2008年3月29日(土) 朝刊 1・10面
検定意見の根拠否定/執筆者ら再訂正へ
「集団自決」訴訟判決/元隊長陳述「信用性疑問」
慶良間諸島の「集団自決(強制集団死)」は戦隊長が命じたとする本の記述をめぐる大阪地裁の「集団自決」訴訟で二十八日に言い渡された判決は、原告の元戦隊長の梅澤裕氏(91)の陳述書について「信用性に疑問があるというほかない」と否定した。文部科学省は、この陳述書などを根拠に「集団自決」への軍の強制を削除する検定意見を出していた。陳述書が判決で否定されたことで、被告側の支援者らは「根拠が崩れた。検定意見を撤回させたい」との姿勢で、来月に文科省へ要請行動をする意向を示した。
梅澤氏の陳述書は、「集団自決」は同氏の命令したものではなく、村幹部が懇願して手榴弾を要求したと主張。しかし、判決は「戦隊長の了解なしに部下が手榴弾を交付したというのは不自然」と指摘。当時、島の補給路が断たれ、装備が不十分な環境だったことを踏まえ「部下の行動を知らなかったというのは、極めて不自然である」とした。
地裁での判決後、大阪市内で開かれた被告側の支援者による報告集会でも、判決を評価した上で、検定意見撤回に正当性があるとする声が相次いだ。
教科書執筆者の石山久男氏は「陳述書の信用性は完全に否定されたといっていい。これに基づき検定意見を言い渡した文科省はこれを深く反省し、検定意見を直ちに撤回しなければならないと思う」と述べ、来年四月から使われる教科書の記述について、今年七月ごろをめどに再度訂正申請したい考えを示した。
同じく執筆者の一人の坂本昇氏は「判決は、軍が駐屯していた所で『集団自決』が起き、駐屯していない所ではなかった、ということまで触れて軍の強い関与があったことを明らかにした。歴史研究の成果が取り入れられた」と評価。他の執筆者や教科書会社と相談しながら再訂正申請に向け取り組むとした。
◇ ◇ ◇
「集団自決」訴訟判決(要旨)
「沖縄ノート」の各記述は著書である被告大江健三郎(以下、大江)が沖縄戦における「集団自決(強制集団死)」の問題を本土の日本人の問題としてとらえ返そうとしたものである。
各記述には、慶良間諸島の「集団自決」の原因について、日本人の軍隊の部隊の行動を妨げずに食糧を部隊に提供するために自決せよとの命令が発せられるとの記載や渡嘉敷島で住民に「集団自決」を強要させたと記憶される男である守備隊長との趣旨の記述などがあり、渡嘉敷島における「集団自決」を命じたのが、当時の守備隊長であることが前提となっている。
また「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷島のむごたらしい現場」との記載があり、大江自身、本人尋問で「沖縄ノート」が原告梅澤裕(以下、梅澤)をも対象にしたことを自認している。
渡嘉敷島、座間味島で「集団自決」が行われた際に、故赤松嘉次(以下、赤松)が渡嘉敷島の、梅澤が座間味島の守備隊長もしくは軍隊の長であることを示す書籍は多数存在するなど、「沖縄ノート」の各記述内容が赤松、梅澤に関する記述であると特定し得ることは否定できない。
以上、特定性ないし同定可能性の有無について被告らの主張は、理由がないというべきである。
家永三郎(以下、家永)著の「太平洋戦争」の記述には「座間味島の梅澤隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑前で自決せよと命令した」などとの記述があり、梅澤が部隊の食糧を確保するために、本来、保護してしかるべきである老幼者に対して無慈悲に自決することを命じた冷酷な人物であるとの印象を与え、梅澤の社会的評価を低下させる記述であることは明らかである。
「沖縄ノート」の記述では、座間味島、渡嘉敷島を含む慶良間諸島での「集団自決」が日本軍の命令によるものであるとし、「集団自決」の責任者の存在を示唆している。ほかの記述と併せて読めば、座間味島および渡嘉敷島の守備隊長である梅澤、赤松が「集団自決」の責任者であることをうかがわせる。したがって、「沖縄ノート」の記述は「集団自決」という平時ではあり得ない残虐な行為を命じたものとして、梅澤および赤松の社会的評価を低下させるものと認められる。
名誉棄損が違法性がないと判断されるために、「太平洋戦争」、「沖縄ノート」の執筆、出版を含む表現行為の主な動機が公益を図る目的であるかを見る。
「太平洋戦争」は、歴史研究書であり、その記述は公共の利害に関するものであること、公益を図る目的を併せ持ってなされたものであることには当事者間の争いがない。
家永は多数の歴史的資料、文献等を調査した上で執筆したことが認められる。「太平洋戦争」の記述の主な目的は戦争体験者として、また、日本史の研究者として太平洋戦争を評価、研究することにあったと認められ、それが公益を図るものであることは明らかだ。
「沖縄ノート」は、大江が沖縄が本土のために犠牲にされ続けてきたことを指摘。日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものであること、各記述は、沖縄戦における「集団自決」の問題を本土日本人の問題としてとらえ返そうとしたものであることが認められる。
これらの事実および、梅澤、赤松が公務員に相当する地位にあったことを考えると、「沖縄ノート」の記述の主な目的は、日本人の在り方を考え、読者にも反省を促すことにあったものと認められ、公益を図るものであることは明らかだ。
以上によれば、「太平洋戦争」、「沖縄ノート」の各記述に関する表現行為の目的がもっぱら公益を図る目的であると認められる。
太平洋戦争時の沖縄の状況
1944年6月ごろから、三二軍が沖縄に駐屯を開始した。三二軍司令官の牛島満は、沖縄着任の際、沖縄における全軍に対し、「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」と訓示を発した。
このように沖縄において防諜対策は、日本軍の基本的かつ重要な方針だった。三二軍司令部の基本方針を受け、各部隊では民間人に対する防諜対策が講じられた。
軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁じ、沖縄語を使用する者をスパイとみなし処分する旨の命令や、島しょにおける作戦では原住民がスパイ行為をするから気を許してはならない旨の訓令などが出された。
また、三二軍は同11月18日、県民を含めた総力戦体制への移行を急速に推進し、「軍官民共生共死の一体化」を具現するとの方針を発表した。
慶良間諸島には同9月、陸軍海上挺進戦隊が配備され、座間味島に梅澤が隊長を務める第一戦隊、阿嘉島・慶留間島に野田隊長(以下、野田)の第二戦隊、渡嘉敷島に赤松が隊長を務める第三戦隊が駐留した。
45年3月の米軍侵攻当時、慶良間諸島に駐屯していた守備隊はこれらの戦隊のみであった。「集団自決」発生当時、米軍の空襲や艦砲射撃のため、沖縄本島など周囲の島との連絡が遮断されており、食糧や武器の補給が困難な状況にあった。
海上挺進戦隊は、もともと特攻部隊としての役割を与えられていたことから、米軍に発見されないよう、特攻船艇の管理は厳重で、そのほかの武器一般の管理も同様であった。
