ごされたことは、私たち日本人は決して忘れてはいけない。しっかり歴史の事実を伝えていく責任がある」と述べた。

[ことば]

 沖縄戦 太平洋戦争末期に沖縄本島や周辺の島々で展開された。住民も戦場に駆り出され、日米の軍人を含め20万人以上が犠牲になった。各地で日本軍による住民殺害や「集団自決(強制集団死)」も発生。日本軍は首里の司令部を放棄し、本島南部へ撤退した。6月23日に日本軍を指揮した第三二軍の牛島満司令官が自決し、組織的な戦闘は終わったとされる。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231700_01.html

 

2008年6月23日(月) 夕刊 5面

癒えぬ戦世の傷/刻銘清め 亡き姿に涙

 慰霊の日の二十三日、糸満市摩文仁の平和の礎や同市米須の魂魄の塔には早朝から大勢の人が訪れ、花を手向けた。礎では、初めて刻まれた名前に手を合わせる遺族の姿もあった。沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定問題など、過去の戦争を美化する動きに危機感を示す声もあった。朝から照りつける太陽の下、六十三年たってなお消えない悲しみが辺りを包んだ。

平和の礎


 平和の礎には続々と遺族や関係者が訪れて、刻銘された名前をふき清めたり、果物やお菓子など供え物をして手を合わせていた。

 戦後、シベリア抑留中に亡くなった兄の盛孝さん(享年22)の参拝に来た那覇市の金城清政さん(77)は、憲法改正手続きを定める国民投票法成立などの動きを、「戦争のころに戻っていくような気がする」と憂う。

 刻銘された、いとこの上原辰也さんの名前に「ごめんなさいね」と涙を流しながら酒をかけていた垣花ツヤ子さん(72)=宜野湾市。妹のようにかわいがってくれた優しい人だった。戦時中、上原さんの両親は外国や本土に行っており、親族が誰も知らない間に、召集され、その後、どこで亡くなったかも分からない。「遺族にとって悲しさは、ずっと変わらない。誰も知らずに動員され、戦死したいとこが、安らかに眠れる世の中になってほしい」と声を詰まらせた。

 防衛隊に召集された父親と兄、姉を亡くした玉那覇兼三さん(69)=那覇市=は、戦後二年目に母親も亡くし、残されたきょうだい二人で戦後を生きた。「戦争がなければ両親や兄、姉も死なず、家族は幸せだったはず、といつも思っていた。二度と戦争が起きないようにするのが自分たちの務めだと思う」と汗をぬぐった。

 登川ヨシ子さん(73)=那覇市若狭=は「慰霊の日には毎年、長い時間兄の名と向き合って話をして、一緒に過ごしていたときの楽しい時間を思い出す。戦後、兄の同僚から真壁で苦しんで亡くなったという話を聞いた。結婚後わずか三カ月だった。兄のことを思うと心が苦しい。子や孫にこんな思いをさせない時代が続いてほしい」と話した。

 金城盛一さん(65)=糸満市真壁。「二歳の時に父親が亡くなった。顔もほとんど覚えていないが、毎年参拝に来る。本当は父に甘えたかったし、話もしたかった。刻まれた名を見るたびに残念に思う。二度と戦争を起こしてはいけない」。


魂魄の塔

遺族ら献花絶えず


 「魂魄の塔」には、早朝から遺族が絶え間なく訪れ、献花や祈りをささげた。つえをついて足を引きずりながら参列するお年寄り。病気などで足を運べなかった祖父母に代わり、花を手向け手を合わせる子や孫の姿が見られた。

 当時二十歳だった兄が南部で犠牲になったという那覇市の久高友蒲さん(77)は、遺骨のない兄の供養のため毎年訪れている。「兄は福岡の軍需工場で働いていて、沖縄に戻ってすぐに少年兵として召集され、糸満近くで亡くなったと聞いている。戦争は嫌いだ。戦争は人殺し。私自身も弟をおぶり首里から北部に向かって、迫撃砲の中を逃げ歩いた。戦争の怖さをいつになっても忘れない」と口元に力を込めた。

 娘と孫と訪れた与那原町の町田初子さん(77)は当時、糸満市米須近くの畑で作業中、たくさんの遺骨を収集し、魂魄の塔に納骨したという。「芋を掘ると、人の頭が出てきたが、怖いという気持ちはなかった。父も遺骨がなかったから、こんなふうだったのかな、と思いながら一生懸命拾った。これだけ拾ったから毎年来ないといけないさ、と人に言われて来ているよ」と話した。

 沖縄戦で家族四人を亡くした砂川吉子さん(71)=浦添市。南部に避難した際に爆弾の破片で母親ときょうだい二人を失った。当時七歳だった砂川さんは「泣いていいのか、何が何だか分からなかった」と振り返る。父親の亡くなった場所はいまだに分からず、十代のころから毎年魂魄の塔を訪れている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231700_02.html

 

2008年6月23日(月) 夕刊 5面

米軍兵長に有罪/タクシー襲撃

 沖縄市で今年三月、タクシー運転手が外国人少年らに襲われ、釣り銭箱を奪われた事件で、傷害と窃盗の罪に問われた在沖米空軍嘉手納基地所属の兵長で憲兵隊員のダリアス・エイ・ブランソン被告(22)の判決が二十三日、那覇地裁であった。〓晋一裁判官は、懲役三年、執行猶予五年(求刑懲役三年)を言い渡した。

 判決理由で〓裁判官は、犯行後にブランソン被告がアリバイ工作など証拠隠滅を試みたことを指摘し、「犯行は計画的かつ粗暴で悪質。共犯者関係などから見ても被告が中心的、主導的と認められ、責任は最も重い」とした上で、反省の態度を示し、国内での前科前歴がないことなどから猶予刑とした。

 判決によると、三月十六日午前零時二十分ごろ、沖縄市中央二丁目の路上で実行役の少年らがタクシー運転手男性(55)の頭部を拳で殴るなどして暴行。運転手が逃げ出したすきに、現金六千円が入った釣り銭箱などを盗んだ。

 運転手は全治三日のけが。ブランソン被告は、家具購入代金のローンの返済に窮し、自宅に出入りしていた少年らに犯行を持ち掛けるとともに、現場に車で送り迎えをするなど、事件を首謀した。

※(注=〓は「頼」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231700_04.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 1面

島抱く平和の祈り/各地で慰霊祭

 戦後六十三年目を迎えた慰霊の日の二十三日、県内各地で沖縄戦の犠牲者を悼む慰霊祭が行われた。戦争体験者や遺族、その子や孫たちが非戦の誓いを新たにした。

 南城市佐敷小谷自治会(知念和夫会長)では、新たに建立された慰霊塔前に約九十人が参列。琉球古典音楽の追悼演奏などで刻銘された百七十三人の犠牲者の冥福を祈った。

 沖縄戦で父親を亡くした津波源福さん(71)は「小谷では米軍の激しい艦砲射撃などで多くの住民や軍人が犠牲となった。歴史教科書問題が示すように、戦争の真実を次世代に受け継ぐことが私たち遺族の使命だ」と力を込めた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_01.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 25面

問い続ける「あの日」

 慰霊の日の二十三日、六十三年前の戦争体験が新たに語られた。糸満市摩文仁の平和の礎で、各地の慰霊祭で、家族を亡くした「集団自決(強制集団死)」や日本兵の壕追い出しなど、つらい記憶を話すお年寄り。「体験者が少なくなった今こそ」「でも、まだ…」。複雑な思いを抱え、次代に伝えるために重い口を開いた。

幼い末妹思い 消えぬ痛み/「集団自決」体験した姉妹


 「実はまだ、自分らの子どもにも話していないことがあるんだよ」

 渡嘉敷村の刻銘板の前に座り込んだ姉妹は、「集団自決」で亡くなった母と、六人きょうだいの中でただ一人犠牲になった生後五カ月だった末妹の名を見上げながら静かに語った。

 同村阿波連集落の出身。渡嘉敷島に米軍が上陸すると、母とともに下ろしたての晴れ着を着て北山へ逃げた。「フィジガー」と呼ばれる水源地に着くと、遠縁の親類の輪に入って身を寄せた。

 やがて、あちこちで「集団自決」が始まる。親類の誰かが手榴弾を持ち出したが、不発だった。「そしたら、手榴弾を解体して中から火薬を取り出し、『これを食え』って」。当時十一歳だった長女(74)は振り返る。「人を殺す武器だから、中身も毒と思ったんだろう。みんな狂っていた」

 ついに一人が木の棒を持ち出し、周囲の人々を殴り始めた。長女は後頭部を二度殴られて倒れる。意識はあったが、死んだふりをした。「動かなければ殴られない。ただ怖かった」

 当時六歳の三女(70)はこの時、ほかの姉弟三人とともに川下へ一目散に逃げだした。「死ぬなんて怖くて」。母の「アメリカーに殺されるよ」との声を振り切り、雨の中をさまよった。だいぶたってからフィジガーへ戻り、小さな体で無数の死体を乗り越えると、晴れ着は真っ赤に染まっていた。「死体の間で、首が顔の幅ほどに腫れ上がった姉を見つけた。母たちはみんな血まみれで動かなかった」

 そばに倒れていた末妹はわずかに息をしていた。生き残った姉妹ら五人はただ見守るだけだった。その後、川を上ってきた米軍に収容され、ぼんやりと山を下りたが、妹は連れ帰れなかった。

 「米兵が助けてくれるとは知らなかった。いや、妹をどうするかを考える力も残ってなかったのか」。姉妹たちは今も問い続けている。「いつかは語らなければとは思う。でも…」。そう言いながら、末妹の刻銘をそっと指でなでた。


手榴弾取り出し「死のうか」と父/座間味村出身・内間さん


 座間味村出身の内間弘子さん(70)=南城市=は米軍が上陸すると、父と姉、祖父母とともに家族用の防空壕に逃げ込んだ。身を寄せ合えばすき間もないほどの小さな壕。しかし、外の様子を見に出た祖父が米兵に捕まり、全員で投降した。

 父は、米兵が目を離したすきにポケットから缶ジュースほどの物体を取りだした。

 「死のうか」

 姉がうなずくと、父がぐっと抱き寄せてきた。

 当時六歳の内間さんは手榴弾を知らなかったが、「生き恥をさらすな」という言葉はたたき込まれていた。父がしようとしていることはすぐ理解した。「その時突然『嫌だ、怖い』と思ってね」。とっさにそばの畑の中に飛び込んだ。

 おそらく米兵が気付き、騒ぎになったようだった。しばらくして父の声が聞こえた。「弘子、もう死なないから。死なないから」。恐る恐る戻ると、父の手にもう手榴弾はなかった。

 座間味の親類二人と、本島にいた一番上の姉は亡くなった。後年、父はことあるごとに言った。「生き残れたのは弘子のおかげだ」

 父がなぜ手榴弾を持っていたのか、今はもう分からない。ただ、父に背負われて壕へ逃げる途中、負傷した日本兵に出会い、爆発音が響く恐怖の中で父と兵士が何か話をしていたのを覚えている。

 「あのとき『自決』用の手榴弾を渡されたんだと思う」と内間さんは言う。「日本軍の存在は絶対だった。私は子どもだったからそれがよく分からず、だから私たちは生き残ったんです」


南北の塔で戦体験語る/山部隊との合同慰霊祭


 沖縄戦で数千人が犠牲となり、旧日本軍による住民虐殺も起きた糸満市真栄平。集落内の南北の塔で行われた旧軍「山三四七八部隊」との合同慰霊祭で、老人会会長の金城栄保さん(73)が、「砲弾が降る中、旧日本軍に三度、壕から追い出された」と体験を話した。航空自衛隊与座岳分屯基地の幹部が毎年、招待される同慰霊祭で詳細な戦争体験が語られるのは初めてという。

 金城さんは、住民が南部を逃げ惑い、米軍が「無差別攻撃を仕掛けていた」戦況を説明。近隣七世帯で二カ月かけて掘った壕に隠れていた一九四五年五月中旬、日本兵数人に銃剣を突き付けられ追い出された。

 別の二つの壕も追われ、米軍の捕虜に。収容所で父親はマラリア、五歳の妹も赤痢で死亡した。八カ月後に戻ると集落は灰じんに帰し、無数の骸骨が転がっていたという。

 金城さんは「体験者が少なくなった今、話さないと戦争のむごたらしさを引き継げない」と強調。自衛隊幹部がいる中での話に「複雑な気持ちもあったが、事実は伝えるべき。立場は違っても、慰霊の日に同じ場所で平和を考えることは意義がある」と力を込めた。


世界の幸せ願い 詩朗読/嘉納英佑君


 沖縄全戦没者追悼式で、「平和の詩」、「世界を見つめる目」を朗読した読谷小学校四年の嘉納英佑君(10)。よどみなく読み終え、ほっとした笑顔を見せた。

 朗読が決まってから、毎日五回練習したという。最も訴えたかったのは「みんなが幸せになれる」世界。その部分では、声にも力を込めた。

 「人と人が殺し合う戦争は怖い。人には優しい大人になりたい」と嘉納君。将来の夢は、「病気で苦しんでいる人を助ける薬剤師になりたい」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_02.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 24面

悲しみ越え平和継承

嘉義丸撃沈で親子漂流/長男の刻銘 なぞり涙

 「平和の礎」では、早朝から遺族らが肉親の名前を探し歩いた。戦時中、乗っていた客船「嘉義丸」を鹿児島県奄美大島沖で米軍に撃沈され、当時二歳の長男・一男ちゃんを失った那覇市首里出身の新城スエさん(91)=東京都府中市=は、力を振り絞るように車いすから立ち上がり、刻銘された一男ちゃんの名前をなぞり泣いた。

 一九四三年五月二十六日。大阪に住んでいた新城さんは、両親に一男ちゃんを会わせるため、沖縄に帰る途中に嘉義丸が魚雷を受けて沈没した。長男をロープで背中にくくりつけて四―五時間漂流し、漁船に救出されたが、一男ちゃんは動かなかった。

 「生きているのと同じように肌のぬくもりがあったのに…。かわいい笑顔が今も忘れられない」とスエさん。

 沖縄戦の戦没者以外も礎に刻銘されることを知り、九六年、一男ちゃんの名前を追加刻銘してもらった。それ以降、毎年、慰霊の日に合わせて娘の中島正子さん(64)と、新城幸男さん(59)の家族三人で訪れている。一男ちゃんが亡くなって約半年後に生まれた正子さん。「私は兄の生まれ変わり。母は毎年、最後だからと言って訪れている。来年も三人で兄を訪ねたい」と話した。


戦争体験者を取材 ドキュメント制作/美里高校放送部


 平和の尊さを、同世代に伝えたい―。美里高校放送部の前原友香部長(17)=二年=と棚原かおりさん(16)=同=は沖縄全戦没者追悼式や、戦争体験者を取材した。撮影した映像は編集後、同校の平和学習に使用したり、放送部の全国大会にドキュメンタリーとして出品する。

 「平和の礎」を訪れた戦争体験者三人から話を聞いた棚原さん。「生で見ると、人が大勢いる。ここに来て、平和と戦争のことを深く知りたくなった」と表情を引き締めた。

 取材中、戦没した兄の刻銘を探す女性(91)を手伝った。名前を確認し、「つらかったね、ごめんね」と涙を流す姿に、前原さんは「戦争が、いろんな大切なものをなくしていくんだ」と憤り、「作品では伝えられない部分もあるかもしれないが、見たみんなに、平和について何かを考えてほしい」と期待した。


高校生が映像で訴え/「島クトゥバで語る戦世」上映


 【南風原】南風原町に住む高校生らのグループ「はえばるYouth」(福広太郎代表)が、戦争と平和について考えようと、沖縄方言で戦争体験を語ったお年寄りらを撮影したビデオの上映会を南風原陸軍病院壕群二十号の管理棟前の広場で開いた。

 写真家の比嘉豊光さんらが作製した「島クトゥバで語る戦世」に収録された証言者の中から同町出身の二十人余の映像を上映。

 南部各地の壕をさまよった体験や爆弾で家族を失った悲しみ、サイパンでの飛び込み自殺のことなどについて、身ぶり手ぶりを交えて語る証言者の様子を、参加者が真剣な表情で見詰めていた。

 沖縄尚学高校三年生で、国際交流活動をしている祖慶奈穂さんと根間亜里沙さんは「祖父や祖母から『今の社会の雰囲気は戦前の状況と似てる』と聞かされているので、また戦争が起こらないか不安。私たちの世代がきちんと勉強して、行動を起こさないといけないと感じた」と訴えていた。

 上映グループの福代表は、「過去に『1フィート映像 ドキュメント沖縄戦』を上映したが、それは米軍側からの視点だった。今回は住民側の目で見た戦争を知る必要があると思った」と意義を話していた。


米基地の政府責任言及/河野洋平衆院議長


 沖縄全戦没者追悼式で河野洋平衆議院議長は戦没者への追悼の辞で、県内に集中する米軍基地問題について政府の責任に触れた。「私はすべての国会議員に『ワンネー、ウチナーンチュ、ヤイビーン(私は、沖縄県民です)』という心でこの問題に向き合ってほしいと呼び掛ける」と述べると、会場から拍手が起きた。

 戦時中の旧日本軍についても「私たちは軍が沖縄の住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない、という疑念からも目をそらせてはならない」とした。

 県議の外間盛善さんは「非常に県民の痛みを理解している内容だった。戦時中の旧日本軍の問題にも触れるなど、県民のいろんな思いをよくくみ取ってくれたと思う」と感激した。

 一方、沖縄戦後、学童疎開から戻ると父や祖父母が亡くなっていたという大城勇さん(73)=豊見城市=は「力強い言葉ではあるが、どれぐいらい本心かな」と話した。


天満さん鎮魂の演奏 バイオリンの調べ響く/県立美術館


 慰霊の日の二十三日、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館で、世界的なバイオリニストの天満敦子さんがバイオリンを演奏した。

 同館で開催中の沖縄タイムス創刊六十周年企画「情熱と戦争の狭間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」(主催・文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館、共催・沖縄タイムス社)の関連イベント。

 毎夏、長野県の無言館で演奏会を開いている天満さんは、戦没画学生の残した作品を前に祈りを込めて「望郷のバラード」などを演奏。「絵に問い掛けながらバイオリンを弾いています。海の絵を見ながら、こういう所に帰りたかったのかもしれないと思いました」と話した。

 また、午後からは首里高校合唱部の「合唱によるレクイエム」があった。「情熱と戦争の狭間で」は二十九日まで。二十四日は休館。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_03.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 2面

負担減 道筋見えず/首相あいさつ 前年踏襲

 福田康夫首相は二十三日、沖縄全戦没者追悼式に出席、在沖米軍基地の整理・縮小に取り組む決意を強調した。しかし最大の焦点である普天間飛行場移設問題は、日米両政府で合意したV字形滑走路の建設位置をめぐる地元との協議が難航、手詰まり感さえ漂っている。政府が繰り返す「沖縄の負担軽減」への道筋はまだ見えない。

平和への思い


 「美しいデイゴの花をつらい記憶を呼び起こす花にしない」。追悼式のあいさつで、首相は県花を引き、戦前生まれとしての平和への思いをのぞかせた。

 だが、基地問題で新味はなかった。首相は沖縄の「負担軽減に向け、地元の切実な声に耳を傾け全力を挙げて取り組む」と述べたが、昨年、式典に参加した安倍晋三前首相から出た言葉をほぼ踏襲した。

 普天間移設問題では、名護市のキャンプ・シュワブ沿岸部にV字形滑走路の建設を進めようとする政府側と、騒音や安全性への懸念からより沖合への移設を求める沖縄側が対立。官邸に設置した協議会でも議論は平行線のままだ。


ガラス細工


 政府は昨年来、前防衛事務次官の守屋武昌被告(収賄罪で起訴)が進めた「アメとムチ」路線を転換し、北部振興費や名護市への米軍再編交付金凍結を相次いで解除、話し合いによる妥協点を模索したが、合意に至っていない。

 一方、米側は日米で合意した政府案の修正に難色を示す。「合意は当時のラムズフェルド米国防長官が米軍内の反発を何とか抑え込んだガラス細工。少しでも修正したら全体が壊れる」(政府関係者)。米側は在沖海兵隊のグアム移転の条件として、二〇一四年の移設完了を譲らず、板挟みの政府に打つ手はない。


身動き取れず


 一方、仲井真弘多知事は今年初めから「九十メートル程度、沖合へ移す」との修正で政府側との妥協を模索し始めていた。〇六年十一月の知事選で、普天間返還を前提にした経済振興を打ち出し当選しただけに、移設問題の行き詰まりは、県政運営の命取りになりかねない。知事周辺は「修正に一時、前向きな姿勢を示した町村信孝官房長官が担当者であるうちに解決したいという焦りもあった」と明かす。

