月別アーカイブ: 2008年7月

ホテル・ルワンダ

先日、映画「ホテル・ルワンダ」を見ました。

 部族同士が殺し合う、映画では「100万人の死体が残された」となっています。

植民地主義が残した部族対立といわれます。浅学にしてその関連の詳細は今後勉強するしかありません。

 しかし、この「悲惨」を見るとき、慟哭したい思いに、駆られるのです。今は亡き牧師の父平山照次が言っていたように、もしイエスが現代に生きていたら、きっと慟哭していたでしょう。

 こういう部族対立による虐殺に加え、飢えに苦しみ死んでいく子どもたちや人びとがいます。人類発祥の地といわれるアフリカの地での、この悲惨さは、人類的な協力で解決を図るしかないのでしょう。

 天文学的な合衆国と世界の軍事費、食料価格、オイル価格を暴騰させている投機マネーどうして人類はアフリカを救うことができないのか。

 本当に考えさせる映画でした。

 多くの人生を破壊する国内における「格差」に加えて、多くの命を奪う世界的な「格差」を解決しなくては、人類の進歩も空しい感じがします。

 しかし、絶望することなく、なすべきことをなしていくことだと思うのです。

G8サミット以上警備!サウンドデモ参加者が被害


多彩な企画が行われています。写真は北海道に生息する氷河期の生き残り(遺存種=レリック)に関する展示。

 市民サミットに参加するため訪道しています。北海道もなかなか暑いです。こちらにお住まいの方によると今年は気温の変化がいつもの年となにかちがうとのことです。

 今夜北海道の知人たちの集まりで、7月5日のピースウォークに参加した何人かの人から、ピースウォーク対する道警察の警備が、まさに過剰であったことが話されました。道警は、ウォークに参加しようとした市民が参加することを阻止するという違法な行動を行ったが、警官の目が血走っており、抗議することができる雰囲気ではなかった。沿道にびっしりと、盾をウォークに向けて並んでいた。外国から参加した人の話では、こういう「警備」はヨーロッパやアメリカでは見られない、独裁国の警察ではそうするけれど。ということでした。

 まさに道警察は、刑法193条の「職権乱用罪」を犯し、憲法に保障された国民の基本的人権である、ピースウォークに参加するという「表現の自由」を暴力を持って侵害したといわなければなりません。これは2年以下の懲役に当たる犯罪行為です。

 しかも問題は、報道です。きわめて平和的なウォークに対する警察の犯罪行為をまるで逆に描き、ウォークが違法で暴力的であったかのような印象を与えるものとなっています。ウォークが怖いものというように描いて市民が参加することを阻止している点では、公安警察の思惑通りに報道する「権力の下僕」に成り下がっていることは、非常に危険です。沿道の人が「こわいですね」と言ったが、「警察は」と言う主語がついていたようであったが、「ウォークが」といっていたようにすりかえて報道していた、ということも言われていました。

 6月末、韓国のウォークに参加しました。キャンドルをもち、ベビーカーに赤ちゃんを連れた若いご夫婦や、小学生中学生高校生大学生が、多数参加していました。こういうことを阻止し、市民・国民とを切り離すことが彼らの最大の狙いです。今回の警察が作り上げた「事件」の真相をねばりづよく広く市民・国民に知らせることが大事です。

 救援会の設立を大いに歓迎するとともに、できる限り多数の方のご支援ご参加を私も訴えるものです。(2008/7/7)

ーーーーー以下、転載です。転送可ーーーーー

札幌サウンドデモ7・5救援会設立とカンパのお願い

 2008年7月5日、札幌市大通公園で開催されたチャレンジ・ザG8サミットのピースウォークで、「サウンドデモ」部分に対して不当な弾圧がくわえられました。荷台に音響機材を積んだ「サウンドトラック」を公安警察が襲った経緯などで、マスコミ記者も含め最終的に4人の方々が逮捕されました。

 すでに様々なマスコミの報道がありますが、この弾圧は機動隊の過剰警備と公安警察の暴力的な介入によって引き起こされたものです。札幌中央署は被疑事実を「道交法違反」「公安条例違反」「公務執行妨害」としていますが、もちろんピースウォークは事前に申請され、北海道公安委員会に許可されたものです。「サウンドデモ」スタイルによる荷台乗車も、許可された行進形態に含まれていました。

 DJをしていただけで逮捕、あるいは運転席の窓ガラス割った上で運転手を引きずり出して逮捕、などという暴力的なふるまいに対して、現在、有志による救援活動が続けられています。 救援活動に際しては、差入など様々な出費が必要になるため、多くの皆さんに衷心よりカンパを呼びかけます。よろしくお願い申し上げます。

 札幌サウンドデモ7・5救援会

  
 【連絡先】   080-3538-7596   j5sapporo@yahoo.co.jp
 【カンパ振込先】   郵便振替口座:00200-5-38572 名義:S-16   ※札幌救援カンパとご明記ください

原告の証人申請却下/「集団自決」訴訟 普天間爆音に賠償命令/国へ総額1億4000万円 など 沖縄タイムス関連記事・社説、琉球新報 社説(6月25日から30日) 

2008年6月25日(水) 朝刊 1面

きょう控訴審開始/「集団自決」訴訟

 沖縄戦時に慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、書籍に命令を出したと記され名誉を傷つけられているとして、座間味島と渡嘉敷島に駐屯していた旧日本軍の元戦隊長やその遺族が、「沖縄ノート」の著者で作家の大江健三郎氏(73)と発行元の岩波書店に、慰謝料や出版の差し止めなどを求めている訴訟の控訴審の第一回口頭弁論が二十五日、大阪高裁で開かれる。

 今年三月の一審・大阪地裁判決は、住民の「集団自決」に対する日本軍の深い関与を認定。座間味と渡嘉敷の両島が、戦隊長を頂点とする上意下達の組織だったことを踏まえ、両戦隊長の「集団自決」への関与を「十分に推認できる」と導いた。

 両戦隊長による自決命令は伝達経路がはっきりとせず、書籍に記載されている通りの自決命令の認定には「躊躇を禁じえない」としたが、二〇〇五年度までの教科書検定や学説、文献などを踏まえ、各書籍の記載には合理的な資料や根拠があると指摘。大江氏や「太平洋戦争」の著者の故家永三郎氏が、記した事実を真実と信じる十分な理由があったとして、元戦隊長らの請求を退けた。訴えているのは、座間味島の元戦隊長の梅澤裕氏(91)と、渡嘉敷島の戦隊長だった故赤松嘉次氏の弟の秀一氏(75)。一審・大阪判決について、法解釈や事実認定の誤りを主張し全面的に争う方針で、岩波側は控訴の棄却を求める。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806251300_03.html

 

2008年6月25日(水) 朝刊 2面

政府、議事録公表せず/地位協定「公務」範囲拡大

 【東京】政府は二十四日、日米地位協定に基づいて日本側に第一次裁判権がないとされる「公務中」の範囲を、通勤や職場での飲酒にまで拡大した一九五六年三月の日米合同委員会合意に至る日米協議の議事録公表について、「日米両政府の合意なしには公表しない」とする答弁書を閣議決定した。照屋寛徳衆院議員(社民)の質問主意書に対する答弁書で見解を示した。

 地位協定に基づく「公務中」の範囲拡大に関する合同委合意をめぐっては、五六年四月に法務省刑事局長が全国の検事正らにあてた通達で、勤務地への往復時の交通事故を公務中として処理するよう指示している。

 その際には、参考資料として、合意までの協議内容を記した前年(五五年)十一月の合同委刑事裁判権分科委員会議事録を添付していた。

 これらの経緯は、機密解除された米側公文書などで明らかになっているが、政府は今回の答弁書で、「(全国の検事正らにあてた)通達を発出したかどうかを含め、これを公にすることにより、米国政府との信頼関係が損なわれるおそれ、および公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼす」として、公表に難色を示している。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806251300_05.html

 

2008年6月25日(水) 朝刊 2面

平和運動拡大へ連合集会・デモ/県庁前

 連合は二十四日、県庁前広場で「米軍の整理・縮小と日米地位協定の改正を求める集会」を開き、基地問題の解決に向けて全国で平和運動を続けようと訴えた。

 主催者を代表してあいさつした連合本部総合組織局の大塚敏夫局長は「戦争は六十三年前に終わったが、その傷跡は残っており、問題は解決していない。米軍基地の整理・縮小と日米地位協定の抜本見直しを求めて、全国的な運動をさらに広げていこう」と訴えた。

 そのほか、連合沖縄の仲宗根清和事務局長や民主党県連の喜納昌吉参院議員らがあいさつした。

 全国の地方連合会の会員と構成組織の組合員ら九百人が参加。集会後は国際通りをデモ行進した。

 参加者は集会前には糸数壕や嘉手納基地、普天間飛行場なども視察した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806251300_06.html

 

2008年6月25日(水) 朝刊 26面

仲里議長が勇退/教科書検定撤回9・29実行委員長

 「9・29教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員長の仲里利信県議会議長が二十四日、玉寄哲永、小渡ハル子両副委員長に対し、委員長の辞任を伝えた。この日で県議の任期を終えて勇退するため。仲里委員長は「十一万人が集まったあの大会は快挙だった。今後は一個人として協力していきたい」と話した。

 三人は議長室で会談。「多くの方からお引き留めをいただいたが、『議長』として引き受けた以上、辞職が筋と考えた」と説明した。また、教科書出版社でつくる教科書協会が今月の文科省作業部会で「検定審議の非公開」と「執筆者の守秘義務」を主張したことには「要請時には前向きなことを言っていたのにだまされた思いだ」と怒りをあらわにし、両副委員長の手を取って「思いは半ばだが、後をよろしくお願いします」と頭を下げた。

 玉寄副委員長は「仲里さんが委員長だったから『県民党』として団結できた。後任の委員長も、あくまで超党派を組める方を前提に各方面と協議したい」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806251300_07.html

 

2008年6月25日(水) 朝刊 2面 

07年度不発弾処理781件

 沖縄不発弾等対策協議会(会長・木下誠也沖縄総合事務局次長)が二十四日、沖縄総合事務局であり、二〇〇七年度の不発弾処理件数は七百八十一件、重量は二十五・四トンだったことが報告された。一九七二年からの合計処理件数は三万二十四件、千七百五十七・九トンとなった。

 同協議会は〇八年度事業計画も策定。埋没情報に基づく探査発掘事業は南城市と南風原町で実施する。百平方メートルを超える広域地区探査発掘事業は中南部地区、西原地区など五地区で、市町村が事業主体となって発掘作業をする市町村支援事業は五市三町一村が実施する。全体の経費予算額は四億四千万円。

 同局は〇六年度から〇七年度にかけて、地理情報システム(GIS)を利用した「不発弾等情報地図検索システム」を構築。これまでに不発弾を発見した場所と砲弾の種類、聞き込み調査で得た証言などを管理し、探査している。

 探査を伴わない発見弾の処理費用のうち、二分の一が市町村負担となっている問題については、件数や重量の調査がまとまり次第、内閣府に提出するという。

 協議会には沖縄防衛局や海上保安庁、陸上自衛隊の代表者ら二十人が参加した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806251300_10.html

 

2008年6月25日(水) 夕刊 5面

史実確定へ全国で動き/「集団自決」控訴審開始

 沖縄戦時に慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、座間味島と渡嘉敷島に駐屯していた旧日本軍の元戦隊長やその遺族が、「沖縄ノート」の著者で作家の大江健三郎氏(73)と発行元の岩波書店に慰謝料や出版の差し止めなどを求めている訴訟の控訴審が25日午後、大阪高裁で始まる。県内外の歴史研究者や被告支援者たちは「高裁で真実を決定づけてほしい」と期待を込めた。

 一審の大阪地裁は元戦隊長が「集団自決」へ関与したことを「十分に推認できる」と認め、元戦隊長らの請求を退けた。

 「沖縄戦の歴史歪曲を許さず平和教育をすすめる会」の山口剛史琉球大学准教授は「私たちとしては、『軍命』の認定に向けて再び努力するだけだ」と決意を語る。「一審同様、反論すべきは丁寧に反論する。それを沖縄から発信していくことが大切であり、県民の声を法廷に届けるのが私たちの役目。油断せず、控訴審もしっかり支援したい」

 教科書執筆者の一人で歴史教育者協議会の石山久男事務局長は「一審で住民の声が丁寧に検証され、事実認定はもうけりがついている。原告は新しい論点を示せないだろう。高裁には歴史の真実をあらためて示してほしい」と期待を寄せた。

 大阪の支援団体「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会」の小牧薫事務局長は「一審判決は『集団自決』の体験者の証言や文献を丁寧に受け止めた。支援団体としては、審理の過程で明らかになった『集団自決』の事実と背景を特に若者に広める努力を重ねていきたい」と話した。

 沖縄戦研究で知られる琉球大学の高嶋伸欣名誉教授は「裁判官がまっとうなら、結論はひっくり返りようがない。むしろ高裁が司法の独立を守れるかがポイントであり、法廷審議をチェックしていきたい」という。

 一方で、「原告らが裁判を続けるおかげで、この問題への全国的な関心を維持できる。沖縄の人たちはそのぐらいのたくましさで見守ってもいい」とも語った。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806251700_02.html

 

2008年6月26日(木) 朝刊 1面

普天間爆音きょう判決/低周波影響が争点

ヘリ墜落苦痛どう判断

 【中部】米軍普天間飛行場の周辺住民三百九十六人が、ヘリコプター部隊を中心とする米軍機の騒音によって健康被害を受けたとして、国に米軍機の夜間・早朝飛行差し止めや四億五千万円余りの損害賠償を求めた普天間爆音訴訟の判決が二十六日午前、那覇地裁沖縄支部(河合芳光裁判長)で言い渡される。騒音とヘリ特有の低周波音による健康被害の因果関係や沖縄国際大学へのヘリ墜落事故が精神的苦痛の増大に影響しているかなどが争点で、司法判断が注目される。

 同飛行場は国内唯一のヘリ基地で在沖米海兵隊の拠点。「世界一危険」といわれる同飛行場の騒音に司法が初めて判断を下す。二〇〇二年十月の提訴から五年八カ月が経過した。

 住民は同飛行場のヘリから発生する騒音がW値(うるささ指数)七五以上の地域で受忍限度を超え違法と訴えた。〇四年には同飛行場に隣接する沖縄国際大学構内に大型輸送ヘリが墜落する事故が発生した。

 原告は違法な騒音を発生させないよう根源から防止するため午後七時から午前七時までの離着陸禁止など飛行の差し止めを求めている。

 しかし、全国の基地騒音訴訟では差し止め請求が棄却され続けていることから、普天間訴訟団は、新たに国へ騒音測定を義務付け、軽減措置を図るよう求めた。

 国は低周波音と騒音が複合した場合の見識が確立されていないとして、健康被害との因果関係を否定。騒音測定義務の請求については、侵害予防効果に直結しないと訴えている。

 周囲に百二十一カ所以上の公共施設があり、約九万人の市民が危険と隣り合わせの生活を余儀なくされている普天間飛行場の騒音に、司法はどのような判断を下すか、注目が集まっている。


こぶしに期待込め

訴訟団が前夜集会


 【宜野湾】判決の言い渡しを翌日に控えた普天間米軍基地から爆音をなくす訴訟団は25日、宜野湾市内で前夜集会を開き、米軍普天間飛行場を離着陸するヘリなどの騒音が違法と認められるよう判決に期待を寄せた。

 原告や弁護団、そのほかの支援団体など約50人が参加。

 訴訟の経緯を振り返った後、全員で「勝利のため頑張ろう」とこぶしを突き上げた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806261300_01.html

 

2008年6月26日(木) 朝刊 27面

父も勝利を期待/桃原元市長の長男・純さん原告継ぐ

 普天間爆音訴訟の地裁判決を二十六日に控え、元宜野湾市長の故・桃原正賢さんから訴訟団の原告を引き継いだ長男の純さん(59)=宜野湾市野嵩、那覇工業高教諭=が二十五日、「父も勝利を期待して待っていると思う。宜野湾市民の生命と安全のため、飛行差し止め、基地撤去まで闘い続ける」と、強い決意を語った。

 桃原正賢さんは普天間飛行場の即時撤去を訴え、一九八五年に第八代宜野湾市長に当選。九七年まで三期十二年務め、同飛行場の全面返還に向け尽力した。市長を勇退後は、原告団に加わり二〇〇二年提訴したが、〇四年六月に肝臓がんで亡くなった。

 純さんは普天間小学校六年の時に、当時の宜野湾村議会を見学。議長として登壇する正賢さんの姿を見て政治に打ち込む父親の熱意に感激したという。市長に当選してからは、「正月も休めないような激務。基地返還と市民の利益のために熱意を持って取り組む姿に感動を覚えた」と、しみじみ振り返った。

 一九九六年、橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使が、普天間飛行場の五―七年以内の全面返還を発表した際には、正賢さんは家族に対し、「返還への道筋をつくった」とうれしそうに話したという。市長引退後も、基地問題にかかわる新聞記事のスクラップを欠かさず、米兵による事件や事故を残念がっていた。

 父親の遺志を継ぎながら、「宜野湾市民」としても憤る純さん。二階のベランダから、パイロットの顔が見えるほどの低空を飛ぶ大型ヘリ。「墜落しないかという不安から、騒音が激しいと家を飛び出すこともある」と顔をしかめる。

 純さんは「現実として、米軍機による騒音は『公害』なんです」ときっぱり。仕事で判決の場には立ち会えないが、「勝利」を心して待つという。


基地撤去まで闘う

前夜集会


 【宜野湾】「良識ある判断を」。宜野湾市の「ぎのわんセミナーハウス」で二十五日に開かれた、普天間爆音訴訟団の前夜集会。「抗議の声を上げ続けたい」という女性。事務局として裏方で奮闘した男性。判決前夜、さまざまな思いを胸に、出席した原告や弁護団、支援者ら約五十人はガンバロー三唱で団結し、最後まで闘い抜くことを誓い合った。

 一人で始めた座り込みから判決までの道のりを振り返った島田善次訴訟団長は「爆音漬けの生活を強いているのは誰かはっきりさせてほしい」と司法へ期待を寄せた。

 新垣勉弁護団長は「判決は、長い間爆音にさらされてきた周辺住民にとって大きな一歩となる。ぜひ勝って今後の訴訟のステップにしたい。基地撤去まで闘おう」と呼び掛けた。

 訴訟団事務局次長の仲村渠永昭さん(53)=普天間=は、書類の提出などで何度も裁判所に通ったほか、裁判の経過や日程を告知するチラシを発行するなど、裁判闘争を裏方で支えた。

 仲村渠さんは「飛行差し止めと原告全員の救済が認められれば、これまでの苦労も報われる。静かに暮らしたいという願いは決してぜいたくではないはずだ」と訴えた。

 砂川正子さん(65)=大謝名=は一九九一年に那覇市から引っ越してきた。「国が危険への接近を主張するということは、危険性を国自身が認めているということだ」と国への怒りをあらわにした。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806261300_02.html