渡嘉敷島は44年10月10日の空襲以降、それまで徴用され陣地構築作業をしていた男子77人があらためて召集され、兵隊とともに国民学校に宿営することになった。
座間味島は45年3月23日から25日まで空襲を受けた。住民は壕に避難するなどしていたが、同25日夜、伝令役が住民に忠魂碑前に集合するよう伝えて回った。その後、同26日、多数の住民が手榴弾を使用するなどして集団で死亡した。
同27日午前、米軍が渡嘉敷島に上陸した。赤松は、米軍の上陸前、巡査に「住民は西山陣地北方の盆地に集合するよう」指示し、巡査は防衛隊員とともに住民に集合を促した。住民は同28日、防衛隊員らから配布された手榴弾を用いるなどして、集団で死亡した。
慶留間島では、45年2月8日、野田が住民に対し「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示し、同3月26日、米軍上陸の際、「集団自決」が発生した。
以上の「集団自決」が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、「集団自決」は発生しなかった。
日本軍による住民加害
元大本営参謀で厚生省引揚援護局の厚生事務官馬淵新治(以下、馬淵)の調査によれば、日本軍の住民に対する加害行為は各地で行われていた。
例えば、馬淵は「将兵の一部が勝手に住民の壕に立ち入り、必要もないのに『軍の作戦遂行上の至上命令である。立ち退かないものは非国民、通敵者として厳罰に処する』等の言辞を敢えてして、住民を威嚇強制のうえ壕からの立ち退きを命じて己の身の安全を図ったもの」。
「ただでさえ貧弱極まりない住民個人の非常用食糧を『徴発』と称して略奪するもの、住民の壕に一身の保身から無断進入した兵士の一団が無心に泣き叫ぶ赤児に対して『此のまま放置すれば米軍に発見される』とその母親を強制して殺害させたもの」などがあったとしている。
また「敵上陸以後、いわゆる『スパイ』嫌疑で処刑された住民は十指に余る事例を聞いている」としている。
日本軍は、渡嘉敷島において防衛隊員であった国民学校の大城徳安訓導が身寄りのない身重の婦人や子どもの安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀する恐れがあるとして、これを処刑した。
また、赤松は「集団自決」でけがをして米軍に保護され治療を受けた2人の少年が米軍の庇護のもとから戻ったところ、米軍に通じたとして殺害した。さらに米軍の捕虜となり、米軍の指示で投降勧告にきた伊江島の住民6人に、自決を勧告し、処刑したこともあった。
そのほか、沖縄では、スパイ容疑で軍に殺された者など、多数の軍による住民加害があった。
援護法の適用
梅澤命令説および赤松命令説は、沖縄で援護法の適用が意識される以前から存在していたことが認められる。援護法適用のために捏造されたものであるとの主張には疑問が生ずる。
また、隊長命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められ、梅澤命令説および赤松命令説を捏造する必要があったのか直ちには肯定し難い。
宮村幸延が作成したとされる「証言」と題する親書の記載内容は、「昭和二十年三月二十六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく、当時兵事主任兼助役の宮里盛秀の命令で行われた」との部分も含めて拝信しがたい。これに関連する原告梅澤の陳述書も拝信し難い。
「母の遺したもの」の記載を子細に検討すれば、「集団自決」に援護法を適用するために原告梅澤の自決命令が不可欠であったことや、「村の長老」から虚偽の供述を強要されたことなど援護法適用のために自決命令の捏造を直ちにうかがわせるものではない。
沖縄において、住民が「集団自決」について援護法が適用されるよう強く求めていたことは認められるものの、そのために梅澤命令説および赤松命令説が捏造されたとまで認めることはできない。
梅澤命令説
「集団自決」の体験者の供述から、原告梅澤による自決命令の伝達経路等は判然とせず、梅澤の言辞を直接聞いた体験者を全証拠から認められない。取材源が明示されていない「鉄の暴風」「秘録 沖縄戦史」「沖縄戦史」等から、直ちに「太平洋戦争」にあるような「老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよ」との梅澤の命令それ自体までは認定することには躊躇を禁じ得ない。
しかしながら、梅澤が座間味島における「集団自決」に関与したものと推認できることに加え、少なくとも2005年度の教科書検定までは、高校の教科書に日本軍によって「集団自決」に追い込まれた住民がいたと記載されていた。布村審議官は、座間味島および渡嘉敷島の「集団自決」について、日本軍の隊長が住民に自決命令を出したとするのが通説であったと発言していた。
学説の状況、諸文献の存在、その信用性に関する認定、判断、家永および大江の取材状況等を踏まえると、梅澤が座間味島の住人に対し「太平洋戦争」の内容の自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、合理的資料もしくは根拠があると評価できる。
各書籍の発行時において、家永や被告らが事実を真実であると信じるについての相当の理由があるものと認めるのが相当である。
渡嘉敷島の「集団自決」
体験者らの体験談は、いずれも自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性、信用性を有することができる。
渡嘉敷島における「集団自決」は、1945年3月27日に渡嘉敷島に上陸した翌日の28日に赤松大尉に西山陣地北方の盆地への集合命令の後に発生している。赤松大尉率いる第三戦隊の渡嘉敷島の住民らに対する加害行為を考えると、赤松大尉が上陸した米軍に渡嘉敷島の住民が捕虜となり、日本軍の情報が漏えいすることを恐れて自決命令を発したことがあり得ることは、容易に想像できる。
赤松大尉は防衛隊員であった国民学校の大城徳安訓導が、身重の夫人や子供の安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀する恐れがあるとして処刑している。
米軍の上陸後、手榴弾を持った防衛隊員が西山陣地北方の盆地へ集合している住民のもとへ赴いた行動を赤松大尉が容認したとすれば、自決命令を発したことが一因ではないかと考えざるを得ない。
第三戦隊に属していた皆本義博証人が手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言していることは、先に判示している通り。手榴弾が「集団自決」に使用されている以上、赤松大尉が「集団自決」に関与していることは、強く推認される。
沖縄県で「集団自決」が発生したすべての場所に日本軍が駐屯し、駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、「集団自決」は発生しなかったことを考えると、「集団自決」は日本軍が深くかかわったものと認めるのが相当である。