 そんなさなか、県議選で与野党が逆転。県幹部は「条件付きで県内移設を進める県の政策に影響は出ない」と強気だが、妥協案の県議会受け入れは厳しい状況で、知事も身動きが取れない状態に陥った。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_04.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 2面

造成工事本格化/シュワブ 山肌、一部露出

 【名護】米軍普天間飛行場の移設に伴い沖縄防衛局は、名護市キャンプ・シュワブ内の兵舎や舟艇整備工場の建設に向けた造成工事を本格化させている。二十三日、大型建設機材を使った大規模な造成工事の様子が確認された。

 同基地周辺の海域から確認できただけで、ショベルカー六台のほか、土砂を積んでいるとみられるダンプカーがひっきりなしに行き来していた。山肌も一部削られているもようだ。

 同基地内には、下士官宿舎(約九千百二平方メートル)や倉庫(約千七百十九平方メートル)、管理棟(約三千百六十九平方メートル)、通信機器整備工場(約二千七百七十平方メートル)、舟艇整備工場(約三千百四十七平方メートル)を建設する計画。建設場所は飛行場建設予定地の西側で、工期は二〇〇九年九月末となっている。

 同基地内の埋蔵文化財について、名護市教育委員会は、市議会定例会に計上している調査費補正予算が可決された後、七月から四カ月間の予定で本調査を実施する。これまでの試掘調査などで、海側から水田跡が確認されたため、海側を調査する予定だ。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_06.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 1面

政府「運用改善が合理的」/従来見解を閣議決定

地位協定・県民大会要請

 【東京】政府は二十四日午前、三月に開かれた「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」で決議された「日米地位協定の抜本改正」について、「その時々の問題について運用の改善により機敏に対応していくことが合理的」とする従来見解を閣議決定した。また、同協定に基づき、日本側に第一次裁判権がないとされる「公務中」の範囲を、通勤や職場での飲酒にまで拡大した一九五六年三月の日米合同委員会合意に至る日米協議の議事録公表について、「両政府の合意なしには公表しない」とする答弁書も決定した。

 県民大会決議への答弁書では、米兵暴行事件について「極めて遺憾」としつつ、大会決議で求めた「実効性ある具体的な再発防止策」について、日米合同委員会などで協議中であることを説明するにとどめた。その上で「再発防止のためには、このような地道な努力を継続的に積み重ねていくことが必要」との見解を示した。

 衆院の赤嶺政賢氏(共産)、照屋寛徳氏(社民)、下地幹郎氏(無所属)、参院の喜納昌吉氏(民主)、山内徳信氏(社民)、糸数慶子氏(無所属)の県選出野党国会議員六氏の連名による質問主意書に、答弁書で示した。

 一方、地位協定に基づく「公務中」の範囲拡大に関する合同委合意をめぐって、五六年四月に法務省刑事局長が全国の検事正らにあてた通達は、勤務地への往復時の交通事故を公務中として処理するよう指示。参考資料として、合意までの協議内容を記した前年(五五年)十一月の合同委刑事裁判権分科委員会議事録を添付していた。

 これらの経緯は、機密解除された米側公文書などで明らかになっているが、政府は今回の答弁書で「(全国の検事正らにあてた)通達を発出したかどうかを含め、これを公にすることにより、米国政府との信頼関係が損なわれるおそれ、および公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼす」として、公表に難色を示した。

 照屋氏の質問主意書に答えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_01.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 4面

「戦争二度と」思い秘め/梯梧同窓会20人 参拝

 同窓生や遺族の高齢化で戦後六十年を区切りに慰霊祭を自由参拝に変えた梯梧同窓会(元昭和高等女学校)の会員ら約二十人が二十三日、糸満市米須の慰霊塔を参拝した。

 会員の吉川初枝さん(80)は「この日は特別。足腰が丈夫な間は、参加したい」。

 自身戦争で砲撃を受け、背中と足首にけがを負った。同時に弟も失った。「戦争は人が人でなくなる」と語った。

 千葉県の吉原久喜さん(73)は、同校の校長だった八巻太一さんの孫で毎年参拝している。

 同窓会の要望で祖父の思い出をまとめた冊子を著し、会に贈った。祖父のことなどを記した石碑を前に「戦争に正義はない」と述べた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_03.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 4面

白梅之塔 慰霊の清掃15年/ガールスカウト36団表彰

 糸満市真栄里の「白梅之塔」慰霊祭で二十三日、十五年間清掃活動を続けたガールスカウト36団の子どもたちが表彰された。同団は、毎年六月に白梅之塔を清掃、同時に白梅学徒隊の生き残りの人々から話を聞き沖縄戦について学ぶなど、平和学習も続けてきた。慰霊祭にはメンバーら約二十人が参加した。

 同団の具志堅茉衣子さん(13)は「仲間が目の前で死ぬのはつらかっただろうな。今日のことや学徒隊の方から聞いた話を友達に伝えていきたい」と話した。

 白梅同窓会の中山きく会長は「皆さんの善い行いでとても気持ちが明るくなった。沖縄戦を学ぼうとする若者たちの参加を何よりも心強く思う」と激励した

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_04.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 5面

普天間に超大型輸送機/今月3度目 ヘリ積み込む

 【宜野湾】二十四日午前、米空軍の超大型長距離輸送機C5ギャラクシー一機が米軍普天間飛行場に飛来し、二〇〇四年八月に沖縄国際大学へ墜落したヘリと同型のCH53D大型輸送ヘリ二機を積み込んだ。ギャラクシーが同飛行場に飛来するのは今月に入って三度目。

 五月まで同飛行場に駐機していた十機のCH53Dのうち、十九日までに四機が別の基地に輸送された。今回ギャラクシーに積み込まれた二機のほか、残された四機も輸送準備のためローター(回転翼)が外されている。同飛行場に配属される第三一海兵遠征部隊は二十日に海外演習から帰還し、宜野湾市は騒音被害の増加を懸念している。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_05.html

「グアム移転合意は失敗」/元太平洋司令官 普天間代替、沖合移動で実務協議、政府、異例の前倒し シュワブ内 工事着手/普天間飛行場代替 平和願い史実追体験/志真志小で「集団自決」劇上演 など 沖縄タイムス関連記事・社説(6月17日から21日) 

2008年6月17日(火) 朝刊 1面

「グアム移転合意は失敗」/元太平洋司令官

 【ホノルル】元米太平洋海兵隊司令官のヘンリー・スタックポール中将(退役)は十六日までに、米軍再編に伴う在沖米海兵隊のグアム移転について、訓練場の狭さや台風が多いこと、グアム―沖縄の遠隔運用に不可欠な高速輸送船の調達予算のめどが立たないことなどを理由に「移転合意は失敗だと思う」と懸念を示した。また、冷戦後の一九九三年に太平洋司令部が在沖米海兵隊兵力の半減計画を検討していたことも明らかにした。

 ハワイ大学内の東西センターで本紙インタビューに応じた。同氏はグアム移転について「移動の問題だ。機動性が高い空軍、海軍が基地を置くのは問題ない。しかし、海兵隊は独自の輸送船をグアムに配備していない。移転は満足できない案だ」と語った。

 日米再編協議の時期にホノルルの国防省系シンクタンク、アジア太平洋地域戦略研究所所長だった同氏は、太平洋司令部に沖縄問題で助言したり、対日交渉の担当者会議に出席したりする立場にあった。元在沖米軍四軍調整官でもあり、沖縄基地問題に精通する。

 退役将軍の異論は、海兵隊内部にくすぶる不満を代弁したと受け止められる。

 また、スタックポール氏によると、太平洋司令部は九三年に湾岸戦争時の兵力派遣を検証した結果、二万千人だった在沖米海兵隊を一万人の旅団レベルまで削減することが可能とする脅威対処リポートをまとめていた。当時、同氏は太平洋海兵隊司令官として部隊配備の適正化を検討していた。

 今回の再編協議で同氏は「沖縄駐留が旅団規模なら運用に支障がなく、さまざまな事態に即応できる」と提言したという。海兵隊のグアム移転計画も旅団規模の運用を想定している。(屋良朝博記者、ハワイ東西センター客員研究員)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806171300_01.html

 

2008年6月17日(火) 朝刊 2面

米兵事件2448件裁判放棄/62?63年

 【東京】在日米軍兵士らによる事件の裁判権をめぐり、日本側が米側の請求を受けて多数の事件の裁判権を放棄していた実態が、一九六〇年代の米軍統計資料から十六日までに明らかになった。米軍関係の裁判権については、日米両政府が五三年に「重要な案件以外、日本側は裁判権を放棄する」との密約に合意していたことが分かっており、統計で裏付けられた格好だ。

 資料は、六二年十二月一日―六三年十一月三十日までの一年間の犯罪統計を米陸軍法務局がまとめたもの。日米関係史を研究する新原昭治氏が米国立公文書館で見つけた。

 それによると、同期間で日本の裁判に付されるべき件数は三千四百三十三件。米軍はこのうち二千六百二十七件の裁判権を譲るよう請求し、日本側は二千四百四十八件を放棄した。

 新原氏によると、当時は本土復帰前だった沖縄で発生した件数は含まれていないという。

 日本平和委員会の佐藤光雄代表理事らは十六日、外務省に同統計を提示し、裁判権をめぐる問題を追及した。しかし、外務省の担当者は「当時の資料は残っていない」などと説明した。

 一方、日米両政府が五六年の合同委員会で、日米地位協定に基づき、日本側に第一次裁判権がないとされる「公務中」の範囲を通勤や職場での飲酒にまで拡大し、米側に有利な運用で合意していたことについては、「勤務場所と定められた住居との間の通勤は原則として公務中と取り扱われている」と述べるにとどめ、合意の事実については言及を避けた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806171300_05.html

 

2008年6月17日(火) 朝刊 22面

「平和の詩」に嘉納君/メッセージ審査

 二十三日の慰霊の日を前に県平和祈念資料館は十六日、「第十八回児童・生徒の平和メッセージ」の審査結果を発表した。沖縄全戦没者追悼式で行われる「平和の詩」朗読には、小学校の詩部門で最優秀賞を獲得した嘉納英佑君(読谷小四年)の作品「世界を見つめる目」が選ばれた。小中高校の各部で図画、作文、詩部門に計百十五人が入選した

 同メッセージは、県内の児童・生徒に創作活動を通して平和の心をはぐくむ目的で毎年行われている。今回は県内百六十二校から計三千七百九十八点の応募があった。

 平和の詩に選ばれた嘉納君の作品について同資料館は「日常を通して感じる平和への思いがつづられている。現代っ子らしいユニークな表現に、生活の中で平和を考える意識が感じ取れる」と評価した。

 各部門の入賞者は次の通り。(敬称略)

 【小学校】《図画》最優秀賞=上原晴美(高良四年)▼優秀賞=三田ほのか(さつき二年)、上原千紗都(大山六年)、比嘉貫太(とよみ六年)《作文》最優秀賞=照屋響之右(さつき五年)▼優秀賞=新澤ももこ(宮城五年)、野原由梨奈(松島六年)《詩》最優秀賞=嘉納英佑(読谷四年)▼優秀賞=照屋希之薫(真壁四年)、上原晴美(高良四年)、奥間友芽子(さつき四年)【中学校】《図画》最優秀賞=宮里侑希(松島二年)▼優秀賞=喜舎場愛月(石垣二年)、平良光希(池間三年)、新垣ナオ(宜野湾三年)《作文》最優秀賞=張本美嶺(大浜一年)▼優秀賞=松山忠明(西表三年)、友利有希(小禄三年)《詩》最優秀賞=金城美奈(仲西三年)▼優秀賞=山城あかね(佐敷二年)、上間一輝(南星三年)【高校】《図画》最優秀賞=仲間清香(糸満一年)▼優秀賞=宜野座愛海(糸満一年)、比嘉美奈穂(普天間二年)、渡部夏連(首里三年)《作文》最優秀賞=崎山史子(那覇国際二年)▼優秀賞=具志堅靖知(コザ三年)《詩》最優秀賞=仲地愛(球陽二年)▼優秀賞=知花かおり(球陽一年)、塚本真依(沖縄尚学二年)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806171300_11.html

 

2008年6月17日(火) 夕刊 5面

見舞金 米に求めず/豪女性暴行

 【東京】二〇〇二年四月に神奈川県で米兵に暴行されたオーストラリア人女性に対し、政府が加害米兵や米国に代わり支払った見舞金三百万円を、その後米側に請求していないことが十七日、分かった。同日午前に閣議決定した、松野信夫参院議員(民主)の質問主意書に対する政府答弁書で明らかになった。

 被害者救済の必要性から支払われた見舞金だが、加害米兵や米政府が慰謝料の一切の負担を免れ、日本政府が肩代わりしたことに厳しい見方も出ている。

 同事件で米兵は不起訴処分となったが、その後、女性が損害賠償請求訴訟を提起。東京地裁は米兵に三百万円の支払いを命じたが、米兵は裁判中に帰国した。

 日米地位協定は米兵に支払い能力がない場合、米政府が支払うと規定。一方で米国内法は、事件発生から二年以内に請求がなければ時効になる。民事判決が出た時点で、時効になっていたため、同省が見舞金を支払っていた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806171700_07.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 1面

沖合移動で実務協議 普天間代替

政府、異例の前倒し

 【東京】米軍普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブ沿岸部への移設をめぐり、県や名護市が求めている代替施設案(V字案)の沖合移動で、政府が実務者レベルの本格的な検討作業に入ったことが十七日までに分かった。政府内には沖合への移動が日米合意の修正になり、米国側が反発していることから、慎重論が多い。ただ、難航している同飛行場の移設問題を前進させるためには県側への配慮が必要との政治的な判断から、異例の前倒しで実務協議に踏み切った形だ。

 政府は今月二日、沖合移動を念頭に、県を含めた課長級会合を都内で開き、実務レベルで可能な作業に絞って協議を始めた。会合には内閣官房や内閣府、防衛省、環境省、県の担当課長らが出席した。環境影響評価(アセスメント)に関する法律や条令の解釈など、基本的な問題点で意見を交わした。

 今後も不定期に開く方針で、現在進められているアセス調査に基づき、どの程度の沖合移動が可能か、意見交換する見通しだ。だが、政府と県の政治的決定に位置付けられている協議の進め方に関する「確認書」合意はめどが立たない状況で、先行きが不透明な情勢に変わりはない。

 アセス調査手続きは方法書、準備書、評価書の各段階で計画の「軽微な変更」を認めている。アセス法に照らすと、V字案の面積規模の「軽微な変更」は理論上五十五メートルずつの移動が可能となる。

 仲井真弘多知事はキャンプ・シュワブ沖の長島にかからない程度に、日米政府の合意案から沖合に八十―九十メートル移動するよう求めている。一方、政府はこれまでアセス調査に基づく「合理的な理由」がなければ応じられないとの公式見解を示してきた。

 県が求める八十―九十メートル移動は「軽微な変更」を複数回実施しなければ実現しないとみられるが、政府は移動に伴い自然環境への影響が想定されるため、「合理的な理由」を基にした複数回の「軽微な変更」を困難視している。沖合移動する場合は五十五メートルの一回だけに限り容認する意向で、県の要望には難色を示している。(島袋晋作)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_01.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 2面

普天間で「場周経路」調査/沖縄防衛局

民間地墜落防止へ

 【宜野湾】米軍機の民間地への墜落事故を防ぐため、日米政府で合意された米軍普天間飛行場の場周経路について、沖縄防衛局が宜野湾市内で米軍機の飛行ルートを目視調査していることが十七日までに分かった。同局が同飛行場の場周経路の調査を実施するのは初めてとみられる。

 調査は市内を見渡す嘉数高台公園の展望台で実施されている。十六日には同局の職員二人が目視で飛行した米軍機の機種、時間をチェックし、飛行ルートを地図付きの調査票に書き込む作業が確認された。宜野湾市によると、調査は五月ごろから行われている。

 これまで同市は米軍が場周経路を守らず、住宅地上空で飛行訓練を行っていると指摘していた。

 五月には加盟する中部市町村会で同飛行場の危険性除去を求める要請決議案を全会一致で可決。今月六日、要請を受けた同局の真部朗局長は「市の声を有効なデータとして客観的に米側にぶつけられるような方策を考えたい」と答えていた。

 伊波洋一市長は「日米で合意された安全基準は守られるべきで、国が調査に乗り出したことは大きな前進だ」と取り組みを評価した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_02.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 27面

米軍捕虜恐れ「自決」/玉城の壕 体験者証言

 【南城】沖縄戦中、南城市玉城糸数の自然壕「ウマックェーアブ」で避難してきた住民らが「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた状況が体験者らの証言で明らかになった。日本軍が繰り返してきた「米軍の捕虜になれば辱めを受ける」との言葉を信じ、九人が犠牲になったという。字誌編さんのため、地元で聞き取り調査を続けてきた同市玉城糸数の知念信夫さん(74)は「遺族の多くは今でも苦しみを負い、戦争を語ろうとしない」と話している。(仲本利之)

 知念さんや体験者の証言などによると、「集団自決」は一九四五年六月三日に起きた。

 同年三月二十三日からアブチラガマ周辺に点在する十一カ所の壕には住民七?十人ごとに身を潜め、「ウマックェーアブ」でも九世帯、三十七人の住民が隠れていた。六月に入り米軍が集落まで侵攻し投降を呼び掛けた。

 捕虜になることを恐れた住民ら十一人が二発の手を取り囲んで信管を榴弾

引き、九人が即死したという。当時を知る住民らは、アブチラガマには日本軍がいて、周辺のすべてのガマ(壕)には防衛隊を通じて日本軍の手榴弾が配られていたと話す。

 家族五人で「ウマックェーアブ」に身を潜めていた当時十代の男性は、父親が発した「どうせ死ぬなら太陽が見える明るい所で死のう」との言葉を合図に全員で壕を脱出した。一緒に出た住民二十七人は米軍の捕虜となり、生き延びることができた。

 十七日、玉城小学校で講演した知念さんは「平和な日本を次世代に受け継ぐためにも、戦争の悲惨さ、みじめさについて学んでほしい」と子どもたちに呼び掛けた。

 「ウマックェーアブ」はアブチラガマ西方約三百メートルに位置する壕。現在は農地や道路が広がり、入り口などはなくなっている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_06.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 26面

苦しみ 悲しみ 思いはせ/追悼式朗読の嘉納君「戦争ない世界願う」

 【読谷】慰霊の日の二十三日、糸満市の平和祈念公園で開かれる「沖縄全戦没者追悼式」で、読谷小四年の嘉納英佑君(10)が「世界を見つめる目」と題し、「平和の詩」を朗読する。嘉納君は「戦争のない世界になってほしい」と、期待を込める。

 毎年、慰霊の日が近づくと戦争や平和について家族で考えているという。嘉納君は小学校一年生から「児童・生徒の平和メッセージ」に詩を応募し、小学校の詩部門で三年生から二年連続最優秀賞を受賞した。

 今回の作品は、祖父母から伝え聞いた体験談、名桜大学准教授で、戦争体験者の聞き取りやビデオ収集などを行っているという父親の英明さんから聞いた話などを基に作った。「戦争で亡くなった人たちはとても苦しかったと思う。そういう気持ちを表したかった」

 今の日本、沖縄は平和だと感じている。平和を世界に広げるためにも「隣の国々の声に耳を傾け、仲良くしてほしい」と大人たちに訴える。

 沖縄戦では、親せき二人が戦死した。二十三日には詩の朗読後、二人の名前を刻銘した平和の礎に手を合わせるという。「二度と戦争が起きないよう願いながら、安らかに眠ってくださいとお祈りしたい」

仲間さん作品採用

「平和展」ポスター

 県内の小中高校生が平和への思いをつづった図画・作文・詩作品を展示する「児童・生徒の平和メッセージ展」が二十三日から糸満市の県平和祈念資料館で開かれる。展示会ポスターには、高校の図画部門で最優秀賞を獲得した仲間清香さん(糸満一年)の作品「ヒカレミライ」が採用された。七月十日まで。

 展示会は応募のあった作品の中から図画・作文・詩の各部門の最優秀賞、優秀賞、優良賞の作品を展示する。

 県資料館を皮切りに七月十六日―同二十三日まで八重山平和祈念館(石垣市)同二十八日―八月一日まで宮古島市平良庁舎ロビー(宮古島市)同十一日―十五日まで県庁県民ホール(那覇市)で随時開催する。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_07.html

 

