64年目の3月10日朝に想像する
いま、朝9時半、隣室ではまもなく生後2ヶ月になろうとする孫をあやす娘の声が聞こえ、窓からはさんさんと初春の日光がさしこみ、遅い朝食を作る台所の音が聞こえる。多少の健康問題はかかえつつも、静かで、穏やかで、幸せな朝です。
しかし、64年前の東京の朝はどうだったでしょうか?前夜から始まった、大空襲は終わり、2時間にわたるナパーム弾の火の壁で逃げられなくなった住民が、500機近いB25の大量虐殺の下に焼き尽くされ10万人が焼き殺されたのです。おそらく孫と同じ2ヶ月にならない幼子も。死骸は累々とし誰かという見分けも付かず、川には火から逃れようとした人びとの死骸が、引き上げても引き上げてもきりがないほど沈んでいる。
たった、と言うべきか、もう、と言うべきか、64年は過ぎ去った。
【我々国民は、(中略)政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こさないように、(中略)この憲法を確定する】
まさに日本政府と、それに報復した米政府の手によって、10万人の人びとは殺され、少なくともそれに関わる100万人以上の人びとは、直接の親族友人を失ったのです。
「政府の行為」という言葉が如何に重みを持っているか!
今、その政府と政権交代を唱える有力政党が、金権腐敗にまみれ、国を壟断し、日米従属軍事同盟という違憲そのものの法治システムを蹂躙し、沖縄日本に憲法に反して戦力をおき、戦争を現に行っている。
「政府の行為」の重大さをまさに、ひしひしと感じるものです。
私たち主権者は、こういう危険で汚れきった政府を変える権利と義務を持っており、憲法前文の冒頭の「再び(すでに繰り返されている)戦争の惨禍」を食い止め、改憲を阻止するだけでなく、日本国憲法からみて、当たり前のこと「核兵器廃絶、非武装永世中立」宣言を行う政府を国会議員で多数を占めて樹立する、そのように一刻も早く、しなければならないのです。
想像力それは単に夢想でなく、人民がそれを望むとき必ず実現するのです。確信と決意を持って悠然と歴史の法則に従って、進んでいこうではありませんか。一つ一つの小さな努力を無数の民衆草の根の1人1人が行って、64年3月10日の朝の文章ではとても表現できぬ嘆きと悲しみ「政府の行為による戦争の惨禍」を人生をかけて繰り返させないために。【その惨禍】は派遣切りや格差社会のひどさにつながり、膨大な軍事費が社会保障費もセーフティーネット改悪にも、消費税値上げにもつながっている【事実】を認識していくことも。軍事産業を肥え太らせ、汚職に近い腐敗につながっていることも。
64年目の3月10日朝に想像する
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