沖縄では、第三二軍が駐屯し、その司令部を最高機関として各部隊が配置され、渡嘉敷島では赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったと認められる。渡嘉敷島における「集団自決」に赤松大尉が関与したことは十分に推認できる。
渡嘉敷島の「集団自決」の体験者の体験談等から赤松大尉による自決命令の伝達経路は判然とせず、命令を直接聞いた体験者を全証拠から認められない。取材源などは明示されていない。「鉄の暴風」「秘録 沖縄戦史」「沖縄戦史」等から「沖縄ノート」にある記述のような赤松大尉の命令の内容それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。
しかしながら、合理的資料もしくは根拠があると評価できるから、「沖縄ノート」の発行時に、被告らが事実を真実と信じるについて相当の理由があったと認めるのが相当である。
被告らによる梅澤および赤松大尉に対する名誉棄損は成立せず、したがって、その余の点について判断するまでもなく、これを前提とする損害賠償、出版の差し止めに理由はない。
文献の評価
「鉄の暴風」には、初版における梅澤の不審死の記載、渡嘉敷島への米軍の上陸日時に関し、誤記が認められるものの、戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を有するものと認める。
「母の遺したもの」には木崎軍曹が住民に「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載され、日本軍関係者が米軍の捕虜になるような場合には自決を促していたことを示す記載としての意味を有する。梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る。
「ある神話の背景」に、赤松大尉による自決命令があったという住民の供述は得られなかったとしながら、取材をした住民がどのような供述をしたかについては詳細に記述していない。家永教科書検定第三次訴訟第一審の証言で、「ある神話の背景」の執筆に当たっては、富山兵事主任に取材をしなかったと証言しているが、それが事実であれば、取材対象に偏りがなかったか疑問が生じる。
「ある神話の背景」は、命令の伝達経路が明らかになっていないなど、赤松命令説を否定する見解の有力な根拠となり得るものの、客観的な根拠を示して覆すものとも、渡嘉敷島の「集団自決」に関して軍の関与を否定するものともいえない。
米軍の「慶良間列島作戦報告書」で、原告が主張するように訳したとしても、日本軍の兵士たちが慶留間の島民に対して米軍が上陸した際には自決するよう促していたことに変わりはなく、その訳の差異が本訴請求の当否を左右するものとは理解されない。
赤松大尉は、大城徳安や米軍の庇護から戻った2少年、伊江島の住民男女6人を正規の手続きを踏むこなく、処刑したことに関与した。住民への加害行為を行っているのであって、こうした人物を立派な人だった、悪く言う者はいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある。
知念朝睦証人は、陳述書に「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常に赤松隊長の傍にいた」と記載しているが、西山陣地への集結指示については、聞いていない、知らない旨証言。「住民が西山陣地近くに集まっていたことも知りませんでした」と記載している。
いずれにしても赤松大尉の自決命令を「聞いていない」「知らない」という知念証人の証言から自決命令の存在を否定することは困難である。
皆本証言
赤松大尉のそばに常にいたわけではないことが認められ、赤松大尉の言動を把握できる立場になかった。赤松大尉の言動についての証言の評価に当たっては、この点を重視する必要がある。
皆本義博証人の証言は、手榴弾を交付した目的を明示する陳述書の内容と食い違い、手榴弾に関する陳述書の記載およびその証言には疑問を禁じ得ない。
梅澤証言
梅澤は本人尋問で、手榴弾を防衛隊員に配ったことも、手榴弾を住民に渡すことも許可していなかったと供述する。
一方で木崎軍曹が手榴弾を交付したことについて、木崎軍曹が住民の身の上を心配して行ったのではないかと供述する。
慶良間諸島は沖縄本島などと連絡が遮断されていたから、食糧や武器の補給が困難な状況にあったと認められ、装備品の殺傷能力を検討すると手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められる。
軍の装備が不十分で、補給路が断たれていたことについては、梅澤自身も、村民に渡せる武器、弾薬はなかったと供述している。
そうした状況で、戦隊長である梅澤の了解なしに木崎軍曹が(住民の)身の上を心配して手榴弾を交付したというのは、不自然である。
貧しい装備の戦隊長である梅澤が、そうした部下である兵士の行動を知らなかったというのは極めて不自然であるというべきである。
梅澤作成の陳述書と本人尋問の結果は、信用性に疑問がある。
赤松手記
赤松手記は、自己への批判を踏まえ、自己弁護の傾向が強く、手記、取材ごとにニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できない。全面的に信用することは困難である。
体験者証言
本件訴訟を契機に、宮平春子、上洲幸子、宮里育江の体験談が新聞報道されたり、本訴に陳述書として提出されたりしている。沖縄戦の体験者らの体験談は、いずれも自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえる。
また多数の体験者らの供述が、1945年3月25日の夜に忠魂碑前に集合して玉砕することになったという点で合致しているから、その信用性を相互に補完し合うものといえる。
こうした体験談の多くに共通するものとして、日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった場合には自決を促され、そのための手段として手榴弾を渡されたことを認めることができる。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803291300_01.html
2008年3月29日(土) 朝刊 26・27面
決意「教科書正す」/勝利判決 国に重し
「検定意見撤回のはずみに」「次は教科書で軍強制記述復活を」。慶良間諸島の「集団自決(強制集団死)」をめぐる訴訟の中で、高校の歴史教科書検定問題で検定意見の根拠とされた元戦隊長の陳述の信用性が否定されたことで、教科書問題の関係者は意気上がる。被告側支援者も集会を開き「全面勝利」と喜びながら、次の闘いへ気持ちを引き締めた。
「集団自決」訴訟の判決を受け、被告側の支援者らによる「大江・岩波沖縄戦裁判」判決報告集会が二十八日午後、大阪市中央区のエル・おおさか(大阪府立労働センター)で開かれた。沖縄のほか、関西や関東などから約二百五十人が参加し、熱気に包まれた。