2008年6月18日(水) 夕刊 1面

シュワブ内 工事着手/普天間飛行場代替

 米軍普天間飛行場の移設に伴い、沖縄防衛局は名護市キャンプ・シュワブ内の下士官宿舎など新設五棟の工事に二日から着手していたことが十八日までに分かった。兵舎や管理棟などの建設に向け、造成工事に入っている。普天間飛行場代替施設の建設に向けた工事着手はこれが初めて。代替移設の建設位置をめぐって、政府と県の沖合移動の交渉のめどが立たない中、基地内の工事が先行して始まっている。(吉田伸)

 キャンプ・シュワブ内の工事は二日に着工、磁気探査など準備作業を終え、九日から造成作業に入った。整地を終えた後の建物の建設は九月ごろとなる見通し。五棟は下士官宿舎(約九千百二平方メートル)のほか、倉庫(約千七百十九平方メートル)や管理棟(約三千百六十九平方メートル)、通信機器整備工場(約二千七百七十平方メートル)、舟艇整備工場(約三千百四十七平方メートル)。建設場所は飛行場建設予定地の西側で、工期は二〇〇九年九月末となっている。

 既存の兵舎十一棟の解体工事は四月から作業が始まった。内部はすでに撤去されており、五月からは建物本体の解体に取り掛かっている。七月中には作業を終える予定だ。防衛施設庁(現防衛省)が〇六年、基地建設計画(マスタープラン)の概要を地元に説明した際、キャンプ・シュワブには普天間飛行場代替施設の移設に伴い、約三千人の兵員が移駐することを明らかにしており、約六千人規模の海兵隊基地になるとみられている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181700_01.html

 

2008年6月18日(水) 夕刊 5面

艦砲の雨 逃げまどう/古堅さん証言DVDに

 沖縄戦で、沖縄師範学校から鉄血勤皇師範隊として動員された元衆院議員の古堅実吉さん(78)が、当時たどった戦地を訪れ、現場で証言した様子を収めたDVDがこのほど完成した。第三二軍司令部壕のあった首里から、軍命で南下した摩文仁、米軍の捕虜となった具志頭の三地域で、古堅さんが体験したこと、見たこと、感じたことを、静かに、重く語る映像が百十三分間にわたり記録されている。(嘉数浩二)

 制作は沖縄平和ネットワーク会員の大島和典さん。今年四月二十七日に、古堅さんが現地を巡り、同会メンバーらに当時の状況を話す様子を収録した。

 首里では、司令部壕での作業と悪化する戦況を説明。艦砲射撃が雨のように撃ち込まれる中、毎日、作業場まで七、八百メートルを往来したこと。先輩や友人の悲惨な死。将校らしき軍人が女性に命令し、銃剣で捕虜の米兵を突き殺させようとした場面を目撃、最後は軍人自ら日本刀で虐殺したようだ、などと証言している。

 摩文仁では、海から機関砲で狙い撃ちされ、岩陰に身を潜めて水をくみ、サトウキビをかじって飢えをしのいだ場面を語る。

 解散命令が出た六月十九日夜、師範学校の校長が、百十数人が犠牲になったと告げ、配属将校がそばにいるにもかかわらず「教育者として残念だ。軍命に従うべくもなく、親元へ帰すべきだった。絶対に死ぬな」と諭したことを明かした。

 古堅さんが米軍の捕虜となった具志頭。切り立ったがけが続く海辺、多くの死体の中を、海水に漬かり二晩歩いたことを振り返り「言葉で言い表せない絶望感と、可能な限り生き延びたい思いだった」と表現する。

 最後に「集団自決」(強制集団死)にも触れ、「皇民化教育で天皇陛下のために死ぬのが誉れだったという美談は作り話。自分の体験を振り返ると、極限でも必死で生きようとしていた。それ(集団自決)しか道がないところまで追い込まれたから、起きた」としている。

 十二日に那覇市内で行われた上映会後、古堅さんは「体験者の証言を受け取ってもらい、平和について語る人が一人でも増えてほしい」と話した。

 DVD利用の問い合わせは同ネットワーク、電話098(886)1215。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181700_03.html

 

2008年6月19日(木) 朝刊 27面

沖縄戦 演じて学ぶ/山梨の大学

「本土の人たちへ、自分のためにも」

 【山梨】沖縄戦のことを本土の学生たちにも知ってほしいと、山梨県の都留文科大学に通う県出身の学生たちが沖縄戦をテーマにした演劇に取り組んでいる。脚本や構成などはすべてオリジナルで、映像やダンスなども取り入れた斬新な内容。二十三日の「慰霊の日」に学内で上演する。学生らは「本土にいると自分たちも次第に沖縄への関心が薄れていくようで怖い。本土の友人たちに沖縄戦のことを伝え、自分たちもあらためて学ぶきっかけにしたい」と、連日のけいこに励んでいる。(稲嶺幸弘)

 今回の演劇公演は、四年次の福島花枝さん=読谷高卒=の提案がきっかけ。「一年次の時に、『慰霊の日』のことを忘れてしまっていたのがショックだった。沖縄戦や平和を考える取り組みをしたいと、四年間温めてきたのが今回の演劇だった」と話す。

 三月下旬、福島さんが県出身の学生らでつくる同大の沖縄県人会(金城生会長、四十六人)のメンバーに持ち掛けると、全員が賛同してくれた。福島さんが脚本の下書きをし、みんなで相談しながら完成させた。

 五月下旬から週四回ペースでけいこに入り、日曜日は七時間みっちり汗を流す。

 演劇のタイトルは「花?命どぅ宝」。戦場に駆り出された元女子学徒の記憶をたどり沖縄戦の実相に迫る内容。地下壕で女子学徒が傷病兵を手当てするシーンなどがリアルに再現されるほか、明るく楽しそうな現在のキャンパス風景を映像で流しながら、今と昔を対比させて「平和」の意味を問い掛ける。

 「本土出身の友達に聞いても、沖縄イコール観光という感じ。昔、沖縄で起きた悲惨なことを知ってもらいたい」と話すのは三年次の山城理乃さん=辺土名高卒。同じく三年次で同県人会会長の金城さん=北中城高卒=は「この劇を通して僕たちも沖縄戦のことを学び直している。ぜひ多くの人に観てもらいたい」と学内でのPRにも懸命だった。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806191300_06.html

 

2008年6月19日(木) 夕刊 4面

北部の戦争 風化させず/映画「未決・沖縄戦」

 【北部】名護市の予備校で教壇に立つ輿石正さん(62)が中心となり、本島北部で戦争を体験した十三人の証言を集めた映画「未決・沖縄戦」(九十二分)が十八日、完成した。中南部での戦闘や渡嘉敷・座間味島での「集団自決(強制集団死)」に焦点が当たる一方、「やんばるで戦争があったの」と問う子供たちも出てきた。「北部の戦争体験の風化」への強い危機感が輿石さんを突き動かした。(知念清張)

 映画を作るきっかけは、昨年九月の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」。

 十一万人(主催者発表)が集まった陰で「私たちは証言者の言葉に頼り過ぎていないか、沖縄戦がパターン化していないか、むなしさと焦りを感じた」。その後、字史や証言集を七十冊余り読んだ。「伝統芸能を含め地域を知ることが大切」と考えたからだ。これまで口を閉ざしていた人からも話を聞くことができた。

 「何の見返りもないのに高齢にもかかわらず身を乗り出し、体を震わせ証言してくれた人たちから『しっかりと伝えて』とバトンを渡された気持ちになった」

 今帰仁村の大城米さん(80)は、終戦直後の北部で米兵に連れて行かれ、体中にけがを負った女性と遭遇した。その時「あなたでなくてよかったわね」と言われた。

 生きて帰れたのになぜ、そう言うのか当時理解できなかったが、年を経て米兵からレイプされていた事を知った。「その後も米軍の過ちはいくらでも起きている。なぜ」

 八重岳や多野岳、伊江島での戦争、職員が離散し、愛楽園に残されたハンセン病元患者が語る苦難。旧日本軍に虐げられていた朝鮮人軍夫や慰安婦たち。庶民の目線から、やんばるの戦争の実態を語っている。

 輿石さんは「戦争の本質は逃げ惑い、泣き叫んだ一般住民の姿にある。沖縄戦はまだ終わっていない。戦争の風化が、国に都合のいい沖縄戦の捏造につながっている。特に若い世代や高校生に見てほしい」と呼び掛けている。

 映画は二十一日、名護市大中区公民館で午後六時半から無料上映され、その後も各地で上映される。問い合わせはじんぶん企画(名護高等予備校内)、電話0980(53)6012。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806191700_04.html

 

2008年6月19日(木) 夕刊 4面

平和教育に役立てて/戦跡ガイド2冊発刊

 「沖縄戦と基地・沖縄平和ネットワークの軌跡」(沖縄平和ネットワーク)と「観光コースでない沖縄第四版」(高文研)が、このほど発刊された。「沖縄戦―」は、同ネットワークのこれまでの会報から主要な記事を抜粋し、ダイジェスト版とし、「観光コース―」は、執筆者を一新した改訂版。

 同ネットワークは、修学旅行の戦跡ガイドや戦争記録、基地調査などを通し、戦争の記憶を継承してきた。代表世話人の大城将保さん(68)は「ガイドの依頼は、ほとんどが本土の学校からで、県内は数える程度」と疑問を投げ掛けた。「去年の教科書検定問題は沖縄の平和教育を考える上でいい経験だった。今年の『6・23』に現場の教員がどこまでかかわれるか。変わってくれるだろうと期待している」

 高文研の山本邦彦さん(53)は「沖縄を訪れる観光客にコースにないもう一つの沖縄の素顔があることを知ってほしい」と話す。同書は、一九八一年に開催された沖縄の基地・戦跡を学ぶ「沖縄セミナー」をきっかけに発刊された。「沖縄は十年で大きく変化。今の沖縄を見てもらいたい」「教科書検定問題での県民の動向をフォローしたい」と山本さん。

 同書の執筆者四人によるシンポジウムも二十一日に沖大で予定。「県内で活躍する記者と研究者が沖縄に今、何が問われているか話し合う。この機会に参加してほしい」と呼び掛けた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806191700_05.html

 

2008年6月20日(金) 朝刊 27面

「集団自決」劇に抗議/志真志小制作

中止など要求/校長応じずきょう上演

 宜野湾市立志真志小学校の児童や教諭らによる「集団自決(強制集団死)」をテーマにした平和劇について、「裁判で係争中の内容を上演するのはいかがなものか」「児童に演じさせるのは洗脳ではないか」などと、脚本内容の変更と練習の見学要請や上演中止を求める電子メール、電話が十件以上寄せられていることが十九日までに分かった。同校の喜納裕子校長は「劇はあくまで命の大切さを訴える内容であり、偏りはないと考えている。劇は予定通り上演する」と話している。

 平和劇「ヒルサキツキミソウ」は、脚本を同校の宮城淳教諭、演出を演出家の幸喜良秀さんが担当。二十日午前、同校で上演される。劇は「集団自決」があったある島から、犠牲となった三人の子どもの霊が宿る石を、女子児童が持ち帰り、学校のある部屋に隠したことから展開する。沖縄戦での艦砲射撃や、渡された手榴弾を使って家族が命を絶つ「集団自決」場面などを、現代の子どもたちが目撃。子どもやその両親の霊を通して「集団自決」の実相に触れ、戦争の恐ろしさや平和、命の尊さを学ぶ内容になっている。

 要請は上演が報じられた先月下旬から寄せられた。学校や市教育委員会を訪れ、脚本の確認や練習の見学を再三求める人のほか、上演の中止を求めるメールが十九日までに十件以上寄せられた。メールの多くは、県外からのものとされる。

 学校側は、脚本の確認や見学の求めには応じなかったという。同校は事態を憂慮し、市教委や宜野湾署にも報告している。喜納校長はこれまでの取材に対し「さまざまな意見があるのは当然だが、偏りはない。激励も寄せられ、子どもたちも一生懸命練習している。命の尊さを知る素晴らしい劇になると思う」と話している。

関係者「卑劣な行為だ」

 「誹謗中傷に負けず、子どもたちや教職員、PTAが一体となって上演すると聞いた。大変素晴らしい」。大浜敏夫沖教組委員長は、学校関係者の姿勢を高く評価した。一方で、小学生が歴史を考える目的で行う劇にまで抗議する一部の言動を懸念。「沖縄戦の歪曲を狙う動きを、県民が一致して断固拒否することが大事」と指摘した。

 9・29教科書検定意見撤回県民大会実行委の玉寄哲永副委員長は「悲惨な史実を次世代へ伝えるため、多くの体験者が立ち上がった。思いを受け止めた小学生や学校を批判するのは、あまりに卑劣だ」と怒りをあらわに。「子どもたちが、おじいやおばあのことを考えて演じる劇は、卑劣な言動を吹き飛ばす感動的なものになる」と話した。

 十九日午後に同校を訪れ、練習を見学した伊波洋一宜野湾市長は「圧力には決して負けずに頑張ってほしい。歴史の重さを共有し、受け継いでほしい」と期待した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806201300_01.html

 

2008年6月20日(金) 朝刊 26面

次代へ1フィート募金/運動の会 新作構想

 今年12月で設立25周年を迎える「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」(通称・沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会、福地曠昭代表)が米や英にある沖縄戦関連の記録フィルムを買い取り、新たな映像作品を制作するため、広く募金を呼び掛けている。沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定問題などに危機感を示し、「歴史を改ざんする動きに歯止めをかけ、25年の節目に沖縄戦の実相を伝えるという原点に立ち返りたい」と訴える。

 同会は戦争を知らない世代に沖縄戦の悲劇を伝えようと一九八三年十二月八日に設立。県民の寄付などで米国ワシントンの国立公文書館などから、これまでに約十万フィートの記録フィルムを買い取り、「沖縄戦・未来への証言」など三作品を制作。各地で上映会や講演会などを開いてきた。しかし、なお米英両国には、多くの未公開フィルムが残っているといい、今後も買い取りを進める考え。

 フィルムの買い取り額は設立当初は1フィート当たり百円だったのが、現在は同二百円程度に上がっているという。一本の制作費は数千万円に上るとみられ、同会は若者も巻き込んだ多くの協力を求めている。

 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会の福地曠昭代表らは十九日、県庁記者クラブで会見し、二十三日の「慰霊の日」に向けたアピールを発表した。

 福地代表は「有事法制の成立や新基地建設などこれまでの動きを見ると、まさに戦争前夜を思わせる」と指摘。まよなかしんや事務局次長は「子どもたちに、平和を求める心と戦争に反対する行動力をしっかり伝えたい」などと記したアピール文を読み上げた。

 また、同会は二十五周年の記念誌を発行、一部五百円で販売する。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806201300_02.html

 

2008年6月20日(金) 夕刊 1・7面

平和願い史実追体験/志真志小で「集団自決」劇上演

 宜野湾市立志真志小学校(喜納裕子校長)で二十日午前、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をテーマにした平和劇が上演された。上演前には脚本内容の変更要求や練習の見学要請のほか、「児童に演じさせるのは洗脳だ」などと、上演中止を求める電子メールが十件以上学校側に寄せられたが混乱はなかった。児童二十二人や教諭らは、一カ月前から練習を重ねた成果を披露。軍命などで、家族に手をかけざるを得なかった「集団自決」の悲しい史実と、命の大切さや平和の尊さを、観衆に訴えた。

     ◇     ◇     ◇     

児童熱演 地域見守り/中止要求など逆境はねのけ


 上演の中止や脚本内容の変更などを求める要請や電子メールでの嫌がらせなどの逆境をはねのけ、平和劇上演にこぎ着けた志真志小児童と教諭ら。会場には多くの保護者や地域住民に加え、「集団自決(強制集団死)」などの戦争体験者も訪れ、児童らの熱演をじっと見つめた。喜納裕子校長は「劇を通じて子どもたちは命や平和の尊さに気付いてくれたと思う。無事に終えられたことを喜びたい」と話した。

 体育館に設置された特設ステージで上演された「ヒルサキツキミソウ」は、脚本を同校の宮城淳教諭、演出を県内外で活躍する演出家の幸喜良秀さんが担当した。物語は「集団自決」があったある島から、犠牲となった三人の子どもの霊が宿る石を、現代の女子児童が持ち帰り、学校内に隠したことから展開する。

 米軍の艦砲射撃が始まり、渡された手榴弾を使って家族が命を絶つ「集団自決」の緊迫した場面。「こんなに大きく育ててきたのに。上の命令で亡くすというのは生まない方がよかったのか…」と父親が話すシーンでは、会場は静まり返り、百人以上の観衆の児童、保護者らはただ静かに舞台を見つめた。体験者の女性はハンカチでそっと涙をぬぐっていた。

 孫の出演を楽しみにしていた平良ツエさん(84)=宜野湾市上原=は台湾で戦争を体験した。「今の子どもたちに戦争のことを知ってもらい、伝えることが大事。子どもたちが一生懸命に練習を重ねた演劇が、中傷されることは悲しいこと」と話した。

 幸喜さんは「劇を通して沖縄戦を追体験することは意義がある。不幸な歴史体験を風化させずにウチナーンチュの平和への願いを、学び、伝えていってほしい」と話した。

 出演した児童の代表は「たくさんの人が傷つき、亡くなった。戦争は怖いと思った。戦争のない平和な世界をつくりたい」と感想を述べた。

 宮城教諭は「多くの人に支えられて若い先生方も子どもたちも一緒になって頑張った。命の大切さを子どもたちは実感したと思う。これからも劇を続けていきたい」とほっとした様子で話した。上演中、印象に残った言葉をメモ帳につづっていた退職教員の女性(63)は「劇は過激でも何でもない。子どもの発達段階に合わせた内容で分かりやすかった。『生きていることは、とても強いこと』というせりふが最も印象に残った」と話した。


体験者・宮城さん激励


 会場には座間味島で「集団自決」を体験し、姉を失った元学校長の宮城恒彦さん(74)=豊見城市=も訪れ、子どもたちの演技を見守った。

 平和劇の上演に対し、脚本内容の変更や中傷メールが届いていることを報道で知り「居ても立ってもおれず、激励しようと思った」と話す。

 上演前には喜納裕子校長らを訪ね、自身や他の体験者の証言をまとめた本を贈った。宮城さんは「手榴弾を爆発させる場面では自分の体験を思い出し、胸が詰まり涙が出た。圧力に負けず戦争の恐ろしさ、命の尊さを学ぶ教育を続けていってほしい」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806201700_01.html

 

2008年6月20日(金) 夕刊 7面

金城さん 命の尊さ訴え/「集団自決」体験

 沖縄戦での「集団自決(強制集団死)」体験者の金城重明さん(79)を招いた平和講演会が二十日午前、那覇市の銘苅小学校(長嶺将範校長)であり、児童ら約五百人が、悲劇の実態を語る当事者の証言に聞き入った。

 金城さんは、渡嘉敷村の「玉砕場」と呼ばれた場所へ住民が集められた時の様子や、「集団自決」の状況、旧日本軍による「スパイ」容疑で少年らが殺害されたことなどを、言葉を選ぶように、訥々と語った。

 手榴弾を二個ずつ配られ、一個は自決用に使うよう命じられていたこと、米軍の捕虜になれば、耳、鼻をそがれ、戦車でひき殺される、女性は辱めを受けて殺されると、何度も日本軍から言われ続け、「生き残ることへの恐怖を植え付けられていた」と説明。「家族に手をかけた。母は泣いていた」と振り絞るように話した。

 金城さんは「生き地獄を経験し、自分は生き残ってしまったことに戦後ずっと苦しんできた。でも体験を話すことで平和につなげることができると信じて証言を続けている」と話し、児童らに命の尊さを訴えた。

 講演後、児童代表の真栄城好美さん(六年生)は「戦争はとても残酷と分かった。二度とやってはいけないと多くの人に伝えていけるようになりたい」と、つらい体験を語ってくれた金城さんにお礼の言葉を述べた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806201700_02.html

 

2008年6月21日(土) 朝刊 27面

ヘリ編隊飛行 市街地に爆音/普天間に15機帰還

 【宜野湾】二十日午後三時半ごろ、五月から海外演習に派遣されていた米軍普天間飛行場所属のヘリ十五機が編隊を組んで帰還した。宜野湾市の市街地上空を十機以上の編隊が飛行するのは異例。市役所には「ここは戦場か」「何が起きているんだ」と苦情が相次いだ。慰霊の日直前、しかも沖縄防衛局による米軍機の飛行ルート調査が終了した直後の帰還に、同市は「再び騒音被害が激化する。国の再調査が必要だ」と事態を重く見ている。(銘苅一哲)

 同飛行場の第三一海兵遠征部隊のヘリ部隊は毎年五月、タイでの演習に参加している。今年は五月上旬から同飛行場を離れ、同二十一日に演習を終了。例年、六月初めに帰還するが、今年はサイクロン災害を受けたミャンマーの支援を試みたため、帰りが遅れた。