 

2008年6月26日(木) 朝刊 1面

原告の証人申請却下/「集団自決」訴訟

 沖縄戦時に座間味島と渡嘉敷島に駐屯していた旧日本軍部隊の元戦隊長やその遺族が、「沖縄ノート」などの書籍で住民に「集団自決(強制集団死)」を命じたと記され、名誉を傷つけられているとして、著者の大江健三郎氏と発行元の岩波書店に慰謝料や出版の差し止めなどを求めている訴訟の控訴審の第一回口頭弁論が二十五日、大阪高裁であった。元戦隊長側は「命令を断定できないことは日本現代史研究者や文科省にとって明らか」として、現代史家の秦郁彦氏を証人申請したが、小田耕治裁判長は却下した。

 元戦隊長側は、旧日本軍の「集団自決」に対する深い関与を認め、両戦隊長による命令を「十分推認できる」とした一審・大阪地裁判決について、「証拠の評価と事実認定が全く恣意的で、到底容認できない」などと批判。

 判決が正当だとしても、隊長命令に真実性が認められなかった一審判決以降、「沖縄ノート」の増刷は違法と主張した。

 日本兵による住民への手榴弾配布をめぐっても、戦隊長命令を否定する根拠になる話があるほか、日本軍が駐屯していなかった屋嘉比島でも「集団自決」は発生している、とした。

 岩波・大江氏側は、一審判決は隊長命令に合理的な資料や根拠があるとして、出版の適法性を明確に認めていると指摘。

 戦隊長側が指摘する日本兵による住民への手榴弾配布は、米軍の捕虜にならないように渡しており、屋嘉比島で二家族が「集団自決」したことが日本軍の関与否定にはならないと反論した。

 第二回口頭弁論は九月九日午後二時から。原告と被告双方の代理人は、今後の証人申請はないとしており、次回の弁論で結審する可能性もある。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806261300_03.html

 

2008年6月26日(木) 朝刊 2面

米兵犯罪「抑止具体策を」/連合沖縄 県に働き掛けを要請

 連合沖縄の仲村信正会長らは二十五日、県庁に仲里全輝副知事を訪ね、米兵による一連の事件・事故について米軍内部の管理責任を追及するよう求めた。

 仲村会長は「再発防止策といっても何をするか具体的に見えてこない。せめて凶悪犯罪を犯した米兵を沖縄に入れないなど具体的な対策を日米両政府に求めてほしい」と述べた。

 仲里副知事は「事件が起きるたびに、日米両政府に対して強く抗議、要請しているが、なかなからちが明かない。稲嶺県政の時に提示した十一項目の要請について実態と兼ね合わせて議論し、粘り強く日米両政府に訴えていく」とした。

 また、犯罪歴のある米兵については「日本に駐留する米兵の中から除くように県として求めていきたい」との見解を示した。

 そのほか、在沖米軍四軍調整官の解任や日米地位協定の抜本見直しを日米両政府に強く求めるよう要請した。連合は四月に横浜市で開催した地位協定の見直しに向けた全国集会について、毎年実施する方針としている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806261300_04.html

 

琉球新報 社説

海自艦の初訪中 成熟関係構築は非軍事から 2008年6月26日

 海上自衛隊護衛艦「さざなみ」が24日、自衛隊の艦艇として初めて中国を訪れた。昨年11月に中国海軍のミサイル駆逐艦が初来日したのを受けた日中防衛交流の一環である。

 不毛な軍拡競争に陥らないためにも、防衛交流を通して安全保障分野の相互信頼関係を構築することは意義がある。

 石破茂防衛相は自衛艦の初訪中で、日中関係強化に弾みがつくことに期待感を示した。

 国レベルではそうかもしれない。だが、中国国民の反応は関係強化に程遠いと言わざるを得ない。

 自衛艦の訪中は中国国民の感情を刺激した。中国国内のサイトは「何を口実にしようとも、日本軍が中国の土を踏むことに強烈に反対する」など、自衛艦の入港に猛反発する書き込みであふれた。

 中国国内では今も旧日本軍に対する怒りがあり、反発は十分予想されたことである。自衛艦の訪中は時期尚早ではなかったか。冷静に分析する必要がある。

 「さざなみ」が入港した広東省湛江市の軍港に一般市民は入れず、出迎えたのは地元政府関係者ら数十人だけである。国民感情に配慮した結果とも言えるが、それでも配慮が足りない。

 自衛隊は旧日本軍とは違う、と日本が主張しても「さざなみ」の艦上に翻った旧日本軍の「旭日旗」と同じデザインの海自艦旗は、中国国民にとって「侵略」と「屈辱」のシンボルでしかない。

 一般市民が入れない場所とはいえ、反日世論を再燃させかねず、慎重さを求めたい。

 四川大地震の際、物資輸送支援のために自衛隊機の派遣が可能か、中国政府から打診を受けた日本政府は、中国国内の反発などを理由に派遣を見送った。

 「さざなみ」は要請に基づかない被災者への見舞品として毛布や非常用食料を中国側に渡し、自衛隊による初の支援物資輸送となった。

 人道支援は重要であり、今後とも推進するべきである。そのような地道な活動を継続することで、中国国民の理解も得られよう。

 経済関係では日中とも、互いに欠かせない重要な存在となっている。経済関係の次は、両国政府の協力・協調関係づくりである。

 防衛省は自衛隊と人民解放軍による制服同士の信頼醸成を進めるとともに、早ければ今夏に石破防衛相が訪中して防衛交流を加速させたい意向である。

 だが、その前にクリアすべき課題がある。歴史問題では、中国と日本で認識の違いがある。まずはその溝を埋めることが成熟した日中関係構築の出発点である。

 日中交流は非軍事から始めなければ、両国国民を含めた成熟した友好関係構築は望めない。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-133519-storytopic-11.html

 

2008年6月26日(木) 夕刊 1面

普天間爆音に賠償命令/国へ総額1億4000万円

飛行差し止めは認めず/那覇地裁支部判決

 米軍普天間飛行場の周辺住民三百九十二人が、ヘリコプターなどの騒音に伴う健康・生活被害を訴え、国に夜間と早朝の飛行の差し止めと、計四億五千五百四十万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、那覇地裁沖縄支部(河合芳光裁判長)は二十六日、すべての原告が居住するうるささ指数(W値)七五以上の地域住民に生活・睡眠妨害に伴う精神的被害を認め、国に総額一億四千六百七十万円の支払いを命じた。

 河合裁判長は、訴訟係属中の二〇〇四年八月に起きた沖縄国際大学へのヘリ墜落など、施政権返還後に同飛行場所属の軍用機の事故が七十七件発生していると指摘。住民の墜落に対する不安・恐怖感を精神的な被害として認めた。

 国側が主張した「危険への接近」に伴う免責は、本島中部で騒音の影響を受けない地域が限られていることや、沖縄の人の地元回帰意識が強いことを踏まえた上で、「少なくとも返還が合意された九六年以降はやむをえない」と判断。国側の主張を全面的に退けた。

 ヘリ部隊を中心に大型輸送機や戦闘機が飛来する、同飛行場の騒音の違法性が問われた初めての司法判断。

 住民側が最大の争点に位置付けた低周波音による被害は、難聴や耳鳴りといった健康被害との因果関係を否定。

 騒音発生の責任を明確にするため、住民側が求めた国による継続的な騒音測定についても「国は被害防止の措置をとる法的立場にはない」などとして、認めなかった。

 将来分の賠償と飛行の差し止め請求についても退けた。

 慰謝料の認定額は、W値七五が一日当たり百円。W値八〇は同二百円。国の防音工事助成は、「室内で窓を閉め切り生活するのは一定の限度にとどまる」などとして、施工一室で10%の減額とした。

 河合裁判長は、日米安保条約に基づく普天間飛行場の公共・公益性を認める一方、「周辺住民という一部の限られた犠牲の上でのみ、公共的利益の実現が可能なら、そこには看過できない不公平が存する」などと述べた。

 原告側は控訴に向けて検討するとしている。

 防衛省・中江公人大臣官房長 飛行差し止め請求および将来分の損害賠償請求について、国の主張が認められたことは、妥当な判断が示されたものと評価している。しかし、過去分の損害賠償請求の一部が容認されたことについては、裁判所の理解が得られず残念だ。

 外務省沖縄事務所 司法の判断にコメントすることは差し控えたい。政府は米軍飛行場における航空機騒音問題は、周辺地域住民に大変深刻な問題と認識し、従来より普天間はじめ米軍飛行場周辺住民の負担軽減のため、航空機騒音規制措置を米側と合意するなど対応に努めている。


     ◇     ◇     ◇     

知事「騒音減へ努力を」


 仲井真弘多知事は二十六日、判決を受けて文書でコメントを発表した。

 訴訟について「県としても大きな関心を持って見守ってきた」と述べ、騒音被害に苦しむ原告の主張を一部認める判決は、これまで県が主張してきた危険性と騒音被害が示されたと一定の評価を示した。

 日米両政府に「この判決を踏まえ、普天間飛行場の騒音軽減に努力すべきだ」と求めるとともに、県として「引き続き普天間飛行場の早期移設と、移設までの間の危険性除去、騒音の軽減を粘り強く働き掛ける」との見解を示した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806261700_01.html

 

2008年6月26日(木) 夕刊 4・5面

ヘリの恐怖 なお/差し止め否定不満噴出

 【中部】「この判決では30%(の評価)だ」。二十六日午前、那覇地裁沖縄支部で言い渡された普天間爆音訴訟の判決。騒音W値(うるささ指数)七五以上を「違法」とし、原告全員への賠償を命じた。一方で、普天間飛行場周辺の米軍機の飛行差し止めは棄却し、国の騒音軽減義務を認めなかったことに、原告らは「今後大きな問題を残す」と不満をぶちまけ、控訴を検討する方針を示した。

 「普天間初の被害認定」「米軍の爆音断罪」―。判決直後、二種類の垂れ幕を持った島田善次原告団長らが裁判所から駆け出した。騒音による苦痛など一定の被害を認めた司法の判断に、集まった約二十人の原告や支援者からは、拍手がわき起こった。

 一方、同日午後の沖縄市農民研修センターでの会見では原告団と弁護団から厳しい指摘が相次いだ。

 島田原告団長は「(W値七五以上の)被害が認められたが、差し止めが否定されたことは今後、被害をずっと受け続けなければならないということ」と指摘。さらに「個人的には30%(の判決)だ。カネだけ払えばいいという論理は原告として受け入れられない」と課題を強調した。

 新垣勉弁護団長は「国に騒音軽減義務がないとしたのは問題。どういう理屈で免責されるのか理解できない」と批判。「差し止めができなければ被害軽減義務があるというのが当然の法理論として通るものと思っている。大きな課題を背負ったと言わざるを得ない」と指摘した。一方で、低周波被害については「住民共通の被害の要因として認めなかったことは残念」としつつ、「ヘリ固有の問題として低周波被害が存在すると指摘したのは、今後の足掛かりになる」と一定評価した。

 判決の時間を待ちきれず、午前七時半に裁判所を訪れた原告の知花トシ子さん(73)=宜野湾市嘉数=は「慰霊の日の前日に戦争で亡くなった兄弟に全面勝訴するよう祈ってきた。普天間の爆音に苦しめられて四十六年。基地がなくならない限り、私にとって戦後は終わらない」と話した。


手堅い判決評価


 全国公害弁護団連絡会議の中杉喜代司事務局長の話 睡眠妨害や身体的被害など最近国の訴訟で認められた事が、手堅く判決に表れた事は評価できる。新嘉手納爆音訴訟のW値八五以上が違法と判断した判決がより特異だと証明できた。


勇気の出る判断


 新嘉手納爆音訴訟団の仲村清勇団長 W値七五以上を違法と認めたことは、来年春の新嘉手納爆音訴訟の高裁判決に大きな影響を与える。われわれにとって勇気の出る判決だ。ただ飛行差し止めについては司法の限界を感じた。


一歩踏み込んだ


 松井利仁京都大准教授(環境衛生学)の話 睡眠妨害や、騒音で高血圧や頭痛などの身体的被害が生じる危険性が相当高いと認めるなど、これまでの騒音訴訟判決より一歩踏み込んだ判断で、地域類型の区分によって差を設けなかったことも評価できる。低周波音の影響については、うるささ指数算出の基になる騒音計による測定で過小評価される傾向にあり、精神的被害を算定する際、もっと上乗せするよう考慮すべきだったのではないか。


     ◇     ◇     ◇     

「住民被害認められた」伊波市長


 【宜野湾】普天間爆音訴訟の判決を受け、普天間飛行場を抱える宜野湾市の伊波洋一市長は二十六日午後、同市役所で会見し「W七五区域から慰謝料を認定したことは、普天間飛行場が多くの市民の生活に直接的に被害を与え続けたことを認定するものだ」と評価した。

 一方で、将来分の損害賠償と、夜間から早朝までの米軍機の飛行差し止め要求が却下されたことに「他の爆音訴訟判決を踏襲するもで、却下は残念だ」と厳しい表情を見せた。

 同飛行場の設置や管理についての瑕疵が認められ、住民の「危険性への接近」が否定されたことに「住民の被害が司法の場で認められた」と述べながらも、低周波音による健康被害や騒音の測定請求が認められなかったことには「住宅地上空を飛行するという点で(測定義務について)国に未然防止策を求めるべきだ」と訴えた。


評価・不満 反応は複雑


 「世界一危険」といわれる米軍普天間飛行場の爆音訴訟の判決に、移設先の名護市や県外で同様の訴訟を提起した関係者らは、評価と不満の複雑な反応を見せた。

 名護市のキャンプ・シュワブに隣接する辺野古区に住む島袋権勇市議会議長は「国民は騒音に苦しまずに生活する権利があり、賠償を認めたのは当然」とし、その上で「移設受け入れ側としては、夜間や住宅地上空の飛行禁止を求めて基地使用協定の締結を働き掛けていく」と強調した。

 一方、移設に反対する平和市民連絡会の当山栄事務局長は「『危険への接近』を退けたことは有意義だが、飛行差し止めが認められなかったのは残念。基地を持ってきたら同じような騒音被害を受ける。基地撤去しか被害をなくすことはできない」と話した。

 神奈川県の厚木爆音訴訟原告団副団長の金子豊貴男・相模原市議は「事故の影響にも踏み込んだ点は評価できるが、その他は後退もないが前進もない。司法はこの手の損害賠償訴訟での逃げ方を固定化してきており、打破する方法を考えていきたい」と話した。

 石川県の第五次小松基地爆音訴訟連絡会事務局の長田孝志さんは、「W値七五以上地域の賠償請求権の認定、『危険への接近』の免責否定で、一定のラインが引かれた」と評価。一方で、低周波による健康被害や飛行差し止めの棄却に、「全国基地訴訟連絡会で、普天間の訴訟団とも情報交換し、声を上げていきたい」と訴えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806261700_02.html

 

2008年6月27日(金) 朝刊 1面 

米と協議再開方針/普天間移設

町村氏、危険性除去向け

 【東京】町村信孝官房長官は二十六日の普天間爆音訴訟判決を受け、同飛行場の危険性除去に向けた米側との協議を再開する考えを初めて示した。同長官は四月の普天間飛行場の移設協議会で、政府が危険性除去策の取り組みを再検討する方針を示していたが、「移設するまでの間、米側と交渉するなど努力したい」とさらに踏み込んだ発言で、県側の要望に応じる姿勢を示した。同日午後の会見で述べた。

 二〇〇四年、沖縄国際大学へのヘリ墜落事故を受け、日米両政府は昨年八月までに、民間地域への墜落事故を防ぐための航空機の場周経路設定など、危険性除去策をまとめていたが、今回の発言は官房長官自身が従来の対応が万全ではないと認めた格好だ。

 また、同長官は「普天間飛行場が危険な状態だからこそ、北部への早期移設が重要。だが一、二年で移設が完了するわけではない」との認識を示し、危険性除去を求め続ける仲井真弘多知事の要望にも言及。「政府も誠実に受け止め、米側と交渉するなど、できるだけ県民の負担を軽減できるよう努力したい」と述べた。

 ただ、日米間の具体的な交渉の在り方については「普天間協議会の場でよく議論しながら、地元の期待に応えられるよう努力したい」とし、明言を避けた。また、「特にこの対策で米側とこういう交渉をしているといったような状態にはない」と現状を説明した。

 普天間飛行場の爆音訴訟判決の結果について、沖縄防衛局の真部朗局長は同日午後の定例懇談会で、「控訴するかどうかも含め、判決内容を熟読し、国の関係機関と調整した上で、対処を考えたい」と述べるにとどまった。


     ◇     ◇     ◇     

基地撤去へ控訴の覚悟/普天間爆音訴訟原告団


 普天間爆音訴訟の判決が言い渡されたことを受け、同原告団は二十六日午後、沖縄市農民研修センターで原告説明会を開いた。島田善次団長は、米軍機の飛行差し止めが棄却されたことに不満を示した上で、「国より先に、われわれが控訴すべきだ」と集まった原告や支援者約二十人に呼び掛け、原告団の結束と今後の運動拡大を確認した。原告は近く控訴する方針。

 説明会では「判決の30%しか評価できない」と厳しい表情を見せる島田団長の姿に、他の原告も同調。会場では「身体的被害を認めたことは一歩踏み込んでいるがリップサービスにすぎない」「W値75以上が認められた今回の判決を前提に、運動を拡大すべきだ」などの声が上がった。

 原告の石川吉子さん(72)=宜野湾市愛知=は「国と闘う私たちの思いをどれだけの国民が知っているのか疑問もある。裁判で沖縄の現状を全国に伝えるとともに、最大の目的である飛行差し止めに向け、普天間飛行場撤去が現実になるまで戦いたい」と語気を強めた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806271300_01.html

 

2008年6月27日(金) 朝刊 2面

米、「日本に責任」主張/米軍機訴訟賠償金分担

 【東京】「嘉手納爆音訴訟」など、確定している過去八件の米軍機騒音訴訟の損害賠償をめぐり、米国政府が分担金の支払いに応じていない理由として、「(騒音被害を引き起こす)瑕疵のある施設を(米軍に)提供している日本側に責任がある」と反論し、日本側の支払い請求に応じていないことが二十六日、関係者の話で分かった。損害賠償の一部を容認した同日の「普天間爆音訴訟」判決が、今後確定した場合でも米側が同様の主張を繰り返し、分担金支払いに応じない可能性が高い。

 日米地位協定(一八条五項)では、公務中の米軍による損害の賠償について「合衆国のみが責任を有する場合、裁判により決定された額は、その25%を日本国がその75%を合衆国が分担する」と規定している。

 確定している八件の訴訟の損害賠償額は総額百二十二億円に上り、これまで、日本側が全額を支払った後、米側に75%の負担分を請求している。しかし、交渉が難航し、米側が支払いを免れている状況が続いている。