「一審判決は大勝利だった」。被告側の代理人を務めた秋山幹男弁護士が口を開くと、会場から拍手がわいた。秋山弁護士は昨年の教科書検定問題によって、この訴訟が作家の大江健三郎さんと岩波書店の弁護にとどまらず、「多くの期待と不安を担わないといけないという大変な思いをした」と率直に振り返った。
一方で、検定を契機に体験者から新たな証言を得られた成果を強調。「一審の勝利は心から喜びつつ、二審に向け気を引き締めなくてはならない」と述べた。
「沖縄ノート」とともに訴えられた家永三郎著「太平洋戦争」について、岩波書店の岡本厚編集局副部長が発言。座間味島の元戦隊長が本の中で軍命を出したと名指しされ、名誉を傷つけられたと訴えたことに、「『太平洋戦争』は現代史を学ぶ人の古典であり、歴史研究の自由、表現の自由それ自体が問われた裁判だった」と指摘、「全面勝利」の意義を強調した。
参加者からは「『踏み込んだ判決』ではなく『当然の公正な判決』だ」「これだけ多くの支援があることに勇気をもらった」などの声が上がった。名古屋市から駆け付けた南山大学二年の吉田有希さん(20)は「若者は物事の判断材料が少なく、先生や教科書の影響が大きい。この問題に無関心であってはならないと強く感じた」と話した。
大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の小牧薫事務局長は、控訴審では事実審理を行わないよう働き掛けるほか、「集団自決」の記述から軍の強制性を削除した教科書検定意見について、撤回を求める取り組みを強化する方針を示した。
文科省 検定論拠失う
教科書検定意見撤回運動に取り組んできた山口剛史琉球大学准教授の話 教科書検定意見についての文部科学省の説明の核心は、梅澤裕元戦隊長の陳述書を挙げて「当事者の証言が出ている」というものだった。大阪地裁判決は、梅澤陳述が信用に足るものではない、としている。実証性がなく裁判でも認められない、ということは学術研究の成果としてまったく通用しないということ。検定意見を付した前提が崩れ、文科省にとっては、かなり重要な論拠を失ったといえる。今後、検定意見撤回に向けて、裁判の結果をどう結び付けていくか、効果的な時期と場面を検討しながら、追及していく必要がある。
仲里県議会議長「再び行動必要」
実行委の協議示
昨年九月の教科書検定意見撤回を求める県民大会の実行委員長を務めた仲里利信県議会議長は「文部科学省が検定意見の理由に挙げた『新しい事実』のほとんどが今回の裁判で崩れた」と指摘し、「速やかに検定意見を撤回すべきだ」と訴えた。
あくまで個人的意見としながらも「この判決を受けて、実行委員会として再度、検定意見撤回を求めていくべきだと思う。今がいい機会だ。何ができるかを含めて話し合いたい」と述べた。
◇ ◇ ◇
「無念晴らした」
渡嘉敷 遺族ら安堵
【渡嘉敷】渡嘉敷島などで起きた住民の「集団自決」をめぐり二十八日、軍の関与を認める判決が言い渡されたとの速報を聞き、犠牲者をまつる「白玉之塔」を参拝に訪れた多くの遺族が「犠牲になった家族や親類の無念の思いを晴らす判決だ」と安堵の表情を浮かべた。
「集団自決」の現場で手榴弾が爆発せず、生き残った当時六歳の源啓祐さん(69)。「山を挟んで遠く離れた阿波連集落の住民が、なぜ危険を冒してまで北山に向かったのか」と問い掛け、「軍命で島民が集められたことは明らか。これからも県民の声を強く訴えていきたい」と力を込めた。
村老人クラブ連合会会長として参拝した村田實保さん(85)は「軍が絶対的な影響力を誇る当時の時代背景を考えれば、軍関与を認める今回の判決は当然の結果だ」と評価した。
塔の刻銘の前でひざをつき手を合わせた吉川嘉勝さん(69)は「島の思いがやっと届きました」と静かに御霊へ報告した。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803291300_02.html
2008年3月29日(土) 朝刊 27面
養護学校侵入、米海軍車両と認める/軍報道部「道を間違えた」
うるま市の県立沖縄高等養護学校内に侵入した車両は米海軍所属だったことが二十八日、分かった。同日午後六時すぎ、在沖米海軍報道部から沖縄防衛局に連絡があった。米海軍の連絡によると、車両に乗っていた隊員は新任だったため、道を間違えたという。所属部隊など詳細は明らかにしていない。
沖縄防衛局によると、在沖米海軍司令官が二十八日、全隊員に対し、厳重注意したという。連絡を受けた同局管理部の立津長一業務課長は口頭で(1)隊員の教育(2)綱紀粛正(3)再発防止を申し入れた。
仲村守和県教育長は「新任だったとか、道を間違えたからとかはまったく理由にならない」と非難。「事前に隊員の教育を徹底しない限り基地の外に出すべきではない」とし、週明けにも米軍に再発防止を求め抗議要請をする考えを示した。
仲村教育長や保坂好泰基地防災統括監らは同日、沖縄防衛局と外務省沖縄事務所を訪ね、再発防止を求め抗議した。
一方、県高等学校障害児学校教職員組合(高教組)は同日、「教育現場への侵入は、いかなる理由があろうと許せない。学校の安全・安心を守る立場から、謝罪と真相の究明を求める」とする抗議声明を発表した。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803291300_04.html
2008年3月29日(土) 朝刊 2面
原野火災頻発「安保揺るがす」/金武町長・防衛局に抗議
米軍キャンプ・ハンセン内で相次ぐ原野火災発生で、金武町の儀武剛町長は二十八日、那覇市の沖縄防衛局を訪ね、真部朗局長に対し、「金武町は日米安保に理解を示してきたが、今のままでは日米安保体制を揺るがす態度を取るかもしれない。これまで協力してきた態勢も取れなくなる」と強く抗議し、火災原因や発生場所の徹底究明、火災につながる訓練中止を求めた。
儀武町長は相次ぐ事件・事故にも言及。政府に対し、米軍へ強い姿勢で交渉するよう求めた。
その上で「このままではうっぷんはものすごく大きくなる。これまでの私は協力してきたが、もう協力態勢は取れなくなる。一つずつ信頼関係をなくすと、後で大きな痛手。米軍再編を含めて大きな問題になる」と訴えた。
また、現在の米軍の演習通報の在り方も疑問視。「変わるのは日付だけで詳細な形が分からない。機密だから教えられないというのは真の日米同盟といえるのか。政府の対応は弱腰に見える」と厳しく非難した。
真部局長は「徹底究明を米側にもしっかり申し入れて、確実に伝えたい。町長の言葉を重く受け止めたい」と述べた。
町議会も国に要請行動
金武町議会(松田義政議長は)は二十八日、沖縄防衛局や外務省沖縄事務所などを訪れ、演習被害を受けている同町伊芸区の米軍基地の全面返還や、レンジ3で着工している米陸軍特殊部隊(グリーンベレー)の小銃(ライフル)用射撃場の建設の即時中止などを求める要請行動を行った。
松田議長は二十六日のキャンプ・ハンセン内で発生した大火事について、米軍が発生地として説明している廃弾処理場(EOD)1でなく、伊芸集落に近いレンジ4付近で発生していると指摘した。「これまでよりも踏み込んで伊芸の基地返還を求めざるを得ない。米軍は演習のルールを破っている。確認するのが国の仕事」と強く求めた。