 この日、編隊で飛行したのは沖縄国際大学で墜落したCH53D大型輸送ヘリとは型違いのE型四機とCH46中型輸送ヘリ六機など。編隊はすぐに飛行場へ降りず、市役所の真上など市内を旋回して着陸。市街地への墜落を防ぐため日米で合意された飛行ルートの場周経路をはみ出し、ごう音が数分間続いた。

 一カ月半、いつもより遅い帰還で静かな生活を送っていた市民は突然の音に驚いた。役所前でコーヒーを販売していた具志堅薫さん(52)は初めて見る編隊に「気味が悪い。わが物顔で飛んでいるみたいだ」と基地の方向をにらんだ。

 六月に入ってゼロだった基地被害一一〇番へも五件の苦情が寄せられた。恐怖に震えた声の男性は「戦場のような光景だ」と訴え、受け付けた同市基地渉外課の職員も「一度にあんなに多くのヘリが飛行したのは見たことがない」と顔をしかめた。

 同日午前には別のヘリ六機が帰還し、FA18戦闘攻撃機など外来機の飛来も確認された。

 伊波洋一市長は「十七日まで沖縄防衛局が飛行ルート調査をしたが、部隊はいなかった。帰還後の再調査もするべきだ」と指摘し、「明日以降はこれまで同様の訓練を実施するだろう。慰霊の日は配慮するのだろうか」と騒音の激化を懸念した。

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2008年6月21日(土) 朝刊 2面

移設前閉鎖は不可能/ライス在日米軍司令官に聞く

 在日米軍トップのエドワード・ライス司令官(空軍中将)が十八日、二月の就任以来初めて公式に来沖し、キャンプ・シュワブや嘉手納基地などを視察したほか、在沖米軍や地元自治体幹部らと意見交換した。ライス司令官は二十日、嘉手納基地で県政記者クラブの代表インタビューに応じ、「沖縄はとても戦略的な場所で米軍が存在し続けることが重要。シュワブは移設に適した場所で二〇一四年までに計画が実現されることを楽しみにしている」と述べた。

 ―県が求める代替施設の沖合移動を米政府は容認していない。

 「再編協議はすべてがパッケージ。日米両政府が高いレベルで合意するのに数年を費やした。とても複雑でさまざまな異なる部分を含む合意だ。われわれは地元の自治体とでなく日本政府と協議し合意したことが、今でも正しいと信じている。実施するために前進するだけだ」

 ―地元は普天間飛行場の危険性除去を求めている。

 「移設が完了する前の普天間閉鎖は不可能だ。日米同盟で求められている訓練や義務を果たすことができない」

 ―嘉手納以南の返還で、キャンプ瑞慶覧の返還面積が確定していない。

 「まだ結論に達していない。近い将来、満足いくような結論になるよう双方で議論を続けたい。締め切りや目標のようなものはないが、合意に達する自信がある」

 ―米軍関係者の犯罪の再発防止策について。

 「われわれは二月からさまざまな取り組みをすべての軍で行っており、厳しく律している。アルコール摂取が犯罪と結び付く場合が多い」

 「再発防止策に期限はない。地元との連携を密に、(対策を)継続的に向上させる。犯罪率を下げる努力に終わりはない。沖縄に米軍人がいる限りこの取り組みは続く」

 ―F15の未明離陸を防ぐため地元はグアム経由を求めている。

 「早朝離陸の一回一回が地元へ与える影響は認識しており、必要な回数も最小限に抑えるように努力している。記録を見ていただければ早朝離陸の回数は比較的少ないはずだ」

 「だが、運用上さまざまな要因がある。航空機が目的地に到着しなければいけない時間、飛行時間、違うルートを取ることが可能な時期か。簡単に見えるかもしれないが、とても複雑だ。さまざまな要因から結論を出し、安全面、作戦面、地元への影響を最小限に抑えるベストな選択をしている」

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2008年6月21日(土) 朝刊 26面

「集団自決」問題 県民大会で共有/宮城晴美さん講演

 沖縄女性史家の宮城晴美さんが二十日、那覇市ぶんかテンブスホールで、沖縄戦時下の座間味島で起きた「集団自決(強制集団死)」について講演した。一フィート運動の会設立二十五周年企画の一環。約九十人が聞き入った。

 宮城さんは、娘の目から見た母親の苦しみや葛藤、住民の苦悩に加え、研究家として調べた史実や証言、分析を基に「集団自決」に関して説明。役場職員や指導的立場の人がほぼ全員亡くなっていること、犠牲者の多くが女性という独自調査も例に挙げ、軍命によって、強い者から弱い者へ重層的に力が働いて起きた、と話した。

 また、昨秋の県民大会に十一万人が集まったことに触れ「慶良間だけで背負い込んでいた問題を県民が共有し、島の人を救ってくれたと思う」と述べ、「沖縄戦を風化させないようにしたい」と呼び掛けた。

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沖縄タイムス 社説(2008年6月21日朝刊)

[「無言館」展]

断たれた画学生らの夢

 享年二十三歳、二十四歳、二十五歳、二十六歳…。異国の地で志半ばで戦死した若き画学生らの死亡時の年齢が並ぶ。二十一歳の名前も見える。沖縄で戦死した者の作品もある。

 戦没画学生の遺作を集めた私設美術館「無言館」(長野県上田市)の収蔵作品などを展示する「情熱と戦争の狭間で」が県立博物館・美術館で開かれている。二十九日まで。

 東京美術学校、帝国美術学校の学生や、独学で学んでいた絵描きの卵たちだった。

 「無言館」は、太平洋戦争や日中戦争で戦死した百人余の画学生の遺作・遺品六百点余りを収蔵している。今回展示しているのは約百二十点。スケッチ帳や愛用していた絵の具、婚約者や家族あての手紙も。

 「無言館」館主の窪島誠一郎氏が、仲間を戦争で失った画家野見山暁治氏とともに日本各地の遺族を訪ね、収集したものだ。

 窪島館主は一九九七年五月の開館の日に痛切な思いを詩に託した。「遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ/私はあなたを知らない/知っているのは あなたが遺したたった一枚の絵だ/その絵に刻まれた かけがえのないあなたの生命の時間だけだ」

 画家への夢を抱いていた若者たちが一片の召集令状で戦地に駆り出された。

 生きられる時間が刻々と狭められる中で、無我夢中で絵筆を握り、愛する人たちや思い出の故郷を一心不乱に描いた。「生きた証し」を残すために。生を無念のうちに中断させられた人たちの声なき声が胸に迫ってくる。

 フィリピン・ルソン島で二十七歳で戦死した鹿児島県の若者は出征が決まった日「桜島」を描いた。「出来るなら、あと五分でも、あと十分でも絵を描いていたい」

 サイパン島で二十五歳で戦死した愛媛県の若者は、出征する三日前、義姉に「もし戦場から生きて帰ったらパリに留学させてくれないか。もっともっと絵の勉強をしたいから」と頼んだという。

 「生きていればきっと活躍していたはず」。二十一歳でマリアナ諸島で戦死した長野県の若者の妹弟は無念さを隠せない。可能性に満ちた未来が待っていたかもしれないのだから。

 父親に「祖国のために戦うことは男子の本懐」と言っていた島根県の若者はフィリピンで二十五歳で戦死。出征の日に母親と姉が営舎を訪れたときには「出来ることなら行きたくない。生きのこって鋳金の作品をつくりたい」と目に涙を浮かべつぶやいたという。

 彼らは身に迫る戦場での死をどの程度、予感していたのだろうか。会場を訪れる人たちは、残された生の時間を賭して描いた作品を通して、画学生らの生と死に向き合うことになる。

 「生の証し」そのものともいえる絵に対していると、画学生らのあまりに短い生と沖縄戦の犠牲者の生が二重写しになる。

 戦争につながる一切のものを否定しなければ、とあらためて思う。若者が希望をむしり取られる時代を再びつくってはならない。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080621.html#no_1

 

2008年6月21日(土) 夕刊 1面

望郷の念 肌身に迫る/沖縄カトリック高「無言館」展を鑑賞

 沖縄カトリック高等学校(仲里幸子校長)の生徒ら約八十人が二十一日午前、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館を訪れ、沖縄タイムス社創刊六十周年企画「情熱と戦争の挟間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」などを鑑賞した。

 同企画展は文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館の主催。戦没画学生らの作品を集めた長野県の私設美術館「無言館」の収蔵品や、沖縄戦を生き延びた県出身者の作品約百六十点が展示されている。

 開校から十四年間、慰霊の日に毎年平和行進をしている同校。家族あての手紙をじっと見つめていた東リナさん(同校一年)は「やりたいこともできないまま戦場に行き、帰りたいという気持ちが伝わった」と語った。

 同企画展は、二十三日(慰霊の日)県内の小中学生無料。同日午後三時半から首里高合唱部による「合唱によるレクイエム」(チケット入場者のみ)もある。二十九日まで。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806211700_02.html

 

2008年6月21日(土) 夕刊 5面

“懐かしきあの日”に涙/「あんやたん」平和祈念公園で移動展

 【糸満】沖縄タイムス社の創刊六十周年企画写真展「あんやたん・移動展イン平和祈念公園」が二十一日午前、糸満市摩文仁の同公園案内所で始まった。二十三日の「慰霊の日」に合わせ、終戦直後の風景やこれまでに開かれた戦没者追悼式、平和の礎完成前などの特別展示もある。

 戦後から現在までの間に撮影され、沖縄タイムス社所蔵のカラー写真を含む約百三十点を展示。

 特別展示では、戦後直後の子どもたちの表情や第一回全戦没者追悼式の様子、慰霊の日に平和の礎前で祈りをささげる遺族の姿などが写し出されている。

 「本当に懐かしい」と終戦直後の写真に見入っていた大城直子さん(64)=那覇市=は「戦後すぐの子どもたちのたくましく生きている写真が印象的。自分自身のことも思い出し、涙が出た」と話した。

 二十八日まで(午前八時半午後五時半)。入場無料。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806211700_03.html

全国で署名40万件/地位協定見直し 地位協定 改定要求に欧州注目 など 沖縄タイムス関連記事(6月12日から16日) 

2008年6月12日(木) 朝刊 27面

犯罪防止へ四軍調整委/日米会合で米が説明

共同巡視は「検討中」

 米兵の事件・事故の再発防止策について日米の関係機関が話し合うワーキングチームの会合が十一日、那覇市の外務省沖縄事務所であった。共同議長のマーク・フランクリン在日米軍沖縄調整事務所長は、在日米軍が五月にまとめた再発防止策として「性犯罪に対応するための四軍調整委員会」の設立や各軍ごとに見直した教育プログラムを説明した。

 会合は冒頭以外は非公開で行われ、「コアグループ」と名付けた関係機関から少人数が出席。

 地元から県と県警が参加、オブザーバーで沖縄市、北谷町、金武町が加わった。

 外務省沖縄事務所の倉光秀彰副所長によると、フランクリン所長は「固定的な措置でなく、常時見直し、改善していく」と述べ、教育プログラムへの日本人講師の派遣など、協力を依頼したという。

 政府の取り組みについて、同省の伊澤修日米地位協定室長は米軍関係者向けの「沖縄理解増進セミナー」を年間十回以上開催すると説明。

 日米の共同パトロールは、警察権の調整を進めている段階として、詳細を明かさなかった。

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2008年6月12日(木) 朝刊 2面

「護憲」団長に新里氏/県議会野党会派 多数派づくり激化

 県議会内で多数を占めた野党各会派は十一日までに選挙後の初会合を開き、会派調整や代表選任などの協議を始めた。複数の推薦を得た当選者への働き掛けも強まり、野党内の多数派づくりは激しくなっている。

 護憲ネットは十一日、現職四人、新人四人が県議会で初会合を開き、県議団長に新里米吉氏を選んだ。野党第一会派を維持する見込みで、新里氏は「第一会派として各会派の意見をまとめ、結束を高めたい」との意向を示した。社大(当選者二人)と、革新系無所属の当選者三人で構成する「結の会」も十一日、協議。共産推薦を得た当選者もおり、社大の比嘉京子書記長は「慎重に協議を重ねて結論を出したい」と述べた。

 民主党県連は九日に当選者四人が協議し、民主会派結成で合意している。

 注目されるのは、政党「そうぞう」公認の當間盛夫氏と国頭郡区当選の平良昭一氏、沖縄市区の玉城満氏ら。会派構成は週明けにも決着する。

 議長、副議長の人選は「白紙状態」(野党会派幹部)。野党内では、護憲ネット幹事長の高嶺善伸氏、最多当選の玉城義和氏(無所属)、社大の大城一馬氏らが有力視されている。

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2008年6月12日(木) 朝刊 3面

補償は別枠予算で/旧軍飛行場用地問題

協議会が県に要請

 旧軍飛行場用地の補償問題について、同問題解決促進協議会(金城栄一会長)は十一日、県基地対策課を訪れ、「補償事業を沖縄特別振興対策調整費で行えば事業規模が縮小する」として、調整費とは別の枠組みで政府に予算要求するよう要請した。県は「同調整費で行うかどうか決まっていない」と従来の見解を示すにとどめた。

 金城会長は「県が調整費で解決しようとするのは見えている」と反発。市町村単位での説明会で、「県が『調整費で概算要求をする』と説明した」と疑問を投げ掛け、「誰のための戦後処理なのか。県が(事業を)小さくまとめようとしてはいけない」と訴えた。

 同課の安里肇副参事は「決定ではない。いろんな議論がある」と述べ、選択肢の一つだと釈明。又吉進課長は「別枠予算は県も可能性を検討しているが、調整費など今ある確立されたスキーム(枠組み)もある。予算の配分の仕方や事業の性格はまだ決まっていない」と説明した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806121300_05.html

 

2008年6月12日(木) 朝刊 27面

平和の共同作業 摩文仁・祈念像を「浄め」

 【糸満】二十三日の「慰霊の日」を前に、糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂で十一日、平和祈念像のほこりを払う「浄め」が行われた。沖縄バスの新人バスガイドや県の工芸技術支援センター(南風原町)の研修生らが、高さ約十二メートルの祈念像の汚れを丁寧にふき取った。

 恒例の「浄め」は毎年二回、慰霊の日前と年末に行われる。一時間ほどかけ、柔らかい布でほこりを払ったり、全国から贈られた折り鶴などを整理した。

 社会科見学で祈念堂を訪れ、作業を手伝った座間味小六年の中村宏樹君(11)は「初めて見たけど、祈念像はとても大きくてすごい」と目を丸くしていた。

 祈念堂管理事務所の比嘉正詔所長は「平和への思いや願いを次の世代にバトンタッチする意味でも、多くの人が作業にかかわる意義は大きい」と感謝した。平和祈念堂では二十二日午後七時から、沖縄全戦没者追悼式前夜祭が開かれる。

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2008年6月12日(木) 夕刊 5面

家族への思い・死の覚悟・・・自決軍医長の手紙寄贈

旧海軍壕 あすから展示

 沖縄戦時に海軍沖縄方面根拠地隊の軍医長で、海軍司令部壕で自決したとされる小山正信さん(広島県)の家族がこのほど、沖縄など戦地から家族に送られてきた手紙十九通を旧海軍司令部壕事業所(豊見城市)に寄贈した。家族への思いや死の覚悟をつづっており、十三日から同所で展示される。

 手紙は一九四三年六月から四五年三月まで、ラバウルや沖縄から妻・幸枝さん(88)らにあてたもの。長女の橋本恵美子さん(64)が一―二歳のころ正信さんは沖縄にいたという。手紙には「一歩二歩と歩く様になったとの事、一層可愛い事と思ふ」「よく御飯を食べるし、よくお喋りするとの事で小生の眼の前にその様子が浮かんで来るやうだ」(四四年十二月)と、子どもの成長を喜んだり、家族を思いやる言葉が多い。

 一方で刻々と厳しくなる戦況を伝えるとともに、「今度は絶対的に白木の箱に入るものと覚悟している」(四四年十二月)「最後の訣別の辞を送る事になった」(四五年二月)などの文言も。米軍上陸直前の四五年三月になると、「敵の来るのを待つ身を想像して見てくれ。進撃なら愉快だが来るのを待つのは嫌だネ」。

 正信さんは、四四年八月に沖縄に着任。四五年六月に、大田實司令官の自決後、同壕内で五人の幕僚とともに自決したとされている。

 同所は十三日に慰霊祭を開催する。

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2008年6月13日(金) 朝刊 29面

「集団自決」劇で表現/美里高生 教科書問題機に

 昨年九月の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」に参加した美里高校の生徒らが「集団自決(強制集団死)」をテーマにした劇「明日への幸せ」を十三日午後二時から、沖縄市の沖縄市民会館で披露する。入場無料。「集団自決」の証言集など沖縄戦関係の資料を丹念に読み込んだ演劇部の生徒らが脚本・演出も担当。「事実をなぜ変えるのか」。教科書問題で疑問に感じた思い、平和への願いを自作の劇で表現する。(宮城貴奈)

 舞台は多額の借金やいじめなどに苦しみ自殺を図ろうとする社会人、高校生、主婦の三人が糸満市の喜屋武岬で出会うところから始まる。そこに沖縄戦の「集団自決」の犠牲者の霊が現れ、当時の体験を語るストーリー。

 捕虜になるより自決を選ぶようにと日本兵から渡された手りゅう弾で命を絶つ場面。生きたくても生きられなかった悲しい歴史を通して、「命の尊さ」を伝える。

 脚本を担当した島袋史奈さん(17)=三年=は教科書問題で沖縄が大きく揺れ動いたのを目の当たりにし、「変えなくてもいい事実をなぜ変えるのか」と疑問を感じたという。

 「6・23慰霊の日平和学習」発表会は同校のダンス部や吹奏楽部など五つの部の生徒が平和をテーマに朗読などを行う。

 今年は昨年の教科書問題を受け、「集団自決」を盛り込んだ内容にしたいと、演劇部の生徒が主体的に証言集や資料集を読み込んだ。体験者の証言集を手にし、「こんなに追い込まれていたのかと胸が痛くなった」と語る島袋さん。

 昨年の県民大会に参加した小渡歩さん(18)=三年=は「沖縄出身者として、沖縄戦であった『集団自決』の事実を多くの人に伝えていきたい」と来場を呼び掛けた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806131300_02.html

 

2008年6月13日(金) 朝刊 2面

再編交付金で校舎改修/金武町 ソフト事業にも活用

 【金武】在日米軍再編への協力に応じて支払われる再編交付金について金武町は十二日までに、金武中学校の改修工事に充てる方針を決めた。約八千五百万円の改修工事費を盛り込んだ一般会計補正予算案を町議会六月定例会に提案する。校舎外壁を塗装するほか、新たに通路を設置する。

 同町へは、在日米軍再編に伴う米軍キャンプ・ハンセンの自衛隊共同使用を受け入れたとして、本年度の第一次分約八千五百万円と、執行されていない前年度分の約千二百万円の交付が予定されている。

 同町は、再編交付金基金を設置するための条例制定案も提案。前年度分の約千二百万円を積み立て、ソフト事業に活用する方針。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806131300_03.html

 

2008年6月13日(金) 朝刊 2面

「普天間」へ影響否定/県議選の結果受け

 ケビン・メア在沖米国総領事は十二日の定例記者会見で、野党が多数を占めた八日の県議会議員選挙が米軍普天間飛行場移設に与える影響について、「事情は変わっていない。日本政府は律義なので、合意したことをそのまま実行すると期待している」と述べた。

 メア総領事は「県議会の意見を無視するわけではなく、沖縄にもいろいろな意見があるとよく分かっている」とした上で、「(再編合意は)日本政府が地元の声に配慮してL字形からX字形、V字形に変更、調整された」と指摘。米政府が修正に応じないとの見解を強調した。

 さらに、「選挙ごとに見直せば何もできない。県議会も現実的な目で見て、沖縄の負担軽減に有利に働く再編計画の実行に理解してほしい」と話した。

 来年発足する米国の新政権が再編計画を変更する可能性について「共和党も民主党もアジアに対する安全保障政策は変わりがない。滑走路の位置は大統領レベルで戦略的に考えることでなく、技術的なことだ」と否定した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806131300_04.html

 

2008年6月13日(金) 朝刊 29面

米軍被害救済へ手引き/17ページの冊子NGOが発刊

 「日米地位協定改定を実現するNGO」(比嘉幹郎、佐久川政一共同代表)は十二日、県庁で記者会見し、米軍人らが絡む事件・事故の被害者が補償を求める際の手順や連絡先などを記した「被害補償の手引き」を発行した、と発表した。同NGOは「誰もが手に取れる冊子の形で手引きを作ったのは初めて。事件・事故で泣き寝入りせず、本書を活用してほしい」と呼び掛けている。