 「普天間爆音訴訟」弁護団の新垣勉団長は判決後の記者会見で、「米国に請求したが拒絶され、そのまま宙に浮いた状態が続いているという非常に残念な状況がある。問題は非常に深刻だ」と指摘。その上で「日米両政府が共同の加害者であり、それぞれの責任を背負ってその血税で賄うべきだ」と訴えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806271300_02.html

 

沖縄タイムス 社説(2008年6月27日朝刊)

[普天間爆音訴訟]

事態の改善促す判決だ

 一九九六年三月六日、日米両政府の高官が米軍ヘリ三機に分乗し、空から普天間飛行場を視察した。日米両政府が普天間飛行場の危険性や住民負担を認め、返還を発表したのはその一カ月後である。

 返還合意から十二年。一向に改善されない現実を司法はどう判断したのだろうか。

 普天間爆音訴訟の判決で那覇地裁沖縄支部は、「うるささ指数(W値)」七五以上の地域に住む原告について、睡眠妨害などの身体的、精神的苦痛を受けていることを認め、国に約一億四千六百万円の賠償を命じた。

 米軍のヘリ騒音に対し、W値七五以上の違法性が初めて認められた意義は決して小さくない。

 判決は「消音装置の設置や運航対策も現実的な効果が十分とは認められない」と指摘。沖縄国際大学構内へのヘリ墜落事故にも触れ、「墜落の不安や恐怖で精神的被害を著しく増大させている」と指弾している。

 周辺住民の悲痛な叫びを一部くみ取った判決であることは間違いない。国側が主張した「危険への接近」を退けたことも、沖縄の事情を踏まえた妥当な判断だといえる。

 ただ、判決の全体は、決して満足できるものではない。

 深夜・早朝の飛行差し止めについて判決は「第三者行為論」を採用し、原告の要求を退けた。政府は米軍の活動を制限できる立場にないという理屈である。これまでの爆音訴訟の流れに沿ったものだ。逆に言えば、今回も、そこから一歩も踏み出すことができなかったのである。

 裁判の中で原告は、騒音測定を義務付けることを国に求めた。

 実効性のある騒音対策を進めるには、その前提として、きちんとした騒音測定が必要なのは言うまでもない。騒音測定の義務化を盛り込んだことは、普天間爆音訴訟の大きな特徴でもあった。

 だが、判決は、請求の理由がない、とこれを退けている。その理由がとても分かりづらい。W値七五以上の違法性を認めながら、騒音測定の義務付けを認めないというのは、そもそも矛盾した判断ではないのか。

 ヘリ特有の低周波音による健康被害については、不快感などの精神的苦痛を受けている者が多数いることを事実上認めた。

 ただ、住民全体に共通する被害要因としては認めていない。精神的被害をどう算定するか、大きな課題を残したといえる。

 仲井真弘多知事が判決前に語った言葉は問題の核心を突いている。産業プラントに例えて知事は「普通なら問題があると分かれば止めるか、運転レベルを落とす」と指摘した。実際はどうか。

 国は二〇〇七年八月、米軍と協議し、住宅密集地をなるべく通らない新たな飛行ルート案を決めたが、「ほとんど守られていない」(宜野湾市の担当者)という。

 危険性の除去という切実な課題は手つかずの状態だ。政府は判決を真摯に受け止め、「騒音対策」や「危険性の除去」にこれまで以上に力を入れなければならない。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080627.html#no_1

 

琉球新報 社説

普天間爆音判決 「静かな日々」戻らず/安心できる環境改善望む 2008年6月27日

 安心して暮らせる、静かな日々を求める訴訟は、最大争点の深夜や早朝の飛行差し止め請求が棄却された。これまでの騒音訴訟と同様、国の支配が及ばない「第三者行為論」を理由に退け、「危険の除去」を求めた住民の願いはかなわなかった。

 宜野湾市の中心部にあり、住宅地と隣接する米軍普天間飛行場は、2003年に当時の国防長官、ラムズフェルド氏すら危険性を指摘した沖縄の過重な基地負担の象徴だ。提訴から5年8カ月の歳月は、訴訟を起こした住民約400人のみならず、爆音下に暮らすそのほかの宜野湾市民や、同飛行場への進入路延長線上にある浦添、沖縄、北谷各市町の住民にとっても長すぎる日々だったに違いない。

守られない場周経路

 一方、騒音に対する我慢の限度を超えているとして、うるささ指数(WECPNL、W値)75以上に対しては、過去分で総額約1億4000万円の損害賠償を国に命じた。市街地に立地する普天間飛行場の騒音を裁判所として初めて違法と認めたことは、評価できる。

 04年の沖縄国際大へのヘリコプター墜落事故を契機に、国は飛行ルートについて住宅密集地をなるべく通らないよう米側と合意した。しかし、場周経路は守られず、

市全域を米軍機が飛ぶ現実が続く。

 判決では「消音装置の設置や運航対策も現実的な効果が十分とは認められない」と指摘し、一層の対策を求める。静かな生活を求める住民に対し、より現実的な効果をもたらす対策は重要だ。

 現行の爆音被害の基準はW値のみだ。その指数についても、これまで訴える側が測定し、証明してきた。訴訟では、騒音測定を国に義務付けるよう求めたが、司法は騒音測定の義務化は命じなかった。

 W値については、新嘉手納爆音訴訟で75、80が被害認定から外された。騒音測定で国と県の違いが明らかになり、より多角的で正確な騒音調査の必要性が求められる。

 被害認定で、焦点となっていたヘリコプター特有の低周波音被害については認めなかった。「低周波音によりイライラ感、不快感の精神的苦痛を受けている者が多数いると推認できる」としながらも「原告全員が最低限等しくこのような精神的苦痛を受けていると認めることまではできない」とした。

 07年6月に裁判所が行った現場検証で測定された低周波音は、環境省の参照値を超える数値が測定された。低周波音は、人間の耳には聞こえにくいが、音を感じなくても頭痛や吐き気、耳鳴りでイライラや不眠など人体に影響を与えるとされる。

 環境省の「低周波音への苦情のための参照値」によると、心身に苦痛をもたらす低周波音レベルは92デシベル。現場検証では、調査地点4カ所のうち、3カ所で92デシベルを超え、最大では97・5デシベルだった。

低周波音被害明確に

 現場検証を踏まえ、司法は低周波音について精神的苦痛を受けている住民が「多数いると推認できる」として、その問題点を認めたことは一歩前進だ。科学的に被害を明確にする契機にしたい。

 狭い県土の上、基地があるため居住区域は限られている。国が主張した「危険への接近」法理について司法は「沖縄本島において居住地を選択する幅が限られている事情があり、普天間飛行場周辺の歴史的事情が地元回帰意識を強いものとしている」として退けた。「転居の理由、周辺に存在していることによって得られる利益を期待しているとはいえない」とする司法の判断は、当を得ている。

 「普天間飛行場の設置または管理に瑕疵(かし)がある」として爆音による精神的被害を認めた判決だが、原告団は「飛行差し止めがされなかったことは、被害をずっと受けるということ。差し止めをせず、単に金を払えばいいという考えは原告団として受け入れられない」と控訴を検討する。

 精神的苦痛を認めた判決は、一定の評価ができる。が、住民が耐えてきた最低限の要求が認められたにすぎない。日米両政府が普天間飛行場の返還に合意して12年。移設先の滑走路建設位置をめぐり、政府と県が対立し、14年の移設完了は厳しい。ヘリ墜落事故への不安は一向に解消されない中、返還が先延ばしになれば、住民の安全な暮らしは遠のくばかりだ。この現実を日米両政府はしっかり受け止めてもらいたい。安心できる環境改善に向け、日米の協議を望む。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-133549-storytopic-11.html

 

2008年6月27日(金) 夕刊 6面

沖合移動案に難色/西銘議員にヒル米部長

 【東京】訪米中の西銘恒三郎衆院議員(自民)は現地時間の二十六日午後(日本時間二十七日未明)、米国防総省でジョン・ヒル東アジア担当筆頭部長らと面談し、米軍普天間飛行場の移設問題などで意見を交換した。

 西銘氏は面談で、米軍普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブ沿岸部移設をめぐり、仲井真弘多知事が代替施設案(V字案)の沖合移動を求めていることなどを伝えた。

 西銘氏によると、ヒル部長は「日米両政府で合意したものを動かそうとすると、さまざまな問題が出てきかねない」と述べ、合意案の修正に難色を示したという

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806271700_06.html

 

2008年6月28日(土) 朝刊 2面

県「最も沖合」案推進/那覇空港滑走路

2本間隔1310メートル以上

 那覇空港拡張整備促進連盟(会長・知念榮治県経営者協会長)の二〇〇八年度総会が二十七日、那覇市内のホテルで開かれた。県の上原良幸企画部長は、那覇空港の滑走路増設について「(現在の滑走路から沖合に)千三百十メートル以上を確保したい、というスタンスだ」と述べ、那覇空港の将来の方策を検討する総合調査ステップ3で示された三案のうち、最も沖合に建設する案を推進する考えを明言した。

 国際民間航空機関(ICAO)は、二本の平行滑走路を持つ空港が同時離陸・同時着陸の独立した飛行管制をする場合、滑走路の間隔を一千三百十メートル以上開ける「オープンパラレル」にすることを義務付けている。上原部長の発言は、オープンパラレル滑走路の必要性を念頭に置いたものだ。

 仲里全輝副知事も「国には、『なるべく経費が安い案で』という意見もあるようだが、二十年、三十年、百年先を見据えた空港の在り方が求められる」と述べた。

 知念会長は、滑走路増設が調査段階から具体案の絞り込みを目指す構想・施設計画段階に移ったことを「私どもの活動の大きな成果だ」と評価。〇八年度の活動では「シンポジウムやPRで県民の意識と機運を高め、国への要請も積極的に行いたい」と意欲を示した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806281300_01.html

 

2008年6月28日(土) 朝刊 27面

「政府は米国意識」/米兵事件抗議

実行委、回答を批判

 「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」実行委員会(玉寄哲永委員長)は二十七日、県選出の野党国会議員が連名で提出した質問主意書への政府回答についての報告会見を県庁で開いた。

 質問主意書は、衆院の照屋寛徳(社民)、赤嶺政賢(共産)、下地幹郎(無所属)、参院の山内徳信(社民)、喜納昌吉(民主)、糸数慶子(無所属)の六氏が今月、連名で提出。三月の県民大会で決議された「日米地位協定の抜本改正」などについて、「実行委が求めた政府からの回がない」などとただした。

 これに対し、政府は「運用改善で機敏に対応していく」との従来見解を閣議決定して回答した。

 玉寄委員長は「回答の内容は相変わらず。県民ではなく米国を向いて仕事をしていることがあらためてはっきりした」と政府を批判。一方で「野党議員の共闘により、これまでは『伝えて終わり』だった要請行動で、政府からきちんと回答を得ることができた」と笑顔も見せた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806281300_04.html

 

2008年6月29日(日) 朝刊 2面

「集団自決」継承に危機感/東京でシンポ

 【東京】沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」訴訟やNHK番組改変訴訟を通し、メディアと権力の問題点を考えるシンポジウム(主催・日本ペンクラブ女性作家委員会など)が28日、都内であった。女性史家の宮城晴美さんや関東学院大の林博史教授(現代史)らが表現の在り方などについて意見交換した。

 宮城さんは「『集団自決』や慰安婦の問題も、私たちが映像や活字できちんと伝えていかないと十年後はどうなるのか」と危機感を訴え、若い世代への継承の重要性を指摘した。

 研究分野の現状について林教授は「問題意識を持って膨大な資料を調べる人がいない。学会でも取り上げられず、専任教員のポストもない。後継者が育っていない」とし、教育現場でも将来的な不安があるとの認識を示した。

 宮城さんは「『集団自決』に大きな影響を与えたと思う家父長制度の論理は、皇民化教育の中で育ったのか」と林教授に質問。林教授は「中等教育を受けた十代の女性層の意識は皇民化教育と言っていい。しかし『集団自決』を受け入れる心情は階層、年代、教育歴などによって異なり、丁寧に検証すべきだ」とした。

 「戦争と女性への暴力」日本ネットワークの西野瑠美子共同代表も、権力の圧力と自己規制について意見を述べ、放送現場の「表現の自由」と「市民の知る権利」が侵害されたと訴えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806291300_04.html

 

2008年6月30日(月) 朝刊 19面

ヘリパッド移設阻止誓う/東村高江区 座り込み1年

 【東】北部訓練場の一部返還に伴うヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)移設工事に反対する東村高江区の住民らによる「座り込み一周年報告会」(主催・ヘリパッドいらない住民の会)が二十九日、村農民研修施設で開かれた。村内外から約三百五十人(主催者発表)が集まり、阻止行動の継続と支援を誓った。座り込みを始めて七月二日で一年となるのを前に行われた。

 同会の安次嶺現達共同代表は「わずか百六十人の集落をヘリパッドが取り囲むと、高江が消えてしまう。私たちが今必要としているのは人。皆さんと力を合わせたい」と呼び掛けた。座り込み参加者らによるリレートークでは「高江の心を伝えきれずに沖縄の心は伝えきれない」「子どもたちにヘリが飛び交う森を残したくない」などの意見が相次いだ。会では、座り込み参加者が延べ人数で七千人を超えたこと、ヘリパッドの建設即時中止を求める署名が約二万四千人分集まったことも報告された。

 沖縄防衛局は、三―六月は希少鳥類の繁殖期に当たるとし、工事を中断しており、七月に再開する見通し。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806301300_01.html

 

2008年6月30日(月) 朝刊 19面

基地・検定問題 県民の協力訴え/宜野湾で6・29連帯の集い

 新基地建設反対や教科書検定意見撤回を求める「6・29連帯の集い」(主催・同実行委員会)が二十九日、宜野湾市内で開かれ、基地移設先の住民や、「集団自決(強制集団死)」体験者が登壇し、思いを語った。

 七月にヘリパッド移設工事の再開が予定される東村高江区の住民は「区民で賛成者はいないが、同じ反対でも、手法や考え方で温度差があり、公に話すのが難しくなった」と、小さな集落の複雑な住民感情を吐露した。一方で、集落から最短四百メートル、周辺六カ所にヘリパッドが移設されることを挙げ、「辺野古の新基地と連動して使用されれば、住めなくなってしまう。どうすればいいか本当に困っている」と訴えた。

 北谷町砂辺区の松田正二区長は、「基地外住宅」について、砂辺区民九百七十七世帯に対し、米軍関係者は新築分を含め千世帯を超える可能性もあると説明。「子どもたちに負の遺産を残してはいけない。区民が怒り、声を上げたことで、国会でも取り上げられている。今後も県民の力を貸してほしい」と要望した。

 また「集団自決」体験者の與儀九英さん(79)が「体験者が語ることこそが事実。そこから本質を見なければならない」と述べた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806301300_02.html

 

2008年6月30日(月) 朝刊 18面

島田元知事の顕彰碑を建立/母校が創立100周年で

 戦時下最後の沖縄県知事、故・島田叡さんの母校旧制神戸二中(現・県立兵庫高校)創立百周年事業で建てられた「島田叡氏顕彰碑」の除幕式が二十八日、糸満市の平和祈念公園内で行われた。兵庫、沖縄両県の関係者約八十人が出席した。顕彰碑は戦没県職員を祭った島守の塔前に建立。同校同窓会有志が中心となり、実現した。

 兵庫沖縄友愛運動県民の会も寄付金集めなどに協力した。

 除幕式で仲井真弘多県知事(仲里全輝副知事代読)は「両県民の平和への思いが一つであることを再確認できて、感慨深い」とあいさつ。兵庫県の齋藤富雄副知事は「戦争を知らない世代が増えている中で、意義深い。島田元知事の功績を美化するのではなく、世界平和を一緒に考える機会にしたい」と述べた。

 同窓生で発起人代表の富田和雄さんは、戦時下で食糧確保や住民の疎開に尽力した島田さんの功績を紹介した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806301300_07.html

 

2008年6月30日(月) 夕刊 1面

500人が追悼 平和の鐘響く/宮森小 米軍ジェット機墜落から49年

 【うるま】児童十一人を含む計十七人が犠牲になった旧石川市立宮森小学校の米軍ジェット機墜落事故から四十九年目の六月三十日午前、犠牲者のみ霊を慰める追悼集会がうるま市石川の同校で開かれ、同校の児童や関係者ら約五百人が参加した。

 参加者は、事故で亡くなった十一人の児童をまつる「仲よし地蔵」の前に花と千羽鶴を手向けて、手を合わせた。

 事故の再発防止と世界平和を願う平和の鐘を鳴らした後、静かに黙とう。六年生が「平和な沖縄をつくり、平和の心を磨きたい」と誓いを立てた。

 米軍ジェット機の墜落事故は、一九五九年六月三十日午前十時半ごろ、児童が給食のミルクを飲もうと準備している最中に発生した。

 宮森小学校の卒業生で、二年生の時に墜落事故を体験した平良嘉男校長(56)は「今でも世界では戦争で多くの人が亡くなっている。戦争のない、平和をつくる人になってほしい」と全児童に呼び掛けた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806301700_07.html

「慰霊の日」沖縄戦犠牲者悼む 島抱く平和の祈り/各地で慰霊祭 など 沖縄タイムス関連記事・社説、琉球新報 社説(6月22日から24日)

2008年6月22日(日) 朝刊 23面

沖大50年シンポ/戦世と今 結ぶ視点必要

 沖縄をめぐる問題について考える沖縄大学の創立五十周年記念シンポ「いま、沖縄に何が問われているか」(主催・沖縄大学)が二十一日、那覇市の同大学で開かれた。新崎盛暉・同大名誉教授をコーディネーターに、登壇した新聞記者三人が、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定や米軍再編、基地と振興策などの問題を議論した。

 「集団自決」の体験者への取材を続ける沖縄タイムスの謝花直美編集委員は、「幼いとき、日本軍による住民虐殺の話を聞き、戦争では子どもであり女性である自分のような『社会的弱者』が真っ先に死ぬと感じていた」と取材の動機を説明。「沖縄戦で普通の暮らしがいかに奪われたのかを押さえることが、軍事支配に気付き、いかに脱するかを考えることにつながっていく」と述べた。

 一方、「沖縄戦から今の沖縄へつながるものを、社会がまだ語り切れていないとも感じる。両者をどう結び付けるのか。憲法九条と基地の問題など、語るべき視点を獲得していくことが今後の課題になる」と語った。

 琉球新報の松元剛・整理部副部長は、米軍再編協議における沖縄と本土との意識の差を指摘。「この十年で沖縄を理解する政治家や官僚が引退し、政府の空気が変化している。一方で沖縄は戦略論を打ち出せず、『周回遅れ』との指摘もある」として「沖縄の発信力が試されている」と話した。

 基地経済からの脱却について語った同社の前泊博盛・論説副委員長は「自前の振興計画を作っていないのは全国で沖縄県だけ。政府から計画を押し付けられるのではなく、そろそろ自前で考えるべきだ」と指摘した。