沖縄防衛局の真部朗局長は「日米安全保障条約に基づき、日本の安全を確保する立場としては、残念ながら難しい」と要請に賛同しない意向を示した。その上で「だが火災はまったく日米安保に必要ないことで看過できない。(発生場所について)あらためて米軍に疑問をぶつけて確かめたい」と述べた。
松田議長は「政府は米軍の言いなりで弱腰だ。信頼できる材料は何もない。地域の安全も安保で守ってほしい」と訴えた。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803291300_06.html
2008年3月29日(土) 朝刊 2面
米海兵隊、巡回域の拡大検討/美浜・宜野湾・名護など
在沖米海兵隊が現在、在沖の四軍に課している夜間外出禁止や基地外での終日アルコール摂取の禁止措置を今後緩和する際に、金武町や名護市辺野古などで行っていた巡回指導の対象地域の拡大を検討していることが二十八日、分かった。米軍準機関紙「星条旗」が同日、在日米海兵隊スポークスマンの話として報じた。
対象地域を北谷町美浜のアメリカンビレッジや宜野湾市、名護市などに広げるかどうか議論しているという。
巡回指導は日米両政府や地元関係者を含めたワーキングチームで協議している米軍と県警の共同パトロールとは異なり、米海兵隊が一部米空軍と実施している独自のもの。
在沖米軍は今年に入って相次ぐ事件・事故を受け、夜間(午後十時―午前五時)の外出禁止措置などを課している。同紙によると、夜間外出やアルコール摂取を禁じる以前は、法的権限を持たない下士官らが週末の夜などに名護市辺野古や金武ほか、沖縄市の空港通り、中央パークアベニュー、北谷町北前などで巡回指導を実施していたという。
海兵隊のスポークスマンは同紙に対し、「現在のアルコール摂取制限措置はいずれ緩和されるが、いつになるか推測できない」と述べている。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803291300_07.html
沖縄タイムス 社説(2008年3月29日朝刊)
[「集団自決」訴訟]
史実に沿う穏当な判断
日本軍の関与を認める
座間味・渡嘉敷両島で起きた「集団自決(強制集団死)」に旧日本軍はどのように関与したのか。戦隊長の自決命令はあったのか、なかったのか。沖縄戦の「集団自決」をめぐる史実論争に初めて、司法の判断が示された。
判決は、体験者の証言を踏まえた穏当な内容であり、今後この問題を考える上で里程標になるだろう。
ノーベル賞作家の大江健三郎さんの著作「沖縄ノート」などの中で集団自決を命じたように書かれ、名誉を傷つけられた、として元戦隊長と遺族が大江健三郎さんと出版元の岩波書店に出版差し止めなどを求めた訴訟の判決で、大阪地裁の深見敏正裁判長は、請求を棄却した。
判決は、戦隊長による自決命令について「伝達経路が判然とせず、(あったと認定するには)ちゅうちょを禁じえない」と指摘した。
戦隊長命令の存在までは断定しなかったものの、「日本軍が深くかかわった」と認定。戦隊長が「集団自決に関与したことは十分に推認できる」との判断を示した。
また、大江さんらの著述について「真実であると信じる相当の理由があった」ことを認め、名誉棄損に当たらないと結論付けた。
今回の判決でもう一つ注目したいのは、体験者の証言の重みを理解し、さまざまな証言や資料から、島空間で起きた悲劇の因果関係を解きほぐそうと試みた点だ。
一九八二年の教科書検定で文部省(当時)は、日本軍による住民殺害の記述にクレームをつけ修正を求めた。記述の根拠となった「沖縄県史」について「体験談を集めたもので研究書ではない」というのが文部省の言い分だった。あしき文書主義というほかない。
文書は貴重な歴史資料である。だが、文書だけに頼って沖縄戦の実相に迫ることはできない。軍の命令はしばしば、口頭で上から下に伝達されており、命令文書がないからと言って自決命令がなかったとは言い切れない。
今回の判決は、沖縄戦研究者が膨大な聞き取りや文書資料の解読を基に築き上げた「集団自決」をめぐる定説を踏まえた内容だといえるだろう。
「住民殺害」も根は一つ
戦後世代の私たちは、ごく普通に「集団自決」という言葉を使う。だが、この言葉は戦後に流布したもので、沖縄戦の際、住民の間で一般に使われていたのは「玉砕」という言葉である。
座間味でも渡嘉敷でも、島の人たちは、折に触れて幾度となく「米軍が上陸したら捕虜になる前に玉砕せよ」と軍から聞かされてきた。
「軍官民共生共死」―軍はそのような死生観を住民にも植え付け、投降を許さなかった。部隊の配置など軍内部の機密がもれることを心配したのである。日本軍がどれほど防諜に神経をとがらせていたかは、陣中日誌などで明らかだ。
実際、米軍への投降を呼び掛けたためにスパイと見なされて殺害されたり、投降途中に背後から狙撃されて犠牲になった人たちが少なくない。
「集団自決」と「日本軍による住民殺害」は、実は、同じ一つの根から出たものだ。
座間味や渡嘉敷では、住民に手りゅう弾が手渡されていたことが複数の体験者の証言で明らかになっている。今回の判決もその事実を重視し、軍の関与を認定した。「沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯し、日本軍のいなかった渡嘉敷村の前島では集団自決は発生していない」とも判決は指摘している。
犠牲者と向き合えるか
大江健三郎さんの「沖縄ノート」が発行されたのは復帰前の一九七〇年のことである。なぜ、今ごろになって訴訟が提起されたのだろうか。私たちはここに、昨年の教科書検定と今回の訴訟の政治的つながりを感じないわけにはいかない。
高校教科書の検定作業真っ盛りの昨年八月、安倍晋三前首相の側近議員が講演で「自虐史観は官邸のチェックで改めさせる」と発言したという。文部科学省の教科書調査官は、係争中の今回の訴訟を引き合いに出して軍の強制を否定し、記述の修正を求めた。昨年の検定が行き過ぎた検定であったことは、判決でも明らかだと思う。
ところで、名誉回復を求めて提訴した元戦隊長や遺族は、黙して語らない「集団自決」の犠牲者にどのように向き合おうとしているのだろうか。今回の訴訟で気になるのはその点である。
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080329.html#no_1
琉球新報 社説
大江訴訟判決 体験者の証言は重い/教科書検定意見も撤回を 2008年3月29日
「集団自決」の構造的な問題に言及できるかが焦点だった岩波・大江訴訟で大阪地裁は28日、体験者の証言や、これまでの沖縄戦研究を重く見て「日本軍が深くかかわったと認められる」と判断。訴えた座間味島の元戦隊長梅澤裕氏らの主張を全面的に棄却した。この日は63年前に渡嘉敷島で「集団自決」が起きた日である。同島では慰霊祭が行われ、島は深い悲しみに包まれた。惨劇を証言した体験者は、証言を重視した判決に報われた思いを抱いているに違いない。座間味・渡嘉敷両村長も判決を納得し、評価しており、「沖縄戦」の本質を理解した妥当な判決だといえよう。
◆軍の関与は明白