 手引きでは、米軍人や軍属、その家族が引き起こした事件や事故の被害補償の請求方法などを十七?にわたって記載。米兵、軍属、家族の身分の違いで補償請求の方法が異なることから、被害直後に加害者の身分や、所属基地の連絡先、担当責任者などを確認する必要性を強調。

 公務中、公務外の事件・事故では、それぞれの請求先機関や法的手続きの手順を記載した。

 手引きは千部を発行。米軍関係者による被害が多い自治体に無料配布するとともに、一部五十円で一般販売も行う。

 同NGOは、今年三月に野党三党がとりまとめた「地位協定改定案」を考えるシンポジウムを十四日午後二時十分から、沖縄国際大学五号館で開き、会場で手引きの販売も行う。

 問い合わせは同NGO事務局まで。電話098(934)3298。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806131300_09.html

 

2008年6月13日(金) 朝刊 28面

アイルランド大使 鑑賞/「無言館」展

 来沖中のブレンダン・スキャネル駐日アイルランド大使と妻のマーガレットさんが十二日、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館を訪れ、沖縄タイムス社創刊六十周年企画「情熱と戦争の挟間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」(主催・文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館)などの展示を観覧した。

 「情熱と戦争の狭間で」には、戦没画学生らの作品を集めた長野県の私設美術館「無言館」の収蔵品や、沖縄戦を生き延びた県出身者の作品が並んでいる。作品に顔を近づけ、熱心に見入ったスキャネル大使は「これからたくさんの夢を実現しようという時に戦争で亡くなった若者たちの気持ちが強く伝わってきた」と語った。

 企画展は二十九日まで。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806131300_10.html

 

2008年6月13日(金) 夕刊 1面 

全国で署名40万件/地位協定見直し

 連合沖縄の仲村信正会長は十三日、那覇市内で会見し「米軍の綱紀粛正と日米地位協定の抜本見直しを求める署名」が県内外から四十万件以上集まったと発表した。十六日で締め切り、二十日に外務省での要請行動を行う。仲村会長は「署名活動を通して、日米地位協定は沖縄だけの問題ではないという認識が全国に広がっている」と述べた。

 連合沖縄は二月の米兵暴行事件を受け、三月二十一日から県内での署名活動を開始。四月に横浜市で開かれた連合中央集会などを通し県外でも署名活動を展開。十三日までに県内約五万件、県外約三十五万件が集まった。

 今後は、県内外で地位協定見直しへの理解を深めてもらうため、年一回程度の勉強会を開催する方針。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806131700_02.html

 

2008年6月13日(金) 夕刊 1面

尖閣沖事故 見守る姿勢/知事定例会見

 仲井真弘多知事は十三日の定例会見で、尖閣諸島(中国名・釣魚島)沖で台湾の遊漁船が日本の巡視船と衝突、沈没した事故への対応について、「今のところは考えていない。尖閣に領有権の問題はないと聞いている。その状況を踏まえると、沖縄の漁船の操業など国としてしっかり対応してほしい」と述べ、見守る姿勢を示した。

 二〇〇七年に予定していた尖閣諸島視察について「行ってみたいと思っている。いつかは分からないが、必ず実行したい」と意欲を示した。台湾側は今回の衝突、沈没事故について、尖閣諸島の領有権を主張し日本側に抗議している。

 野党多数となった県議選の結果が米軍普天間飛行場代替施設の移設に与える影響について、仲井真知事は「基本的に自分の主張と政策を変えるつもりはまったくない」と述べた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806131700_04.html

 

2008年6月14日(土) 朝刊 31面

悲惨な戦争 起こすまい/海軍壕で冥福祈る

 沖縄戦で亡くなった旧日本海軍関係者や現地召集された住民約四千人のみ霊を慰める旧海軍司令部壕慰霊祭(主催・沖縄観光コンベンションビューロー)が十三日、豊見城市の同慰霊塔前広場で行われ、県外の遺族三十人を含む関係者約百十人が出席、犠牲者の冥福を祈った。

 当時十六歳で沖縄方面根拠地隊に入隊、すぐに前線に派遣され「九死に一生を得た」という平良樽一さん(79)=那覇市=は「生き残った者として、体の動く限り参加し、二度と悲惨な戦争が起こらないよう願っていきたい」と話した。

 献花しながら何度も「ありがとう」と声を震わせた武田綾子さん(90)=福岡県=は「亡くなった兄や多くの方々のために、いつも(慰霊塔を)きれいにしてくれて、沖縄の人の優しさ、平和を願う心に感謝したい」と涙をぬぐった。

父の手紙 平和の一助

小山さん来県

 沖縄戦時の海軍司令部壕で自決したとされる軍医長、小山正信さんの手紙を寄贈した長男の正善さん(63)が広島から来県、手紙に込められた思いを語った。

 正善さんは当時、母親のおなかの中にいた。父親が戦地から送った十九通すべてに、子どもを心配し無事を願う言葉があるとし、「どんな状況でも親が子を思う気持ちは同じ。戦場での父の願いを多くの人に見てもらうことで、平和への思いを共有するきっかけになってほしい」と期待した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806141300_03.html

 

2008年6月14日(土) 朝刊 31面

教師「集団自決」学ぶ/若手が宮城晴美さん講演企画

 沖縄戦で起きた「集団自決(強制集団死)」について生徒たちに教える立場にある教職員たちが理解を深めようと、宜野湾高校で十三日、女性史家の宮城晴美さん(58)の講演会が開かれた。学校が教師を対象に歴史勉強会を開くのは珍しいといい、宮城さんは「若い先生が意識してくれることは素晴らしい」と話した。

 教科書検定問題で揺れた後の慰霊の日を迎える前に、同校の若手教師らが「しっかり勉強したい」と発案。「集団自決」の証言を集めてきた宮城さんを招いた。

 宮城さんは、座間味での「集団自決」や大阪地裁での訴訟の経緯、「軍の強制」を削除した〇六年度の教科書検定意見が出された背景などを解説。「私たちは戦争で傷ついた人たちを見てきた世代。傷口をこじ開けるように語られた証言はどれも貴重であり、伝える立場の人間の判断で取捨してはいけない」と語った。

 金城睦教諭(36)は「戦争も米軍統治も知らない私たちが、言葉に重みを乗せて生徒に語るのは難しい。さらに次の世代に語り継いでいくためには、教師がより学ぶしかない」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806141300_04.html

 

2008年6月15日(日) 朝刊 2面

地位協定 改定要求に欧州注目/国会議員3氏報告

決議案提出も視野

 野党三党が今年三月に共同提案した地位協定改定案を討論するシンポジウムが十四日、沖縄国際大学で開かれた。日米地位協定改定を実現するNGO(比嘉幹郎、佐久川政一共同代表)が主催。駿河台大の本間浩名誉教授(国際法)が逐条解説し、改定案にかかわった照屋寛徳(社民)、下地幹郎(そうぞう)、喜納昌吉(民主)の国会議員三氏がパネリストとして改定案の狙いなどを報告した。

 本間教授は一九九三年に改定したドイツのボン協定を例に、「冷戦から国際情勢は変化し、米軍駐留の目的も変わった。現実的視点に立った改定が望まれる」と述べた。北大西洋条約機構(NATO)の会合に出席した経験に基づき、県民が求める改定は欧州から注目されていると説明。「ドイツ国防省法務部トップは『米軍問題に強い意志を表明する沖縄に尊敬の念を持つ』と話していた。頑張ってほしい」と呼び掛けた。

 パネリストは、改定案に盛り込んだ(1)施設区域の提供(2)八年をめどに基地使用計画の提出(3)刑事裁判権(4)環境条項―などについて意見交換した。

 下地氏は、基地外居住米軍関係者への外国人登録義務を盛り込んだことに触れ「論議を呼んだが、国内法に米軍を引っ張り出す作業が必要」と指摘。「米国にも国内世論にも改定を呼び掛け、機運を盛り上げたい」と述べた。

 照屋氏は沖縄弁護士会会員として二〇〇三年に同会の改正案に携わった経験から「三党間でスタンスの違いもあり改定案はまだ不十分だが、環境条項の新設は意義があると評価している」と述べた。国会で地位協定改定を求める決議案提出を視野に入れていることも明かした上で、「もっと細かく詰める必要がある。自公の議員にも呼び掛け、可能な限り、全会一致を求める努力をしたい」と述べた。

 喜納氏は「日米地位協定はもともと不平等。沖縄が安保のごみ箱になっている。根本的な哲学を構築しないと変わらない」と訴えた。

 シンポの前には同NGOの総会が開かれ、改定に取り組む決議文を採択した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806151300_05.html

 

2008年6月15日(日) 朝刊 23面

ガマを平和の財産に/那覇でシンポ

生態系保護で課題も

 平和教育や生態学などの観点からガマ(壕)の意義を考えるシンポジウム「ガマ」が十四日、那覇市古島の教育福祉会館であった。四人のパネリストが登壇し、「観光地化」したガマの現状や戦争の記憶を次代につなぐための課題を訴えた。教育や観光ガイドの関係者ら約百人が聞き入った。

 沖縄戦の遺骨収集団体「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんは県内のガマはほとんどが掘り尽くされ、戦時中の遺物が残されていないと指摘。「戦争体験者が減る中で、ガマが持つ情報をみんなの共有財産として受け継いでいく取り組みが大事だ」と力を込めた。

 戦跡保存全国ネットワーク共同代表の村上有慶さんは、一九八〇年代に二万人だった沖縄への修学旅行生が現在は四十五万人に増加し、平和学習の質の低下を招いていると危惧。「次から次にガマにさえ入れば事足りるのか。訪れる人たちが沖縄戦の痛みを共感し、平和の価値を考えることが重要」と話し、「負の遺産」として、県内戦跡の戦争文化財指定を進めるべきだと強調した。

 大勢の人がガマに入ることで、外敵に敏感なコウモリの生態を脅かしていると危機感を表したのは、沖縄国際大学講師の金城和三さん。コウモリの繁殖期にはコウモリがいない別のガマを利用するなど、平和教育と自然保護の両立を求めた。

 県埋蔵文化財センター嘱託調査員の伊波直樹さんは、考古学の視点から報告。ガマは先史時代から生活空間や墓地、拝所などとして人々の暮らしに密着した存在だったと説明した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806151300_06.html

 

2008年6月16日(月) 夕刊 1面

野党第一に社民・護憲/県議会構成 6会派が届け出

 県議選後の新たな県議会構成を決める会派の届け出が十六日午前から始まり、午後一時現在、与党の自民(十六人)、公明県民会議(五人)、野党の社民・護憲ネット(八人)、共産(五人)など六会派が届け出た。与党第一会派は自民、野党第一会派は社民・護憲ネットが占める。

 当選者二人にとどまった社大党は、革新系無所属の新垣清涼氏(宜野湾)と瑞慶覧功氏(中頭)の二人を加えた四人で統一会派を結成した。玉城義和氏(名護)と奥平一夫氏(宮古島)は無所属クラブをつくった。

 民主党は当選した公認四人を中心に会派を構成する方針で、無所属の当選者に参加を働き掛けている。

 政党「そうぞう」の當間盛夫氏(那覇)と無所属の平良昭一氏(国頭)、玉城満氏(沖縄)は、民主会派への参加か、独自の会派結成に向け最終的な調整を続けている。同日中に各会派の構成が決まる見通し。確定後の代表者会議は十七日午前開かれ、常任委員会の構成や議席、県議会内の居室などを決定。議長、副議長選出に向けた協議が本格化する。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806161700_03.html

伊芸区、ヘリ騒音に抗議/「夜間訓練影響は大」 懲役3年を求刑/タクシー襲撃 普天間ヘリ場周経路/調査前向き 野党が逆転 26議席/自民惨敗、民・共躍進 国抗告許可 最高裁へ/沖国大ヘリ事故訴訟 など  沖縄タイムス関連記事・社説、琉球新報 社説(6月6日から11日)

2008年6月6日(金) 朝刊 27面

賛否割れ 現実的対応/並里区ギンバル訓練場売却

 金武町並里区(與那城直也区長)は五日の区議会で、日米が返還合意していた米軍ギンバル訓練場内の区有地(三十四ヘクタール)を、跡地利用を進める町に売却する案を賛成多数で可決した。返還は、同区に隣接するブルービーチ訓練場へのヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)移設が条件になっている。「跡地利用が必要」、「ブルービーチにヘリパッドを造ることで発生する騒音や事件事故に対し、売却を決めて責任を持てるのか」という賛否の意見が出る中、十年越しで条件付き返還に反発していた同区が「現実的対応」にかじを切った。一方、反対する住民の間では署名活動の動きも出ている。(北部支社・新垣晃視)

 区議会議員は十一人。賛成は六人。四人は反対の意思を示していたが、うち三人は欠席した。

 採決には加わらなかった区議会の山城盛幸議長は、議会終了後「町が受け入れを表明するまでが勝負だったと思う。反対を訴えてきたが、力が及ばなかった。ブルービーチの返還は皆希望している。ただ、訓練場が戻ってきても、跡地利用は区だけでできるものではない。総合的に考えての判断だったのではないか」と苦しい胸の内を語った。

 町は、米軍基地所在市町村活性化特別事業(島田懇談会事業)の「ふるさとづくり整備事業」で、ギンバル訓練場跡地に医療施設建設の計画を進める。内閣府は昨年末、用地買収費用として十五億六千九百万円を内示。本年度内の着工を目指す町は、区有地売却に関する同区の合意を得て予算要求をしたい考えで、区に働き掛けてきた。

 同区では、一九九六年と二〇〇六年の二回、ブルービーチへのヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)移設に対し、反対決議をしている。與那城区長は「決議は撤回せず、引き続きブルービーチの返還を求めていく」との立場を示した。

 区に入るギンバル訓練場の軍用地料は年間約五千二百万円。公民館の維持管理費や区内各団体への補助金などに充てられている。返還後は、区有地の売却費で国債を購入し、その利息でこれまでの住民サービスを継続する考えという。

 欠席した知名達也議員は「並里区の将来を左右する大事な判断を、区議会の中だけで決めていいのか。広く住民に問う機会をつくるべきではないか」と話す。区のアンケートでは約66%が条件付き返還に反対しており、反対する住民の間では署名活動の動きも出ている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806061300_01.html

 

2008年6月6日(金) 朝刊 27面

2米兵に実刑判決/沖縄市タクシー強盗

 沖縄市で今年一月に起きた米兵によるタクシー強盗事件で、那覇地裁(〓井広幸裁判長)は五日、いずれも在沖米海兵隊普天間基地所属で伍長のジョセフ・ウェイン・リドル被告(20)に懲役四年六月(求刑懲役八年)、一等兵の米国人少年(19)に懲役三年以上四年以下(同五年―八年)の判決を言い渡した。

 判決は、犯行態様の悪質さを強調した上で、「被害者を暴行して遊興費を得ようとした動機は利欲的で身勝手」と指摘。一方で両被告が反省し、被害男性に見舞金を支払っていることなどを挙げ、裁判官の裁量により刑を減軽した。

 〓井裁判長は、「両被告がまだ若く、リドル被告が年長者としての責任をわきまえた態度を示しているほか、両被告とも不遇な家庭環境で育ったもようである」などと述べた。

※(注=〓は「吉」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806061300_02.html

 

2008年6月6日(金) 朝刊 2面

伊芸区、ヘリ騒音に抗議/「夜間訓練影響は大」

 金武町伊芸区上空で米空軍所属のHH60救難ヘリが夜間にかけて低空飛行を繰り返した問題で、池原政文区長と同区の行政委員会(登川松栄議長)は五日、外務省沖縄事務所と在沖米国総領事館、沖縄防衛局を訪れ、伊芸区での米軍ヘリ演習とレンジ4での米陸軍の都市型訓練施設暫定使用の即時中止を求めた。

 沖縄防衛局の赤瀬正洋企画部長は「夜間のヘリの騒音は地元の生活に大きな影響を与えていると認識している」と地元の負担に理解を示したが、ヘリ演習の中止については「地元に対する影響を最小限にし、安全に万全を期すよう米側の方にも申し入れを行っている」と述べるにとどめた。

 池原区長によると、在沖米国総領事館では「米空軍ヘリはレンジ4の都市型訓練施設で陸軍が行った夜間の救難訓練を支援した」との説明を受けたという。

 都市型訓練施設は伊芸から離れたレンジ16への移設が決まっているが、作業が遅れている。赤瀬部長は「(移設作業完了は)来年の半ばを予定している。できるだけ努力して作業を短くしたい」と述べた。

 外務省沖縄事務所の山田俊司外務事務官は「米軍の錬度維持が日米安全保障体制を支える上で大事」とした上で、「何をもって訓練と定義するか非常に難しいが、すべてが許されていいわけではない。皆さんに迷惑を掛ける訓練は控えるべきだ。まずは事実を把握したい」と述べた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806061300_04.html

 

2008年6月6日(金) 朝刊 26面

平和の礎追加 過去最少128人/県、22日までに刻銘

 県文化環境部は五日、沖縄戦などの戦没者名を刻んだ糸満市摩文仁の「平和の礎」に、本年度新たに百二十八人を追加刻銘すると発表した。一九九六年度に追加されるようになってから最少の人数で、総数は二十四万七百三十四人となる。遺族が沖縄を訪れたのを機に申告した韓国の軍属十二人、米国の海軍人一人も加わる。「慰霊の日」前日の二十二日までに刻銘工事を終える。内訳は国内百十四人(県内四十二人、県外七十二人)、韓国十三人、米国一人。

 韓国の刻銘者のうち十二人は、旧日本軍による強制動員被害を調査する韓国政府の委員会が主催した海外追悼巡礼で、昨年十一月に沖縄を訪れた遺族が申告した。

 県内出身者は、被弾やマラリア、栄養失調などを理由に、沖縄やサイパン、福岡などで亡くなった三十八人のほか、広島や長崎で被爆し、〇七年と〇八年に死亡した四人が含まれる。

 県外出身者はほぼ軍人で、戦艦大和の乗員二十一人、日本郵船所有の貨物船で当時軍に徴用されていた富山丸の乗員四人、神風特別攻撃隊七人など。

 都道府県別で最も多かったのは佐賀県の四十人で、刻銘対象を緩和した〇三年改正の基本方針に照らして、同県が戦没者リストを改めて調査し、未刻銘者が多数判明したためという。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806061300_10.html

 

2008年6月6日(金) 夕刊 7面 

懲役3年を求刑/タクシー襲撃

那覇地検 23日に判決

 沖縄市で今年三月、タクシー運転手が三人組の外国人に襲われ、釣り銭箱を奪われた事件で、事件を首謀したとして窃盗と傷害の罪に問われた在沖米空軍嘉手納基地所属で兵長の憲兵隊員ダリアス・エイ・ブランソン被告(22)の論告求刑公判が六日、那覇地裁(〓晋一裁判官)であった。検察側は懲役三年を求刑、弁護側は執行猶予を求めて結審した。

 判決は二十三日に言い渡される。

 検察側は論告で、ブランソン被告が自宅に寝泊まりさせていた少年らを事件に加担させており、刑事責任は最も重く、地域社会に与えた影響も大きいなどと指摘。

 弁護側は弁論で、ブランソン被告が真摯に反省し、被害弁償する意志を持っているほか、実行行為にはかかわっていないなどの情状を訴えた。

※(注=〓は「頼」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806061700_07.html

 

2008年6月7日(土) 朝刊 28面

「ひめゆり」全国上映/公開2年目では異例

 体験者二十二人の証言を記録したドキュメンタリー映画「ひめゆり」(柴田昌平監督、プロダクション・エイシア制作)が、今年も六―八月にかけて全国各地で上映される。関係者によると、公開二年目の作品がロードショーに近い形で全国再上映されるのは異例。県内でも桜坂劇場のほか、市民団体が上映会や関連イベントを予定している。

 プロデューサーの大兼久由美さんは「証言に込められた普遍的な力を伝えるため、慰霊の日を挟んだこの時期に、今後も毎年、上映を続けていきたい。戦争や平和、命について考えるきっかけになれば」と話す。

 「ひめゆり」は柴田監督が十三年かけて証言を記録した二時間十分の長編。昨年三月二十三日、学徒が戦場動員された日に合わせ桜坂劇場で公開、自主上映を含め全国百十一会場で上映。二〇〇七年度文化庁映画賞大賞、日本ジャーナリスト会議(JCJ)特別賞など、数々の賞を受賞している。

 制作したプロダクション・エイシアが、ボランティアなどと連携してつくる「映画ひめゆりを観る会」には、「命のことを感じた。周りの人を大切にし続ける」(二十代)「家に帰ったら、おばあちゃんの話を聞きたい」(十代)などの感想約三千通が寄せられた。