 「何でもかんでもそろえるという閉鎖的な経済的自立は必要ない。何かに特化して世界経済のネットワークに参加していけばいい」と提言した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806221300_01.html

 

2008年6月22日(日) 朝刊 23面

特攻受けた米艦船 今も/慶良間沖 水深40メートル

 沖縄戦で米軍が最初に上陸した慶良間諸島。今でも、その海底には六十三年前の戦車揚陸艦(LST―447)が眠っている。米海軍歴史センターのホームページによると一九四五年四月七日に「カミカゼ アタック」(特攻)により沈んだという。

 約三十年前に漁師の金城吉克さん(55)が操業中、外地島の南側海域で魚群探知機で発見。大物が揚がる場所だったため、秘密にしていたという。

 その記憶を基に、五月、グランブルーマリンクラブ(山川勝章代表)のスタッフが、同ポイントを調査。船底を上にし、後方部分のみが残る船体を水深四〇メートルの海底で確認した。

 ガイドダイバーの竹内敦さんは「インターネットで調べたら多くの情報が出ている。この船と沈めた特攻隊員の物語が、もっとありそうだ。水深もあり、流れが速く危険なため、ダイビングポイントには難しいだろう」と話す。

 戦後のスクラップブームでほとんどの沈没船は引き揚げられたが、深場には、まだ、巨体が横たわっているかもしれない。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806221300_02.html

 

2008年6月22日(日) 朝刊 2面

国会閉幕/米兵事件めぐり 地位協定で激論

 【東京】首相問責決議が参院で、信任決議が衆院でそれぞれ可決されるなど与野党の激しい攻防が繰り広げられた第百六十九回通常国会が二十一日、閉会した。沖縄関係では、今年二月の米兵暴行事件を機に、民主など野党三党が日米地位協定の改定案を独自にまとめ、激しい論戦を繰り広げた。

 米兵暴行事件を受け、民主、社民、国民新の野党三党は三月末、(1)起訴前の身柄引き渡し要請に対する米軍の同意(2)施設返還時の環境汚染浄化は米国の責任―などを柱とした地位協定改定案をまとめた。

 国会でも、野党議員から地位協定改定を訴える指摘が相次いだ。しかし、政府は「考えていない。地位協定がある中で、いかに運用を改善するかということに力を入れている」(福田康夫首相)などと、消極的な答弁に終始した。

 野党の一部で、地位協定改定を求める国会決議を野党多数の参院で採決することを目指す動きもあったが、他の重要法案の審議の影響で、同国会での提出は見送られた。

 一方、Yナンバー車の登録の際に求められる車庫証明書について、今年一―三月の間に県内で登録されたYナンバー車三千三十九台中、車庫証明書が提出されたのは四台しかなかった問題も取り上げられた。

 外務省の西宮伸一北米局長は五月の参院外交防衛委員会で、同問題を協議する日米合同委員会の特別分科委員会が二〇〇四年八月三十一日以来、一度も開かれていないことを認めた。これを踏まえ、高村正彦外相は「日米合意が守られるよう努力する」と述べた。

 同委員会では、米軍横田基地がホームページに掲載している基地内のレンタカーサービスに関する紹介で、「レンタル料を支払えば、日本国内におけるほとんどの高速料金を支払わずに済む」として利用を呼び掛けていたことも判明。娯楽目的でも有料道路使用料を免れていた疑いが強まった。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806221300_03.html

 

2008年6月22日(日) 朝刊 22面

トーク「画家たちの戦争・表現」/鎮魂 芸術性を追求

 戦中戦後の激動期に絵を描き続けた画家たちの思いを、その遺族が語るアートトーク「画家たちの戦争体験と表現」が二十一日、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館講堂で開かれた。県出身の画家、山田真山、安次嶺金正、大嶺政敏、山元恵一の遺族が登壇、父親や夫の戦争体験や作品に込めた思いを語った。

 現在、同館で開催中の沖縄タイムス創刊六十周年企画「情熱と戦争の狭間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」(主催・文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館、共催・沖縄タイムス社)の関連イベント。

 山田昇作さんは父・真山が描いた、沖縄戦の戦火から逃げ惑う母子の作品に対し「亡くなった人びとへの鎮魂と、未来永劫に平和を伝えたい気持ちが込められている。その思いが、平和祈念像の制作にも結び付いた」と語った。

 戦前から東京で教職に就きながら絵を描いた大嶺政敏の三男の隆さんは「戦時中はすべての人が戦争に駆り立てられた。そのような中でも、父は芸術的な主張を貫いた」と語った。

 安次嶺金正の長女・宮里正子さんは父との思い出を、山元恵一さんの妻・文子さんは夫婦それぞれの戦争体験を語り、作品の背景を紹介した。同展は二十九日まで。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806221300_05.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 1面

きょう「慰霊の日」 沖縄戦犠牲者悼む

 きょう二十三日は「慰霊の日」。太平洋戦争末期の一九四五年、住民を巻き込んだ地上戦となった沖縄戦で、旧日本軍の組織的戦闘が終結した日から六十三年。県民の四人に一人ともいわれる犠牲者を悼み、多くの命を奪った史上最悪の経験から学び、平和を希求する日として、県内各地で慰霊祭が執り行われる。

 戦争体験の風化が進む中、軍隊や戦争を正当化する動きが、国内で活発になっている。

 文部科学省は昨年三月、二〇〇八年度から使用される高校の日本史教科書から沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に対する日本軍の強制を示す記述を削除させた。

 昨年九月に約十一万人規模の県民大会が開かれ、文科省へ削除撤回を要求。文科省は日本軍の関与の記述復活を認めたものの、「強制」については依然削除されたままだ。

 文科省の教科書問題をめぐっては、〇六年用中学歴史教科書検定で「従軍慰安婦」や「住民虐殺」の記述が消えるなど、戦場における軍隊の加害性についての削除が相次いでいる。

 糸満市の平和祈念公園ではきょう、沖縄全戦没者追悼式典が行われる。福田康夫首相は就任後初の参列。仲井真弘多県知事は平和宣言を行う。関係者らが列席し、正午の時報とともにすべてのみ霊に黙とうをささげる。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_02.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 21面

追悼の火 消すまい/慰霊祭継続 同窓会が模索

 多くの命が失われた沖縄戦から六十三年がたち、各地で慰霊祭を行う遺族会や学徒の同窓会などは確実に高齢化が進んでいる。会の解散が日程に上ったり、すでに解散したりしている会もある。無念の思いを抱いて逝った犠牲者への追悼の思いを若い世代や関係者以外に広げ、慰霊祭をどう引き継ぐか、各団体は方法を模索している。

 沖縄戦で廃校になった県立農林学校の同窓会は来年十一月に法人としては解散することが決まっている。

 数年前から活動の足跡を残そうと準備してきた。記念誌のほか今年と来年は、慰霊祭の様子をビデオ撮影し記録を残そうと計画している。事務局の知念正喜さん(78)は「同窓会がなくなるのは寂しいが、慰霊祭をどうにか継続できる方法を探った」と話す。同窓会の財産で最後に残った「農林健児之塔」とその土地を嘉手納町に寄付し、町が慰霊祭の告知やテント設営などを行う方向で検討している。

 同じく戦争で廃校になった旧県立首里高等女学校同窓会の瑞泉同窓会も、会員の高齢化と減少に悩む。塔の維持管理などのために「サポート会」を立ち上げる。具体的なサポートの形を含め、内容は検討中だが、県外など各地から六十人余りがすでに登録しているという。

 新元貞子同窓会長(83)は「同窓会はなくなっても慰霊塔だけはいつまでも語り継ぎ、火を消さないようやってほしい」と思いを語り、サポート会の今後に期待する。

 沖縄戦で亡くなった県職員の遺族や当時の職員で構成する「島守の会」は、「島守の塔」建立までの経緯や戦争体験者の証言を収録したDVDを今年完成させた。映像を見た遺族の孫世代から「感動した。会の活動にもっと積極的に参加したい」との声が寄せられたという。まだ先行きは見えないが、少しずつでも状況を好転させたいと望みをつないでいる。


本音で議論 風化防ごう

首里高養秀会が訴え


 首里高校養秀同窓会が三年前に開設した「一中学徒隊資料展示室」は、今年に入り、近隣学校の平和学習を除いても、これまでの三倍、月三十人以上が来館するようになった。だが、大浦敬文事務局長(58)は「ブーム的な側面もある。心から何かを感じているように見えない人も多い」と危機感を募らせる。

 首里高校の卒業生がかかわるため、会存続に心配はない。ただ、本当の意味で歴史を継承するには、若い世代が、自分の人生と重ね合わせられる「精神性」が必要と考える。「親族でも数十年で記憶は色あせる。顔も知らない先輩ならなおさらだ。人間の生き方、沖縄の在り方を問い掛けるものにしなければ、風化は防げない」

 普遍的なテーマを発信するため、「体験者が残したいもの、わたしたちが心動かされるものを、本音で議論する必要がある。戦争を知らないから、と遠慮していたら、体験者が居なくなったとき、語るべきものがなくなってしまう」と訴えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_03.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 21面

再開発区に遺骨次々/市民団体・市が収集

 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」(具志堅〓松代表)は二十二日、那覇市と連携して、同市の真嘉比小学校近くの土地区画整理地区で遺骨を収集した。真嘉比地区の住民ら約五十人が参加。行政と市民団体が連携しての収集は初めてで、大腿骨や鎖骨などが次々見つかった。

 作業開始から一時間半が過ぎたころ、男性の右大腿骨が土の中から姿を現した。ボランティアが周辺をスコップやつるはしで掘り進めると、「こっちも出た」。右の鎖骨や上腕骨が次々と見つかった。

 具志堅代表(54)は「沖縄戦の遺骨に間違いない。このぐらい(全身が)つながった状態で出るのは珍しい」と語る。

 遺骨脇から拾った、弾薬の一部とみられるさびた金属片を持ち、「この破片で死んだのかな。認識票が出てくれば身元が分かるのに…」と、しみじみとつぶやいた。

 同地区は新都心地区のシュガーローフと同様に、日本軍の支援陣地があった激戦地。昨年十一月から試掘を進める具志堅代表によると、今なお多くの戦没者の遺骨が眠っているという。再開発が進む中、「市内では遺骨収集ができる最後の場所だろう」と強調する。

 琉球大学工学部の高橋弘治さん(24)は、「壕の周りを掘ると普通に遺骨が出てきて、生々しさを感じた」と驚き、「慰霊の日は大切だが、ほかの日にも戦争は起こっていたということを忘れてはいけない」と言葉に力を込めた。

※(注=〓は「隆」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_04.html

 

2008年6月23日(月) 朝刊 20面

沖縄戦 未公開映像を上映/県公文書館が入手

 沖縄戦当時、米軍が撮影した映像資料の映写会が二十二日、南風原町の県公文書館であった。同館が米国立公文書館から入手した未公開映像もあり、集まった約百人の市民がスクリーンに目を凝らした。同館はこれまでに公開されている映像のほか、特に住民が映った未公開のカラー映像も二十二分に編集して上映。無声映像には県立真和志高校放送部の生徒五人がナレーションをつけた。

 画面には、橋の下から投降する一家、集落に火を放つ米兵、サトウキビ畑でさく裂する砲弾などが次々と映された。本島で見つかった十代の少女は片足を切断されており、米兵が「撤退を拒否したため日本兵に切られた」と書かれた英文メモをカメラに差し出すシーンも。

 南風原町新川の女性(80)は「映像がきれいで、あの時そのままだった」と話し、何度も涙をぬぐった。当時十七歳。「家族とともに毎日歩いて逃げて、何日歩いたか分からない。砲弾が落ちて、二人の弟も死んで、遺体もそのままで…。あの日のことは忘れようがない」と話した。

 放送部部長の座波友里恵さん(三年)は「映像で見る戦争は強烈でリアルで、どうやって気持ちを込めるか難しかった。その場にいるように語ろうと思うほど、恐ろしさを感じた」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231300_05.html

 

沖縄タイムス 社説(2008年6月23日朝刊)

[きょう「慰霊の日」]

バトンは私たちの手に


 梅雨が明けた週末、糸満市摩文仁の「平和の礎」に足を運んだ。戦没者の名を刻んだ碑を前に、花を供え手を合わせる人の姿があちこちに見られた。

 きょうは「慰霊の日」。戦後六十三年。命からがら戦火をくぐり抜けた人々にとって、肉親や学友を失った悲しみが薄まる歳月ではあるまい。暑い日差しの中で、碑を見つめ、いとおしむように名前をなぞる高齢者が目立った。

 「礎」には二〇〇八年六月現在、県民が十四万九千百三十人、県外七万七千三十三人、米国一万四千九人、韓国三百六十四人など、合わせて二十四万七百三十四人の犠牲者の名が記されている。

 一九九五年に完成後、毎年名前が刻まれており、今年も県内四十二人、県外七十二人など計百二十八人が追加刻銘された。六十年を超えてなお掘り起こされる事実は、戦争は決して終わることのない惨禍だ、と教えてくれる。

 沖縄は昨年来、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する高校歴史教科書検定問題で揺れている。その中で、誰にも話したことのない忌まわしい記憶を、語り始めた体験者たちがいる。自らの体験と周りの証言を重ね合わせることで、初めて自分の記憶の本当の意味を知る人もいる。

 教科書検定問題で、文部科学省は「集団自決」について、軍の関与を示す記述の復活は認めた。が、「軍の強制」という表現は、どの教科書にも盛り込まれなかった。

 体験者たちが、絞り出すように語り始めた背景には、多くの人々の身を削るような証言を顧みない動きに対する怒りがある。

 戦争体験者が語る一方で、戦争を知らない世代はどうだろう。沖縄戦に関する各資料館では、県外の学生が目立つのに比べ、県内の学生の姿は少ないと聞く。

 戦争体験を「知る」ことは難しいことではないが、それを「自分のこととして受け止め、考える」には歴史に対する謙虚さと想像力が必要だ。

 沖縄全戦没者追悼式では読谷小四年生の嘉納英佑君(10)が「世界を見つめる目」との題で平和の詩を朗読する。嘉納君は、普段から祖父母の体験談を聞き、親の話に耳を傾けてきた。肉親の痛みや苦しみに寄り添う中で、今の平和が掛け替えのないものだと知る。戦争がなくなり、皆が幸せになれるように「やさしい手とあたたかい心を持っていたい」と誓う。

 戦争を知らない世代には日常生活の中で、絶えず戦争と平和について考える持続力も求められる。

 宜野湾高校では「慰霊の日」を前に、女性史家の宮城晴美さんを招き講演会を開いた。三十代の教諭らは「戦争を知らない私たちが、言葉に重みを乗せて生徒に語るのは難しい。語り継いでいくためには学ぶしかない」と話す。

 戦争体験者は年々、少なくなる。戦争体験のない戦後世代が、さらに年少の世代に対して沖縄戦を語る時代がすでに始まっている。学校のみならず、家庭や地域で戦争について考える環境づくりが欠かせない。体験者自身も気付かなかった新しい事実を掘り起こす努力を続けよう。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080623.html#no_1

 

琉球新報 社説

慰霊の日 逃げ惑わない平穏な島に/語り継ぎたい沖縄戦の実相 2008年6月23日

 日米両軍が住民を巻き込み、激しい地上戦を繰り広げた沖縄戦から63年。おびただしい犠牲を払って得た教訓が十分に生かされず、頼みとする平和憲法に揺らぎも見える中で、沖縄は鎮魂の季節を迎えた。

追い詰められた住民

 沖縄での地上戦は太平洋戦争末期の1945年3月下旬、慶良間諸島で始まった。米軍が座間味、渡嘉敷両島に上陸し、捕らわれることを拒む住民が家族や親せき同士で命を絶つ「集団自決」が発生した。米軍に投降した住民が日本兵に殺害される事件も起きた。

 米軍は4月、沖縄本島や伊江島に進攻し、沖縄戦が本格化。地獄の戦場とも称される地上戦の最前線で、多くの住民が逃げ惑い、命を落とした。伊江島では「集団自決」を含め、住民の約半数に当たる約1500人が犠牲となった。

 沖縄守備軍・第32軍は5月下旬、首里司令部を放棄し、本島南部へ撤退した。南部の戦闘では日本兵が住民をスパイ視して殺害したり、壕からの追い出し、食料強奪などが発生。軍隊と混在する極限状態の中で、追い詰められた地域住民や、駆り出された学徒隊の悲劇は起きた。

 戦場では「人間として生きる」ことが、いかに難しいかがよく分かる。兵士に「規律」を求めること自体、無理があろう。「軍隊は住民を守らない」などと言われるゆえんだ。

 現代に生きる私たちは、こうした沖縄戦の実相を語り継ぐ責務がある。「負の遺産」であっても、目を背けてはいけない。被害の視点も、加害の視点もともに心に刻んでこそ、未来へとつながる。

 ただ、残念なことに、沖縄戦の実相を伝えることを拒むかのような動きがくすぶっている。教科書検定問題が顕著な例だ。文部科学省は昨年3月、高校歴史教科書で沖縄戦の「集団自決」を日本軍が強制したとする記述を退ける検定意見を公表。沖縄では同9月、これに抗議する大規模な県民大会が開催された。

 県民大会は超党派で開かれ、県知事も、県議会議長も参加した。検定意見の撤回要求は譲れない一線であり、県民の総意といっていいだろう。昨年末の検定審議会で一定の記述回復が図られ、決着した形だが、歴史観をめぐる論争はせめぎ合いが続く。

「声なき声」に耳を

 もうひとつ気になるのは国民保護法をめぐる動きだ。他国からの侵攻やテロなどの有事を想定し、住民の避難誘導などで被害を防ぐ目的の法律で、国と自治体による共同訓練が始まっている。民有地や家屋の使用など私権制限に踏み込んでいるのが特徴だが、軍事優先の印象は否めない。詰まるところ、沖縄戦とダブって見える。

 逃げる手だてを考え、訓練しておけば大丈夫という話ではあるまい。沖縄戦を教訓とするなら、まずは逃げ惑う必要のない平和で安定した国づくり、島づくりを考えるのが筋だろう。現状は「戦力の不保持」をうたった平和憲法の危機ともいえる。

 太平洋戦争で沖縄は、本土防衛の“捨て石”にされた。戦後、本土から切り離されて米国統治下に置かれ、復帰後も広大な米軍基地の重圧に悩まされている。憲法が保障する基本的人権など、どこへ行ったのかと思う。

 未曾有の戦禍を体験し、県民は「命どぅ宝」(命こそ宝)という言葉をかみしめた。もう逃げ惑わなくていい島に、人間の尊厳を守れる国に住みたいと思うのはごく自然ではないのか。

 沖縄戦の激戦地だった那覇新都心に近い丘の周辺で22日、平和学習の高校生ら市民が戦時中のものと思われる遺骨と遺品を見つけた。不発弾処理もそうだが、半世紀余を経て、戦後処理が終わっていないことを実感する。