梅澤氏らは、沖縄戦で軍指揮官が「集団自決」を命じたとする岩波新書「沖縄ノート」などの記述をめぐり、岩波書店と作家の大江健三郎さんに、出版差し止めなどを求めていた。
最大の争点は座間味島、渡嘉敷島での「集団自決」であるが、判決は、日本軍の深いかかわりを認めた。「元守備隊長らが命令を出したとは断定できない」としながらも、「関与したと十分推認できる」と指摘。「その事実について合理的資料、根拠がある」として(1)多くの体験者が、兵士から自決用に手榴弾(しゅりゅうだん)を配られた(2)沖縄で「集団自決」が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており、駐屯しなかった渡嘉敷村前島では「集団自決」が発生しなかった―ことなどを挙げた。
岩波側の証拠として提出された女性の証言には「『自決しなさい』と手榴弾を渡された」とある。「軍官民共生共死」の意識を徹底させられた住民にとっては、軍民は一体であり「命令」と受け取るしかないだろう。判決にもある通り、この女性だけでなく多くの住民が同じような証言をしており、軍関与を認めた判決は妥当といえよう。
さらに判決が「集団自決」の要因として、前島の事例を挙げたのは分かりやすい。住民を守るはずの軍隊が駐屯した島で惨劇が起き、その一方で無防備の島では多くの住民が救われた。「集団自決」の本質にかかわる重要な指摘だ。
原告側の「激しい戦闘で追い込まれ、死を覚悟した住民の自然の発意によるもので、家族の無理心中」という主張は、県民の思いとあまりにも懸け離れている。
被告側の大江さんは「非常につらい悲劇についての証言が裁判に反映された。心から敬意を表したい」と語った。
戦時の極度の混乱状況では、書類など物的証拠が残されることはほとんどない。それ故に、戦争体験者の証言は貴重である。地裁がその証言を重視したことは、沖縄戦の史実の真偽について争う今後の議論にも影響を与えるに違いない。
◆史実継承の重要性増す
今回の判決はここだけにとどまらない。高校歴史教科書検定問題である。昨年3月、文部科学省の教科書検定で、高校の歴史教科書から「集団自決」の「軍の強制」記述が修正・削除された。検定意見の根拠の一つとなったのが、梅澤氏が訴訟に提出していた陳述書である。判決ではその陳述書が否定された。修正・削除は教科書検定審議会の慎重さを欠く突出した対応であり、いっそう批判を浴びることは免れない。司法判断を受けた今、検定審議会は検定意見を速やかに撤回するべきである。
原告側は週明けにも控訴することを表明した。「軍の関与をもって、隊長命令に相当性があるとすることは、明らかに論理の飛躍がある」という主張である。
ここで問題にすべきは、大江さんの言うように「個人の犯罪」ではなく、「太平洋戦争下の日本国、日本軍、現地の第32軍、島の守備隊をつらぬくタテの構造の力」による強制であろう。
戦争の体験者は「人が人でなくなる」と繰り返し語る。国家の思想が浸透され、個人の意思を圧倒する。タテの構造により命令が徹底され、住民は「軍官民共生共死」を強要される。
この裁判によって、沖縄戦史実継承の重要性がいっそう増した。生き残った体験者の証言は何物にも替え難い。生の声として録音し、さらに文字として記録することがいかに重要であるか。つらい体験であろう。しかし、語ってもらわねばならない。「人が人でなくなる」むごたらしい戦争を二度と起こさないために。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-130610-storytopic-11.html
2008年3月29日(土) 夕刊 5面
要請団、来月14・15日上京/県民大会
「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」実行委員会(玉寄哲永委員長)は二十八日、那覇市の県教育会館で第四回幹事会を開いた。
四月十四と十五の両日、構成団体の代表らで五十人以上の要請団を組織して上京し、首相や外相、防衛相や在日米軍司令部などに抗議要請する方針を決定した。
また、大会当日のカンパや大会後の募金などを含め、二十八日現在、約六百四十万円の寄付が集まったと発表した。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803291700_02.html
沖縄タイムス 社説(2008年3月30日朝刊)
[地位協定見直し]
支援の輪の広がりを期待
民主、社民、国民新の野党三党が合同で、日米地位協定の改定案をとりまとめた。続発する米軍人らの事件・事故に対し、県民が最大公約数として求めている地位協定の改定に向けた動きを、後押しする試みだと評価したい。
改定案には、基地外に住む米軍関係者への外国人登録義務や被疑者の拘禁は原則日本の施設で行うこと、米軍施設を返還する際の環境汚染の浄化は米国の責任―などが盛り込まれている。
日米安保条約に基づいて駐留しているとはいえ、米軍はゲストだ。国際慣習上、優遇せざるを得ない面があるにしても、基地から一歩外に出た米軍人らの生活や犯罪、環境問題などに関してまで、ホスト国が国内法の適用を制限してゲストを優遇する必要があるのだろうか。
そういった県民の声は、大多数の国民の耳には届かないというもどかしさがある。
米軍基地が集中し、そこから派生する米軍人・軍属らの事件・事故。さらに、沖縄は島しょ県であり、米軍基地の整理・縮小、地位協定の抜本的改定を求める県民の思いは、県外にはなかなか伝わらない。
米軍基地がある神奈川や青森、山口県などを除いては、三党の地位協定改定案に盛り込まれた内容がどういうことなのか、実感として分からないのではないか。
県議会や市町村議会は、米軍絡みのトラブルが発生するたびに抗議決議をし、地位協定の改定を求める意見書を可決してきた。仲井真弘多知事は、訪米して米国政府に訴える意向を示している。四代の沖縄県知事が続けて米国を訪れ、沖縄の窮状を訴えることになる。
日本政府に訴えても「運用改善」という一点張りだ。簡単にはいかない。そのため、ゲスト国にも訴えざるを得ない状況に置かれた沖縄の現状がある。
地位協定改定は、政党や連合などの労組も動きだしている。沖縄支援の輪が広がることを期待したい。
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080330.html#no_2
2008年3月31日(月) 朝刊 25面
「普天間」直訴 視界不良/宜野湾・平和基金否決で紛糾
宜野湾市議会が、米軍普天間飛行場の返還に向けた伊波洋一市長の訪米費用を市民から募る、市提案の「平和まちづくり基金条例」を賛成九、反対十八の賛成少数で否決した。議会は同条例に関する与党議員の一般質問をめぐり、過半数を占める野党が質問と答弁を「不適切」として本会議への入場を拒否するなど混乱した。(中部支社・銘苅一哲)
「委員会への挑戦的な態度だ」「議会を軽視している」―。二十七日の同議会一般質問。最後の質問者となった森田進議員(みらい)への当局側の答弁に、野党議員からやじが飛んだ。
条例案を支持する森田議員は、総務常任委員会が議案を否決したことに対する当局の所見について質問。