 今年は全国十二カ所で公開予定。県内では桜坂劇場で十四日から二十七日まで。沖縄市のくすぬち平和文化館では毎月第二、第四土曜日に上映している。八日には浦添市社会福祉センターで、自主上映とシンポジウムが行われる。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806071300_05.html

 

2008年6月7日(土) 朝刊 2面 

普天間ヘリ場周経路/調査前向き

 沖縄防衛局の真部朗局長は六日、中部の十市町村でつくる中部市町村会(会長・知念恒男うるま市長)の要請の場で、日米が合意した米軍普天間飛行場での場周経路が守られてないとの伊波洋一宜野湾市長の訴えに対し、「市の声を有効なデータとして客観的に米側にぶつけられるような方策を考えたい」と答え、同局自身が現状調査に取り組む姿勢を示した。外務省沖縄事務所の倉光秀彰副所長は「指摘を真摯に受け止め、防衛省と、米側に『約束をきちんと実行してほしい』と申し入れていきたい」と述べた。

 場周経路は墜落事故を防ぐために日米で設定された飛行ルート。

 真部局長は「米側は『守っているつもりだ』と答えているが、宜野湾市の声もある。現実的に何ができるか。率直に言って見つけられていないが、客観的な方策を考えたい。(指摘を)よく踏まえて検討努力したい」と前向きな姿勢を示した。

 同飛行場の危険性除去については、仲井真弘多知事も四月の移設協議会で、同様の要望を国側に伝達しており、「技術的に何ができるか研究検討するということで、今動いている。県と連携していきたい」と説明した。

 同市町村会は、一九九六年の日米合同委員会で合意した嘉手納基地や普天間飛行場での航空機騒音規制措置が守られていないと主張。真部局長は「現在の規制措置を守らせるよう、あらゆる機会を通じて改善を求めていく」と述べ、市町村会が求める使用協定の締結には否定的な見解を示した。

 F15戦闘機の未明、早朝離陸を回避するため、他基地を経由するべきだとの要望に対しては、日米合同委員会の航空機騒音対策分科委員会で検討していると説明。「経由地を選定して早朝離陸の問題を解決できないか、あらゆる方策を検討している。できるだけ早く有効策を説明したい」と話した。

 同市町村会は普天間飛行場の危険性除去や早期閉鎖・返還、嘉手納基地から派生する諸問題の解決促進を求めた決議文を、防衛局や外務省沖縄事務所、県に提出した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806071300_07.html

 

2008年6月7日(土) 朝刊 28面

市民参加で遺骨収集/那覇市で22日

 慰霊の日を前に、那覇市と沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」(具志堅隆松代表)は二十二日、真嘉比小学校近くの市土地区画整理地区「真嘉比古島第二地区」で市民参加型の遺骨収集を行う。行政と市民団体が連携して遺骨収集するのは初めて。

 真嘉比地区は新都心地区のシュガーローフと同様、日本軍の支援陣地があり、激しい戦闘が展開された地域。いまだに多くの戦没者の遺骨が眠っているという。具志堅さんは「自分の住む身近なところで戦争が起こったことを知り、なぜこの人たちが犠牲にならなければならなかったか、あらためて沖縄戦を考える機会にしてほしい」と話した。

 那覇市が収集作業に協力することも、市民活動の大きな支えになると期待している。

 遺骨収集は二十二日午前九時から午後三時まで(雨天時は中止)。その後、現地で慰霊祭を開催する。参加費百円(保険料込み)。個人参加のみ。高校生以上が対象だが、親子同伴の場合は中学生以下も可。発掘作業に三十人、現場見学は(1)午前十時半(2)午後一時半で各二十人。白い布製の収集袋提供だけも受け付ける。

 軍手、帽子、タオルなど持参。申し込み・問い合わせは市平和交流男女参画室、電話098(861)5195。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806071300_09.html

 

2008年6月7日(土) 夕刊 5面

「情熱と戦争の狭間で・無言館」展/来場者から平和祈る声

 「見ていて胸がつまった」「一つ一つの絵にくぎ付けになった」―。県立博物館・美術館で開かれている戦没画学生の作品などを展示する「情熱と戦争の挟間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」(主催・文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館、共催・沖縄タイムス社)のアンケートには、県内外の来場者から、戦争の「痛み」に共感、平和を祈る声が続々と寄せられている。

 同展は長野県の私設美術館「無言館」の作品と、「戦争の記憶」をテーマとした沖縄の作家の作品による二部構成。二十九日まで。太平洋戦争で戦死した若者や、沖縄戦を生き抜いた画家が、「戦争」というテーマの枠を超え、愛する人物や当時の風景を描き出している。

 神奈川県から訪れた男性(24)は「自分と同じくらいの年齢の若者が、将来の夢を捨てて戦死したことを痛感した」と、自身に置き換えていた。

 失われた「才能」を惜しむ人も。那覇市の女性(37)は「片桐彰さんの絵が現代風ですてき。生きていれば、どれだけ人のためになっていたでしょう」。広島県の男性(27)は「戦争により、多くの人々の命だけでなく、多くの文化も葬り去られた」と嘆いた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806071700_04.html

 

2008年6月8日(日) 朝刊 22面

反基地行動 大阪で200回/辺野古阻止 街頭でビラ

 【大阪】「辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動」(松本亜季代表)は七日、大阪なんば駅前で二百回目の街頭行動を展開した。沖縄の基地問題を大阪でも広めようと二〇〇四年から大阪駅前で毎週土曜日に活動している。この日は「ピース辺野古・なんばアクション」と題し、約三十人のメンバーが「辺野古の新基地建設を阻止しよう」と呼び掛けながら二千枚のビラを配布した。

 松本代表は「沖縄の現状を一人でも多くの人に知ってもらいたい。これまでに三万人の署名も集まった。二百回は一つの節目で、さらに活動を継続したい」と述べた。メンバーらはこの後、心斎橋まで移動しながら基地建設反対を訴えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806081300_09.html

 

2008年6月9日(月) 朝刊 1面

野党が逆転 26議席/自民惨敗、民・共躍進

仲井真県政に打撃/県議選

 任期満了に伴う第十回県議会議員選挙は八日投開票され、野党中立が二十六議席と過半数を獲得し、与野党逆転に成功した。自民、公明両党を中心にした与党は、後期高齢者医療制度に対する有権者の強い反発を受け、二十二議席にとどまる惨敗。稲嶺前県政から続いた与党の安定多数は崩れた。県議選で県政与党が過半数を割り込むのは一九九二年以来十六年ぶり。投票結果を「自らへの評価」としていた仲井真弘多知事は今後、厳しい県政運営を迫られる。普天間飛行場移設協議や経済振興など政策課題への影響も必至だ。野党圧勝で、争点となった後期高齢者医療制度の修正・廃止論議も加速されそうだ。投票率は57・82%で、前回を0・9ポイント下回り、過去最低となった。

 野党側は、後期高齢者医療制度廃止を最大の争点に掲げ、党首クラスが相次いで来県するなど、国政選挙並みの態勢で臨んだ。保守支持層が強い高齢者層などへも浸透し、国頭郡、うるま市、浦添市、那覇市などの激戦区を制した。

 与党側は与野党逆転の危機を訴え、経済界の支援を得ながら過半数維持を狙ったが、後期高齢者医療制度への反発は強く、仲井真知事の支援を受けた「与党効果」も上滑りに終わった。保守支持層が切り崩されて激戦区で現職が落選し、少数与党に転じた。

 当選者の内訳は、現職二十七人、元職三人、新人十八人。現職四人が落選した。最年少は三十五歳、最高齢は六十八歳。女性は過去最高の十人が立候補し、七人が当選した。

 党派別では、自民は十六人が当選。公明は五人の公認推薦候補が全員当選した。

 野党側は、社民が五議席を得て、野党系無所属候補を含めて野党第一会派を確保する見込み。共産は糸満市区で返り咲き、浦添市で初議席を得るなど五人が当選した。

 民主は新人三人を含む四人がトップ当選で躍進した。社大は二人が当選。政党「そうぞう」は公認一人が当選した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806091300_01.html

 

沖縄タイムス 社説(2008年6月9日朝刊)

[与党惨敗(上)]

県政への影響は甚大だ


 県議会の与野党勢力が逆転した。八日に投開票された第十回県議会議員選挙で自民、公明を中心とする与党は、前回選挙で獲得した議席数を大幅に減らし、過半数を割り込んだ。

 仲井真県政にとっても政府にとっても、この結果がもつ意味は極めて重い。

 仲井真弘多知事は、今度の県議選について「私に対する中間評価だと思っている」と繰り返し強調していた。それだけになおさら、与野党逆転の選挙結果は、県政運営に計り知れない影響を与えることになるだろう。

 県政が少数与党の下で運営されるのは過去に二回あるが、今回とは全くケースが異なる。

 一九七八年十一月の知事選で革新から十年ぶりに県政を奪い返した西銘順治知事は、一期目途中まで少数野党だった。九〇年の選挙で保守から十二年ぶりに県政を奪還した大田昌秀知事も、二期目の途中まで少数与党の悲哀を味わっている。

 だが、今回は、県政逆転に伴って生じた変化ではない。保守から保守へ県政が引き継がれ、過半数を超える議席を前県政からの「遺産」として受け継いだにもかかわらず、議席を減らして少数与党に転落したのである。このようなケースは初めてだ。

 与党系で当選したのは自民、公明、無所属を含め計二十二人。これに対し野党系は社民、共産、民主、社大、そうぞう、中立系無所属を含め計二十六人。選挙で示された民意を踏まえ、軌道修正が必要な施策については方針転換をためらうべきではない。

 それにしても、県議選に地殻変動をもたらしたものは何だったのだろうか。

 民主や「そうぞう」など従来の保革の枠に収まらない「第三勢力」が票の掘り起こしを行ったことや、県発注工事をめぐる談合問題で多額の損害賠償金を請求されている一部建設業者が県政離れを起こしたことも影響したとみられる。

 しかし、最大の要因は、やはり後期高齢者医療制度だったのではないか。

 厚生労働省が実施した全国調査の結果、負担が増える世帯の割合が沖縄は64%に上り、全国一高くなっていることが分かった。この調査結果に対する怒りの声が投票行動となって現れた、と見るべきだろう。

 県議選で国の政策にノーが突きつけられたことを政府は重く受け止めなければならない。

 米軍普天間飛行場の辺野古移設問題も、政府や県の描いてきたシナリオに大きな狂いが生じることになりそうだ。

 県が求める沖合移動については米側が強硬に反対しているが、辺野古移設そのものを疑問視する野党が議会で多数を占めたことで、困難はいっそう深まった。

 県議会の勢力は四年後の次の選挙まで変わらない。議会同意の必要な人事を含め、多数野党とどのように協調していくか。仲井真知事は、一期目の任期半ばで、公約も実現しないうちに、重大な岐路に立たされることになった。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080609.html#no_1

 

琉球新報 社説

県議会逆転 重い負担に有権者「ノー」/国・県は民意を受け止めよ 2008年6月9日

 仲井真県政1期目の県議会勢力図がどう変わるか注目された第10回県議選は、8日の投開票で野党・中立系が過半数を制し、与野党逆転を果たした。県政運営に影響を与えるのは必至で、普天間飛行場の名護市辺野古移設を推進する政府も、再考を迫られる局面が浮上しよう。

 選挙結果は、過重負担が続く米軍基地問題や「低所得層ほど負担増」になることが判明した後期高齢者医療制度など、県民生活に深くかかわる国の施策や県の対応に有権者が明確に「ノー」を突き付けた格好だ。

 国と県は結果を重く受け止め、民意を十分に踏まえた形で政策転換を図ってもらいたい。

吹いた「変革」の風

 今県議選は定数48に対し、74人が立候補、激しい選挙戦を展開した。基地問題への対応や雇用・経済振興策、教育・福祉環境の整備など従来の争点に加え、後期高齢者医療制度の是非が与野党の大きな対立軸として浮上。暫定税率を復活させガソリンを再値上げした施策を含め、県政だけでなく、国政への評価も問う地方選挙として全国的にも注目された。

 開票の結果、野党・中立系が6人増の26議席と勢力を大幅に伸ばしたのに対し、与党系は5人減の22議席まで後退した。野党は社大が2議席に後退したが、社民、共産は各5議席を獲得、民主も4人全員当選と躍進したのが特徴で、有権者に「変革」を求める風が吹いたといえる。

 これに対し、与党は公明が現有3議席を守ったが、自民が4人減の16議席と減らし、与野党逆転を招いた。選挙戦で新しい基地建設計画や、社会的弱者に痛みを強いる施策について、十分に説明できなかったことが響いたのは間違いない。

 当選した県議に、まず注文したいのは「顔の見える」政治家になってほしいということである。劇場的なパフォーマンスの意味ではない。選挙戦で訴えた政策を議会活動の場でも繰り返し提起し、民意の反映に全力を挙げてもらいたいという思いだ。

 議員に対し「選挙の時しか顔を見ない」との皮肉を有権者から聞くことがあるが、当選後、議会での質問権も十分に行使しないことがまかり通るようでは、地方自治はおぼつかない。

 与党であっても、県政に対しては、是々非々で対応する姿勢が求められる。県側の提案を丸のみしていると、緊張感を欠くし、何より県民のためにならない。軸足はあくまで県民の側に置き、県民こそが主人公だと心したい。

 「ねじれ国会」を見ても分かるように、行政と議会の間には緊張感が求められる。省庁不祥事などが相次いで発覚しているのは、国会が機能してきた証しだろう。県議会もしかり。

難題解決へ結束も

 県議への2つ目の注文は、沖縄が抱える難題解決に向けての結束である。昨秋の教科書検定意見撤回を求める県民大会では、県議会議長が実行委員長を務め、文部科学省に対して「県民の怒り」をぶつけた。

 教科書検定問題が大きなうねりとなり、政府に方針転換を余儀なくさせた背景には、県議会が結束して行動したことがある。

 1995年の米兵による少女乱暴事件に抗議する県民総決起大会でも、超党派で前面に出て、県民を代表する機関としての役割を果たした。県議会一致の行動は、県民の総意であり、政府も軽視できまい。

 ところが今春、本島で米兵による女子中学生暴行事件が発生した際、結束が崩れた。抗議の県民大会への参加を仲井真知事が控え、自民も組織不参加を決めた。与党の公明が参加しただけに、残念であった。議会の結束が崩れると、政府に見くびられる恐れがある。

 県議会は、県民の代表者である議員が沖縄県の重要な事項について意思決定を行うという大きな役割を担っている。政府を揺り動かす気概で、地方議会の主体性と存在感を高めたい。

 投票率が57・82%と過去最低だったのは懸念材料だ。若者の選挙離れがいわれて久しいが、今回も歯止めがかからなかった。抜本策が急がれるが、当選した県議らが議会に新しい風を吹き込み、沖縄の未来を主体的に切り開く気概を示せば、おのずと政治への関心も高まろう。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-132952-storytopic-11.html

 

2008年6月9日(月) 夕刊 1面

「自公政治」を批判/県議選・与野党逆転

 第十回県議会選挙(定数四八)は八日投開票され、野党中立が二十六議席を獲得し、二十二議席だった与党を上回った。与野党逆転を許した自民、公明は厳しい選挙結果に、仲井真弘多知事の今後の県政運営に懸念を表明した。一方、野党各党は「後期高齢者医療制度など自公政治に対する怒りが示された」とし、県政の変革を訴えた。

 現職二人を含む公認候補六人が落選した自民党県連の外間盛善代表代行は、後期高齢者医療制度に対する批判を敗因に挙げ、「あまりにも逆風が強かった。見直しも打ち出したが、十分に説明できなかった」と分析。党勢の立て直しを課題に挙げた。

 同じ与党でも公明党県本は公認推薦五人が全員当選した。糸洲朝則代表は「完全勝利だった」としながらも、「与党の過半数割れは残念。仲井真県政の今後の県政運営を危惧する」とした。

 社民党県連は五人の公認候補が当選。三人の無所属候補の会派入りで、野党最大会派へ。照屋寛徳委員長は「仲井真県政に対する厳しい審判だ。自公政権は今回の結果を厳しく受け止めるべきだ」と主張した。

 共産党県委は五人の公認が当選し、現有三議席から伸ばした。代表質問権などを回復させ、赤嶺政賢委員長は「自公の悪政に対する怒りが躍進につながった。県議会の論戦をリードしていきたい」とした。

 新人三人を含む公認四人がトップ当選で躍進した民主党県連。喜納昌吉代表は「政権交代を望む県民の期待が民主党に多数寄せられた結果だ。自公政権は早期解散で民意を問うべきだ」と強調した。

 社大党は現職、新人の二人が落選。公認候補の当選が過去最低の二人だった。比嘉京子書記長は「民主党躍進の影響を受け、埋没してしまった」と、後期高齢者医療制度など与党への反発が、他党へ流れたと分析。立て直しを訴えた。

 公認一人が当選した政党「そうぞう」の下地幹郎代表は「与野党逆転は日本の政治に大きな影響を与え、非常に意味を持つ」と指摘。「『変えたい』という県民の思いに応えていきたい」とコメントした。

 国民新党県連の呉屋宏代表は「推薦候補四人が当選した。政治改革の第一歩を沖縄から中央政府に訴えたい」とコメントした。


     ◇     ◇     ◇     

野党の考え聞き判断/仲井真知事


 仲井真弘多知事は県議選の投開票から一夜明けた九日午前、今後の県政運営について「野党がどう考えているか聞いた上で判断したい」と述べ、議会で過半数を占めた野党との調整が必要との考えを強調した。一方で「粛々と仕事をするだけだ」とも述べ、基本政策を堅持する方針もにじませた。登庁時に記者団の質問に答えた。

 与党の過半数割れには「民主が躍進して(与党の票が)はねられてしまった」として、民主党の勢力拡大の影響が大きいとの認識を示した。

 県首脳は同日午前、米軍普天間飛行場の移設問題について「県議選は知事選ではない。基本的な考えを変えることは県民への公約の放棄になる」として、名護市キャンプ・シュワブ沿岸部移設とV字形滑走路の沖合移動を引き続き推進する考えを明らかにした。


医療制度が敗因/町村官房長官


 【東京】町村信孝官房長官は九日午前の会見で、与野党の勢力が逆転した県議選の結果について「仲井真知事も言うように、背景に長寿医療制度(後期高齢者医療制度)の問題があったことは否定しえない事実だろうと思う」と述べ、同制度への逆風が与党敗因の一つになったとの認識を示した。

 普天間飛行場の移設問題は「争点になったとは聞いていない」とした上で、政府と県との協議への影響について「公有水面埋め立てなどで県知事の許可が要るが、県議会の了承が必要なことはないだろうと思っている。県民の理解と協力を得ながら進めていくのが政府の方針だ」と述べた。

 ただ別の政府筋は「キャンプ・シュワブ沿岸部への移設に影響は避けられない」との懸念を示し、「仲井真知事の今後の判断に影響する」との見方も出ている。知事が滑走路位置の修正を求めていることもあり、政府と県側の調整はさらに難航する可能性がある。

 一方、選挙結果が国政に与える影響をただされた町村官房長官は「どこの地方選も地元の事情、選挙区ごとの事情があるから、(選挙結果が)どう国政に影響を与えるか、ただちにコメントするのは難しい」と述べるにとどまった。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806091700_01.html

 

2008年6月9日(月) 夕刊 1面 

国抗告許可 最高裁へ/沖国大ヘリ事故訴訟

 沖縄国際大(沖縄県宜野湾市)の敷地内に米軍のヘリコプターが墜落した事故をめぐる情報公開訴訟で、福岡高裁(西理裁判長)は九日までに、不開示部分を裁判所に提示するよう命じた同高裁決定を不服として国が申し立てた抗告を許可する決定をした。六日付。

 不開示部分の裁判所への提示の当否は、最高裁に審理が持ち込まれ、判断されることになった。

 この訴訟は、那覇市の男性が二〇〇四年のヘリ事故をめぐる日米両政府間の協議内容の一部を情報公開請求で不開示とされたのは不当として、国の処分取り消しを求め、福岡地裁に提訴。一審判決は請求を棄却し、男性が控訴した。

 福岡高裁は五月、不開示に理由があるか否かを判断する上で「文書の細部まで内容を正確に把握する必要がある」として国に文書の提示を命じた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806091700_04.html

 

2008年6月9日(月) 夕刊 6面

イオンが協定書/泡瀬ゴルフ場跡に出店

 【北中城】二〇〇九年秋以降の返還が見込まれる米軍泡瀬ゴルフ場跡地への出店を予定するイオンモールと琉球ジャスコ、アワセゴルフ場地権者会は九日午前、北中城村役場で、「イオンモール沖縄北中城(仮称)」出店の「事業推進の協定書」に調印した。協定書は(1)返還跡地へのイオングループ出店で合意(2)区画整理事業の推進(3)出店で相互協力する―などと定めている。