 慰霊の日は、戦争さえなければ幸せな生涯を送れたであろう人々の「声なき声」に耳を澄まそう。惨禍を繰り返さない誓いを、一人一人が新たにしたい。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-133424-storytopic-11.html

 

2008年6月23日(月) 夕刊 1面

歴史の真実 後世に/慰霊の日 礎の銘に祈る遺族

 「慰霊の日」の二十三日、沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた。県内外から五千六百七十人の遺族らが参列し、沖縄戦の犠牲者らに祈りをささげた。参列者からは、歴史教科書の「集団自決(強制集団死)」問題のように、戦前回帰の動きが高まっていることに危機感を募らせる声が上がった。式典で仲井真弘多県知事は「沖縄、日本、世界の人々が安心して暮らせる平和な社会の実現を目指す」と平和宣言。河野洋平衆議院議長は「私たちは軍が沖縄の住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない、という疑念からも目をそらせてはならない」とし、米軍基地問題などに日本の政治の一層の努力を促した。

 河野議長は「在沖縄米軍基地の移転・縮小問題は、十分な成果を挙げるには程遠い状況にある。国家の指導部が戦争の早期終結を図ることができなかったことが、沖縄の大きな犠牲を生んだいきさつを考えると、日本の政治がこの解決に全力を傾けるべきことは自明のこと」と述べた。

 県議会の仲里利信議長は「多くの犠牲をはらって学んだ教訓を風化させることなく、平和と命の尊さを子々孫々に語り継ぐ」と式辞を述べた。

 県遺族連合会の仲宗根義尚会長は「『集団自決』は紛れもない真実であり、歴史的事実を正しく伝えることこそが平和建設にまい進する原動力」とあいさつした。

 嘉納英佑君=読谷小四年=は「世界を見つめる目」と題して、平和の詩を朗読し、「みんなが幸せになれるようにぼくは、世の中をしっかりと見つめ、世の中の声に耳を傾けたい」と決意を込めた。

 会場となった平和祈念公園では、戦没者約二十四万人を刻銘した「平和の礎」前で早朝から手を合わせて祈りをささげる遺族らの姿があった。

 豊見城市から参列した大城千代さん(68)は、糸満市真栄平の壕の前で砲撃に遭って亡くなった両親や兄弟の名前をなぞりながら、「家族に続いて日本兵が壕に入った直後、砲弾がさく裂した。母や兄弟はその場で犠牲になったが、私は日本兵の下敷きになって助かった」と振り返った。「『集団自決』をはじめ、戦争での死を美化する考えは怖い。戦争はむごく、二度と起こしてはならないものだ」と強く語った。


「沖縄の苦難 忘れぬ」

福田首相 戦没者へ献花


 福田康夫首相は二十三日午後、米軍普天間飛行場の移設問題で県と名護市が代替施設の沖合移動を求めていることへの対応について「地元の意向は大変に大事だ」と述べ、沖縄側の意向を尊重する姿勢を強調した。沖縄全戦没者追悼式に出席後、記者団の質問に答えた。

 福田首相は普天間移設で「いま環境アセスメントをやっているし、協議会という場もある。仲井真弘多知事や島袋吉和名護市長と話し合いをし、納得できる線を出していかなければ」とし、県や名護市と協議を継続する考えをあらためて示した。

 追悼式への参列について「沖縄の方々が苦難の時を過ごされたことは、私たち日本人は決して忘れてはいけない。しっかり歴史の事実を伝えていく責任がある」と述べた。

[ことば]

 沖縄戦 太平洋戦争末期に沖縄本島や周辺の島々で展開された。住民も戦場に駆り出され、日米の軍人を含め20万人以上が犠牲になった。各地で日本軍による住民殺害や「集団自決(強制集団死)」も発生。日本軍は首里の司令部を放棄し、本島南部へ撤退した。6月23日に日本軍を指揮した第三二軍の牛島満司令官が自決し、組織的な戦闘は終わったとされる。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231700_01.html

 

2008年6月23日(月) 夕刊 5面

癒えぬ戦世の傷/刻銘清め 亡き姿に涙

 慰霊の日の二十三日、糸満市摩文仁の平和の礎や同市米須の魂魄の塔には早朝から大勢の人が訪れ、花を手向けた。礎では、初めて刻まれた名前に手を合わせる遺族の姿もあった。沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定問題など、過去の戦争を美化する動きに危機感を示す声もあった。朝から照りつける太陽の下、六十三年たってなお消えない悲しみが辺りを包んだ。

平和の礎


 平和の礎には続々と遺族や関係者が訪れて、刻銘された名前をふき清めたり、果物やお菓子など供え物をして手を合わせていた。

 戦後、シベリア抑留中に亡くなった兄の盛孝さん(享年22)の参拝に来た那覇市の金城清政さん(77)は、憲法改正手続きを定める国民投票法成立などの動きを、「戦争のころに戻っていくような気がする」と憂う。

 刻銘された、いとこの上原辰也さんの名前に「ごめんなさいね」と涙を流しながら酒をかけていた垣花ツヤ子さん(72)=宜野湾市。妹のようにかわいがってくれた優しい人だった。戦時中、上原さんの両親は外国や本土に行っており、親族が誰も知らない間に、召集され、その後、どこで亡くなったかも分からない。「遺族にとって悲しさは、ずっと変わらない。誰も知らずに動員され、戦死したいとこが、安らかに眠れる世の中になってほしい」と声を詰まらせた。

 防衛隊に召集された父親と兄、姉を亡くした玉那覇兼三さん(69)=那覇市=は、戦後二年目に母親も亡くし、残されたきょうだい二人で戦後を生きた。「戦争がなければ両親や兄、姉も死なず、家族は幸せだったはず、といつも思っていた。二度と戦争が起きないようにするのが自分たちの務めだと思う」と汗をぬぐった。

 登川ヨシ子さん(73)=那覇市若狭=は「慰霊の日には毎年、長い時間兄の名と向き合って話をして、一緒に過ごしていたときの楽しい時間を思い出す。戦後、兄の同僚から真壁で苦しんで亡くなったという話を聞いた。結婚後わずか三カ月だった。兄のことを思うと心が苦しい。子や孫にこんな思いをさせない時代が続いてほしい」と話した。

 金城盛一さん(65)=糸満市真壁。「二歳の時に父親が亡くなった。顔もほとんど覚えていないが、毎年参拝に来る。本当は父に甘えたかったし、話もしたかった。刻まれた名を見るたびに残念に思う。二度と戦争を起こしてはいけない」。


魂魄の塔

遺族ら献花絶えず


 「魂魄の塔」には、早朝から遺族が絶え間なく訪れ、献花や祈りをささげた。つえをついて足を引きずりながら参列するお年寄り。病気などで足を運べなかった祖父母に代わり、花を手向け手を合わせる子や孫の姿が見られた。

 当時二十歳だった兄が南部で犠牲になったという那覇市の久高友蒲さん(77)は、遺骨のない兄の供養のため毎年訪れている。「兄は福岡の軍需工場で働いていて、沖縄に戻ってすぐに少年兵として召集され、糸満近くで亡くなったと聞いている。戦争は嫌いだ。戦争は人殺し。私自身も弟をおぶり首里から北部に向かって、迫撃砲の中を逃げ歩いた。戦争の怖さをいつになっても忘れない」と口元に力を込めた。

 娘と孫と訪れた与那原町の町田初子さん(77)は当時、糸満市米須近くの畑で作業中、たくさんの遺骨を収集し、魂魄の塔に納骨したという。「芋を掘ると、人の頭が出てきたが、怖いという気持ちはなかった。父も遺骨がなかったから、こんなふうだったのかな、と思いながら一生懸命拾った。これだけ拾ったから毎年来ないといけないさ、と人に言われて来ているよ」と話した。

 沖縄戦で家族四人を亡くした砂川吉子さん(71)=浦添市。南部に避難した際に爆弾の破片で母親ときょうだい二人を失った。当時七歳だった砂川さんは「泣いていいのか、何が何だか分からなかった」と振り返る。父親の亡くなった場所はいまだに分からず、十代のころから毎年魂魄の塔を訪れている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231700_02.html

 

2008年6月23日(月) 夕刊 5面

米軍兵長に有罪/タクシー襲撃

 沖縄市で今年三月、タクシー運転手が外国人少年らに襲われ、釣り銭箱を奪われた事件で、傷害と窃盗の罪に問われた在沖米空軍嘉手納基地所属の兵長で憲兵隊員のダリアス・エイ・ブランソン被告(22)の判決が二十三日、那覇地裁であった。〓晋一裁判官は、懲役三年、執行猶予五年(求刑懲役三年)を言い渡した。

 判決理由で〓裁判官は、犯行後にブランソン被告がアリバイ工作など証拠隠滅を試みたことを指摘し、「犯行は計画的かつ粗暴で悪質。共犯者関係などから見ても被告が中心的、主導的と認められ、責任は最も重い」とした上で、反省の態度を示し、国内での前科前歴がないことなどから猶予刑とした。

 判決によると、三月十六日午前零時二十分ごろ、沖縄市中央二丁目の路上で実行役の少年らがタクシー運転手男性(55)の頭部を拳で殴るなどして暴行。運転手が逃げ出したすきに、現金六千円が入った釣り銭箱などを盗んだ。

 運転手は全治三日のけが。ブランソン被告は、家具購入代金のローンの返済に窮し、自宅に出入りしていた少年らに犯行を持ち掛けるとともに、現場に車で送り迎えをするなど、事件を首謀した。

※(注=〓は「頼」の旧字体)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806231700_04.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 1面

島抱く平和の祈り/各地で慰霊祭

 戦後六十三年目を迎えた慰霊の日の二十三日、県内各地で沖縄戦の犠牲者を悼む慰霊祭が行われた。戦争体験者や遺族、その子や孫たちが非戦の誓いを新たにした。

 南城市佐敷小谷自治会(知念和夫会長)では、新たに建立された慰霊塔前に約九十人が参列。琉球古典音楽の追悼演奏などで刻銘された百七十三人の犠牲者の冥福を祈った。

 沖縄戦で父親を亡くした津波源福さん(71)は「小谷では米軍の激しい艦砲射撃などで多くの住民や軍人が犠牲となった。歴史教科書問題が示すように、戦争の真実を次世代に受け継ぐことが私たち遺族の使命だ」と力を込めた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_01.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 25面

問い続ける「あの日」

 慰霊の日の二十三日、六十三年前の戦争体験が新たに語られた。糸満市摩文仁の平和の礎で、各地の慰霊祭で、家族を亡くした「集団自決(強制集団死)」や日本兵の壕追い出しなど、つらい記憶を話すお年寄り。「体験者が少なくなった今こそ」「でも、まだ…」。複雑な思いを抱え、次代に伝えるために重い口を開いた。

幼い末妹思い 消えぬ痛み/「集団自決」体験した姉妹


 「実はまだ、自分らの子どもにも話していないことがあるんだよ」

 渡嘉敷村の刻銘板の前に座り込んだ姉妹は、「集団自決」で亡くなった母と、六人きょうだいの中でただ一人犠牲になった生後五カ月だった末妹の名を見上げながら静かに語った。

 同村阿波連集落の出身。渡嘉敷島に米軍が上陸すると、母とともに下ろしたての晴れ着を着て北山へ逃げた。「フィジガー」と呼ばれる水源地に着くと、遠縁の親類の輪に入って身を寄せた。

 やがて、あちこちで「集団自決」が始まる。親類の誰かが手榴弾を持ち出したが、不発だった。「そしたら、手榴弾を解体して中から火薬を取り出し、『これを食え』って」。当時十一歳だった長女(74)は振り返る。「人を殺す武器だから、中身も毒と思ったんだろう。みんな狂っていた」

 ついに一人が木の棒を持ち出し、周囲の人々を殴り始めた。長女は後頭部を二度殴られて倒れる。意識はあったが、死んだふりをした。「動かなければ殴られない。ただ怖かった」

 当時六歳の三女(70)はこの時、ほかの姉弟三人とともに川下へ一目散に逃げだした。「死ぬなんて怖くて」。母の「アメリカーに殺されるよ」との声を振り切り、雨の中をさまよった。だいぶたってからフィジガーへ戻り、小さな体で無数の死体を乗り越えると、晴れ着は真っ赤に染まっていた。「死体の間で、首が顔の幅ほどに腫れ上がった姉を見つけた。母たちはみんな血まみれで動かなかった」

 そばに倒れていた末妹はわずかに息をしていた。生き残った姉妹ら五人はただ見守るだけだった。その後、川を上ってきた米軍に収容され、ぼんやりと山を下りたが、妹は連れ帰れなかった。

 「米兵が助けてくれるとは知らなかった。いや、妹をどうするかを考える力も残ってなかったのか」。姉妹たちは今も問い続けている。「いつかは語らなければとは思う。でも…」。そう言いながら、末妹の刻銘をそっと指でなでた。


手榴弾取り出し「死のうか」と父/座間味村出身・内間さん


 座間味村出身の内間弘子さん(70)=南城市=は米軍が上陸すると、父と姉、祖父母とともに家族用の防空壕に逃げ込んだ。身を寄せ合えばすき間もないほどの小さな壕。しかし、外の様子を見に出た祖父が米兵に捕まり、全員で投降した。

 父は、米兵が目を離したすきにポケットから缶ジュースほどの物体を取りだした。

 「死のうか」

 姉がうなずくと、父がぐっと抱き寄せてきた。

 当時六歳の内間さんは手榴弾を知らなかったが、「生き恥をさらすな」という言葉はたたき込まれていた。父がしようとしていることはすぐ理解した。「その時突然『嫌だ、怖い』と思ってね」。とっさにそばの畑の中に飛び込んだ。

 おそらく米兵が気付き、騒ぎになったようだった。しばらくして父の声が聞こえた。「弘子、もう死なないから。死なないから」。恐る恐る戻ると、父の手にもう手榴弾はなかった。

 座間味の親類二人と、本島にいた一番上の姉は亡くなった。後年、父はことあるごとに言った。「生き残れたのは弘子のおかげだ」

 父がなぜ手榴弾を持っていたのか、今はもう分からない。ただ、父に背負われて壕へ逃げる途中、負傷した日本兵に出会い、爆発音が響く恐怖の中で父と兵士が何か話をしていたのを覚えている。

 「あのとき『自決』用の手榴弾を渡されたんだと思う」と内間さんは言う。「日本軍の存在は絶対だった。私は子どもだったからそれがよく分からず、だから私たちは生き残ったんです」


南北の塔で戦体験語る/山部隊との合同慰霊祭


 沖縄戦で数千人が犠牲となり、旧日本軍による住民虐殺も起きた糸満市真栄平。集落内の南北の塔で行われた旧軍「山三四七八部隊」との合同慰霊祭で、老人会会長の金城栄保さん(73)が、「砲弾が降る中、旧日本軍に三度、壕から追い出された」と体験を話した。航空自衛隊与座岳分屯基地の幹部が毎年、招待される同慰霊祭で詳細な戦争体験が語られるのは初めてという。

 金城さんは、住民が南部を逃げ惑い、米軍が「無差別攻撃を仕掛けていた」戦況を説明。近隣七世帯で二カ月かけて掘った壕に隠れていた一九四五年五月中旬、日本兵数人に銃剣を突き付けられ追い出された。

 別の二つの壕も追われ、米軍の捕虜に。収容所で父親はマラリア、五歳の妹も赤痢で死亡した。八カ月後に戻ると集落は灰じんに帰し、無数の骸骨が転がっていたという。

 金城さんは「体験者が少なくなった今、話さないと戦争のむごたらしさを引き継げない」と強調。自衛隊幹部がいる中での話に「複雑な気持ちもあったが、事実は伝えるべき。立場は違っても、慰霊の日に同じ場所で平和を考えることは意義がある」と力を込めた。


世界の幸せ願い 詩朗読/嘉納英佑君


 沖縄全戦没者追悼式で、「平和の詩」、「世界を見つめる目」を朗読した読谷小学校四年の嘉納英佑君(10)。よどみなく読み終え、ほっとした笑顔を見せた。

 朗読が決まってから、毎日五回練習したという。最も訴えたかったのは「みんなが幸せになれる」世界。その部分では、声にも力を込めた。

 「人と人が殺し合う戦争は怖い。人には優しい大人になりたい」と嘉納君。将来の夢は、「病気で苦しんでいる人を助ける薬剤師になりたい」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_02.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 24面

悲しみ越え平和継承

嘉義丸撃沈で親子漂流/長男の刻銘 なぞり涙

 「平和の礎」では、早朝から遺族らが肉親の名前を探し歩いた。戦時中、乗っていた客船「嘉義丸」を鹿児島県奄美大島沖で米軍に撃沈され、当時二歳の長男・一男ちゃんを失った那覇市首里出身の新城スエさん(91)=東京都府中市=は、力を振り絞るように車いすから立ち上がり、刻銘された一男ちゃんの名前をなぞり泣いた。

 一九四三年五月二十六日。大阪に住んでいた新城さんは、両親に一男ちゃんを会わせるため、沖縄に帰る途中に嘉義丸が魚雷を受けて沈没した。長男をロープで背中にくくりつけて四―五時間漂流し、漁船に救出されたが、一男ちゃんは動かなかった。

 「生きているのと同じように肌のぬくもりがあったのに…。かわいい笑顔が今も忘れられない」とスエさん。

 沖縄戦の戦没者以外も礎に刻銘されることを知り、九六年、一男ちゃんの名前を追加刻銘してもらった。それ以降、毎年、慰霊の日に合わせて娘の中島正子さん(64)と、新城幸男さん(59)の家族三人で訪れている。一男ちゃんが亡くなって約半年後に生まれた正子さん。「私は兄の生まれ変わり。母は毎年、最後だからと言って訪れている。来年も三人で兄を訪ねたい」と話した。


戦争体験者を取材 ドキュメント制作/美里高校放送部


 平和の尊さを、同世代に伝えたい―。美里高校放送部の前原友香部長(17)=二年=と棚原かおりさん(16)=同=は沖縄全戦没者追悼式や、戦争体験者を取材した。撮影した映像は編集後、同校の平和学習に使用したり、放送部の全国大会にドキュメンタリーとして出品する。

 「平和の礎」を訪れた戦争体験者三人から話を聞いた棚原さん。「生で見ると、人が大勢いる。ここに来て、平和と戦争のことを深く知りたくなった」と表情を引き締めた。

 取材中、戦没した兄の刻銘を探す女性(91)を手伝った。名前を確認し、「つらかったね、ごめんね」と涙を流す姿に、前原さんは「戦争が、いろんな大切なものをなくしていくんだ」と憤り、「作品では伝えられない部分もあるかもしれないが、見たみんなに、平和について何かを考えてほしい」と期待した。


高校生が映像で訴え/「島クトゥバで語る戦世」上映


 【南風原】南風原町に住む高校生らのグループ「はえばるYouth」(福広太郎代表)が、戦争と平和について考えようと、沖縄方言で戦争体験を語ったお年寄りらを撮影したビデオの上映会を南風原陸軍病院壕群二十号の管理棟前の広場で開いた。