山内繁雄基地政策部長は「非常に残念だ」とした上で、二〇〇六年に市長の訪米費用を盛り込んだ予算案が、財政状況などを理由に議会に否決されたことなど、条例案を提案した経緯を説明。寄付金による税額控除を導入した「ふるさと納税」と連動する可能性など、条例のメリットを強調した。
訪米の有効性を疑問視し、総務常任委員会で条例案を否決していた野党側は、「一般質問は議案の説明を再度求める場ではない。委員会の存在を無視した質問と答弁だ」などと強く反発した。
最終本会議の二十八日、開会予定時間の午前十時になっても議場に野党議員の姿はなかった。待機中、ある野党議員は「当局の説明を引き出すやらせ的な質問。答弁も委員会への恨み節に聞こえた」と両者の発言を批判した。
最終的に議員と部長の二人が「不適切な発言だった」として議事録からの削除を申し出て収拾。条例案は最終本会議で否決された。
昨年四月に大差で保守系候補を退け、再選を果たした伊波市長だが、議会では与党十人に対し、野党は十五人、中立が三人で立ち往生もしばしば。与党の一人は「野党は数の力で議会を進めている」と唇をかんだ。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803311300_03.html
2008年3月31日(月) 夕刊 1面
名護・宜野座 正式指定/在日米軍再編交付金
【東京】政府は三十一日、在日米軍再編への協力に応じて支払う再編交付金の交付対象となる「再編関連特定市町村」に、米軍普天間飛行場の移設先である名護市、宜野座村を正式に指定し、同日付の官報で告示した。本年度分交付額は、同交付金制度の初年度であるため、移設完了時に支払われる「上限額」の10%分に相当する約四億六千万円が支払われるが、年度内執行が困難なため来年度に繰り越される。
約四億六千万円のうち、名護は約三億九千七百万円、宜野座が約六千七百万円。政府は、普天間代替施設案(V字案)の沖合移動を要求している名護市に対し、「米軍再編への理解と協力が不十分」などと交付を凍結していた。だが、島袋吉和名護市長の市議会答弁や沖縄防衛局のアセス調査許可で、交付要件である米軍再編への「理解と協力」が満たされたと判断した。
二〇〇八年度分は、普天間移設に向けた環境影響評価(アセスメント)調査の開始を受け、25%分に相当する約十一億六千万円(名護・約九億九千万円、宜野座・約一億八千万円)が交付される見通し。〇八年度は本年度の繰り越し分も合わせた計約十六億二千万円が一括交付される予定だ。
両首長「当然」との認識
【名護・宜野座】米軍普天間飛行場の移設先である名護市、宜野座村が再編交付金の対象に指定されたことについて、島袋吉和名護市長と東肇宜野座村長は三十一日午前、「指定は当然」との認識を示した。
島袋市長は「継続して国との協議会にも出席し、環境アセスの手続きにも同意した。SACO交付金が廃止され、これに代わるものを求めてきた。われわれとしては遅かったという思いだ」と述べた。併せて、「滑走路の沖合移動を求める市の考えが反映されるよう、国と協議していきたい」との姿勢を示した。
東村長は「基本合意に基づき、米軍機が地域上空を飛行しないという事で国は計画を進めていると理解している。(再編交付金は)法律で決まっており、地域活性化のためには必要だ」との考えを示した。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803311700_01.html
2008年3月31日(月) 夕刊 5面
うるま市が抗議決議/米軍車両侵入
【うるま】米海軍車両の県立沖縄高等養護学校内への侵入事件で、うるま市議会(島袋俊夫議長)は三十一日午前に臨時会を開き、無断侵入に対する抗議決議と意見書を全会一致で可決した。無断侵入の詳細と基地間の移動ルートの県民への公表を強く求めており、同議会とうるま市の石川邦吉副市長らは四月一日、嘉手納基地内の在沖米海軍艦隊活動司令部や沖縄防衛局を訪れ、抗議する。
抗議決議文では三月二十七日に発生した米軍車両の侵入について、昨年七月に同養護学校、八月には前原高校でも同様のトラブルが起きたことを指摘し「安全であるべき学校敷地内に無断で侵入する暴挙は、常識では到底考えられない」と事態を重く見ている。
従来の「米軍側の綱紀粛正、再発防止の実効性がない」として、(1)移動ルートの公表(2)米軍人の教育と綱紀粛正の徹底(3)実効性のある再発防止策の公表(4)米軍組織の管理体制と責任の明確化│などを求めている。
同様な事件での度重なる抗議決議に、同市議会基地対策特別委員会の東浜光雄委員長は「議会からは、車両侵入に対して罰則規定を求める意見もある。要望に応えてもらうよう抗議したい」と話している。
抗議決議は駐日米国大使や在日米軍沖縄地域調整官、在沖米国総領事など、意見書は衆参両院議長、首相、外務省沖縄担当大使、沖縄防衛局長、県知事などにあてた。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803311700_04.html
2008年4月1日(火) 夕刊 4面
防衛局移転 町の声反映を
【嘉手納】沖縄防衛局が那覇市前島から嘉手納町に移転し、一日午前から業務を開始した。町内では、基地被害の実態を肌で感じ、住民の声を反映した防衛行政が行われることや、約四百四十人の職員による経済波及効果に期待の声が高まっている。
部課長ら約三十人と、同局を誘致した宮城篤実町長が出席した看板除幕式で、真部朗局長は「中部地区は広大な基地が存在する。住民の思いを肌で感じる機会が与えられた。血の通った防衛行政にまい進せねばならない」と訓示した。
同局移転により、嘉手納防衛事務所は三月三十一日付で廃止。那覇市泊に那覇防衛事務所を新設する。沖縄防衛局の新庁舎は、嘉手納ロータリー地区の市街地再開発事業で建設された嘉手納タウンセンター内にある。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200804011700_04.html
2008年4月2日(水) 朝刊 29面
実行委、記述回復要請へ4日に再始動/大阪地裁判決受け
「集団自決」訴訟で、元戦隊長らの請求を棄却した大阪地裁判決を受け、超党派の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員長の仲里利信県議会議長と幹事の与野党県議は一日、四日に県議会で実行委を開くことを決めた。実行委は「判決で検定意見の根拠が崩れた」との認識で一致。検定意見撤回と「軍強制」の記述回復を求め、国に再び要請する方向で協議する。要請行動は十六日をめどに調整する。
幹事の伊波常洋県議(自民)や平良長政県議(護憲ネット)は、軍の強制を削除した教科書検定意見について、文部科学省が「集団自決」訴訟を理由に挙げていたことを指摘。判決を受け、検定意見撤回を求めるべきだとの認識を示した。
実行委開催を呼び掛けてきた副委員長の玉寄哲永県子ども会育成連絡協議会会長や小渡ハル子県婦人連合会長は「文科省を動かすには今が絶好の機会。急いで行動する必要がある」、「検定意見を撤回させ『軍強制』の記述を復活させないと、沖縄戦の犠牲者に申し訳が立たない」と訴えた。
