60年前の9月8日に沖縄を含む日本に何が起こったのでしょうか?(5/7)

○連合国の完全占領から、米軍の半占領へ

66年前に、他国に押し込み強盗を働いていた、絶対主義的天皇制の日本軍国主義を取り締まる警察官の役割をアメリカ、ソ連を含む連合国・連合軍は果たしていました。日本は、日本政府が天皇の玉音放送によって8月15日、受託を「強制」された宣言(ポツダム宣言)によって完全占領されました。米国は、連合国の主力ではありましたが、あくまで、日本を占領したのは、連合国軍であり、米軍だけではありませんでした。

 ポツダム宣言の実施の一つとして、日本軍は解体されました。また、日本を320万人の死者、主要都市すべてが焼け野原となり、ヒロシマ、ナガサキという言語に絶する「戦争の惨禍」をもたらした「政府の行為」(憲法前文冒頭)をおこなった政治家たちは戦争犯罪人として断罪され、自由な言論を治安維持法などで圧迫した特高(特別高等警察)は解体されました。

 しかし、米軍は、単独での日本支配を望み、サンフランシスコ講和条約で、形の上での独立政府を認め、事実上の米国単独支配へ移行するという戦略をとりました。日本の中立を実現する全面講和を望む東大総長南原繁さんなど日本の多数の良心の反対を押し切って、当時の政府は、米国などいわゆる「西側」とだけの講和を結び(いわゆる「単独講和」)、一方の陣営にだけ入ることになったのです。日本は、中立も、独立も平和も失いました。

 米国は、自らの発したポツダム宣言に反して、日本の再軍備に踏み切り、「警察予備隊」と言うウソのネーミングで国民の目をくらましながら、「保安隊」を経て今日の「自衛隊」を作ったのです。その意味で、自衛隊は、そもそもの創設の時から、軍隊と言う戦力保持を禁じている憲法を持つ日本の軍隊ではなく、アメリカの軍隊でした。先走りますが、自衛隊は、形式的にも実質的にも解体し、現在自衛隊員が実質的に行っている災害救助に特化した国際災害救助隊をつくってそこに再就職するということが、最も憲法に適合した生産的な方針だと思います。内外の国民から喜ばれることでしょう。

 ポツダム宣言違反はそれだけではありません。アメリカ自身が出した宣言の12項に「独立した政府ができたときには、占領軍は撤退しなければならない」と書いてあります。日本政府はこの宣言を受託しました。誰から見ても、戦争が終結したのは、日本政府がこの宣言を受託したからです。この宣言は、戦後日本の土台石と言うべき重大かつ重要な宣言です。この宣言は66年たとうがそれ以上たとうが守られなければならないのです。

 講和条約で、形の上で独立政府が成立した数時間後に、「独立した政府」の首相と言う形をとって、吉田茂だけが、他の講和条約に署名した随員の誰も署名しない状況の下で、米軍の士官室のダンスホールで、1951年9月8日、(アンポと言う名の)半占領条約(いわゆる日米安全保障条約)に署名して、調印が終わりました。他の隋員が署名しなかったのは、だれも(アンポと言う名の)半占領条約の中身を知らされてなかったからです。

 この条約は、1960年に改定されて、経済協力条項や、自衛隊の米軍への協力、日本以外の極東への米軍の出兵の承認などの改悪がなされました。しかし、日本政府が、米国軍隊に基地を提供するという条約の本質は全く変わりませんでした。「基地を提供する」という表現をしますと、まるで、日本政府が自主的に、米国政府と対等な立場で、「基地を提供する」ような感じに受け取られます。しかし、66年前の占領から、ただの1日でも、米軍は日本から撤退したことはありません。

 形の上では、日本強盗を取り締まる警察官の一員であった米軍は、ポツダム宣言を踏みにじり憲法を踏みにじったことによって、警察官から居座り強盗に変身しました。それを実行した「政府の行為」が、60年前のサンフランシスコ講和条約と(アンポと言う名の)半占領条約なのです。60年前の9月8日に沖縄を含む日本に何が起こったのでしょうか?

 

60年前の9月8日―「アンポ」体制はじまる(3)(6/7)へつづく

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