 写真家の比嘉豊光さんらが作製した「島クトゥバで語る戦世」に収録された証言者の中から同町出身の二十人余の映像を上映。

 南部各地の壕をさまよった体験や爆弾で家族を失った悲しみ、サイパンでの飛び込み自殺のことなどについて、身ぶり手ぶりを交えて語る証言者の様子を、参加者が真剣な表情で見詰めていた。

 沖縄尚学高校三年生で、国際交流活動をしている祖慶奈穂さんと根間亜里沙さんは「祖父や祖母から『今の社会の雰囲気は戦前の状況と似てる』と聞かされているので、また戦争が起こらないか不安。私たちの世代がきちんと勉強して、行動を起こさないといけないと感じた」と訴えていた。

 上映グループの福代表は、「過去に『1フィート映像 ドキュメント沖縄戦』を上映したが、それは米軍側からの視点だった。今回は住民側の目で見た戦争を知る必要があると思った」と意義を話していた。


米基地の政府責任言及/河野洋平衆院議長


 沖縄全戦没者追悼式で河野洋平衆議院議長は戦没者への追悼の辞で、県内に集中する米軍基地問題について政府の責任に触れた。「私はすべての国会議員に『ワンネー、ウチナーンチュ、ヤイビーン(私は、沖縄県民です)』という心でこの問題に向き合ってほしいと呼び掛ける」と述べると、会場から拍手が起きた。

 戦時中の旧日本軍についても「私たちは軍が沖縄の住民の方々の安全を第一に考えていたわけではない、という疑念からも目をそらせてはならない」とした。

 県議の外間盛善さんは「非常に県民の痛みを理解している内容だった。戦時中の旧日本軍の問題にも触れるなど、県民のいろんな思いをよくくみ取ってくれたと思う」と感激した。

 一方、沖縄戦後、学童疎開から戻ると父や祖父母が亡くなっていたという大城勇さん(73)=豊見城市=は「力強い言葉ではあるが、どれぐいらい本心かな」と話した。


天満さん鎮魂の演奏 バイオリンの調べ響く/県立美術館


 慰霊の日の二十三日、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館で、世界的なバイオリニストの天満敦子さんがバイオリンを演奏した。

 同館で開催中の沖縄タイムス創刊六十周年企画「情熱と戦争の狭間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」(主催・文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館、共催・沖縄タイムス社)の関連イベント。

 毎夏、長野県の無言館で演奏会を開いている天満さんは、戦没画学生の残した作品を前に祈りを込めて「望郷のバラード」などを演奏。「絵に問い掛けながらバイオリンを弾いています。海の絵を見ながら、こういう所に帰りたかったのかもしれないと思いました」と話した。

 また、午後からは首里高校合唱部の「合唱によるレクイエム」があった。「情熱と戦争の狭間で」は二十九日まで。二十四日は休館。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_03.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 2面

負担減 道筋見えず/首相あいさつ 前年踏襲

 福田康夫首相は二十三日、沖縄全戦没者追悼式に出席、在沖米軍基地の整理・縮小に取り組む決意を強調した。しかし最大の焦点である普天間飛行場移設問題は、日米両政府で合意したV字形滑走路の建設位置をめぐる地元との協議が難航、手詰まり感さえ漂っている。政府が繰り返す「沖縄の負担軽減」への道筋はまだ見えない。

平和への思い


 「美しいデイゴの花をつらい記憶を呼び起こす花にしない」。追悼式のあいさつで、首相は県花を引き、戦前生まれとしての平和への思いをのぞかせた。

 だが、基地問題で新味はなかった。首相は沖縄の「負担軽減に向け、地元の切実な声に耳を傾け全力を挙げて取り組む」と述べたが、昨年、式典に参加した安倍晋三前首相から出た言葉をほぼ踏襲した。

 普天間移設問題では、名護市のキャンプ・シュワブ沿岸部にV字形滑走路の建設を進めようとする政府側と、騒音や安全性への懸念からより沖合への移設を求める沖縄側が対立。官邸に設置した協議会でも議論は平行線のままだ。


ガラス細工


 政府は昨年来、前防衛事務次官の守屋武昌被告(収賄罪で起訴)が進めた「アメとムチ」路線を転換し、北部振興費や名護市への米軍再編交付金凍結を相次いで解除、話し合いによる妥協点を模索したが、合意に至っていない。

 一方、米側は日米で合意した政府案の修正に難色を示す。「合意は当時のラムズフェルド米国防長官が米軍内の反発を何とか抑え込んだガラス細工。少しでも修正したら全体が壊れる」(政府関係者)。米側は在沖海兵隊のグアム移転の条件として、二〇一四年の移設完了を譲らず、板挟みの政府に打つ手はない。


身動き取れず


 一方、仲井真弘多知事は今年初めから「九十メートル程度、沖合へ移す」との修正で政府側との妥協を模索し始めていた。〇六年十一月の知事選で、普天間返還を前提にした経済振興を打ち出し当選しただけに、移設問題の行き詰まりは、県政運営の命取りになりかねない。知事周辺は「修正に一時、前向きな姿勢を示した町村信孝官房長官が担当者であるうちに解決したいという焦りもあった」と明かす。

 そんなさなか、県議選で与野党が逆転。県幹部は「条件付きで県内移設を進める県の政策に影響は出ない」と強気だが、妥協案の県議会受け入れは厳しい状況で、知事も身動きが取れない状態に陥った。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_04.html

 

2008年6月24日(火) 朝刊 2面

造成工事本格化/シュワブ 山肌、一部露出

 【名護】米軍普天間飛行場の移設に伴い沖縄防衛局は、名護市キャンプ・シュワブ内の兵舎や舟艇整備工場の建設に向けた造成工事を本格化させている。二十三日、大型建設機材を使った大規模な造成工事の様子が確認された。

 同基地周辺の海域から確認できただけで、ショベルカー六台のほか、土砂を積んでいるとみられるダンプカーがひっきりなしに行き来していた。山肌も一部削られているもようだ。

 同基地内には、下士官宿舎(約九千百二平方メートル)や倉庫(約千七百十九平方メートル)、管理棟(約三千百六十九平方メートル)、通信機器整備工場(約二千七百七十平方メートル)、舟艇整備工場(約三千百四十七平方メートル)を建設する計画。建設場所は飛行場建設予定地の西側で、工期は二〇〇九年九月末となっている。

 同基地内の埋蔵文化財について、名護市教育委員会は、市議会定例会に計上している調査費補正予算が可決された後、七月から四カ月間の予定で本調査を実施する。これまでの試掘調査などで、海側から水田跡が確認されたため、海側を調査する予定だ。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241300_06.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 1面

政府「運用改善が合理的」/従来見解を閣議決定

地位協定・県民大会要請

 【東京】政府は二十四日午前、三月に開かれた「米兵によるあらゆる事件・事故に抗議する県民大会」で決議された「日米地位協定の抜本改正」について、「その時々の問題について運用の改善により機敏に対応していくことが合理的」とする従来見解を閣議決定した。また、同協定に基づき、日本側に第一次裁判権がないとされる「公務中」の範囲を、通勤や職場での飲酒にまで拡大した一九五六年三月の日米合同委員会合意に至る日米協議の議事録公表について、「両政府の合意なしには公表しない」とする答弁書も決定した。

 県民大会決議への答弁書では、米兵暴行事件について「極めて遺憾」としつつ、大会決議で求めた「実効性ある具体的な再発防止策」について、日米合同委員会などで協議中であることを説明するにとどめた。その上で「再発防止のためには、このような地道な努力を継続的に積み重ねていくことが必要」との見解を示した。

 衆院の赤嶺政賢氏(共産)、照屋寛徳氏(社民)、下地幹郎氏(無所属)、参院の喜納昌吉氏(民主)、山内徳信氏(社民)、糸数慶子氏(無所属)の県選出野党国会議員六氏の連名による質問主意書に、答弁書で示した。

 一方、地位協定に基づく「公務中」の範囲拡大に関する合同委合意をめぐって、五六年四月に法務省刑事局長が全国の検事正らにあてた通達は、勤務地への往復時の交通事故を公務中として処理するよう指示。参考資料として、合意までの協議内容を記した前年(五五年)十一月の合同委刑事裁判権分科委員会議事録を添付していた。

 これらの経緯は、機密解除された米側公文書などで明らかになっているが、政府は今回の答弁書で「(全国の検事正らにあてた)通達を発出したかどうかを含め、これを公にすることにより、米国政府との信頼関係が損なわれるおそれ、および公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼす」として、公表に難色を示した。

 照屋氏の質問主意書に答えた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_01.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 4面

「戦争二度と」思い秘め/梯梧同窓会20人 参拝

 同窓生や遺族の高齢化で戦後六十年を区切りに慰霊祭を自由参拝に変えた梯梧同窓会(元昭和高等女学校)の会員ら約二十人が二十三日、糸満市米須の慰霊塔を参拝した。

 会員の吉川初枝さん(80)は「この日は特別。足腰が丈夫な間は、参加したい」。

 自身戦争で砲撃を受け、背中と足首にけがを負った。同時に弟も失った。「戦争は人が人でなくなる」と語った。

 千葉県の吉原久喜さん(73)は、同校の校長だった八巻太一さんの孫で毎年参拝している。

 同窓会の要望で祖父の思い出をまとめた冊子を著し、会に贈った。祖父のことなどを記した石碑を前に「戦争に正義はない」と述べた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_03.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 4面

白梅之塔 慰霊の清掃15年/ガールスカウト36団表彰

 糸満市真栄里の「白梅之塔」慰霊祭で二十三日、十五年間清掃活動を続けたガールスカウト36団の子どもたちが表彰された。同団は、毎年六月に白梅之塔を清掃、同時に白梅学徒隊の生き残りの人々から話を聞き沖縄戦について学ぶなど、平和学習も続けてきた。慰霊祭にはメンバーら約二十人が参加した。

 同団の具志堅茉衣子さん(13)は「仲間が目の前で死ぬのはつらかっただろうな。今日のことや学徒隊の方から聞いた話を友達に伝えていきたい」と話した。

 白梅同窓会の中山きく会長は「皆さんの善い行いでとても気持ちが明るくなった。沖縄戦を学ぼうとする若者たちの参加を何よりも心強く思う」と激励した

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_04.html

 

2008年6月24日(火) 夕刊 5面

普天間に超大型輸送機/今月3度目 ヘリ積み込む

 【宜野湾】二十四日午前、米空軍の超大型長距離輸送機C5ギャラクシー一機が米軍普天間飛行場に飛来し、二〇〇四年八月に沖縄国際大学へ墜落したヘリと同型のCH53D大型輸送ヘリ二機を積み込んだ。ギャラクシーが同飛行場に飛来するのは今月に入って三度目。

 五月まで同飛行場に駐機していた十機のCH53Dのうち、十九日までに四機が別の基地に輸送された。今回ギャラクシーに積み込まれた二機のほか、残された四機も輸送準備のためローター(回転翼)が外されている。同飛行場に配属される第三一海兵遠征部隊は二十日に海外演習から帰還し、宜野湾市は騒音被害の増加を懸念している。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806241700_05.html

「グアム移転合意は失敗」/元太平洋司令官 普天間代替、沖合移動で実務協議、政府、異例の前倒し シュワブ内 工事着手/普天間飛行場代替 平和願い史実追体験/志真志小で「集団自決」劇上演 など 沖縄タイムス関連記事・社説(6月17日から21日) 

2008年6月17日(火) 朝刊 1面

「グアム移転合意は失敗」/元太平洋司令官

 【ホノルル】元米太平洋海兵隊司令官のヘンリー・スタックポール中将(退役)は十六日までに、米軍再編に伴う在沖米海兵隊のグアム移転について、訓練場の狭さや台風が多いこと、グアム―沖縄の遠隔運用に不可欠な高速輸送船の調達予算のめどが立たないことなどを理由に「移転合意は失敗だと思う」と懸念を示した。また、冷戦後の一九九三年に太平洋司令部が在沖米海兵隊兵力の半減計画を検討していたことも明らかにした。

 ハワイ大学内の東西センターで本紙インタビューに応じた。同氏はグアム移転について「移動の問題だ。機動性が高い空軍、海軍が基地を置くのは問題ない。しかし、海兵隊は独自の輸送船をグアムに配備していない。移転は満足できない案だ」と語った。

 日米再編協議の時期にホノルルの国防省系シンクタンク、アジア太平洋地域戦略研究所所長だった同氏は、太平洋司令部に沖縄問題で助言したり、対日交渉の担当者会議に出席したりする立場にあった。元在沖米軍四軍調整官でもあり、沖縄基地問題に精通する。

 退役将軍の異論は、海兵隊内部にくすぶる不満を代弁したと受け止められる。

 また、スタックポール氏によると、太平洋司令部は九三年に湾岸戦争時の兵力派遣を検証した結果、二万千人だった在沖米海兵隊を一万人の旅団レベルまで削減することが可能とする脅威対処リポートをまとめていた。当時、同氏は太平洋海兵隊司令官として部隊配備の適正化を検討していた。

 今回の再編協議で同氏は「沖縄駐留が旅団規模なら運用に支障がなく、さまざまな事態に即応できる」と提言したという。海兵隊のグアム移転計画も旅団規模の運用を想定している。(屋良朝博記者、ハワイ東西センター客員研究員)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806171300_01.html

 

2008年6月17日(火) 朝刊 2面

米兵事件2448件裁判放棄/62?63年

 【東京】在日米軍兵士らによる事件の裁判権をめぐり、日本側が米側の請求を受けて多数の事件の裁判権を放棄していた実態が、一九六〇年代の米軍統計資料から十六日までに明らかになった。米軍関係の裁判権については、日米両政府が五三年に「重要な案件以外、日本側は裁判権を放棄する」との密約に合意していたことが分かっており、統計で裏付けられた格好だ。

 資料は、六二年十二月一日―六三年十一月三十日までの一年間の犯罪統計を米陸軍法務局がまとめたもの。日米関係史を研究する新原昭治氏が米国立公文書館で見つけた。

 それによると、同期間で日本の裁判に付されるべき件数は三千四百三十三件。米軍はこのうち二千六百二十七件の裁判権を譲るよう請求し、日本側は二千四百四十八件を放棄した。

 新原氏によると、当時は本土復帰前だった沖縄で発生した件数は含まれていないという。

 日本平和委員会の佐藤光雄代表理事らは十六日、外務省に同統計を提示し、裁判権をめぐる問題を追及した。しかし、外務省の担当者は「当時の資料は残っていない」などと説明した。

 一方、日米両政府が五六年の合同委員会で、日米地位協定に基づき、日本側に第一次裁判権がないとされる「公務中」の範囲を通勤や職場での飲酒にまで拡大し、米側に有利な運用で合意していたことについては、「勤務場所と定められた住居との間の通勤は原則として公務中と取り扱われている」と述べるにとどめ、合意の事実については言及を避けた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806171300_05.html

 

2008年6月17日(火) 朝刊 22面

「平和の詩」に嘉納君/メッセージ審査

 二十三日の慰霊の日を前に県平和祈念資料館は十六日、「第十八回児童・生徒の平和メッセージ」の審査結果を発表した。沖縄全戦没者追悼式で行われる「平和の詩」朗読には、小学校の詩部門で最優秀賞を獲得した嘉納英佑君(読谷小四年)の作品「世界を見つめる目」が選ばれた。小中高校の各部で図画、作文、詩部門に計百十五人が入選した

 同メッセージは、県内の児童・生徒に創作活動を通して平和の心をはぐくむ目的で毎年行われている。今回は県内百六十二校から計三千七百九十八点の応募があった。

 平和の詩に選ばれた嘉納君の作品について同資料館は「日常を通して感じる平和への思いがつづられている。現代っ子らしいユニークな表現に、生活の中で平和を考える意識が感じ取れる」と評価した。

 各部門の入賞者は次の通り。(敬称略)

 【小学校】《図画》最優秀賞=上原晴美(高良四年)▼優秀賞=三田ほのか(さつき二年)、上原千紗都(大山六年)、比嘉貫太(とよみ六年)《作文》最優秀賞=照屋響之右(さつき五年)▼優秀賞=新澤ももこ(宮城五年)、野原由梨奈(松島六年)《詩》最優秀賞=嘉納英佑(読谷四年)▼優秀賞=照屋希之薫(真壁四年)、上原晴美(高良四年)、奥間友芽子(さつき四年)【中学校】《図画》最優秀賞=宮里侑希(松島二年)▼優秀賞=喜舎場愛月(石垣二年)、平良光希(池間三年)、新垣ナオ(宜野湾三年)《作文》最優秀賞=張本美嶺(大浜一年)▼優秀賞=松山忠明(西表三年)、友利有希(小禄三年)《詩》最優秀賞=金城美奈(仲西三年)▼優秀賞=山城あかね(佐敷二年)、上間一輝(南星三年)【高校】《図画》最優秀賞=仲間清香(糸満一年)▼優秀賞=宜野座愛海(糸満一年)、比嘉美奈穂(普天間二年)、渡部夏連(首里三年)《作文》最優秀賞=崎山史子(那覇国際二年)▼優秀賞=具志堅靖知(コザ三年)《詩》最優秀賞=仲地愛(球陽二年)▼優秀賞=知花かおり(球陽一年)、塚本真依(沖縄尚学二年)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806171300_11.html

 

2008年6月17日(火) 夕刊 5面

見舞金 米に求めず/豪女性暴行

 【東京】二〇〇二年四月に神奈川県で米兵に暴行されたオーストラリア人女性に対し、政府が加害米兵や米国に代わり支払った見舞金三百万円を、その後米側に請求していないことが十七日、分かった。同日午前に閣議決定した、松野信夫参院議員(民主)の質問主意書に対する政府答弁書で明らかになった。

 被害者救済の必要性から支払われた見舞金だが、加害米兵や米政府が慰謝料の一切の負担を免れ、日本政府が肩代わりしたことに厳しい見方も出ている。

 同事件で米兵は不起訴処分となったが、その後、女性が損害賠償請求訴訟を提起。東京地裁は米兵に三百万円の支払いを命じたが、米兵は裁判中に帰国した。

 日米地位協定は米兵に支払い能力がない場合、米政府が支払うと規定。一方で米国内法は、事件発生から二年以内に請求がなければ時効になる。民事判決が出た時点で、時効になっていたため、同省が見舞金を支払っていた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806171700_07.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 1面

沖合移動で実務協議 普天間代替

政府、異例の前倒し

 【東京】米軍普天間飛行場の名護市キャンプ・シュワブ沿岸部への移設をめぐり、県や名護市が求めている代替施設案(V字案)の沖合移動で、政府が実務者レベルの本格的な検討作業に入ったことが十七日までに分かった。政府内には沖合への移動が日米合意の修正になり、米国側が反発していることから、慎重論が多い。ただ、難航している同飛行場の移設問題を前進させるためには県側への配慮が必要との政治的な判断から、異例の前倒しで実務協議に踏み切った形だ。