 調印式にはイオンモールの山中千敏専務と琉球ジャスコの栗本建三社長が出席。両社は既に調印を済ませており、この日は地権者会の比嘉伸維会長が調印した。

 比嘉会長は「イオンモール出店は地域経済の活性化につながる。事業推進のためまい進したい」と期待。山中専務は「顧客第一の企業理念で、輝きのある街を創造したい」と抱負を述べた。

 イオングループは一二年度、米軍泡瀬ゴルフ場跡地への出店を予定。敷地面積約十七ヘクタールで、飲食店などの専門店約三百店のほか、約六千台収容の駐車場を建設する。雇用効果は約三千三百人を見込んでいる。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806091700_07.html

 

2008年6月10日(火) 朝刊 2面

米軍再編方針変えず 首相

 【東京】福田康夫首相は九日、政府与党連絡会議に出席し、県議選で与党が敗北を喫したことについて、在日米軍再編問題などに対する政府の従来方針に変わりはないとの考えを強調した。冒頭、福田首相は「沖縄に関しては米軍再編問題など、そのほかの重要な問題がある。これまで通り、粛々と進めていきたい」と述べた。

 会議終了後、公明党の太田昭宏代表は「わが国と沖縄ということからいくと、国にかかわる案件は非常に多い。そこが、これから県政としてなかなか困難なスタートになると思う」と述べ、今後、仲井真弘多知事が厳しい県政運営を迫られるとの見方を示した。

 自民党の古賀誠選対委員長は、「地方の選挙は地方の選挙」としながらも、「沖縄という非常に国政にかかわりの深い県なので、大変残念な結果だった」と指摘した。その上で、同会議で、後期高齢者医療制度に対する有権者の強い反発があったことを説明したと述べ、詳しい敗因を今後分析する考えを示した。


福田政権不信任

民主・鳩山幹事長


 【東京】民主党の鳩山由紀夫幹事長は九日、県議選で野党中立が過半数を獲得したことについて、「(県議選で)野党が逆転したと言うことは、国政においても野党逆転しろという意思表示。『福田政権おやめになりなさい』という思いを県民が示した」との見解を示した。

 その上で、「信任されていないということを直近の民意が示していると理解し、解散するか、あるいは総辞職するか、いずれかの手段をとって国民に信を問うてほしい」と述べた。

 一方、「今年唯一の県議選なので、まさに国政に直結している」と述べ、後期高齢者医療制度に対する有権者の強い反発を勝因に挙げた。その上で、福田康夫首相に対する問責決議案提出に意欲を示した。

 選挙結果が米軍普天間飛行場の移設に与える影響については、「民主党も四人の候補者がトップ当選した。他の野党も(同飛行場を)県外に移転させろという主張が中心であり、その方向で県議会は動いていくことになるので、(県内移設を容認する)仲井真弘多知事の思い通りには進みにくくなる」との見方を示した。


普天間に「影響」

防衛省外務省


 【東京】米軍普天間飛行場移設を担当する防衛、外務の両省からは九日、今後の移設事業への影響を指摘する声が上がった。

 防衛省の増田好平事務次官は、同日の定例会見で「地元の声にもよく耳を傾けて関係の役所とも連携しつつ、地域振興に全力を挙げて取り組みながら、日米合意に従って着実に進めていきたい」と従来の見解を繰り返すにとどめた。

 しかし、同省首脳は「現時点で答えるのは難しいが、影響はある」との見方。ただ、県が求める代替施設案(V字案)の沖合移動については、「これまでも『沖合移動を念頭に努力する』と言っている。その姿勢は変わらない」と述べ、基本姿勢は変えない考えを強調した。

 一方、外務省幹部は「間接的に影響してくる。これから(状況を)見ていかなければならない」と述べ、県議会と県政の動向を注視していく考えを示した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806101300_02.html

 

2008年6月10日(火) 朝刊 26面 

「ガマ」の再認識 平和学習に意義/高教組、14日にシンポ

 高教組教育資料センターは十四日午後二時から、那覇市の教育福祉会館でシンポジウム「ガマ」を開催する。二〇〇五年から戦跡調査を積み重ねている同センターが、「ガマは平和学習の上で重要な意義を持つ」と再認識したことがきっかけ。「ガマについて認識を深め、平和学習の課題を模索する機会にしたい」と多くの来場を呼び掛ける。

 シンポジウムでは、「遺骨収集とガマ」「考古学とガマ」「ガマの生息動物保護」などをテーマに、四人がガマについて報告する。

 三年間、県内各地でガマなどを調査してきた同センターの源河朝徳事務局長は、「戦跡は中南部というイメージがあるかもしれないが、県内の至る所にあり、若い人にはそこに目を向けて、学んでもらいたい。特異な生態系を持つものもあるので、ガマのさまざまな面を学んでほしい」と話した。

 同センターは八月に、調査結果をまとめたガイドブック「ガマ」を発刊する予定。

 シンポジウムは入場無料。問い合わせは同センター事務局、電話098(884)4555。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806101300_07.html

 

沖縄タイムス 社説(2008年6月10日朝刊)

[与党惨敗(下)]

噴出した国政への批判


 自民党にまたも逆風が吹いた。八日に投開票された県議選で自民党は議席数を改選前の二〇から一六に減らし、ついに少数与党に転落した。

 逆に民主党は公認候補の四人全員がトップ当選を果たすという大躍進を遂げた。昨年七月の参院選で示された「自民退潮・民主躍進」の結果が県議選でも同じ形で再現されたのである。

 なぜ、このような選挙結果が出たのか。テレビのインタビューに答えるお年寄りの言葉が印象的だった。「これまでは自民党に投票していたが、今度だけは入れたくなかった」

 国の失政に対する「有権者の反乱」「地方からの異議申し立て」が、自民大敗の結果を生んだといっていい。

 昨年の参院選は「年金問題」「政治とカネ」「閣僚の不祥事」という逆風三点セットが自民党に吹き荒れた。

 県議選の結果を左右したのは後期高齢者医療制度である。年金問題といい高齢者医療といい、老後の生活を保障するはずの政府の基本政策に有権者がノーを突きつけたのである。

 それだけではない。二〇〇七年六月に施行された改正建築基準法によって建築確認が厳格化され、県内でも住宅着工件数が大幅に減少した。典型的な「官製不況」だ。県内の建設業界は今もその影響から抜け出せないでいる。

 ガソリンや食料品の値上がりが家計を直撃している時だけに、暫定税率をめぐる政治の混乱や政府の対応のまずさにも有権者の批判が集まった。

 与野党いずれの支持者からも共通に聞こえてきたのは、米軍再編推進法に基づく露骨な「アメとムチ」政策に対する批判である。

 再編交付金というアメをちらつかせながら自治体をコントロールしようとする政策は、自治体の自主性を損ねるだけでなく、そこに住む住民の「誇り」や「土地への愛着」を逆なでするような結果を招いている。

 後期高齢者医療制度もそうだが、生身の人間の息遣いや日々の暮らしの現実を無視して政策が作られているということだろうか。ぎすぎすして、ぬくもりが感じられない。

 将来への希望を抱くことができない政策が目立つのだ。

 昨年の参院選、今回の県議選で自民党が大敗し、福田政権に対する支持率が低迷している背景に、こうした政策への反発があるのは明らかである。

 県議選の投票率は57・82%で、過去最低を記録した。一九八八年の第五回県議選のあと、五回続けて下がりっぱなしである。低落傾向に歯止めがかからない。

 国会よりもはるかに身近な存在でありながら、実は、住民と県議会の距離は遠いのではないか。この距離を埋め、住民の政治参加を促すためには議会改革が必要だ。

 与野党を超えて若い当選者にその役割を期待したい。議会に新風を吹き込み、県政と議会の緊張感を高め、議会と住民を結びつけるための新たな試みにチャレンジしてほしい。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080610.html#no_1

 

2008年6月10日(火) 夕刊 1面

「普天間」への影響注視/県議選与野党逆転

防衛・沖縄相が意向

 【東京】石破茂防衛相は十日午前の閣議後会見で、野党が過半数を獲得した県議選の結果について、「与党が過半数を割ったということの意味合いはなおざり視するべきではない」と述べ、米軍普天間飛行場移設への影響を注視する意向を示した。その上で「今まで同様、あるいはさらなる努力をし、普天間移設に向けた手続きや説明を丁寧に、誠実にやっていく」と述べた。

 また、岸田文雄沖縄担当相も閣議後会見で「後期高齢者医療制度の課題も影響したといわれていると認識している。米軍再編の政府方針に影響があるか注視したい」との考えを示した。

 与党の敗因については「それぞれの選挙区の事情や国政の課題などさまざまな事情が重なった。選挙結果を真摯に受け止めることが必要」として、「引き続き県や地元と連携し沖縄の自立型経済の構築に一層努力したい」と述べた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806101700_02.html

 

2008年6月10日(火) 夕刊 5面

新垣良俊氏側が祝儀/「ハーレー激励で」

 【八重瀬】八日に投開票された県議選の島尻郡区で当選した新垣良俊氏(59)の陣営が、投票日前日の七日、八重瀬町の港川漁港で開かれた「港川ハーレー」の会場で、出場チームの関係者に、現金五千円の「御祝儀」を渡していたことが分かった。

 新垣氏は「大会を激励するために渡したもので、投票を依頼するつもりではなかった。結果的に誤解を招いてしまい、反省している」と述べた。

 新垣氏によると、七日午前九時ごろ、後援会長の中村信吉八重瀬町長らとともに会場を訪問。新垣氏の運転手が、「職域ハーレー」に出場する陸上自衛隊南与座分屯地の隊員に、五千円の現金が入った新垣氏の名前を書いた祝儀袋を渡した。受け取った隊員は新垣氏側に返した。

 公職選挙法一九九条二項は、公職候補者は、選挙区にある者に対し、どのような名義でも、寄付をしてはならないと規定している。

 新垣氏は、旧東風平町と旧具志頭村が合併し八重瀬町が誕生した二〇〇六年から大会を運営する港川漁協や港川青年会に、激励として五千円程度の祝儀を渡していると説明した。この日は、自衛隊員を大会運営の関係者と勘違いして祝儀を渡したという。県選挙管理委員会は「仮に事実であれば」と断った上で、「ご祝儀であっても寄付に当たると考えられる。渡した相手が個人か団体かにかかわらず、公選法に触れる可能性がある」と指摘した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806101700_04.html

 

2008年6月11日(水) 夕刊 1面

再編交付金で健康づくり/恩納村が基金創設方針

 【恩納】在日米軍再編への協力に応じて支払われる再編交付金約三千八百万円の支給が決まっている恩納村が、同交付金で基金を創設し、村民の健康づくりを支援する「村健康づくり事業(案)」に充てる方針であることが十一日、分かった。県内で交付を受けている五市町村で、再編交付金を福祉分野に充てる使途が分かったのは、初めて。

 同村は、六月の村議会定例会で基金創設の条例制定案と、同事業の本年度分約九百万円を盛りこんだ一般会計補正予算案を提案する。

 まだ執行されていない二〇〇七年度分約四百七十五万円と、本年度分として内示された約三千三百二十五万円の計約三千八百万円全額を基金に回す。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806111700_01.html

 

2008年6月11日(水) 夕刊 5面

警官が偵察活動従事/沖縄戦下の本島北部

 沖縄戦で日本軍がゲリラ戦を展開した本島北部で、軍に協力した警察官たちの行動を記した日誌の英訳資料を、関東学院大学の林博史教授が米国立公文書館で見つけた。警察官が偵察活動や米軍への破壊活動に従事したほか、住民への宣伝活動を行ったことも記されており、警察官が軍と住民の間を行き来して秘密戦を支えていた構図が浮かび上がった。

 日誌は、一九四五年七月三日に米軍が廃屋で発見。記述者は名護署の警部補とされ、米軍上陸後の四月二十三日から六月三十日までの署員の行動が記録されていた。

 日誌によると、名護署員らは米軍上陸後、日本軍のゲリラ戦部隊である護郷隊が陣を敷いた多野岳の南西に野営。各地の偵察を盛んに行い、四月二十六日には「源河で通信線を切断」と米軍への破壊工作も行った。

 軍への協力についての記述も多く、五月一日には日本兵七人に食料を提供し、六月十二日には日本軍少尉と、十七日には大尉と接触。同月二十一日には「署員を道案内のため多野岳へ」と記されていた。

 同時に、住民の避難壕がある地域にも署員が頻繁に行き来し、住民の動静やうわさ話などを収集していた。六月二十四日には「住民たちに米軍へ収容されないよう指示するため」として署員二人が派遣されたとある。

 林教授は、住民に対する米軍の尋問記録も同館で入手。これによると、住民の一人は「警察官が時々、軍の情報を基にした新聞を住民に配っていた」と証言しており、住民への宣伝を警察が担っていたことを裏付けているという。

 戦時中の警察に関する資料としては、県警察部の「戦闘活動要綱」が〇五年に見つかっている。それには警察の方針として「遊撃戦(ゲリラ戦)への協力」が掲げられ、「遊撃隊とひそかに連絡すべし」「民間人に敵の宣伝に打ち勝つ努力をさせる」などが示されていたが、活動の実態はわかっていなかった。

 林教授は「現場の警察官たちは要綱を忠実に実行し、軍の手が回らない部分を埋め合わせていたことがうかがえる。秘密戦の一端を具体的に記録した貴重な資料であると同時に、根こそぎ動員で秘密戦を継続しようとした日本軍の実態をよく表している」と話している。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806111700_02.html

 

2008年6月11日(水) 夕刊 4面

戦争の影残る風景紹介/屋良さん写真展

 戦時中に一般住民が姿をひそめたガマ、歯とメガネだけがわずかに残った兵士の頭部…。県内各地の戦跡や沖縄戦にまつわる事物を写した写真展「写心展 終幕のない『レクイエム』」が、那覇市おもろまちの県民ギャラリーで開かれている。十五日まで。

 日本写真家協会会員で、写真家の屋良勝彦さん(68)の個展。会場には一九六〇年代後半から二〇〇七年までの作品を展示。唯一戦禍をまぬがれた守礼の門の様子(六〇年ごろの作品)や、不発弾処理を知らせる立て看板(二〇〇七年、南城市)など、時代が移り変わっても戦争の影が残る沖縄の風景をカメラに収めた。

 沖縄戦当時、ともに西原から南部へ移動する途中、命を落とした兄たちが眠る「魂魄の塔」の慰霊祭を毎年訪れる屋良さん。会場には、慰霊祭が始まった八〇年代初期から撮りためた、塔に祈りをささげる人びとの姿も多数並ぶ。

 「写真から何を感じてくれるか。特に戦争を知らない世代に、少しでも戦争が認識してもらえたら」と期待を込めた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806111700_06.html

市長訪米予算 議会に提案へ/宜野湾市 宮森小ジェット機墜落から49年 沖縄市・タクシー強盗、2米兵に実刑判決 など  沖縄タイムス関連記事・社説、琉球新報 社説(6月1日から5日)

2008年6月1日(日) 朝刊 1面

「安定」「刷新」訴え/8政党座談会

 県議会議員選挙が告示されたことを受け、沖縄タイムス社は三十一日、県内の八政党の代表を招き、座談会を開いた。訴えている政策、争点に浮上した後期高齢者医療制度(長寿医療制度)への対応、米軍基地問題の基本的な姿勢などで見解を聞いた。与党は過半数維持の県政安定を訴え、野党は与野党逆転による県政刷新を強調した。

 最も訴えている政策で、自民党県連、公明党県本は自立に向けた経済振興、雇用の拡大、県民所得向上に向けた施策推進などを挙げ、仲井真県政と一体となった県政発展をアピールした。

 一方、社民党県連、社大党、共産党県委、政党「そうぞう」、国民新党県連の各野党は後期高齢者医療制度の廃止を前面に打ち出し、「与野党逆転で制度廃止の民意を示す」と強調した。

 後期高齢者医療制度について、自公は「医療制度の維持に必要」とし、低所得者への軽減措置や徴収制度などでの見直しを主張。野党各党は「現代版のうば捨て山」と批判し、「小手先の見直しではなく、廃止し、一から制度をつくり直すべきだ」とした。

 基地問題は自公が普天間飛行場の危険性除去を優先される課題と指摘。同飛行場の名護市辺野古沖への移設を容認する仲井真県政の対応を支持した。野党各党は辺野古への新基地建設反対を表明。「米軍再編による基地の機能強化の反対」を訴える党もあった。

 仲井真県政への評価は、自公が「経済、雇用で実績を上げている」と評価。社民、社大、共産は「評価に値しない。雇用は改善されず、基地問題は国のいいなり」と批判した。一方、そうぞう、民主党県連、国民新党は「仲井真県政を評価するにはまだ時間がかかる」とした上で、政策によって対応する是々非々の姿勢を明らかにした。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806011300_01.html

 

2008年6月1日(日) 朝刊 29面

「米軍に国内法適用を」/地位協定講演会

 日米地位協定を考える講演会(沖縄平和ネットワーク主催)が三十一日、那覇市の教育福祉会館であった。弁護士の新垣勉さんは現行の協定について「日本の主権が、米軍基地や軍の活動に及ばず、国内法が適用されないことが最大の問題」と指摘。本質的な構造を認識しなければ、基地を安定供給するための「見直し」に収斂される、と懸念を示した。

 新垣さんは「一つ一つの条文では分かりにくいが、全体として日本の主権が及ばない仕組み。米軍基地は無法地帯だ」と訴えた。その上で「抜本的見直しとは、駐留米軍に日本の法律を適用すること」とし、「尊重させる」など、あいまいな表現で決着を図ろうとする政治的流れにくぎを刺した。

 また協定改定運動の中で、構造的矛盾と米軍の実態を訴え、基地撤去に結び付けるべきだと強調した。

 米軍人・軍属による事件被害者の会・支える会の村上有慶さんは、旧防衛施設庁から取り寄せた資料を基に、米兵事件が増え続けている現状を報告。「運用改善では犯罪は減らない。もう放置できない」と訴えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806011300_04.html

 

2008年6月1日(日) 朝刊 28面

情熱今も 上原さん帰郷/「沖縄に民主主義」目指し 58年前密航

 【国頭】戦後の混乱の中、地元政党「沖縄民主同盟」創設に関わり、沖縄の基地被害や民主主義の実現を訴えるため、?密航船?で沖縄を離れた上原信夫さん(84)が三十一日、故郷の国頭村奥を訪ねた。故郷を離れて五十八年目。奥区(玉城壮区長)で区民をあげての盛大な歓迎会が開かれた。(知念清張)

 上原さんは崩壊状態だった戦後奥区の復興に尽力。教育や米軍が当時禁止していた畜産を再開させるなど功績を挙げ、二十三歳で国頭村の最年少議員に選出された。

 しかし、米軍に政党機関紙の発行禁止処分を受け、「沖縄の問題は沖縄だけでは解決できない」と日本本土と世界に訴えるため一九五〇年、大阪へ密航。その後、中国に渡り研究者となった。

 七四年になって、ようやく帰国を許された。

 以来、東京で幅広く日中交流にかかわり何度も沖縄を訪れたが、奥を訪れることは、ほとんどなかった。

 奥集落センターで開かれた交流会には、村内外から「お世話になった」という人たちが百人近く集まった。

 近所の子供と一緒に上原さんに勉強を教えてもらっていたという中真貞子さん(74)は「暗闇でランプをふいていた姿が忘れられない。何でも一生懸命な人だった」と再会を喜んだ。

 中国留学の橋渡しをしてもらった當山直彦さん(37)は恩納村から駆け付け「視野を広く持つことを教えられた」と感謝した。

 上原さんは「何十年ぶりかに先輩、後輩、友人と会えてうれしい。今でも沖縄はこれでいいのか、と考えている。これからも社会の新しい道を広げていきたい」と感謝した。

 上原さんの妻、興新さん

(57)、長女の和子さん(25)、次女の京子さん(22)も区民と交流を深めた。和子さんが「中国とのハーフだが、父の故郷を訪ね、自分の中に沖縄の血が流れている事を誇りに思う」と話すと区民から大きな拍手が起きた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806011300_05.html

 

沖縄タイムス 社説(2008年6月1日朝刊)

[クラスター弾禁止]

実効確保に全力尽くせ


 人を殺傷するために開発された兵器はすべて「非人道的」なものだろうが、一発の爆弾から多数の子爆弾をまき散らすクラスター(集束)弾の被害の深刻さは他に類をみない。戦争や紛争が終わっても、広範囲に残された不発弾が子どもを含む一般市民を長期間、殺傷し続けるからだ。