県高等学校PTA連合会の西銘生弘会長も「対応が遅くなれば効果も薄れる。今夏の教科書再訂正申請も見据え、実行委でしっかり方針を決めたい」と話した。
教科書検定問題をめぐっては昨年末、文科省が「軍関与」の記述を認め、自民党県連は今年一月「実行委の役割は終えた」として、解散を求める方針だった。一方、検定意見撤回と「軍強制」の記述回復を求める幹事団体などは反発。実行委は「活動停止状態」が続いていた。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200804021300_03.html
2008年4月2日(水) 朝刊 2面
車両侵入 進入禁止の看板設置/うるま市議団に米軍約束
【うるま】米海軍車両がうるま市の県立沖縄高等養護学校内に侵入した問題で、うるま市議団や石川邦吉副市長は一日、米軍嘉手納基地内に在沖米艦隊活動司令部を訪ね、抗議した。対応した参謀長代理のジョセフ・ヤント大尉は、車両は同市のホワイトビーチから沖縄市のキャンプ・シールズに向かう途中だったと説明。防止策として学校正門への車両進入禁止を示す看板の早期設置を約束したという。
また、車両のルート内にある学校の写真を隊員らに示すことで、トラブルの再発防止に努める姿勢を示したという。
一方、沖縄防衛局で対応した岡久敏明管理部長は「市民に不安な思いをさせて大変迷惑をかけた」と謝罪し、車両の通行ルートを米軍側に照会すると述べた。
島袋俊夫議長は「米軍側から、抗議に対して即座に対応するという回答を得た。看板の設置については、市内をはじめ四軍が管理するすべての地域に広げるよう要望した」と話した。
同市議団はそのほか在沖米国総領事館、外務省沖縄事務所でも抗議を行った。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200804021300_07.html
2008年4月2日(水) 朝刊 2面
オスプレイ、新型の機関銃装備へ
早ければ二〇一四年度にも県内への配備が指摘されている米海兵隊の垂直離着陸機MV22オスプレイに、三百六十度全方位へ発射が可能な機関銃が装備されることが一日までに分かった。米軍の準機関紙「星条旗」が報じている。
米軍担当者が同紙に明らかにしたところによると、オスプレイはすでに機体後方に機関銃を設置しているが、口径七・六二ミリの新しい機関銃を装備することで、海兵隊の輸送ヘリとしては初めて前方にも発射が可能になるという。
装備時期は明らかにしていない。
海兵隊はじめ米四軍の特殊部隊を束ねる米特殊作戦軍(SOCOM)と契約している英軍需産業BAEシステムズの担当者は、機関銃は発射速度毎分三千発で射程約千メートルと説明している。
オスプレイは普天間飛行場に配備されているCH46中型輸送ヘリの後継機。主翼の両端にプロペラ部分の角度が変わる傾斜式回転翼(ティルトローター)があり、ヘリコプターのような垂直離着陸と、固定翼機のような巡航が可能。開発や試験飛行段階で四回墜落し、うち三回で計三十人が死亡、危険性が指摘されてきたが、昨年イラクに実戦配備された。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200804021300_09.html
琉球新報 社説
防衛局移転 “痛み”共有し解決促進を 2008年4月2日
沖縄防衛局が1日から、局舎を嘉手納町に移転した。米軍機の爆音がとどろく町に、国の安保行政の中枢機関が居を構えた。米軍基地を抱える町民の痛みと苦悩を「国」が共有し共感する。爆音禍の軽減と基地問題の抜本解決に向けた転機としてほしい。
移転の日。嘉手納町の宮城篤実町長は、「地域住民が基地にどう向き合っているかも肌身で感じてもらい、基地から発生する障害について一緒に対応策を考えてほしい」と注文を付けた。
防衛省沖縄防衛局の真部朗局長は「防衛局にとっても非常な好機。より血の通った防衛行政にまい進していかなければならない」と決意を語っている。
「足を踏んでいる人は、踏まれている人の痛みを知らない。踏んでいることにも気付かなければ、罪の意識すらもない」
9年ほど前、そんな話を宮城町長から聞いた。稲嶺恵一知事が誕生し、副知事候補に宮城町長の名前が上がったころだ。
「施設局(当時)が嘉手納に来れば、防衛庁も町民の痛みを共有してもらえる。基地問題の解決は、そこからしか始まらない。町民と一緒に闘いたい」。宮城町長は、そう語り、副知事就任を否定した。
嘉手納町は、町面積の83%を米軍基地が占め、町民1万3700人は残る17%、262ヘクタールに押し込められている。
2005年の国勢調査では、嘉手納町の完全失業率は17・5%にも達し、基地の過重負担で「企業を誘致する土地すらない」との閉(へい)塞(そく)感も漂っている。
移転前、完成間近の庁舎には「歓迎、嘉手納防衛施設局」の横断幕が掲げられていた。
町にとって局舎移転は、那覇市から嘉手納町に職場を移した440人の防衛局職員の消費など経済波及効果や、新たな雇用創出への期待もある。
安保の「負の遺産」の軽減にとどまらず、「恩恵」も、という町民の期待に、防衛局はどう応えるのか。局舎移転が嘉手納町にとどまらず、米軍基地を抱える地域住民の負担軽減の具体的な政策転換につながることを期待したい。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-130754-storytopic-11.html
2008年4月2日(水) 夕刊 5面
県出身画家「戦争画」公開
来月、県立美術館企画展
県出身の画家・故大嶺政敏氏(一九一二―九四年)が、戦時中に銃後で勤労奉仕する人々を描いたいわゆる「戦争画」二作品が、五月に那覇市の県立博物館・美術館で行われる企画展「情熱と戦争のはざまで?無言館と沖縄の画家たち?」で公開されることがこのほど決まった。(与儀武秀)
戦争に協力・賛美するために描かれたとされる戦争画で、県出身作家の作品が沖縄で一般公開されるのは戦後初めて。専門家は「大嶺氏はほかにも戦争画を描いており時代性を感じさせる」と話している。
大嶺氏は戦後沖縄美術の大家として知られる故大嶺政寛氏の実弟。那覇市生まれで県師範学校卒業後上京し、東京を拠点に約六十年間、絵画活動を続けた。
公開される戦争画は「増産戦士」「僕も征くぞ米本土」の二作品。
共に一九四三年に制作された百号の大作で、丸太を炭に加工する様子や基地建設と思われる労働に励む人々がキャンバス一枚の表裏に描かれている。
大嶺氏は五六年に沖縄を訪れた際、戦後の窮状に強い衝撃を受け、その後は沖縄の庶民生活や風景を描きながら、平和を希求する作風に変化したといわれる。
同展では、二作品のほか、戦没者への鎮魂を描いた晩年の作品「集団自決供養(ケラマ島)」も展示される。
県立美術館の翁長直樹学芸員は「戦争当時の作家はほかにも戦争画を描いている。美術が戦争に協力した贖罪意識があったのかもしれない」と話している。
同企画展は五月十七日から同館で行われる。
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200804021700_01.html