 政府は今月二日、沖合移動を念頭に、県を含めた課長級会合を都内で開き、実務レベルで可能な作業に絞って協議を始めた。会合には内閣官房や内閣府、防衛省、環境省、県の担当課長らが出席した。環境影響評価(アセスメント)に関する法律や条令の解釈など、基本的な問題点で意見を交わした。

 今後も不定期に開く方針で、現在進められているアセス調査に基づき、どの程度の沖合移動が可能か、意見交換する見通しだ。だが、政府と県の政治的決定に位置付けられている協議の進め方に関する「確認書」合意はめどが立たない状況で、先行きが不透明な情勢に変わりはない。

 アセス調査手続きは方法書、準備書、評価書の各段階で計画の「軽微な変更」を認めている。アセス法に照らすと、V字案の面積規模の「軽微な変更」は理論上五十五メートルずつの移動が可能となる。

 仲井真弘多知事はキャンプ・シュワブ沖の長島にかからない程度に、日米政府の合意案から沖合に八十―九十メートル移動するよう求めている。一方、政府はこれまでアセス調査に基づく「合理的な理由」がなければ応じられないとの公式見解を示してきた。

 県が求める八十―九十メートル移動は「軽微な変更」を複数回実施しなければ実現しないとみられるが、政府は移動に伴い自然環境への影響が想定されるため、「合理的な理由」を基にした複数回の「軽微な変更」を困難視している。沖合移動する場合は五十五メートルの一回だけに限り容認する意向で、県の要望には難色を示している。(島袋晋作)

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_01.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 2面

普天間で「場周経路」調査/沖縄防衛局

民間地墜落防止へ

 【宜野湾】米軍機の民間地への墜落事故を防ぐため、日米政府で合意された米軍普天間飛行場の場周経路について、沖縄防衛局が宜野湾市内で米軍機の飛行ルートを目視調査していることが十七日までに分かった。同局が同飛行場の場周経路の調査を実施するのは初めてとみられる。

 調査は市内を見渡す嘉数高台公園の展望台で実施されている。十六日には同局の職員二人が目視で飛行した米軍機の機種、時間をチェックし、飛行ルートを地図付きの調査票に書き込む作業が確認された。宜野湾市によると、調査は五月ごろから行われている。

 これまで同市は米軍が場周経路を守らず、住宅地上空で飛行訓練を行っていると指摘していた。

 五月には加盟する中部市町村会で同飛行場の危険性除去を求める要請決議案を全会一致で可決。今月六日、要請を受けた同局の真部朗局長は「市の声を有効なデータとして客観的に米側にぶつけられるような方策を考えたい」と答えていた。

 伊波洋一市長は「日米で合意された安全基準は守られるべきで、国が調査に乗り出したことは大きな前進だ」と取り組みを評価した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_02.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 27面

米軍捕虜恐れ「自決」/玉城の壕 体験者証言

 【南城】沖縄戦中、南城市玉城糸数の自然壕「ウマックェーアブ」で避難してきた住民らが「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた状況が体験者らの証言で明らかになった。日本軍が繰り返してきた「米軍の捕虜になれば辱めを受ける」との言葉を信じ、九人が犠牲になったという。字誌編さんのため、地元で聞き取り調査を続けてきた同市玉城糸数の知念信夫さん(74)は「遺族の多くは今でも苦しみを負い、戦争を語ろうとしない」と話している。(仲本利之)

 知念さんや体験者の証言などによると、「集団自決」は一九四五年六月三日に起きた。

 同年三月二十三日からアブチラガマ周辺に点在する十一カ所の壕には住民七?十人ごとに身を潜め、「ウマックェーアブ」でも九世帯、三十七人の住民が隠れていた。六月に入り米軍が集落まで侵攻し投降を呼び掛けた。

 捕虜になることを恐れた住民ら十一人が二発の手を取り囲んで信管を榴弾

引き、九人が即死したという。当時を知る住民らは、アブチラガマには日本軍がいて、周辺のすべてのガマ(壕)には防衛隊を通じて日本軍の手榴弾が配られていたと話す。

 家族五人で「ウマックェーアブ」に身を潜めていた当時十代の男性は、父親が発した「どうせ死ぬなら太陽が見える明るい所で死のう」との言葉を合図に全員で壕を脱出した。一緒に出た住民二十七人は米軍の捕虜となり、生き延びることができた。

 十七日、玉城小学校で講演した知念さんは「平和な日本を次世代に受け継ぐためにも、戦争の悲惨さ、みじめさについて学んでほしい」と子どもたちに呼び掛けた。

 「ウマックェーアブ」はアブチラガマ西方約三百メートルに位置する壕。現在は農地や道路が広がり、入り口などはなくなっている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_06.html

 

2008年6月18日(水) 朝刊 26面

苦しみ 悲しみ 思いはせ/追悼式朗読の嘉納君「戦争ない世界願う」

 【読谷】慰霊の日の二十三日、糸満市の平和祈念公園で開かれる「沖縄全戦没者追悼式」で、読谷小四年の嘉納英佑君(10)が「世界を見つめる目」と題し、「平和の詩」を朗読する。嘉納君は「戦争のない世界になってほしい」と、期待を込める。

 毎年、慰霊の日が近づくと戦争や平和について家族で考えているという。嘉納君は小学校一年生から「児童・生徒の平和メッセージ」に詩を応募し、小学校の詩部門で三年生から二年連続最優秀賞を受賞した。

 今回の作品は、祖父母から伝え聞いた体験談、名桜大学准教授で、戦争体験者の聞き取りやビデオ収集などを行っているという父親の英明さんから聞いた話などを基に作った。「戦争で亡くなった人たちはとても苦しかったと思う。そういう気持ちを表したかった」

 今の日本、沖縄は平和だと感じている。平和を世界に広げるためにも「隣の国々の声に耳を傾け、仲良くしてほしい」と大人たちに訴える。

 沖縄戦では、親せき二人が戦死した。二十三日には詩の朗読後、二人の名前を刻銘した平和の礎に手を合わせるという。「二度と戦争が起きないよう願いながら、安らかに眠ってくださいとお祈りしたい」

仲間さん作品採用

「平和展」ポスター

 県内の小中高校生が平和への思いをつづった図画・作文・詩作品を展示する「児童・生徒の平和メッセージ展」が二十三日から糸満市の県平和祈念資料館で開かれる。展示会ポスターには、高校の図画部門で最優秀賞を獲得した仲間清香さん(糸満一年)の作品「ヒカレミライ」が採用された。七月十日まで。

 展示会は応募のあった作品の中から図画・作文・詩の各部門の最優秀賞、優秀賞、優良賞の作品を展示する。

 県資料館を皮切りに七月十六日―同二十三日まで八重山平和祈念館(石垣市)同二十八日―八月一日まで宮古島市平良庁舎ロビー(宮古島市)同十一日―十五日まで県庁県民ホール(那覇市)で随時開催する。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181300_07.html

 

2008年6月18日(水) 夕刊 1面

シュワブ内 工事着手/普天間飛行場代替

 米軍普天間飛行場の移設に伴い、沖縄防衛局は名護市キャンプ・シュワブ内の下士官宿舎など新設五棟の工事に二日から着手していたことが十八日までに分かった。兵舎や管理棟などの建設に向け、造成工事に入っている。普天間飛行場代替施設の建設に向けた工事着手はこれが初めて。代替移設の建設位置をめぐって、政府と県の沖合移動の交渉のめどが立たない中、基地内の工事が先行して始まっている。(吉田伸)

 キャンプ・シュワブ内の工事は二日に着工、磁気探査など準備作業を終え、九日から造成作業に入った。整地を終えた後の建物の建設は九月ごろとなる見通し。五棟は下士官宿舎(約九千百二平方メートル)のほか、倉庫(約千七百十九平方メートル)や管理棟(約三千百六十九平方メートル)、通信機器整備工場(約二千七百七十平方メートル)、舟艇整備工場(約三千百四十七平方メートル)。建設場所は飛行場建設予定地の西側で、工期は二〇〇九年九月末となっている。

 既存の兵舎十一棟の解体工事は四月から作業が始まった。内部はすでに撤去されており、五月からは建物本体の解体に取り掛かっている。七月中には作業を終える予定だ。防衛施設庁(現防衛省)が〇六年、基地建設計画(マスタープラン)の概要を地元に説明した際、キャンプ・シュワブには普天間飛行場代替施設の移設に伴い、約三千人の兵員が移駐することを明らかにしており、約六千人規模の海兵隊基地になるとみられている。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181700_01.html

 

2008年6月18日(水) 夕刊 5面

艦砲の雨 逃げまどう/古堅さん証言DVDに

 沖縄戦で、沖縄師範学校から鉄血勤皇師範隊として動員された元衆院議員の古堅実吉さん(78)が、当時たどった戦地を訪れ、現場で証言した様子を収めたDVDがこのほど完成した。第三二軍司令部壕のあった首里から、軍命で南下した摩文仁、米軍の捕虜となった具志頭の三地域で、古堅さんが体験したこと、見たこと、感じたことを、静かに、重く語る映像が百十三分間にわたり記録されている。(嘉数浩二)

 制作は沖縄平和ネットワーク会員の大島和典さん。今年四月二十七日に、古堅さんが現地を巡り、同会メンバーらに当時の状況を話す様子を収録した。

 首里では、司令部壕での作業と悪化する戦況を説明。艦砲射撃が雨のように撃ち込まれる中、毎日、作業場まで七、八百メートルを往来したこと。先輩や友人の悲惨な死。将校らしき軍人が女性に命令し、銃剣で捕虜の米兵を突き殺させようとした場面を目撃、最後は軍人自ら日本刀で虐殺したようだ、などと証言している。

 摩文仁では、海から機関砲で狙い撃ちされ、岩陰に身を潜めて水をくみ、サトウキビをかじって飢えをしのいだ場面を語る。

 解散命令が出た六月十九日夜、師範学校の校長が、百十数人が犠牲になったと告げ、配属将校がそばにいるにもかかわらず「教育者として残念だ。軍命に従うべくもなく、親元へ帰すべきだった。絶対に死ぬな」と諭したことを明かした。

 古堅さんが米軍の捕虜となった具志頭。切り立ったがけが続く海辺、多くの死体の中を、海水に漬かり二晩歩いたことを振り返り「言葉で言い表せない絶望感と、可能な限り生き延びたい思いだった」と表現する。

 最後に「集団自決」(強制集団死)にも触れ、「皇民化教育で天皇陛下のために死ぬのが誉れだったという美談は作り話。自分の体験を振り返ると、極限でも必死で生きようとしていた。それ(集団自決)しか道がないところまで追い込まれたから、起きた」としている。

 十二日に那覇市内で行われた上映会後、古堅さんは「体験者の証言を受け取ってもらい、平和について語る人が一人でも増えてほしい」と話した。

 DVD利用の問い合わせは同ネットワーク、電話098(886)1215。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806181700_03.html

 

2008年6月19日(木) 朝刊 27面

沖縄戦 演じて学ぶ/山梨の大学

「本土の人たちへ、自分のためにも」

 【山梨】沖縄戦のことを本土の学生たちにも知ってほしいと、山梨県の都留文科大学に通う県出身の学生たちが沖縄戦をテーマにした演劇に取り組んでいる。脚本や構成などはすべてオリジナルで、映像やダンスなども取り入れた斬新な内容。二十三日の「慰霊の日」に学内で上演する。学生らは「本土にいると自分たちも次第に沖縄への関心が薄れていくようで怖い。本土の友人たちに沖縄戦のことを伝え、自分たちもあらためて学ぶきっかけにしたい」と、連日のけいこに励んでいる。(稲嶺幸弘)

 今回の演劇公演は、四年次の福島花枝さん=読谷高卒=の提案がきっかけ。「一年次の時に、『慰霊の日』のことを忘れてしまっていたのがショックだった。沖縄戦や平和を考える取り組みをしたいと、四年間温めてきたのが今回の演劇だった」と話す。

 三月下旬、福島さんが県出身の学生らでつくる同大の沖縄県人会(金城生会長、四十六人)のメンバーに持ち掛けると、全員が賛同してくれた。福島さんが脚本の下書きをし、みんなで相談しながら完成させた。

 五月下旬から週四回ペースでけいこに入り、日曜日は七時間みっちり汗を流す。

 演劇のタイトルは「花?命どぅ宝」。戦場に駆り出された元女子学徒の記憶をたどり沖縄戦の実相に迫る内容。地下壕で女子学徒が傷病兵を手当てするシーンなどがリアルに再現されるほか、明るく楽しそうな現在のキャンパス風景を映像で流しながら、今と昔を対比させて「平和」の意味を問い掛ける。

 「本土出身の友達に聞いても、沖縄イコール観光という感じ。昔、沖縄で起きた悲惨なことを知ってもらいたい」と話すのは三年次の山城理乃さん=辺土名高卒。同じく三年次で同県人会会長の金城さん=北中城高卒=は「この劇を通して僕たちも沖縄戦のことを学び直している。ぜひ多くの人に観てもらいたい」と学内でのPRにも懸命だった。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806191300_06.html

 

2008年6月19日(木) 夕刊 4面

北部の戦争 風化させず/映画「未決・沖縄戦」

 【北部】名護市の予備校で教壇に立つ輿石正さん(62)が中心となり、本島北部で戦争を体験した十三人の証言を集めた映画「未決・沖縄戦」(九十二分)が十八日、完成した。中南部での戦闘や渡嘉敷・座間味島での「集団自決(強制集団死)」に焦点が当たる一方、「やんばるで戦争があったの」と問う子供たちも出てきた。「北部の戦争体験の風化」への強い危機感が輿石さんを突き動かした。(知念清張)

 映画を作るきっかけは、昨年九月の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」。

 十一万人(主催者発表)が集まった陰で「私たちは証言者の言葉に頼り過ぎていないか、沖縄戦がパターン化していないか、むなしさと焦りを感じた」。その後、字史や証言集を七十冊余り読んだ。「伝統芸能を含め地域を知ることが大切」と考えたからだ。これまで口を閉ざしていた人からも話を聞くことができた。

 「何の見返りもないのに高齢にもかかわらず身を乗り出し、体を震わせ証言してくれた人たちから『しっかりと伝えて』とバトンを渡された気持ちになった」

 今帰仁村の大城米さん(80)は、終戦直後の北部で米兵に連れて行かれ、体中にけがを負った女性と遭遇した。その時「あなたでなくてよかったわね」と言われた。

 生きて帰れたのになぜ、そう言うのか当時理解できなかったが、年を経て米兵からレイプされていた事を知った。「その後も米軍の過ちはいくらでも起きている。なぜ」

 八重岳や多野岳、伊江島での戦争、職員が離散し、愛楽園に残されたハンセン病元患者が語る苦難。旧日本軍に虐げられていた朝鮮人軍夫や慰安婦たち。庶民の目線から、やんばるの戦争の実態を語っている。

 輿石さんは「戦争の本質は逃げ惑い、泣き叫んだ一般住民の姿にある。沖縄戦はまだ終わっていない。戦争の風化が、国に都合のいい沖縄戦の捏造につながっている。特に若い世代や高校生に見てほしい」と呼び掛けている。

 映画は二十一日、名護市大中区公民館で午後六時半から無料上映され、その後も各地で上映される。問い合わせはじんぶん企画(名護高等予備校内)、電話0980(53)6012。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806191700_04.html

 

2008年6月19日(木) 夕刊 4面

平和教育に役立てて/戦跡ガイド2冊発刊

 「沖縄戦と基地・沖縄平和ネットワークの軌跡」(沖縄平和ネットワーク)と「観光コースでない沖縄第四版」(高文研)が、このほど発刊された。「沖縄戦―」は、同ネットワークのこれまでの会報から主要な記事を抜粋し、ダイジェスト版とし、「観光コース―」は、執筆者を一新した改訂版。

 同ネットワークは、修学旅行の戦跡ガイドや戦争記録、基地調査などを通し、戦争の記憶を継承してきた。代表世話人の大城将保さん(68)は「ガイドの依頼は、ほとんどが本土の学校からで、県内は数える程度」と疑問を投げ掛けた。「去年の教科書検定問題は沖縄の平和教育を考える上でいい経験だった。今年の『6・23』に現場の教員がどこまでかかわれるか。変わってくれるだろうと期待している」

 高文研の山本邦彦さん(53)は「沖縄を訪れる観光客にコースにないもう一つの沖縄の素顔があることを知ってほしい」と話す。同書は、一九八一年に開催された沖縄の基地・戦跡を学ぶ「沖縄セミナー」をきっかけに発刊された。「沖縄は十年で大きく変化。今の沖縄を見てもらいたい」「教科書検定問題での県民の動向をフォローしたい」と山本さん。

 同書の執筆者四人によるシンポジウムも二十一日に沖大で予定。「県内で活躍する記者と研究者が沖縄に今、何が問われているか話し合う。この機会に参加してほしい」と呼び掛けた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806191700_05.html

 

2008年6月20日(金) 朝刊 27面

「集団自決」劇に抗議/志真志小制作

中止など要求/校長応じずきょう上演

 宜野湾市立志真志小学校の児童や教諭らによる「集団自決(強制集団死)」をテーマにした平和劇について、「裁判で係争中の内容を上演するのはいかがなものか」「児童に演じさせるのは洗脳ではないか」などと、脚本内容の変更と練習の見学要請や上演中止を求める電子メール、電話が十件以上寄せられていることが十九日までに分かった。同校の喜納裕子校長は「劇はあくまで命の大切さを訴える内容であり、偏りはないと考えている。劇は予定通り上演する」と話している。

 平和劇「ヒルサキツキミソウ」は、脚本を同校の宮城淳教諭、演出を演出家の幸喜良秀さんが担当。二十日午前、同校で上演される。劇は「集団自決」があったある島から、犠牲となった三人の子どもの霊が宿る石を、女子児童が持ち帰り、学校のある部屋に隠したことから展開する。沖縄戦での艦砲射撃や、渡された手榴弾を使って家族が命を絶つ「集団自決」場面などを、現代の子どもたちが目撃。子どもやその両親の霊を通して「集団自決」の実相に触れ、戦争の恐ろしさや平和、命の尊さを学ぶ内容になっている。

 要請は上演が報じられた先月下旬から寄せられた。学校や市教育委員会を訪れ、脚本の確認や練習の見学を再三求める人のほか、上演の中止を求めるメールが十九日までに十件以上寄せられた。メールの多くは、県外からのものとされる。

 学校側は、脚本の確認や見学の求めには応じなかったという。同校は事態を憂慮し、市教委や宜野湾署にも報告している。喜納校長はこれまでの取材に対し「さまざまな意見があるのは当然だが、偏りはない。激励も寄せられ、子どもたちも一生懸命練習している。命の尊さを知る素晴らしい劇になると思う」と話している。