 今なお、世界各地の人々を苦しめている集束弾を事実上、即時・全面禁止する国際条約が採択され、日本政府も合意した。ノルウェー、アイルランド、ニュージーランドなどの有志国と国際非政府組織(NGO)が主導する国際会議「オスロ・プロセス」に約百十カ国が参加し、クラスター弾の規制に向け、国際的な協調体制を築いた意義は大きい。

 当初、部分的な禁止や条約適用までの猶予期間を求め、合意に消極的だった日本政府が方針を転換、結果的に参加したことを評価したい。

 ただ、オスロ・プロセスには米国やロシア、中国などの軍事大国が参加していない。日本政府は、条約の実効性を担保する上で、こうした国々を取り込むために全力を注ぐべきである。

 日本はオスロ・プロセスの合意形成の過程で、採択を支持するかどうかの態度を最終日まで保留した。会議を主導したノルウェーなどの有志国や、部分禁止の立場からいち早く全面禁止に合意した英国、フランス、ドイツなど欧州各国との対応の違いは明らかだ。

 今こそ、七月の主要国会議(サミット)議長国として、国際世論を真摯に受け止め、より積極的に対応すべきだ。

 クラスター弾は第二次世界大戦で使用されたほか、イラクやレバノンでも使われた。空中でばらまかれた子爆弾のうち、目標に命中しなかった不発弾は地面のほか、木にひっかかった状態で残る。

 何も知らない子どもたちが踏みつけたり、手に持つなどして大けがをしたり、命を奪われることさえある。その上、すぐに爆発する状態にあるため、除去が困難で莫大な費用がかかる。

 国際的なNGO「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」の調査によると、クラスター弾は七十五カ国以上が備蓄し、このうち日本を含む三十五カ国で二百十種類を製造しているとされる。

 新条約はクラスター弾の使用、製造、開発、輸出入の即時禁止に加え、既に保有しているものを八年以内に廃棄などを規定しているが解決には時間がかかる。

 子どもや一般市民の被害を減らすために、不発弾除去の技術確立と、資金援助を急ぐべきで、日本政府が果たすべき役割も大きい。

 クラスター弾は二〇〇二年から米軍嘉手納基地での配備の可能性を指摘されているが、一切の情報を明らかにしない米軍の姿勢は断じて許されない。

 町村信孝官房長官は、同条約への参加について「クラスター弾によって引き起こされる人道上の懸念を深刻に受け止め、合意に加わる」と述べ、合意を着実に実行する考えを表明した。ならば、政府は国内基地のクラスター弾に関する情報の公開と、廃棄を強く求めていくべきである。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080601.html#no_1

 

琉球新報 社説

クラスター弾 廃絶に向け日本が先頭に 2008年6月1日

 その非人道的な性格から「悪魔の兵器」と呼ばれるクラスター(集束)弾が、国際社会からやっと追放されることになった。有志国と国際非政府組織(NGO)が主導する「オスロ・プロセス」は30日、事実上の即時・全面禁止条約案を約110カ国の全会一致で採択した。

 クラスター弾は、一発の爆弾が空中から無数の子爆弾をまき散らし、地上の生き物を無差別に広い範囲で殺傷する。さらに問題なのは、その不発弾だ。大量に放置され、子供を含む民間人の死傷が各地で相次いだことから、禁止の機運が世界中で高まっていた。

 米国は第2次世界大戦後、ベトナム、カンボジア、イラクなどでクラスター弾を使用してきた。また、旧ソ連・ロシアもアフガン、チェチェンで使った。海岸線の長い日本も、外敵の着上陸侵攻などに備える目的で所有している。

 「オスロ・プロセス」に日本は初回から参加してきたが、部分的な禁止などを求め、全面禁止には消極的だった。米国への配慮も背景にはあった。それが今回、一転して条約案に同意した。方針転換の裏には福田康夫首相の強い意向があったとされる。

 ただ、オスロ・プロセスに米国やロシア、中国など大量に保有する軍事大国は参加していない。こうした国々を今後、いかに条約に引き入れていくか。大きな課題となる。特に、日本が果たすべき役割に注目したい。まず、7億個もの子爆弾を保有するとされる米国との関係だろう。人道的見地からも、全力を挙げて説得すべきだ。

 国際社会の一致した意志は、米国といえども無視はできまい。米国が条約に同意すれば、ロシアや中国も続かざるを得ないのではないか。そのためにも日本は米国に対する働き掛けを強めるべきだ。

 保有していても、実質的に使えない兵器にしていく。実は、先例がある。地雷だ。1997年調印の対人地雷禁止条約(オタワ条約)ではその後、地雷の使用はかなり控えられてきた。米国はイラク戦争で、クラスター弾は使ったものの、地雷は使っていない。

 今回の条約では、クラスター弾の使用、製造などの即時禁止のほか、領土内で使われた残存弾は10年以内に除去、破壊するとしている。ここでも日本の出番があるのではないか。地雷除去でも日本はその科学力を発揮した。同様に不発弾の除去にも力を尽くし、完全廃絶に向けて先頭に立ってほしい。

 県内でも米空軍嘉手納基地ではクラスター弾を搭載して沖縄近海の射爆場に向かう戦闘機が、頻繁に目撃されている。海外では不発弾で漁師が被害に遭った事例もあり、決して人ごとではない。政府は条約への参加とともに、県内での訓練中止を米国に求めるべきだ。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-132698-storytopic-11.html

 

2008年6月2日(月) 夕刊 7面

米憲兵起訴事実認める/沖縄市タクシー強盗

那覇地裁初公判「罪深いことした」

 沖縄市で今年三月、タクシー運転手が三人組の外国人に襲われ、釣り銭箱を奪われた事件で、事件の主犯として傷害と窃盗の罪に問われた在沖米空軍嘉手納基地所属で兵長の憲兵隊員ダリアス・エイ・ブランソン被告(21)の初公判が二日、那覇地裁(〓晋一裁判官)であった。ブランソン被告は「とても罪深いことをした」と述べ、起訴事実を全面的に認めた。

 検察側の冒頭陳述などによると、ブランソン被告は自宅に出入りしていた米軍人の息子らに、通行人から金を奪うよう持ち掛け、車で犯行現場付近に連れて行き、犯行後は基地内の自宅に連れ帰った。別居中の妻が給与の入った口座から金を引き下ろしたことから、家具のローンの支払いに迫られたという。

 事件は三月十六日午前零時二十分ごろ、沖縄市中央二丁目の路上で発生。実行役の少年らが客を装ってタクシーをとめ、運転手の男性=当時(55)=を車外におびき出し、路上に引き倒したり頭を殴ったりして現金約六千円入りの釣り銭箱などを奪った。

 共犯とされる少年四人のうち、実行役の一人は家裁送致となり、同日までに那覇家裁で保護観察処分になった。別の三人は刑事処分不相当として不起訴になっている。

※(注=〓は「頼」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806021700_04.html

 

2008年6月3日(火) 夕刊 5面

市長訪米予算 議会に提案へ/宜野湾市

 【宜野湾】宜野湾市(伊波洋一市長)が米軍普天間飛行場の早期返還と危険性除去に向け、伊波市長の三度目となる訪米直訴行動費二百三十万三千円を盛り込んだ二〇〇八年度一般会計補正予算案を十一日開会する宜野湾市議会(伊波廣助議長)六月定例会に提案することが三日、分かった。同日午前、同議会与党に議案を説明した。四日には野党に説明する。

 訪米は早ければ七月を予定。米ハワイ州の米海兵隊太平洋司令部を訪ね、同飛行場の危険性除去などを求めるという。

 伊波市長は、米軍が自ら定めた同飛行場のマスタープランで決めたクリアゾーン(土地利用禁止区域)に普天間第二小学校や住宅地があることを指摘。〇四年に市内の沖縄国際大学で起きた米軍ヘリ事故以降も危険性が放置され続けているとし、米軍の基地運用の在り方を批判してきた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806031700_03.html

 

2008年6月3日(火) 夕刊 5面

「世替わり」激動の70年代/第6回あんやたん展

 沖縄の世相や歴史を写真で振り返る「タイムスアーカイブあんやたん写真展」が三日、那覇市おもろまちの沖縄タイムス本社一階ギャラリーで始まった。入場無料。十五日まで。六回目の今回は、一九七〇年代の「世替わり」がテーマ。

 米兵の事件・事故に対する怒りが爆発した七〇年のコザ騒動や七二年の本土復帰のほか、沖縄国際海洋博覧会の開催、車の通行が右から左に変わった道路交通法の変更など、激動の時代を迎えた沖縄の人々の息遣いを九十三点の写真で伝えている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806031700_04.html

 

2008年6月4日(水) 朝刊 29面

宮森小ジェット機墜落から49年/惨事の風化を危ぐ

体験者・平良さん 校長で赴任/命の語り部「630館」設置へ

 【うるま】児童十一人を含む、十七人が犠牲となった旧石川市の宮森小学校ジェット機墜落事件から四十九年目の今年、当時二年生で惨事を体験した平良嘉男さん(56)が校長として母校に戻ってきた。「毎年六月になると、嫌な思いが頭をよぎったこともあった。しかし今もう一度思い起こさないといけない」。命と平和の語り部「宮森630館」の設置に向け、地元で準備委員会を発足させた。(天久仁)

 一九五九年六月三十日、じりじりと太陽が照り付ける午前十時半ごろ、昼食のミルクを飲もうとした瞬間だった。「バーンと音がした後、教室の窓ガラスが真っ赤な絵の具で塗られたようになった」。米軍のジェット機は平良さんら二年生が学ぶ木造平屋の校舎を通過し、コンクリートの二階建て校舎に突っ込んだ。

 教師の誘導で逃げ出した平良さんは奇跡的にやけどひとつ負わなかった。しかし燃料タンクの引火で隣の教室への延焼がひどく、二年生は最も多い六人が犠牲になった。

 当時学校には千三百人余が在籍していた。平良さんは「戦争だ、と泣き叫ぶ声。何が起こったのか分からなかった」と振り返る。幼い記憶をたどりながら「ある程度心の中で事件のことを消化できるようになった。しかし肉親を失った人、友人を助けられなかったことを悔やむ人はそうはいかないだろう」と心中を察する。

 長年音楽教師として、那覇地区の学校で音楽を教えてきた平良さんだが、特に石川地区以外で、事件を知らない若い世代が増えてきたことを心配する。「体験者にとって思い出すのは苦しくてつらいこと。しかし風化させないためには語っていかなければならない」と声を強める。

 四月に赴任した後、早速地元の体験者を訪ねて「630館」準備委員会への協力を要請した。来年の五十年忌に合わせ、証言集をはじめ、事件の模様を収めた映画の制作を目指している。「630館」は宮森小学校内への設置を視野に入れており「平和の発信地にしたい」と希望している。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806041300_01.html

 

2008年6月4日(水) 朝刊 29面

米軍事件・事故 実行委、再び政府に回答要求/協定改正など4項目

 「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」実行委員会(玉寄哲永委員長)は三日、県庁で会見し、日米地位協定の見直しなど四項目の要請について、政府に回答を求める要求書を再び送付することを明らかにした。さらに、県選出の国会議員と連携して内閣に質問主意書を提出してもらう準備も進めているという。

 実行委は、三月二十三日の県民大会で決議した「地位協定の改正」「政府の責任の明確化」など四項目について、四月に要請団を結成して上京。首相官邸や外務省、防衛省などに四項目の実現を求めた。これに対し政府側からは現在まで回答はない。

 このため実行委は再度の行動を決意。「四項目についていまだ根本的な解決、または解決のための諸実施施策が沖縄県民に示されていない」とする要求書を四日に送付し、政府の具体的な方針について回答を求めるという。

 また、国会議員の権限で内閣に見解をただす質問主意書を利用し、回答を求めることも検討。要求書への政府の対応を見ながら提出するかどうか決めるとしている。会見した玉寄委員長は「こちらの意思表示に対し、国はいつも何も答えない。今回こそは必ず回答を得るため、粘り強く行動していきたい」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806041300_02.html

 

琉球新報 社説

国民保護法 外交力の向上こそが重要 2008年6月4日

 協力のはずが強制、基本的人権を尊重のはずが制約、有事に備えた訓練が他国を刺激する。そんな批判が絶えない。国民保護法に基づく有事共同訓練のことだ。

 国民保護法は有事法制の一つで、2004年9月に施行された。外国から武力攻撃などを受けた際、国民の生命、財産を守るための国や自治体の権限や手続きを定めている。住民の避難や救援のため、民有地や家屋の使用など私権制限に踏み込んでいる。

 避難訓練は、自治体の長が住民に参加協力を要請できると規定され、07年度は国と自治体の共同訓練が15回実施された。今年も10月から来年2月にかけて、18県で共同訓練が実施される。

 うち4県で避難誘導などを伴う実動訓練。14県は連絡や避難手順を確認する図上訓練だ。

 訓練では、細菌やウイルス、放射性物質などによるテロなどが想定されている。

 沖縄県では来年1月末にも独自の予算で国民保護計画に基づく図上訓練を計画している。

 全国では、これまでにも原子力発電所が攻撃されたケースなどを想定し、訓練が実施された。だが「想定に無理がある」「原子炉を停止しても、攻撃を受ければ核汚染は防げない」など、現実と訓練の乖離(かいり)に疑問も噴出した。

 そもそも同法は国民を保護する前に有事、戦時体制の備えに重きが置かれているとの批判がある。

 有事になれば軍事基地の多い沖縄は、他県に比べ敵国の攻撃の対象となる可能性もある。

 太平洋戦争で、広島や長崎が核攻撃を受けたのは、そこに日本軍の主要な基地や軍需工場など軍事施設があったからだ。

 日本の伝統・文化が息づく京都や奈良は攻撃を免れている。

 軍事施設は、国民を守るどころか攻撃の対象となる。

 有事想定の訓練自体が、仮想敵国とされる国の反発を招きかねないとの懸念すらある。

 有事の備えも大事だが、国際舞台での発言力を増し、平和構築に貢献できる「外交力」の強化に、国はもっと力を注いではどうか。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-132774-storytopic-11.html

 

2008年6月4日(水) 夕刊 5面

宮城さん「集団自決」20冊目の体験記/孫が挿絵「第2の語り手に」

 沖縄戦時に座間味島で「集団自決(強制集団死)」を体験した宮城恒彦さん(74)=豊見城市=が、住民の体験を聞き書きした、二十冊目の体験記を発刊した。慰霊の日に合わせ、一九八九年から毎年、自身や他の体験者の証言をまとめ、小中学校や知人に配ってきた。「教科書検定の問題など、日本軍の命令を否定する動きは、私たちの体験とは程遠い」と宮城さん。体験者の平和を願う思いが、本の挿絵を描いてくれた孫と同年代の若者たちにも届いてほしいと訴えている。(平良吉弥)

 宮城さんは、座間味島で「集団自決」を体験し、当時十九歳の姉ハルさんを亡くした。

 八八年、姉の死を悔やみ続けていた母ウタさんが亡くなったことがきっかけで体験記の執筆を思い立った。「過去を忘れては未来はない。何とか書き残さなければ」と証言をまとめ始めた。

 最初の五年間は、当時十一歳だった自身の体験をつづっていたが「体験していない人に『集団自決』の実相を伝えるには、多くの証言を集める必要がある」と、対象を村内の体験者に広げた。

 当初は千部程度の印刷だったが、希望者が多く千五百部に増やした。ページ数も数十ページからのスタートだったが、二十冊目の「機関銃の弾が出ない」では、姉と同級生だった男性とその妻の体験や当時の時代背景などをまとめ、百二十一ページに増えた。

 今回の体験談の後書きで、宮城さんは「高校の歴史教科書に記述されていた沖縄戦の事項から『日本軍』という文言が消され、沖縄県民の怒りに火を付けた年」と書いた。

 教科書検定問題や隊長命令の有無が争われた「集団自決」訴訟など、最近の動きを「同じ過ちを繰り返すのではないか」と危機感をあらわにし「若い人が私たちの体験を人ごとだと思ってしまうのが恐ろしい。若者は耳を傾け、行動してほしい」と願う。

 これまでにまとめた体験記では、孫で県立芸術大学四年生の新垣愛さん(24)=糸満市=が、小学六年生の時に宮城さんの体験を基に描いた紙芝居の絵が、一部で使われている。

 新垣さんは「じいちゃんの体験が封じ込められようとしている。許せない」と話す。「真実を消してはいけない。第二の語り手として私が伝えていきたい」と話す新垣さんの姿に、宮城さんは目を細めた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806041700_01.html

 

2008年6月5日(木) 夕刊 1面

2米兵に実刑判決/沖縄市・タクシー強盗

 沖縄市で今年一月、タクシー乗務員が客の外国人二人に襲われた事件で、那覇地裁(〓井広幸裁判長)は五日、強盗致傷罪に問われた、いずれも在沖米海兵隊普天間基地所属で伍長のジョセフ・ウェイン・リドル被告(20)に懲役四年六月(求刑懲役八年)、一等兵の米国人少年(19)に懲役三年以上四年以下(同五―八年)を言い渡した。

 判決などによると、リドル被告らは一月七日午前三時ごろ、遊ぶ金欲しさにタクシー乗務員から金を奪おうと北谷町北前でタクシーに乗車。

 約四十分後、沖縄市美里三丁目の路上で車を止めさせ、乗務員男性=当時(59)=の頭を数回殴り、二千七百八十円の乗車料金を踏み倒した。通行人に見られたため、金を奪わずに逃走した。

 リドル被告らは閉店していた行きつけのバーに忍び込み、現金を物色したが見つからず、タクシー強盗を思い付いたという。乗務員の男性は頭部裂傷など全治一カ月のけがを負った。

※(注=〓は「吉」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806051700_01.html

 

2008年6月5日(木) 夕刊 5面

並里区、区有地売却へ/金武・ギンバル訓練場

 【金武】日米で返還が合意された金武町の米軍ギンバル訓練場について、訓練場に隣接する並里区(與那城直也区長)は五日午前、区議会を開き、町の跡地利用計画に合意し区有地(三十四ヘクタール)を町に売却する案を、出席議員の賛成多数(六対一)で可決した。

 一九九六年の日米特別行動委員会(SACO)合意以来、ブルービーチへのヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)移設条件が、強い反発を呼び地元行政区の賛成が得られなかったギンバル訓練場の返還が加速しそうだ。與那城区長は「国同士が合意をし、町も受け入れを表明した。基地はない方がいいが、区ではこれ以上どうすることもできず、現実的な対応もやむを得ない。ブルービーチへのヘリパッド移設は、引き続き撤回を求めていく」と話した。

 区有地の売却は、区議会に出席した議員の過半数の賛成が必要。昨年六月の町の受け入れ表明後、焦点は並里区の判断に移っていた。

 ただ、区議会決議では、土地の売却に反対する議員三人が欠席。

 町議員でもある知名達也議員は「ギンバル訓練場の区有地を売却すれば、ブルービーチへのヘリパッド移設を容認したと受け取られても仕方がない。区が住民に取ったアンケートでは、66%が条件付き返還に反対しており、住民説明会を開き、意思確認を行うべきだ」と話した。


     ◇     ◇     ◇     

伊芸区が抗議決議/ヘリ低空飛行


 【金武】金武町伊芸区上空で米軍ヘリが低空飛行した問題で、伊芸区の行政委員会(登川松榮議長)は五日の臨時会で、都市型訓練施設を使用した米軍ヘリ演習に対する抗議決議案を全会一致で可決した。

 決議後、行政委員会は沖縄防衛局長と外務省沖縄担当大使、在沖米国総領事に対し抗議する。

 抗議決議では、「低空飛行を繰り返したのは、米空軍戦闘ヘリと判明し、レンジ4で実弾訓練を実施していた米陸軍の支援演習をしていたことが明らかになった。住宅地域を巻き込んだ演習であり、断じて許されるものではない」と指摘。「ずさんな演習が続くと夜も眠れず、恐怖と不安の中で生活を強いられなければならず、許せない」と訴えている。伊芸地域での米軍ヘリ演習とレンジ4米陸軍都市型訓練の暫定使用の即時中止を求めている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806051700_02.html

 

2008年6月5日(木) 夕刊 5面

F15が緊急着陸/嘉手納基地

 【嘉手納】米軍嘉手納基地で五日午前十時二十五分ごろ、同基地所属のF15戦闘機一機が緊急着陸した。機体のフックを滑走路上のワイヤに引っ掛けて停止したため、緊急性が高かったとみられる。

 目撃者によると、同機は沖縄市方向から北側滑走路に着陸。機体のフックから火花を散らす様子も確認された。

 消防車など緊急車両数台が機体を取り囲んだが、放水などはなかった。同機は着陸から約三十分、機体の点検を受け、けん引されて駐機場に戻った。同基地報道部は「予防的な着陸だった」と説明した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806051700_07.html