【集団死(「自決」)問題を理解するための背景説明資料】

【集団死(「自決」)問題を理解するための背景説明資料】

 

社会リポート 沖縄「集団自決」 軍関与否定の元軍人、「靖国」派学者と接点、、「国民保護協力会」会長の顔も

 


「軍隊は国民を守るのか」――こんな問いかけが今、あらためて大問題になっています。太平洋戦争の末期、沖縄で起きた住民の「集団自決」をめぐり、文部科学省は高校教科書検定で「日本軍に強制された」などの記述をすべて削除した問題。同省がその根拠にする、「軍命令はなかった」と裁判で主張する関係者から見えてくるのは――。(山本眞直)

 

 三百二十九人が「集団自決」した沖縄・渡嘉敷島の北部山中。「集団自決跡地」の碑後方の山林につづく細い山道を下った沢一帯が現場です。ガイドの女性が言いました。

 

 「島のおじぃ、おばぁから軍が事前に手榴(しゅりゅう)弾を配ったことをたくさん聞いています。軍命を否定する勢力は、憲法を変えて自衛隊を軍にし、アメリカと一緒に海外で戦争をすることを考えている。そのためには軍が県民を『自決』させたという歴史はじゃまなんですね」

 

軍命令あった

 

 日本軍の陣地近くで、事前に渡された手榴弾を投げたものの不発、母親と妹とともに命拾いをしたという小嶺正雄さん(77)は、自ら掘った壕(ごう)跡で言いました。「日本軍がいない島で(自決は)なかった。住民に手榴弾を渡したのだから(命令は)あったさ」

 

 「軍命令はなかった」という元軍人と、日本の侵略戦争を「正しい戦争」とする「靖国」派の自由主義史観研究会代表の藤岡信勝氏(新しい歴史教科書をつくる会会長)の接点がありました。

 

 二〇〇五年三月三十一日、東京都千代田区の法政大学に近いアルカディア市ケ谷(旧私学会館)の一室。藤岡氏と向き合っていたのは、皆本義博・元陸軍海上挺身(ていしん)第三戦隊中隊長(陸士五七期、中尉)。 皆本氏の上官は、赤松嘉次隊長(大尉)。赤松隊は守備隊として渡嘉敷島に駐屯し、米軍が上陸した直後の一九四五年三月二十八日には

 

軍が手渡した手榴弾などで住民が「集団自決」しています。

 

 皆本氏は、一九四五年二月の沖縄について『特攻 最後の証言』(アスペクト社)でこう語っています。日本軍が全権を握る「戦時行政に切り替えられた」ことをあげ、「軍官民、実に統制が取れていた」と。しかし「集団自決」での軍関与を全面否定します。

 

 「(軍)命令を下す理由もないし、下せる状況にもありませんでした。むろん、村民の方が集団で自決したのは事実です。断じて軍は命令などしていない」

 

 藤岡代表と皆本氏との“出会い”は、「集団自決」から「日本軍の強制」を消し去る策動の序章でした。それから二カ月後の〇五年五月、藤岡代表たちは「沖縄プロジェクト」を立ち上げます。

 

 「沖縄戦集団自決事件の真相を知る」として、渡嘉敷島などでの現地調査に着手。赤松隊長らの「軍命はなかった」とのキャンペーンを開始。

 

 同年八月、同隊長の遺族らは、軍命の存在を指摘した大江健三郎氏の『沖縄ノート』(岩波書店)を名誉棄損として大阪地裁に提訴しました。

 

 文科省は、同訴訟での原告側主張をとりあげ、軍の「命令」「強制」記述の削除を指示。

 

 沖縄県民はこの「削除」を「軍強制は多くの県民の証言で明らか」と強く反発。沖縄県議会をはじめ県下の全市町村議会が削除反対の意見書をあげています。

 

自民党役員も 「集団自決」訴訟の公判(二十七日)で原告側証人として立つ皆本氏にはもう一つの顔が。NPO法人「埼玉県国民保護協力会」会長。〇五年九月に設立しました。

 

 国民保護――。イラク戦争などアメリカの先制攻撃戦争に日本が「参戦」、国内で米軍や自衛隊の軍事行動に自治体や国民を動員させる有事法制の一つです。埼玉での協力会は自衛隊OBの日本郷友連盟や隊友会が中心になって全国で最初に発足させたものです。

 

 「国民保護と集団自決」――皆本氏を取材すると、「国民保護協力会の会長であることは伏せない。自民党の役員をし防衛省にも関係しているが、対極にある『赤旗』に話すことはない」

 

軍が国民を守らずに「自決」に追いやった沖縄戦の歴史は、「新たな軍」にとって、目の上のたんこぶなのです。       (「しんぶん赤旗」2007年7月10日付より転載)

 

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