関係者「卑劣な行為だ」

 「誹謗中傷に負けず、子どもたちや教職員、PTAが一体となって上演すると聞いた。大変素晴らしい」。大浜敏夫沖教組委員長は、学校関係者の姿勢を高く評価した。一方で、小学生が歴史を考える目的で行う劇にまで抗議する一部の言動を懸念。「沖縄戦の歪曲を狙う動きを、県民が一致して断固拒否することが大事」と指摘した。

 9・29教科書検定意見撤回県民大会実行委の玉寄哲永副委員長は「悲惨な史実を次世代へ伝えるため、多くの体験者が立ち上がった。思いを受け止めた小学生や学校を批判するのは、あまりに卑劣だ」と怒りをあらわに。「子どもたちが、おじいやおばあのことを考えて演じる劇は、卑劣な言動を吹き飛ばす感動的なものになる」と話した。

 十九日午後に同校を訪れ、練習を見学した伊波洋一宜野湾市長は「圧力には決して負けずに頑張ってほしい。歴史の重さを共有し、受け継いでほしい」と期待した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806201300_01.html

 

2008年6月20日(金) 朝刊 26面

次代へ1フィート募金/運動の会 新作構想

 今年12月で設立25周年を迎える「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」(通称・沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会、福地曠昭代表)が米や英にある沖縄戦関連の記録フィルムを買い取り、新たな映像作品を制作するため、広く募金を呼び掛けている。沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定問題などに危機感を示し、「歴史を改ざんする動きに歯止めをかけ、25年の節目に沖縄戦の実相を伝えるという原点に立ち返りたい」と訴える。

 同会は戦争を知らない世代に沖縄戦の悲劇を伝えようと一九八三年十二月八日に設立。県民の寄付などで米国ワシントンの国立公文書館などから、これまでに約十万フィートの記録フィルムを買い取り、「沖縄戦・未来への証言」など三作品を制作。各地で上映会や講演会などを開いてきた。しかし、なお米英両国には、多くの未公開フィルムが残っているといい、今後も買い取りを進める考え。

 フィルムの買い取り額は設立当初は1フィート当たり百円だったのが、現在は同二百円程度に上がっているという。一本の制作費は数千万円に上るとみられ、同会は若者も巻き込んだ多くの協力を求めている。

 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会の福地曠昭代表らは十九日、県庁記者クラブで会見し、二十三日の「慰霊の日」に向けたアピールを発表した。

 福地代表は「有事法制の成立や新基地建設などこれまでの動きを見ると、まさに戦争前夜を思わせる」と指摘。まよなかしんや事務局次長は「子どもたちに、平和を求める心と戦争に反対する行動力をしっかり伝えたい」などと記したアピール文を読み上げた。

 また、同会は二十五周年の記念誌を発行、一部五百円で販売する。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806201300_02.html

 

2008年6月20日(金) 夕刊 1・7面

平和願い史実追体験/志真志小で「集団自決」劇上演

 宜野湾市立志真志小学校(喜納裕子校長)で二十日午前、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」をテーマにした平和劇が上演された。上演前には脚本内容の変更要求や練習の見学要請のほか、「児童に演じさせるのは洗脳だ」などと、上演中止を求める電子メールが十件以上学校側に寄せられたが混乱はなかった。児童二十二人や教諭らは、一カ月前から練習を重ねた成果を披露。軍命などで、家族に手をかけざるを得なかった「集団自決」の悲しい史実と、命の大切さや平和の尊さを、観衆に訴えた。

     ◇     ◇     ◇     

児童熱演 地域見守り/中止要求など逆境はねのけ


 上演の中止や脚本内容の変更などを求める要請や電子メールでの嫌がらせなどの逆境をはねのけ、平和劇上演にこぎ着けた志真志小児童と教諭ら。会場には多くの保護者や地域住民に加え、「集団自決(強制集団死)」などの戦争体験者も訪れ、児童らの熱演をじっと見つめた。喜納裕子校長は「劇を通じて子どもたちは命や平和の尊さに気付いてくれたと思う。無事に終えられたことを喜びたい」と話した。

 体育館に設置された特設ステージで上演された「ヒルサキツキミソウ」は、脚本を同校の宮城淳教諭、演出を県内外で活躍する演出家の幸喜良秀さんが担当した。物語は「集団自決」があったある島から、犠牲となった三人の子どもの霊が宿る石を、現代の女子児童が持ち帰り、学校内に隠したことから展開する。

 米軍の艦砲射撃が始まり、渡された手榴弾を使って家族が命を絶つ「集団自決」の緊迫した場面。「こんなに大きく育ててきたのに。上の命令で亡くすというのは生まない方がよかったのか…」と父親が話すシーンでは、会場は静まり返り、百人以上の観衆の児童、保護者らはただ静かに舞台を見つめた。体験者の女性はハンカチでそっと涙をぬぐっていた。

 孫の出演を楽しみにしていた平良ツエさん(84)=宜野湾市上原=は台湾で戦争を体験した。「今の子どもたちに戦争のことを知ってもらい、伝えることが大事。子どもたちが一生懸命に練習を重ねた演劇が、中傷されることは悲しいこと」と話した。

 幸喜さんは「劇を通して沖縄戦を追体験することは意義がある。不幸な歴史体験を風化させずにウチナーンチュの平和への願いを、学び、伝えていってほしい」と話した。

 出演した児童の代表は「たくさんの人が傷つき、亡くなった。戦争は怖いと思った。戦争のない平和な世界をつくりたい」と感想を述べた。

 宮城教諭は「多くの人に支えられて若い先生方も子どもたちも一緒になって頑張った。命の大切さを子どもたちは実感したと思う。これからも劇を続けていきたい」とほっとした様子で話した。上演中、印象に残った言葉をメモ帳につづっていた退職教員の女性(63)は「劇は過激でも何でもない。子どもの発達段階に合わせた内容で分かりやすかった。『生きていることは、とても強いこと』というせりふが最も印象に残った」と話した。


体験者・宮城さん激励


 会場には座間味島で「集団自決」を体験し、姉を失った元学校長の宮城恒彦さん(74)=豊見城市=も訪れ、子どもたちの演技を見守った。

 平和劇の上演に対し、脚本内容の変更や中傷メールが届いていることを報道で知り「居ても立ってもおれず、激励しようと思った」と話す。

 上演前には喜納裕子校長らを訪ね、自身や他の体験者の証言をまとめた本を贈った。宮城さんは「手榴弾を爆発させる場面では自分の体験を思い出し、胸が詰まり涙が出た。圧力に負けず戦争の恐ろしさ、命の尊さを学ぶ教育を続けていってほしい」と話した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806201700_01.html

 

2008年6月20日(金) 夕刊 7面

金城さん 命の尊さ訴え/「集団自決」体験

 沖縄戦での「集団自決(強制集団死)」体験者の金城重明さん(79)を招いた平和講演会が二十日午前、那覇市の銘苅小学校(長嶺将範校長)であり、児童ら約五百人が、悲劇の実態を語る当事者の証言に聞き入った。

 金城さんは、渡嘉敷村の「玉砕場」と呼ばれた場所へ住民が集められた時の様子や、「集団自決」の状況、旧日本軍による「スパイ」容疑で少年らが殺害されたことなどを、言葉を選ぶように、訥々と語った。

 手榴弾を二個ずつ配られ、一個は自決用に使うよう命じられていたこと、米軍の捕虜になれば、耳、鼻をそがれ、戦車でひき殺される、女性は辱めを受けて殺されると、何度も日本軍から言われ続け、「生き残ることへの恐怖を植え付けられていた」と説明。「家族に手をかけた。母は泣いていた」と振り絞るように話した。

 金城さんは「生き地獄を経験し、自分は生き残ってしまったことに戦後ずっと苦しんできた。でも体験を話すことで平和につなげることができると信じて証言を続けている」と話し、児童らに命の尊さを訴えた。

 講演後、児童代表の真栄城好美さん(六年生)は「戦争はとても残酷と分かった。二度とやってはいけないと多くの人に伝えていけるようになりたい」と、つらい体験を語ってくれた金城さんにお礼の言葉を述べた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806201700_02.html

 

2008年6月21日(土) 朝刊 27面

ヘリ編隊飛行 市街地に爆音/普天間に15機帰還

 【宜野湾】二十日午後三時半ごろ、五月から海外演習に派遣されていた米軍普天間飛行場所属のヘリ十五機が編隊を組んで帰還した。宜野湾市の市街地上空を十機以上の編隊が飛行するのは異例。市役所には「ここは戦場か」「何が起きているんだ」と苦情が相次いだ。慰霊の日直前、しかも沖縄防衛局による米軍機の飛行ルート調査が終了した直後の帰還に、同市は「再び騒音被害が激化する。国の再調査が必要だ」と事態を重く見ている。(銘苅一哲)

 同飛行場の第三一海兵遠征部隊のヘリ部隊は毎年五月、タイでの演習に参加している。今年は五月上旬から同飛行場を離れ、同二十一日に演習を終了。例年、六月初めに帰還するが、今年はサイクロン災害を受けたミャンマーの支援を試みたため、帰りが遅れた。

 この日、編隊で飛行したのは沖縄国際大学で墜落したCH53D大型輸送ヘリとは型違いのE型四機とCH46中型輸送ヘリ六機など。編隊はすぐに飛行場へ降りず、市役所の真上など市内を旋回して着陸。市街地への墜落を防ぐため日米で合意された飛行ルートの場周経路をはみ出し、ごう音が数分間続いた。

 一カ月半、いつもより遅い帰還で静かな生活を送っていた市民は突然の音に驚いた。役所前でコーヒーを販売していた具志堅薫さん(52)は初めて見る編隊に「気味が悪い。わが物顔で飛んでいるみたいだ」と基地の方向をにらんだ。

 六月に入ってゼロだった基地被害一一〇番へも五件の苦情が寄せられた。恐怖に震えた声の男性は「戦場のような光景だ」と訴え、受け付けた同市基地渉外課の職員も「一度にあんなに多くのヘリが飛行したのは見たことがない」と顔をしかめた。

 同日午前には別のヘリ六機が帰還し、FA18戦闘攻撃機など外来機の飛来も確認された。

 伊波洋一市長は「十七日まで沖縄防衛局が飛行ルート調査をしたが、部隊はいなかった。帰還後の再調査もするべきだ」と指摘し、「明日以降はこれまで同様の訓練を実施するだろう。慰霊の日は配慮するのだろうか」と騒音の激化を懸念した。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806211300_03.html

 

2008年6月21日(土) 朝刊 2面

移設前閉鎖は不可能/ライス在日米軍司令官に聞く

 在日米軍トップのエドワード・ライス司令官(空軍中将)が十八日、二月の就任以来初めて公式に来沖し、キャンプ・シュワブや嘉手納基地などを視察したほか、在沖米軍や地元自治体幹部らと意見交換した。ライス司令官は二十日、嘉手納基地で県政記者クラブの代表インタビューに応じ、「沖縄はとても戦略的な場所で米軍が存在し続けることが重要。シュワブは移設に適した場所で二〇一四年までに計画が実現されることを楽しみにしている」と述べた。

 ―県が求める代替施設の沖合移動を米政府は容認していない。

 「再編協議はすべてがパッケージ。日米両政府が高いレベルで合意するのに数年を費やした。とても複雑でさまざまな異なる部分を含む合意だ。われわれは地元の自治体とでなく日本政府と協議し合意したことが、今でも正しいと信じている。実施するために前進するだけだ」

 ―地元は普天間飛行場の危険性除去を求めている。

 「移設が完了する前の普天間閉鎖は不可能だ。日米同盟で求められている訓練や義務を果たすことができない」

 ―嘉手納以南の返還で、キャンプ瑞慶覧の返還面積が確定していない。

 「まだ結論に達していない。近い将来、満足いくような結論になるよう双方で議論を続けたい。締め切りや目標のようなものはないが、合意に達する自信がある」

 ―米軍関係者の犯罪の再発防止策について。

 「われわれは二月からさまざまな取り組みをすべての軍で行っており、厳しく律している。アルコール摂取が犯罪と結び付く場合が多い」

 「再発防止策に期限はない。地元との連携を密に、(対策を)継続的に向上させる。犯罪率を下げる努力に終わりはない。沖縄に米軍人がいる限りこの取り組みは続く」

 ―F15の未明離陸を防ぐため地元はグアム経由を求めている。

 「早朝離陸の一回一回が地元へ与える影響は認識しており、必要な回数も最小限に抑えるように努力している。記録を見ていただければ早朝離陸の回数は比較的少ないはずだ」

 「だが、運用上さまざまな要因がある。航空機が目的地に到着しなければいけない時間、飛行時間、違うルートを取ることが可能な時期か。簡単に見えるかもしれないが、とても複雑だ。さまざまな要因から結論を出し、安全面、作戦面、地元への影響を最小限に抑えるベストな選択をしている」

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806211300_05.html

 

2008年6月21日(土) 朝刊 26面

「集団自決」問題 県民大会で共有/宮城晴美さん講演

 沖縄女性史家の宮城晴美さんが二十日、那覇市ぶんかテンブスホールで、沖縄戦時下の座間味島で起きた「集団自決(強制集団死)」について講演した。一フィート運動の会設立二十五周年企画の一環。約九十人が聞き入った。

 宮城さんは、娘の目から見た母親の苦しみや葛藤、住民の苦悩に加え、研究家として調べた史実や証言、分析を基に「集団自決」に関して説明。役場職員や指導的立場の人がほぼ全員亡くなっていること、犠牲者の多くが女性という独自調査も例に挙げ、軍命によって、強い者から弱い者へ重層的に力が働いて起きた、と話した。

 また、昨秋の県民大会に十一万人が集まったことに触れ「慶良間だけで背負い込んでいた問題を県民が共有し、島の人を救ってくれたと思う」と述べ、「沖縄戦を風化させないようにしたい」と呼び掛けた。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806211300_11.html

 

沖縄タイムス 社説(2008年6月21日朝刊)

[「無言館」展]

断たれた画学生らの夢

 享年二十三歳、二十四歳、二十五歳、二十六歳…。異国の地で志半ばで戦死した若き画学生らの死亡時の年齢が並ぶ。二十一歳の名前も見える。沖縄で戦死した者の作品もある。

 戦没画学生の遺作を集めた私設美術館「無言館」(長野県上田市)の収蔵作品などを展示する「情熱と戦争の狭間で」が県立博物館・美術館で開かれている。二十九日まで。

 東京美術学校、帝国美術学校の学生や、独学で学んでいた絵描きの卵たちだった。

 「無言館」は、太平洋戦争や日中戦争で戦死した百人余の画学生の遺作・遺品六百点余りを収蔵している。今回展示しているのは約百二十点。スケッチ帳や愛用していた絵の具、婚約者や家族あての手紙も。

 「無言館」館主の窪島誠一郎氏が、仲間を戦争で失った画家野見山暁治氏とともに日本各地の遺族を訪ね、収集したものだ。

 窪島館主は一九九七年五月の開館の日に痛切な思いを詩に託した。「遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ/私はあなたを知らない/知っているのは あなたが遺したたった一枚の絵だ/その絵に刻まれた かけがえのないあなたの生命の時間だけだ」

 画家への夢を抱いていた若者たちが一片の召集令状で戦地に駆り出された。

 生きられる時間が刻々と狭められる中で、無我夢中で絵筆を握り、愛する人たちや思い出の故郷を一心不乱に描いた。「生きた証し」を残すために。生を無念のうちに中断させられた人たちの声なき声が胸に迫ってくる。

 フィリピン・ルソン島で二十七歳で戦死した鹿児島県の若者は出征が決まった日「桜島」を描いた。「出来るなら、あと五分でも、あと十分でも絵を描いていたい」

 サイパン島で二十五歳で戦死した愛媛県の若者は、出征する三日前、義姉に「もし戦場から生きて帰ったらパリに留学させてくれないか。もっともっと絵の勉強をしたいから」と頼んだという。

 「生きていればきっと活躍していたはず」。二十一歳でマリアナ諸島で戦死した長野県の若者の妹弟は無念さを隠せない。可能性に満ちた未来が待っていたかもしれないのだから。

 父親に「祖国のために戦うことは男子の本懐」と言っていた島根県の若者はフィリピンで二十五歳で戦死。出征の日に母親と姉が営舎を訪れたときには「出来ることなら行きたくない。生きのこって鋳金の作品をつくりたい」と目に涙を浮かべつぶやいたという。

 彼らは身に迫る戦場での死をどの程度、予感していたのだろうか。会場を訪れる人たちは、残された生の時間を賭して描いた作品を通して、画学生らの生と死に向き合うことになる。

 「生の証し」そのものともいえる絵に対していると、画学生らのあまりに短い生と沖縄戦の犠牲者の生が二重写しになる。

 戦争につながる一切のものを否定しなければ、とあらためて思う。若者が希望をむしり取られる時代を再びつくってはならない。

http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080621.html#no_1

 

2008年6月21日(土) 夕刊 1面

望郷の念 肌身に迫る/沖縄カトリック高「無言館」展を鑑賞

 沖縄カトリック高等学校(仲里幸子校長)の生徒ら約八十人が二十一日午前、那覇市おもろまちの県立博物館・美術館を訪れ、沖縄タイムス社創刊六十周年企画「情熱と戦争の挟間で―無言館・沖縄・画家たちの表現―」などを鑑賞した。

 同企画展は文化の杜共同企業体、県立博物館・美術館の主催。戦没画学生らの作品を集めた長野県の私設美術館「無言館」の収蔵品や、沖縄戦を生き延びた県出身者の作品約百六十点が展示されている。

 開校から十四年間、慰霊の日に毎年平和行進をしている同校。家族あての手紙をじっと見つめていた東リナさん(同校一年)は「やりたいこともできないまま戦場に行き、帰りたいという気持ちが伝わった」と語った。

 同企画展は、二十三日(慰霊の日)県内の小中学生無料。同日午後三時半から首里高合唱部による「合唱によるレクイエム」(チケット入場者のみ)もある。二十九日まで。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806211700_02.html

 

2008年6月21日(土) 夕刊 5面

“懐かしきあの日”に涙/「あんやたん」平和祈念公園で移動展

 【糸満】沖縄タイムス社の創刊六十周年企画写真展「あんやたん・移動展イン平和祈念公園」が二十一日午前、糸満市摩文仁の同公園案内所で始まった。二十三日の「慰霊の日」に合わせ、終戦直後の風景やこれまでに開かれた戦没者追悼式、平和の礎完成前などの特別展示もある。

 戦後から現在までの間に撮影され、沖縄タイムス社所蔵のカラー写真を含む約百三十点を展示。

 特別展示では、戦後直後の子どもたちの表情や第一回全戦没者追悼式の様子、慰霊の日に平和の礎前で祈りをささげる遺族の姿などが写し出されている。

 「本当に懐かしい」と終戦直後の写真に見入っていた大城直子さん(64)=那覇市=は「戦後すぐの子どもたちのたくましく生きている写真が印象的。自分自身のことも思い出し、涙が出た」と話した。

 二十八日まで(午前八時半午後五時半)。入場無料。

http://www.okinawatimes.co.jp/day/200806211700_03.html